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yasuっさんが弟子屈小学校に転勤になり、クマウシも徐々にパワーアップ!
池間さんから送られてきた音源をCD化して仲間内に配布して、みんなに聞いてもらったりしていた。
また浜中での初コンサート時に販売した、たかちゃんと2人で制作したカセットテープの曲も追加。
これには「広い空の下」「さぁ行こう!」「onomichi」「君がきみらしく」が収録されていた。
こうしてデモ版としてCDを制作し、池間さんに送ったところ、とても喜んでもらえたらしい。
いつも持ち歩いて、会う人ごとに自慢していた・・・とやりちゃんから伝え聞いた(ホントかどうかは不明)。
ただ、散布の子ども達が卒業式に合唱したという「ひかりのうた」の音源はどうしても手に入らなかった。
唯一残っているのは、あまり状態が良いとはいえないライブビデオの中で、たかちゃんが歌っているものだけだった。
後日、9月にこの音源は手に入る事となる。
イケマバージョンとして・・・ただ、たかちゃんが歌っていたのも素晴らしかったので、それを聞きたいって声も多かった。
こうして、池間さんの音楽は口コミで少しずつ広がりをみせて、幅広い年齢層に浸透していった。
この頃、カクタス・サイトの掲示板を通して、伊万里のnamiちゃんとの交流も始まった。
7月2日、どうしても北海道へ行きたい!!という想いで、忙しい合間を縫って池間さんがやって来る。
(札幌で入院してるたかちゃんの様子を見て、こっちまで足を伸ばしたそうだ)
せっかく来るのだからという事で、ライブを企画してしまった。
7月4日地元弟子屈の某所、yorozu(ヴォーカル)ヤリ(ギター)sara(ベース)hanawa(ドラムス)、
バンド名は「カウベア―ズ」・・・熊と牛 そのまんまじゃん(笑)
まだ「熊牛興業」という名称は決まってなかったが、みんな冗談で、こう呼んでいた。
「ホント、アヤシイよなって・・・相撲番付の文字を金色にして、熊牛興業って書いたりなんかしたら最高だべな!!」
もともと、こういうノリから始まったのだった。
演奏した曲は、イケマ曲のオンパレード。
池間さんも素性を隠して(・・・ってバレバレなんだけど)ピアノで参加、大勢の人が観に来てくれた。
翌5日、朝の便で池間さんは嵐のように去っていった。
じつはこの日、昼頃から「題名のない音楽会」に出演する加山さんのバックでベースを弾く事になっていたのだ。
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間に合うかどうか心配していたが、結局加山さんの番組は、後日無事に放映されたのを観たのでOKだったようだ。
この時の「カウベア―ズ」ライブの模様を、興味を持って見てくれていた1人の人物がいた。
某大手新聞社勤務で、弟子屈に転勤して来たばかりのDoraちゃんだった。
その後、みんな自分の仕事で忙しい時期を送っていた。
saraも8月いっぱいで酪農をやめる事を決めていたので、最後の牧草収穫でトラクターに乗って作業を続けていた。
7月19日深夜、ヤリちゃんから電話が入った。
「最期まで頑張ってたけど、たかちゃんが亡くなった・・・・・・」
我々は仕事柄、すぐに飛んでくって訳には行かなかったので、ヤリちゃん一家が代表して札幌に駆けつける事になった。
池間さんも駆けつける。
彼の悲しみの深さが分かるだけに、1人で札幌にやるのは心配で、井地さんとまどかちゃんも同行した。
ちょうど小田和正さんのコンサートで札幌にいた、山内薫さんも列席した。
我々も弟子屈から、たかちゃんの冥福を祈った。
7月22日 たかちゃんがもう1度ステージに立って歌いたいと願っていた地「弟子屈・浜中」に池間さん、井地さん、まどかちゃんがやって来た。
24日までの間、たかちゃんの思い出を探してドライブをしたそうだ。
我々の構想では、たかちゃんが絶対に復帰してくれるものだ!!と信じて疑わず、たかちゃんのヴォーカルをメインにして北海道発の音楽を全国に向けて発信しようと思っていた。
これをここで中断してしまう事は、何のためにたかちゃんが闘って来たのか?って・・・顔向け出来なくなってしまうような気がした。
そのためには、池間さんにこの悲しみを乗り越えて頑張ってもらわなくてはいけない・・・。
この短期間の間に、最愛の人2人も失ってこれ以上の悲しみはないってとこまで行った池間さんを、我々は無理矢理引っ張り出してしまった。
ヤリちゃん曰く「お前の歌でも絶対イケルよ!!」って・・・・・・。 |
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