―――助けを・・・。
   汚れた手が、ズボンのポケットを探った。
―――助けをよぶんだ・・・・。
ごそごそと、ポケットの中を動いていた手が、何かをつかんだ。
―――警察は、ダメか・・・?
 小さな目が、サイレンの音がする方向、部屋唯一の光源である高窓の方を見る。
―――だとしても。
掌に収まるサイズの折りたたまれた携帯電話が、その手の中にあった。
―――家、家族なら・・・友達なら・・・・?
カチ。
 携帯電話が、開かれ、何も映っていないディスプレイがあらわれた。
―――ともかく、掛けるんだ・・・だってオレは・・・。
口から、息が大きく吐き出される。
 自分の赤く汚れた指に気づき、その動きが一瞬止まる。
――― そんなわけねぇ・・!俺は!
汗の粒が、ひとつ地面へ落ちた。
―――絶対なんもしちゃいねぇんだ!!


ガチガチ・・・。
 マネキンの立ち並ぶ中で、ひとつ動く影があった。
耳を隠すくらいまで伸びた髪。
 赤く薄汚れた顔と手の男・・・いや、その顔に生えた無数の無精ひげさえ見なければ、その顔つきは精悍になりきれてない、少年のものだった。
廃屋の中で歯を食いしばり、額に汗しながら彼は必死に手にした携帯電話のボタンを何度も押していた。
「くそ、電池が・・・!」
がちっと携帯電話を荒々しく折りたたむと、『彼』は倒れたマネキンをまたぎ、壁に詰まれた木箱に足をかけた。
 ガラスを残した四角い高窓へ、顔が届いた。
ひびや穴をところどころ残したガラス窓の外から、下の道路の様子が見えた。
そこには、黒い大きな見たこともないような装甲車と、紺色のバス大の大きさの車両が見えた。更に、ちょうどその2つの間にそれぞれの車両と同じ色のプロテクターをした人々が向かい合っている。
プロロ・・・・・・ッ。
ヘリのプロペラ音が、金太のところまで響いてきた。

 金太は、再び、背後の廃屋の方をふりかえった。
マネキンの群れの先に、『彼』は洗面台がある事に、目を細めて初めて気づいた。

―手を洗わなければ。
 混乱した思考の結論が果てがそれであった。
体が異常に重く感じる。頭が冴えてくるほど、『彼』は自分の体のだるさを思い知った。
ふらついた足取りでそこ・・壁に突き出た壊れかけの洗面器に向かう。
―落ち着け・・。
 慟哭は、止まらない。
得体の知れない恐怖、それが彼を依然として支配していた。
(お前は・・)
 洗面器の上のひびのはいった鏡が彼の上半身を写す。
(オレは・・)
ごくん。
『彼』は唾をのみこんだ。
(何で囲まれてんだよ・・・・)
ガシッ・・・。
まるで意識をぶつけるかのように蛇口をその赤い手につかむ。

ひび割れた鏡の中の、自分の顔が歪んだ。

 聴衆の目は藍色の防弾チョッキに身を包んだ隊員達に集中していた。
A.G部隊ほどの威圧感こそ無いが、その足取りは非常に訓練されたものと確認できる。
が。眼前に彼ら・・SAT(強襲部隊)の歩みを止める者が現れた。
 左右を軽装のプロテクターを装備した兵士に囲まれる、小柄な、どこか場違いな雰囲気を持つ中年男・・。
大滝である。
「止れ。」
 SATを先導していた防弾チョッキの指揮官風の男が進軍を制止した。
「大滝警部・・。」
 敬礼しながら彼はその男についての情報を記憶から洗い出した。
その記憶が正しいのなら彼は油断できない人物であるのは間違いない。
「そこを、どいていただきたい」
「何故です?」
 こちらも一瞬前にでようとした後衛要員を制しながら顔色を変えることなく言う。
「・・・今回は我々の方に理がある」
 すぅー・・・と大滝の目が薄く開く。その中にある鋭さに指揮官風の男はややたじろいだ。
「我々は、警視庁よりの直接の命令で動いている・・!貴官らのような不透明な命令系統でなく正規のものでだ!今回の事件は明らかに貴官ら公安機動隊の処するべき事態ではない!!」
 唐突に。怒気すらはらんだ声で言う。
「そもそも貴官らは、有事の為に急造された特例的存在だ。平時における警察業務への介入は、もはや超法規的といって差し支えない!!その傍若無人な振る舞いがいつまでも続くと思うなっ!!」
「帰れよ!」
「お前らのでる幕じゃねぇんだ!!」
 一斉に・・その言葉に誘発されたかのように隊員達が口火を切る。
「自分らが特別だって、勘違いしてんなよ!」
 やがて抗議の声は罵声へと変化していった。
「警察は軍隊じゃねぇんだ!」
「この人殺し!!」
「何ィ!」

 その罵声にとうとう痺れを切らした大滝の横の1人が飛び掛かろうとした。
バッ。
ー大滝はそれを制した。
 しばしの間があった。
その間も大滝は表情・・柔和そうな笑顔を崩さない。
「・・あなた達は、なんの為に行動するのですか?」
 その間を、大滝はその笑顔のまま警察官同士の見解の張り合いから離れた簡単な、しかし彼らにとっては重みあることばで破った。
「・・・・・・」
 指揮官は言葉をつまらす。それはあまりに漠然としながらも、常にどこかで彼らのような人種の心の中にある問いであるからだ。
「無論、社会の秩序の為・・・」
答えはあっさりと出た。
「ほぅ・・」
 いやな目だ。彼は再び細く開く大滝の目を見て思う。
「我々もそうです。」
子供にかけるような優しげな声であった。

ぎゅっ・・ぎゅっ・・・。
 力のこもった、しかし不気味な音であった。
いや、すでに周りの動きの止ったかび臭いその部屋だけでも不気味ではある。
「・・・クッ。」
その空間で蛇口を捻る一人の男。
「ハァ・・ハァ・・」
 金太の頬に汗が、冷たい汗が伝う。
だが蛇口からは一向に水が出る気配はない。
異様な固さを持つ水道の蛇口をひたすら捻る。
 手が痛い。
しかし、水を出し、手を洗わねば・・・彼はもう2度と彼である事を自覚できないような気がした。
その手に力が、更に入る。
 金太は歯を喰いしばった、その顔はみるみる紅潮していく。
「うっ!」
しかし、いくら力を込めても、蛇口はピクリともしなかった。


「違う」
 彼は自分でも驚くほどに焦った。無論、他人からはそうは見えまい。そう見えないよう自分に常に言い聞かせ、躾ている。が、・・・目の前の小柄な男は自分が焦っているのに気づいている、そう思う。彼には時々開くその薄い目が千里眼のように思えた。
「我々は、あなた達のような歪んだ正義ではない」
 SAT指揮官は何処か重たげに口を開く。
「・・・・。」
大滝の反論は無い。彼の横の護衛2人は明らかに顔色が怒りの色に変化していたが。
「・・先ほど今回は我々の出る幕では無いと・・。おっしゃりましたね。その理由は?」
「・・犯人は報告によれば非武装の、それも未成年だという話しだ。」
 そういって後ろの先程の2人の警官の方を見る。
大滝、隊長の両名に見られた2人の警官はばつの悪そうに愛想笑いを浮かべた。
未成年、非武装・・聞いていない情報に大滝の両脇の護衛は顔を見合わす。
「ならば、あなた達SATが出る幕でも無いでしょう。」
「・・・。」

 一理あった。たしかに今回の出動は彼らにとっても異常だった。
しかし、今回は前例の無いケース、単独犯の検挙だと言う説明を彼らはうけた。
そして、彼らと異なるのは知っていたのである。警官達の情報より先に犯人が未成年で非武装であるという事を。
(公安委員会の組織的暴力の可能性がある。)
それが自分らの出動の理由を問いた彼への上司達の返答だった。
(国民を危険より守るのは我々の職務だ。)
 本当にそうなのかは、本当のところ解らない。
現実的に考えれば国家権力が一個人を消そうとするなんてことはまず無い、それはフィクションの世界の話しだ。
 それにもし、本当に一人の人間を消そうとするなら、わざわざこんな大掛かりな事を仕組む必要などない。
方法は、簡単な方法はいくらでもある・・・。
 そう、大きな力の前で一個人の力等、無力だ。
だからこそ、個人を守るために大きな力が必要となる。
それが、彼のSAT隊長としての『正義』であった。

「あなた達は、やはり歪んでいる。」
 そして彼は再び口を開く。
「ほぅ・・。」
大滝の目がまた開く。
「あなた達は、あの青年を殺すつもりだ」
大滝の目を彼は正面から見据えた。
 そして。
「あなた達のやろうとしてる事はッ・・正義では無い。国家の名を借りた一個人の抹消・・つまり、ただの・・」
言葉を一旦切った。しかし、すぐにそれは再開される。
「「殺人です」だ・・・!!」
意図せず、二人の声が共鳴(ハモ)った。
「・・・・」
 フゥゥゥ・・・。
雑多な看板に彩られたビルとビルの間を通り抜けたのは、夏らしい生暖かい風だった。
それが、向き合う二人の秩序の守護者の顔を掠める。
「確かにそのとおりですね・・。」
 大滝の表情は相変わらずだ。しかし声はどこか悲しげだった。
SAT隊長はその大滝の声の響きに少し罪悪感を感じた。
「しかし・・」
が、大滝は再び口を開く。
「もし、彼のせいで何かこの国に甚大な、国民をも巻込むような不利益が生じたら?」
「・・・・・!」
 馬鹿げた問いだ。彼、桃金太はただの一個人、しかも未成年だ。ただ個人でいるなだけならば前に述べたように大きな力に抗う術など持たない。無力な存在だ。
それが何を出来るというのか。
いや・・・。
 そこに居るもののほんとんどの脳裏にあの2つの事件が蘇る。
――『E事件』、そして『アキハバラ浮上事件』。
「正義というものは・・あ、これはあくまで私個人の意見ですよ。」
表情など崩さない。彼にとってはそれが自分を壊さない為の術なのだ。
「それほど便利なモノじゃあないんです。」
そこに居るもの達全てが耳を傾ける。
「世界という物を守るのが正義だとしたら・・時にそれは悪よりも酷いじゃないんですかねぇ・・・」
 細い目が宙を仰ぐ。
「世の中ってのは、勝手ですからね・・」
 勝手にして絶対なもの。
人を縛る大小の様々の不可視の檻。
だが、それなくしては人は生きていけない。
そこは人の住処なのだから。
空の先の大滝は雲切れ間を見上げる。
 ふと・・彼の脳裏に少女の泣き顔が思い出された。
彼女は今元気だろうか?
(そういえば・・彼女に謝罪の1つもしてませんでしたね・・。)

 かび臭い、住人をうしなったその建物の中、彼らは待っていた。
ギュン。
 赤い光が昼なお暗い、廃ビルの通路にいくつも、幻のように浮かんでいた。
A.Gの暗視装置から漏れる光だ。
 黒い甲冑に包まれた兵士たちが、音も立てず壁に張り付居ている。
彼らには1分が1時間にも思えた。
だが、それは1秒を数えるたび、未知の敵への警戒や臆測から単調な緊張への退屈へ変わった。
黒い指が退屈そうに、手にした銃器の腹をさすった。
 彼らのすぐ横には部屋を隔てる扉のない。通路に大きく開いた部屋がある。
ブリーフィングによればここは元は貸し倉庫に使われていたそうだが。
 主人を失い、ひたすら朽ちた屋内。窓ガラスは割れ、そこら内に誰が捨てたかわからない空缶等のゴミが散乱している。周囲の壊れようやスプレーで書かれたラクガキからしてこの以前の原形を止めない荒れようは自然の流れでなく、人の手による所が大きいようだ。
(関係の無い事だ。)
 3分、いつもそうだ。任務中の彼らにとって時間の流れは異様なまでゆっくりだ。
180秒。異様に長い。
粟倉は決して集中力を欠いてる訳ではない。
いつものように、いや作戦の不透明さからいつもの何倍も気を引き締めている。
―それでも駄目だ。
 あの時のような、死への恐怖。いやそれよりも、言葉にする事さえおぞましい何かが足りない。
―ずっと足りない。
いつも本当の恐怖にたどり着く前に、体が独りでに動き、そして立ち塞がるものが倒れている。
(もう・・誰も・・)
・・この俺を満たす者はいないのか・・?
 ピィピィピィ・・・。耳に響く呼び出し音が聞こえ、
赤色の視界の片隅の<CALL>という英文字が彼の目に直接映りこんだ。
ズッ!
彼は、頭部をおさえ、ヘッドギアに装着された無線をとる。
「エドノキバへ、カウント開始する。」
おなじみの半川の声だ。
(やはり)
「了解。」
―退屈だ。

「カウント10。」
―出ない、水が出ない!
「9。」
 むなしく蛇口が空回りする音が聞こえる。
「8。」
―なんで出ねぇんだよ・・。
「7。」
 金太は焦燥に狩られる。
「6。」
―俺は。
 また、不安が彼を食いつぶす。
「5。」
―何をしたんだ?
 俺は目が覚めたとき、血にまみれていた。
俺自身に傷はない。この血は返り血だ。
こんなに大量の血。
相手は死んだのか?
俺が殺したのか?
「4。」
―厭だ、認めない。
「3。」
 認めたくない・・そんな事。
「2。」
・・???
認めたくない?

その時、彼の意識がふいに飛んだ。

NEXT!!