少しだけ・・・。
ほんの少しだけドアを開けて、隙間を空けた。
 ミレイユはそこから、部屋に中を覗き込んだ。

「・・・・憎しみで・・人は救えない」
 オデットの肩に寄りかかり・・・クロエはぼんやりとしながらその声を聞いた。
「きっと愛でも・・・人は救えないのかもしれない・・・」
オデットの、いままでとちがった声に・・・クロエは顔を上げた。
「それでも・・・この世界の全てが憎しみなわけじゃない・・・」
 青い瞳が正面をまっすぐに睨む・・・強い表情がそこにあった。
だが・・・クロエからはその瞳が微かに潤んでいる様にも見えた。
「・・・・アルテナは・・」
 クロエは、下を向きながら言った。
「・・・・この世界は・・・悪いことだらけだって・・・」
クロエの・・まるで弁明するかのような弱々しい声にオデットは耳を傾ける。
「だから・・・!」
 クロエは顔を上げる、そこには満面の笑顔があった。
「・・・・」
 神妙な面持ちで、オデットはそれを見る。
「"ノワール"が要るんだって」
「・・・」
 オデットの表情が・・・その一言に明らかに強張った。
「違うわ・・・・人を殺すことは・・・・結局、新たな憎しみを作り出すだけ」
そして・・・しばらくの沈黙の後、幼い少女の笑顔に向かってオデットは言った。
「そして憎しみは・・・人を救わない・・・憎しみは人を・・・人を狂わせてしまう」
 まるで自分に言い聞かせるように・・・だが、強い意志を持った声で言う。
その言葉と、貫通力を持った青い瞳に押された様に、再びクロエは言葉を失い、下を向く。
「・・・・でも・・・私知ってるよ・・・」
「・・・・」
 上目遣いに、自分を伺う少女の・・・消え入りそうな声を、オデットはまっすぐに見つめた。
「人間って・・・すぐ壊れちゃうの・・・」
 吐き出される声をオデットは黙して、聞き続けた。
「・・・・悪い人も・・・いい人も・・・・」
熊のぬいぐるみを抱き寄せる、幼い少女の声が・・低くなった。
 オデットの青い瞳は、それでも下を向くクロエを見つめ続けた。
彼女の中で・・・幼い少女の姿が・・・自分のよく知る人物と重なった。
「だから・・・私はノワールになりたい・・・」
―――仰向けになり、白目をむき、口をあんぐり開けた・・・庭師の死体・・・。
 クロエは言いながら、震える唇をぎゅっと噛み締めた。
―――銃を持った黒髪の子供・・・。
 その脳裏に・・・。
そんなものが過ぎった。
「・・・・そうすればアルテナを守れる・・・ずっ〜〜と一緒にいれる・・」
 クロエが顔を上げた。
「誰にも壊されないでいい」
・・・クロエはオデットに向かって笑った。
「―――駄目よ」
だが・・クロエの前に待っていたのはオデットの、まるで我が子を心配するかの様な・・・不安に曇った表情だった。
その表情の意味を理解できずにいる間に・・・。
 クロエは白い腕に抱き寄せられた。
「・・・・!」
 胸の温かさをクロエは感じる。
突然の事なのにも関わらず・・・クロエはその温かさに安堵感を覚え、眠気すら感じた。
(あったかい・・・)
 クロエは不思議な感覚にとらわれながらも自分を抱きしめている金髪の女性・・・オデットの顔を見ようとした。
だが、顔を上に向けたときクロエの額に一滴のしずくが落下してきた。
(・・・・海・・・?)
 熱い・・・一瞬クロエはそう感じ、一瞬吊りあがった瞳を細める。
「あなたも・・・独りになってしまう」
 オデットのどこか曇った、しかし訴える様な声が聞こえた。
「・・・・?」
 クロエはオデットに体を任せながらも、怪訝な表情になった。
「ちがうよ・・・ずっと一緒にいるんだよ・・・」
 クロエは・・・なぜか強く言う事が出来なかった。
「アルテナとも・・・あの子とも・・・みんなと・・・」
 オデットの手が・・・震え出したクロエの頭を撫でた。
そうされて・・・・目の奥が熱くなるのをクロエは感じた。
 反射的に、クロエはオデットにより強くしがみついていた。
オデットは・・・それを拒む事無く抱きとめた。
ひっく・・・・。

 ドアの隙間から・・・。
部屋の中を見つめる、つぶらな青い瞳の瞬きが早くなった。

「・・・独りになってしまう」
ひっく・・・。
 クロエは、自分が嗚咽を漏らしている事に気づいた。
「・・・どうして!」
また白い・・・温かい手が自分を撫でたが・・・嗚咽はむしろ酷くなった。
うっ・・・うっ。
「人を殺せるという事は・・・哀しい事よ・・・」
 クロエの耳に・・・オデットの言い聞かせるような声が聞こえた。
「ノワールは・・・たくさんの人を不幸にしてしまう・・・」
 オデットは自分の腕の中で泣きじゃくる紫の髪の幼い少女を、いたたまれない表情で見ていた。
「それは・・・哀しい事なのよ・・・・・・・」
オデットは・・・潤んだ瞳を閉じてクロエの頭を強く抱き寄せた。
(アルテナ・・・)
 オデットは・・・本当に抱きしめるべき相手は、彼女だけで無い事を解っていた。
(あったかい・・・)
 クロエは・・・・抱きしめられながら瞳を硬く閉じた。
彼女が知っているよりも・・・不完全だが、それより温かく得体の知れない安堵感・・・。
(こわい・・・っ!)

「あっ!」
 ドアの向こうでミレイユが思わず声を上げ、口を押さえた。
涙が堪った目を硬く閉じた、クロエの小さな手が突き出されていた。
 オデットは予想外の力を腹部に受け、後方へよろめく。
カンッ・・・!
 乾いた音とともに、オデットの懐から懐中時計が床へ落ちた。
瞳を開けたクロエに、まずその表面に彫られた、剣を持った二人の乙女のレリーフが目に入った。
そして・・・ベットに手をついてなんとか姿勢を支えながら、呆然と自分を見る金髪の女性の姿が次に目に入った。
 クロエは彼女を見ると・・顔を真っ赤にしながら手で瞳をこする。
・・・心音が、早まりだしていた。
動揺するクロエの目に、地面に落ちたぬいぐるみが映った。
「うぅ・・・ッ!」
 気づいたときにはクロエはクマのぬいぐるみを抱きあげ、オデットに背を向けてベットを降り駆け出していた。
「待って!」
オデットの声が聞こえたが・・・それから逃げるように扉に手をかける。
ガチャッ!
 部屋を飛び出した紫の髪の少女の前に、青い瞳の少女が現れ・・・・クロエとミレイユ、双方が思わず息を呑む。
「お母さん!」
 彼女の背後に、母親の姿を見たミレイユの方が先に動いた。
「大丈夫、大丈夫よミレイユ」
 オデットは内心動揺しながらも、笑みを浮かべて部屋に入ろうとする彼女を止める。
彼女の死角へ・・懐中時計を隠しながら。
 ミレイユは、再び正面を見る。
自分より小柄な幼い少女が、クマのぬいぐるみを片手に・・怯えた表情で突っ立っていた。
 ミレイユが・・・どこか怒ったような表情になり、彼女は何か言おうとした瞬間。
その幼い少女・・・クロエはいきなり地を蹴って駆け出した。
「あ・・・っ」
 呆気に取られたミレイユを尻目にクロエは通路を、駆けて行く。
「まって!」
ミレイユが、つられる様に向こうの曲がり角に消えた彼女を追い、駆け出す。
 オデットは・・通路を駆けて行く、自分と同じ金髪をピンクのリボンで止めた女の子の背中を黙って見ていた。
やがて・・・部屋に独り取り残されたオデットは屈めていた腰を起こし、己の手のひらを見る。
白い手のひらの中の、懐中時計の蓋につけられた二人の剣を持った乙女のレリーフを・・・オデットの青い瞳が黙って映す。
 やがて・・・彼女は時計を握りしめ。
祈るように宙を仰いだ。

 黒い染みが、土の上に転々と出来ていった。
その落ちてくるしずくを避けて、列を組んだ蟻達が巣の中へと帰っていく。
屋敷の壁に背をつけ、植え込みの陰に隠れながら。
 クロエは泣いていた。
吊りあがった瞳から、重力に逆らわずに地面へ、涙がこぼれていく。
 クロエは顔を隠すように、思わず膝を抱え込んだ。
彼女の足元で・・黒い蟻達が、巣穴へと入っていった。
ずり・・・ずり・・・。
「・・・・!」
 クロエは・・・その時何かを引きずる様な音が近づいてくるのを聞き、膝から顔を上げた。
程なくして、音が止まり・・・。
ゴンッ!
 自分のすぐ横の壁に、背広姿の男が叩きつけられた。
クロエは、驚いた表情でそれを見て気づく・・・。
 白目をむいた男の眉間には大きな穴が空いていた。
男はすでに、生きているはずも無かった。
ザッ。
「あ・・っ」
 彼女のすぐ横・・・蟻達の巣の上に小さな靴が落ちてきた。
その靴の主は・・・・まだ、クロエと同じくらいの六、七歳位の子供だった。
 死体を睨む、その黒い髪に隠れたこの世のものとは思えない鋭い瞳があらわになる。
クロエは・・その瞳を見るや否や、涙にぬれた表情を輝かせ始めた。
・・・無表情に死体を見下ろしながら、黒髪の子は・・・手にした銃のサイレンサーを取り外す。
 そして、ポケットから黒いマガジンを取り出し、カチッという無機質な音とともに装填する。
サァァ・・・。
 風が木々と黒い前髪を掠め、銃を持った子供は屋敷の方へ向く。
・・・彼女につられる様に、クロエもそちらを見た。

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