車日記
若年層の消費行動がもてはやされる、このデフレ大型不景気にあっても物欲の乏しい私が、消費行動の王道と言うべき「自動車購入」を考えたことは、今まで一瞬くらいはあったものの、現実味を帯びて迫り来るはずはなかった。そんな私が、ひょんなきっかけから車を持つことになった。このコーナーは、普通自動車免許を大学院修了直前に慌てて取得して以来、3年間をペーパードライバーで通した私が、生まれて初めて車を持つことから始まった、車生活を描いた日記である。

2003年 3月 4月 5月 6月 7月 8月 10月

11月23日(祝) 日川渓谷と甲府の温泉

最近は車日記の更新があまりなされなくなったものの、実は車日記そのものを書くほど車に興味が集中しなくなったと言う本質的な問題が出てきつつあるため、これは是非も無い話ではあると言いたいのだが、一応「車に乗ってどこかへ出掛けました」と言うときは、なるべくこのコーナーに日記を書くということにしようと思う。この奇妙な役割分担が既にこのページにおける「時代遅れ」になっており、結局一本化されるという構造改革の日も近いと思う、とこのコーナーの独立継続を停止すると言う構想を打ち明けたりして。どうでもいいことだが。

本日は本来ならばカザフスタンに出張していて、秋の三連休を零下15度の世界で凍えながら鉄骨工場の視察をしている予定だった私にとって、「出張延期」と言う三連休だけを考えると有難い、それ以外を考えると迷惑千万な事情によって、奇跡的に空くことになってしまった。特に予定を入れていなかった彼女を当然誘い、本日は甲斐の国に攻め入ることに決定した。山梨県は10月に富士五湖でもマイナー路線である本栖湖と精進湖を訪れているため、初めての山梨攻めではないが、富士五湖は山梨県内と言うより富士山内と言う感じで、あまり国意識が湧かない地である。従って、本日が山梨県に足を踏み入れる最初の日となったと言えるだろう。

まずは大船の彼女の家に向かって彼女を乗せて、国道一号線を目指す。三連休の中日と言うことで、案外空いているかと思ったが、まあまあ車は走っている。左に曲がって467号線に入り、方向を間違えて江ノ島に当初向かってしまったものの、途中気付いて(道路標識があるから当然気付く)逆に行くなど余計な時間を使う。467号もそれ程混んでいない。

東名をくぐって大和市内の一ノ瀬交差点というところで、我が家の前(ほど前ではないが)を走る246に入ると、これが激混み。終始ノロノロで、序盤から意外とウンザリした。尚、序盤においてノロノロだったのは246だけである。大山詣の大山街道が何故こんなに混むのか。

厚木で東名に乗って、と言うルートは取らず、412号線と言う途中相模川水系の中津川に並走する地味な国道を北上し、相模湖を目指す。ここで中央道に乗ろうと言う腹だ。

中央道に乗るのに相模湖と言うのが何ともローカルと言うか、殆ど考えられない発想であるものの、何しろ中央道は我が神奈川県からは中々アクセスしにくい超メジャー高速自動車国道。東北道や関越道のように、都内の基点から入り込むと言うのも何となく気が引けるのは、神奈川に並行に走っているから。特に今日は実質的スタート地点が大船だけに、高井戸まで行くのはとても面倒、八王子に行くには16号を通らねばならんなど、色々な事情が重なって、結局相模湖ICから入るという結論に達したのである。という訳で、412号線をひた走る。この国道は田舎道で、意外と空いている。中津川沿いなどは車が全然走っていなかった。河原はバーベキューをやる人でいっぱいだったが。

相模湖ピクニックランドの手前に帝京大学薬学部があったりして、「一体どうやって通うんだろう」などと話しながら、車は相模湖を跨ぎ、しばらく相模湖を眺めながら走って、相模湖ICへ到着。そのまま中央道に入り込む。

246で時間を稼いでしまったため、既に時刻は12時を過ぎており、道はガラガラ。快調に飛ばす。尚、比較的温暖な秋であるためか、相模湖周辺も紅葉にそれほど気合が入っていない。まだシーズンではないようだ。

細かいトンネルをいくつか越え、大月にいたる。この間の道は標高1000Mに届こうかと言う山々に囲まれた細い谷が続いている。昔から遠足だの合宿だので通った道だが、この辺は何故か寒々しい雰囲気を見せているといつも感じるのだが、この辺と言えども(言えどもとは失礼だが)近郊の中央快速線がこの辺も走っていることから、首都圏と言うイメージが心底にあるからだろうか。既に山梨県であるが、あまり豊穣な雰囲気を感じさせないのも、何となく厳しい自然を感じさせる。

大月を過ぎて河口湖方面と別れると、更に車が少なくなる。その内笹子トンネルを抜けて日川沿いを中央道は走るが、勝沼の手前で視界が一気に開け、甲府盆地を望むことが出来る。ハッキリ言って山梨とはこの甲府盆地のことを指す、と言うイメージが強い。大月などにしても、我々にとっては中央快速線が大月まで行っているし、何となく首都圏と言う感じが拭えない(凄い山だけど)。やはり甲府盆地側こそ甲斐の国、と言うと怒られるのだろうか。

勝沼で中央道を下り、甲州街道を甲府方面、とは逆に走り、日川を上る。最初の行先は日川沿いに建つ景徳院である。曹洞宗のお寺だが、この寺は甲州では相当強烈なインパクトを持っている地である、と言えるだろう。ここは武田一族終焉の地である。一度行ってみたかった。

信玄亡き後の武田勝頼率いる武田一門は、その後数年は武田家の凋落を防いでいた、と言う印象を与えるが、時流に乗っている信長にはやはり勝てず、長篠の戦において完敗を喫した後、徐々に衰退の道を辿っていくのは、まあ教科書見れば分かるのだろうか。で、かなり飛んで勝頼の最期。韮崎に建てた新府城を離れた勝頼は次々に家臣の裏切りに遭ってほぼ八方塞の状態で、大菩薩峠を越えて秩父へ抜け、再起を図ろうと画策するが、結局敵(織田方)に囲まれて、今日景徳院の経つ田野集落を死地と定め、ここで自害して果てた、らしい。

他の記録によれば、武田勝頼は自害でなく、敵方に首を刎ねられて最期を遂げたともある。勝頼は最初応戦しようとしたが、空腹と疲労のため殆ど動けず、遭えなく敵の一人に斬られた、と言うことである。信憑性の程は分からないが、これも無い話ではないかもしれない。尚、勝頼の死後半年が経って、信長は本能寺の変において斃れている。若い頃は強大だった武田家を滅亡させた直後だったが、自らも野望の途上で敗れたという感がある。

景徳院は、その後家康が武田家を祭るために建立させた寺であるらしい。従って、勝頼は寺院に身を潜めていたわけではない。

景徳院に着いたが、どうやら日川渓谷における紅葉のピークは景徳院の近辺であるらしい。燃えるような紅葉である。

その紅葉

景徳院の境内にある駐車場に車を止め、境内を散策する。

最初に目に入るのは山門である。

景徳院山門

他の建物は焼失を繰り返したりしたものの、この山門だけは建立当時のままらしい。確かに、これだけは古刹と言う雰囲気を出している。家康が建てさせた寺であるが、ところどころに武田の家紋(ひし形を4等分したもの)が入っている。これは後世に加えられたものかは分からない。

脇の薄暗いところに社殿があり(本殿ではない)、その周囲が武田家終焉の地とされ、生害石が置かれている。それぞれ、武田勝頼・妻の北条氏・さらに信勝の生害石がある。勝頼夫婦の生害石の脇には杉の木が植わっているが、この杉の木が斜めに伸びていることを彼女が気付いた。

他の木が真っ直ぐ伸びているのだが、原因は良く分からない。ただ、二本とも相当古い木である。尚、左が北条夫人、右が勝頼の生害石であるが、北条夫人の杉の木は根元が若干光っている。

景徳院を辞し、さらに日川を上ってみる。勝頼は日川渓谷を登って大菩薩峠を目指したが、日川渓谷沿いの道を上ると確かに大菩薩峯の登山口まで上ることが出来、クネクネした道を下ると塩山市に出る。ここを西に進めば甲府に出られる。

私が日川渓谷を知ったのは、メジャーな武田一族終焉の物語からではなく、実はつげ義春のエッセイから来ている。つげ義春は日川渓谷を訪れている。つげ自身は武田勝頼に興味を持たず、景徳院は殆ど素通りで、温泉などを渡り歩いている。この通り、日川渓谷沿いは温泉がいくつかある。

グングン上るともう車も殆ど擦れ違わなくなる。ここまで来るともう紅葉は完全に終わっており、山は丸裸で冬の様相である。紅葉は景徳院付近が最早最前線であることを、正に如実に物語っていると言う感じだ。

うらびれた小屋などがあるところを更に上に行くと、石積みされた比較的巨大なダムが見える。これは東京電力の上日川ダムで、山を隔てたところにある葛野川ダムとセットになっているダムで、揚水式発電所と言うものの上部ダムだ。

揚水式発電と言うのは最近の流行と言うか、よくあるスタイルで、夜間あまり電気が使われないのを幸いに、水車を使って標高が上にある上部ダムに水を逆送する。つまり、余分な電力を使って、水を上に揚げるのである。そして昼間、電気使用量が多くなったときは下に放流して、そこで一気に発電をする。全体的にエネルギーは余計に使うことになるはずだが、使うときにたくさん発電できるようにすると言う考えに立ったダムで、その意味では論理的なシステムではある。この上日川ダムは、従って標高が下にある葛野川ダムと山の地下にある鉄管で繋がっている。落差は700Mあり、これは東洋一らしい。

700mの標高差を示すとおり、上日川ダムはかなり標高の高いところにあり、ダム自体は標高1500mの高地にあり、これはダムとして日本最高所にあるようだ。そんなことより驚くべきことはここが1500mもの高所にあるということで、そりゃ周囲の山々も冬山直前の雰囲気を醸し出しているのも無理は無い。ダムはロックフィルダムで、堤長は500m、つまりダムの上を行って帰ってくると1km歩いたことになる、と言うのはダムの監視所のお兄さんに教えてもらった。この上日川ダムは冬期は見学が出来なくなる。既に夕方になっていたが、夕日に照らされた富士山がきれいに見える。反対側は大菩薩峯である。

「耳がおかしくなったと思うほど静かだね」

と言う彼女の言葉どおり、下流のかすかな水音意外は何も聞こえない。

車はさらに標高を上げる。恐らく標高1600mくらいか?と言う感じでようやく下りに転ずる。ここで忽然とドライブインのようなものが姿を現し、かなりの車も止まっているし、何と土産物屋まである。さっきまでとは全く変わった風情だが、どうやらここが大菩薩峠への登山口らしく、登山客が結構いる。かつて大菩薩峠を通った青梅街道(秩父往還?)は、今はもう少し北側を走っている。この道も途中で青梅街道に合流する。

カーブを連続しながら下界へ辿り着くと、すでに日も暮れていた。しかし時間はまだ5時半前で、山に囲まれた山梨盆地の日没の早さを感じる。車は塩山市へ入り、尚も国道を西へ走る。自遊人と言う雑誌に載っていた甲府周辺の日帰り温泉のようなものに向かうべく、車を走らせているのである。

途中で国道20号線、いわゆる甲州街道に入り、一路甲府方面を目指す。山間では片側一車線になるこの主要道も、甲府盆地では一部三車線になったりと、県下随一の幹線道であることをことさらに示す感じである。交通量も妙に多い。

甲府市内には入らず、昭和町と言うところにあるフカサワ温泉と言う温泉に照準を当て、まあ当然彷徨っているだけでは辿り着かず、そこに電話をしてようやく辿り着いた。

雰囲気は最近増えている「スーパー銭湯」と言う感じとは異なる、近所の銭湯と言う感じの素朴な温泉であるが、男湯に入るとかなり地元客で混雑しており、人気と言うか住民への定着振りが感じ取られる。最初に洗うが、蛇口から出てくる水も恐らく温泉で、結構な金属臭がする。鉄分が含まれているのだろうか。

お湯の色は麦茶のような色である。最初はぬるめのお湯に浸かり、何度か出たり入ったりを繰り返し、次に露天に行って、最後は熱めのお湯に入った。さすがに温泉と言う感じで、非常に温まり、中々リラックスした。女湯はかなり空いていたらしく、彼女は私より若干長湯で出てきたが、満足した様子である。ちょっと休憩所で休んでいたら優しそうな女性が受付から顔を出し、「さっき電話くれた人?」と聞かれた。何でも雑誌に載ってから首都圏の人も来るようになったと言っていたが、普段は地元の人々が利用している温泉のようで、女湯が少ないのも「今は夕飯時だから女湯は空いているんですよ」とのこと。こういう庶民派温泉が雑誌に載るようになるとは、旅行の志向もかなり成熟してきたと感心せざるを得ない。雰囲気も非常に良かった。

暖まって車に乗り込み、あとは大船に彼女を送るだけであるが、星と昨年行ったサマー同様、大月-小仏トンネルが渋滞20kmで、高井戸まで4時間以上と言う刺激的な案内が出ている。以前梅香に教わった

「大月JCTから河口湖方面に行って、御殿場に抜けた方がマシ」と言うルートを取る。途中、山中湖付近を走っていると温度表示があり、既に付近の温度がマイナス1度であることを知る。短い秋が終わり、冬がすぐそこに来ていると感じる瞬間だった。

東名に乗ったものの、そうはいっても秦野から横浜町田まで25km渋滞と言う中央道に負けない渋滞振りが見られ、まあ秦野中井で東名を下りて、国道一号線まで出て東征する。しかしこちらも途中で結構混んでいて、あまり進まない。結局夕飯食べて彼女を送り届けたのは11時半くらい。どうも箱根方面から東京に向かう道は、どこも途中の道が細くなるところで詰まるようだ。