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バテない登り方教えます。(1)〜(14) (後半) |
(2001年1月〜2002年6月) |
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バテない歩き方教えます(8)
夢を追いかける 2001.10.10
三嶺と書いて「みうね」と読む。
百壱名山登山教室を始める以前、ぼくの視界に三嶺などまったく入っていなかつた。初めて剣山を白指したのは、十年近く前のことになる。プランニングの段階でガイドプックを手にし、パラッとぺージをめくった瞬間、ぼくの頭をよぎつたのは「剣山から三嶺へ縦走したら面白そう」ということだった。
現実問題としては、参加して下さるメンバーの実力、日程を考えるとちょっと無理と判断せざるをえない。山内賢さんとご一緒した「日本百名山をめざす」で3回目となる剣山まで、いずれも見ノ越から往復という無難なプランで済ませていた。
それが今年2001年、21世紀を記念してという訳でもないが、剣山から三嶺までの縦走を「山の遠足プラン」として爼上に載せようと思い立った。
参加希望の方は数人にいらつしゃったが、「コースの大半はヤブこぎで大変」という事前情報に参加を断念、申込みは盛岡の沼崎栄子さん一人であった。サプリーダーを依頼しておいた鈴木保子さんは休暇は取ってあるからと参加を申し出てくれたので、総勢3人、9月2日、曇天の貞光駅ホームに降り立った。タクシーが見ノ越に到着する頃から雨。雨具を着てリフトに乗ってしまった。雨の中、西島神社からわずか40分の歩きで頂上ヒュッテに入り、オーナーである新居綱男さんのお迎えを受ける。
「また雨ですよ」というのがぼくのごあいさつ。1回目は別に大事件があったので、山頂の記憶一切なし。2回目と3回目は雨、剣山とは相性が悪いらしい。
3日、雨は上がっていたが、霧だか雨だか区別のつかない濃霧の中、出発。ジロギュウを越え、丸石避難小屋をやり過こす辺りからトレ −スが定かでなくなる。エアリアマップに迷マーク、プツシユ(足下注意)文言が入る。
高ノ瀬のピークで小休止、ふり返えるとどこを歩いてきたのか道など分からない。とにかく前進あるのみ。四国笹というのか背丈が低いことだけが救いだ。気をつけてみれば、笹に隠されてトレースはある。見失しなわないよう細心の注意を払う。まっ、岩崎はわが国でも十指に入るルートファインディングの名人だから(本人が言っているのだから間違いない)。白髪避難小屋まで辿り着いてホッとする。その先、トレースが明瞭になってくるからだ。
山頂直下のモーレツな急登をがんばつて待望の三嶺1893mに立つ。東へ少し下って三嶺ヒユッテに入る。山もヒュッテも貸切りであった。
4日、三嶺に登り返して天狗塚へ縦走。天狗塚の頂上で来し方をふり返る。剣山方面は雲の中だったが、剣山地主脈を快調に縦走しえたことに大満足。
夢を追いかけていればバテない。
バテない歩き方教えます(9)
歩幅を小さくを身につける 2001.11.10
「岩崎流ゆっくり歩き、山でバテない5つのポイント」は、@歩幅を小さく、A足音をたてない、B靴裏を見せない、C2本のレール、Dパクパクはダメ、まず吐く、である。分かっちやいるけど、難しいのが歩幅を小さくすること。
50歳から山を始めた人は50年問、60歳からの人は60年間、街中をずっと歩いてきたのだから、街歩きの歩幅とスピードが身にしみついてしまっている。歩幅を小さくゆっくり歩くというのは至難の業なのだ。会員のTさん、山好きのお嬢さんがいらっしやる。山岳会に入って本格的に活動されている由。その彼女が「中高年のための登山学」で岩崎の歩き方をみて、「この人は重
い荷物を背負って歩いてきた人だ」とTさんに言ったという。さすがTさんのお嬢さん、よくぞ見抜いたものだ。
昭和山岳会に入会した18歳の頃、ぼくの身長は147cm、体重は38Kgしかなかった。それで30Kgのザックを背負わされるのである。もし僕が街の歩き方で山を登つていたら、たちまち膝か腰を痛めてしまったことと思う。それ以前に、街の歩き方で歩幅を大きく前へ出していたら、背中のザックの重さに負けて、身体が持ち上がらず、山に登れなかったに違いない。
知らず知らず身についた登り方が、歩幅を小さく静加重静移動でゆつくり登っていくことだった。おかげで56歳になる今日、膝痛も腰痛も無し、楽しく山にのぼることができている。
僕の場合は幸運にも「歩輻を小さくゆっくり歩く」という至難の業が、気がついたときは身についていたが、前述したように中高年になつてからでは、容易に身体が覚えてくれない技なのである。
どうしたら「歩幅を小さくゆっくり」が身につくか。簡単に身に付く方法が一つある。それは重たいザックを背負ってみることだ。
「重いザックと友達になる会」に参加して、15Kgあるいは20Kg(もっと重たくしてもイイ?)背負って、大倉尾根をのぼってみることだ。「重いザックと友達になる会」早い話がボッカ訓練である。だれもが嫌がる、しかし、山でバテたくない、来年の夏は北岳に、赤牛岳に、幌尻岳に、楽し
く余裕をもって登りたいと思ったら、チャレンジしてみて欲しい。
15Kgは重い、20Kgはさらに重い。そんなザックを背にすれば、歩幅が大きく前へ出やしない。反動で登るようなことをすればたちまちふくらはぎをつらぜるか、膝を痛める。ゆつくり静加重静移動で立ち込んでいくしかない。辛くて苦しいことだ。良薬口に苦しなのだ。塔ノ岳の頂上に立つ頃には、山登りでの足の運び方が知らず知らず身についていることであろう。頂上に立
ったときの感動は最高である。
だまされたと思って12月3日、ボッカ訓練に参加してみませんか。
バテない登り方教えます(10)
己の限界を知る 2001.12.10
12月2日、無名山塾恒例「重いザックと友達になる会」の開催日である。
重いザック・・・とは、早い話がボッカ訓練、重い荷物を背負い体力養成を目的にしたトレーニングのことだ。教室は丹沢・大倉尾根。登山口の大倉から表丹沢の主峰塔ノ岳まで、高度差12OOmをひたすら登ってゆく丹沢を代表するコース。登り一本(堀山からと花立から、2カ所若干下りがある)なので、馬鹿尾根と呼ばれている。そんな尾根を水や石コロを詰めて重たくしたザックを背負って大汗かいて登ってゆけば、他の登山者から「馬鹿みたい」と思われても不思議ではない。
無名山塾の会員であれば、本科(登山学校)、山の遠足科(遠足倶楽部)を問わず、だれ一人として「なぜ山に登るの」なんて質問は発しない。しかし、ボッカ訓練となると異なる。「そんなに重たい荷物を背負って、なぜ大倉尾根を登らなくてはいけないの」、という質問が出る。ご本人としては極めて真面目で素朴な質問なのだ。ご質問にお答えしよう。ボッカ訓練は危機管理なのである。ボッカ訓練には体力養成という目的があるが、それ以上に重要な目的は、「限界を知る」というところにある。
2日朝、8時15分、渋沢駅改札口集合。バスで大倉へ。登山学校のボッカ担当の指示に従ってザックを作り、計量。岩崎は13Kgのおでん1箱と。ぺットボトルを数本入れた。重量は28Kg。
一ピッチ目は見晴茶屋手前の屋根上まで、順調。二ピッチ目は堀山の家まで、まあ順調、三ピッチ目は花立まで。花立直下の段差の大きい階段でスムースに脚が上がらなくなる。大腿四頭筋が重たくプルプルしている。皆さんに数分遅れて花立山荘前に到着。カキ氷を食べて気分一新。四ピッチ目は塔ノ岳、出足はスムーズだったが後半の階段で足が重くなってくる。十分くらい遅れたけれど、途中でリタイアすることなく、塔ノ岳に登りついた。この時の満足感を想像してみて下さい。これなら来年もなんとかかやっていけそうだな、という自信めいた暖かい空気が胸のうちにふわぁっと広がってゆく。これがボッカ訓練の目的であり、今回も目的を果せてビールが旨い。
うちの会にはそんな方はいらっしゃいませんが、県警救助隊々長の報告によれば、「中高年登山者にはわがままな方が多い」ということだ。プランド志向、いいとこ取り、地道な努力はパス。
山は努力する人にも、しない人にも天気がよければすばらしい眺望をプレゼントしてくれる。山は努力する人にも、しない人にも、急登、岩場、天気が悪ければ死ぬような目にも会わせてくれる。
努力していれば危機を回避できるかもしれない。危機を回避するための努力、それを危機管理という。「限界を知る」という危機管理にチャレンジしてみませんか。
バテない登り方教えます(11)
軽量化を考える 2002.1.25
「岩崎流ゆっくり歩き・山でバテない五つのポイント」、生涯の趣味として登山を継続して
ゆくために「シナイ三原則」、ストックの使い方が問題になつているので「上手なスト
ックの使い方」など標語にしてみた。 今回は 「シナイ三原則」 を紹介しよう。
一、重たくしない
二、競走しない
三、自慢しない
このぺージは「バテない登り方」を考えることが目的だが、行きがかり上、二と三とにもふれておこう。
登山口から頂上までコースタイムは3時間と、ガイドプックに紹介されていると、2
時間40分で登れると勝った、3時間20分要すると負けた、とはしゃいだり落ち込んだり
する人がいらっしゃるが、山に登るというのは個人的な問題である(山は哲)、山で競
走しているようでは、生涯の趣味として継続できるはずがない。
自慢も同様、百名山をいくつ登つたとか、どこそこのナントカルートを登ったとか、
そんなことを山小屋のストーブを囲んでいる人たちに声高に話す人は、山から姿を消すのは時間の問題であろう。哲のない人だ。
さて、本題は「重たくしない」だ。
山をバテずに元気で、余裕持って登り続けていられれば生涯の趣味として継続できる
はず。そのためには「身体を重たくしない」と「ザックを重たくしない」ことである。
「身体」の方はどなたも身につまされているだろうから論ずる必要はあるまい。以下、後者について、即ち「ザックの軽量化」を考えてみよう。
どこの山に登るときだつたか、集合場所で皆さんと顔を合わせたときのこと。Aさん
のザックがちょっと大きい。そのことを指摘すると、「岩崎さんの本を読んで必要と書
いてある装備を揃えたらこれだけになってしまったんです」とのご返事。二の句が継げ
ないとは、このことであろう。でもね、Aさん。ちょっと考えてくださってもいいんじやありませんか。「必要」と
書いてあつても、「絶対必要」なものと「あれば便利」あるいはそれがないと「いざと
いうときに困る」ものがある、ということを。例えばツェルト、パーティーとしては必
要だがAさんが携行する必要はない。保温ポット、温かい飲み物が供されるのであれば
便利だが、なくても済ませることはできる。防寒着はフリースのジャケットが一般的だ
が、ベストにすることで軽量化を計れる。さらに皆さんのザックを重たくしているもの
に食糧がある。
軽量化を考えるといっても一概にはいえない、なによりも各自の取り組みである。自
分のザックが重たいと思っている人、一度、中身を部屋の中に広げてみることをお勧め
したい。
バテない登り方教えます。(12)
おしゃべりをするとバテますよ。 2002.2.13
新宿駅で会つたとたんにおしやベリが始まり、戻ってくるまでしゃべりつばなし、という方がいらっしゃる。しゃべりが中断するのは、なにか食べているときと、急登で息がはずむときだけ。
「疲れませんか」と聞くと、「疲れる」との返事、だったらおしゃべりとやめればいいのに、分かっちゃいるけどやめられないということらしい。 おしやベリが楽しいということは理解できるが、弊害も大きい。中高年登山者の山でのトラプルの最右翼に「道迷い」が挙げられているが、女性の場合、道迷いの直接的原因はおしゃべりにあるといつても過言ではない。おしゃべりに夢中になって、分岐を見過ごしてしまうのだ。
神奈川県の主婦が二人、大山三峰山の北側にある物見峠を越えて札掛に抜ける山歩きに出かけた。おしゃべりに夢中になつて分岐に気づかず、左に進むべきところを右の道に入ってしまつた。近郊の低山ではコースではない仕事道はよくある。分岐に気づいていないのだから、右に入ったということも当然認識していない。
二人はふと我に返る。コースから外れていることに気がつくが、おしゃベリに夢中になっていたから現在地がどこなのか見当もつかない。素直に戻ればいいのにと、ぼくなど思ってしまったが、当の二人はそれも自信がなかったらしい。
「道に迷ったらその場を動かず救助を待つ」という方法もある。二人はそれを採用した。その場で野宿(フオーストビバーグ)することにしたのだ。
二人のお家では大騒ぎになった。すぐ警察に捜索が出された。翌日、地元の消防隊が出て付近を大捜索、昼前には道端に座つている二人を発見収容した。だいぶ以前の新聞にそんなニユースが載っていた。おしゃベリなんてしてないで、コースに気を遣っていれば、問題なかったのに・・。
道迷いと同様、多発しているトラプルが転倒滑落。こちらもおしやベリと相関関係にある。足運びに神経を集中していれば、石車に乗ったりすることもないだろうに、気づいたときは転倒してしまつているんじやどうにもならない。
おしゃべりは、岩崎流ゆっくり歩きにも責任があるらしい。ゆつくり歩くから息もはずまない。おしゃべりのできる余裕が生まれるということらしい。困つたものである。おしやべりしてしまうと、その余裕が消耗されてしまうので、おしゃべりせずその余裕を維持したまま頂上に立って頂きたい。さらにその余裕を維持したまま下山すれば、余裕が石車も事前に察知し、転倒滑落など痛い思いをせずに下山できるというものだ。
おしゃべりをしないで静かにしていると風が木々を渡る音や小鳥の声も耳に入ってくる。幸せな気分になると山でバテない。
バテない登り方教えます。(13)
これぞハイキング 2002.3.10
ジパング倶楽部の会員になられている方のお手許には届いている「3月号」に袋田の滝ハイキングで登場しています。これは茨城県特集ということで単発の企画だったのですが、5月号より「岩崎元郎の歩いて元気」(仮題)という連載が始まります。第一回目は3月5日に「玉川上水」を歩いてきました。
昔、品川区教育委員会からの依頼で「ハイキング入門講座」を担当したところ、受講生の一人が、「自分は場違いな所へ来てしまった。ハイキングということで申込んたのに、登山の入門講座ではないか」と発言されたので、ぼくはびっくりしてしまったのです。登山とハイキングは難度の違いで呼び分けているだけで、同じもんだと考えていましたから。ぼくは彼女に聞き返えしました。「ハイキングってどういうことだとお考えですか」、すると彼女は「玉川の土手を歩くようなことです」と答えたのです。目からウロコが落ちるというのは、まさにこのことでした。そうだ、それこそ「ハイキングだ、」とぼくも同感したのです。しかし、そうなるとそれまでハイキングと呼んでいた低山はどう呼べばいいのでしょう。それは素直に「山歩き」と呼べばいいということで解決しましたが、ハイキングと呼ぶにふさわしいコースは見つからないよな、というのが実感でした。
山の上ばかりみていたから、みつからなかったんですね。ジパング倶楽部への連載企画ば、これぞハイキングというコースが並んでいて、はたまた目からウロコが落ちました。
ウォーキングというのはブームとかいわれていますが、ウォーキングと呼ぶと一生懸命歩くというようなイメージなので、玉川上水はハイキングと呼びたいですね。日本語に訳せば物見遊山です。いや、これで積年の夢を果たせたという気分です。
わが遠足倶楽部も二十歳代から七十歳代までの会員さんがいますので、いよいよ3Gプランの充実を考えていかなければいけない時期なんです。
山歩きはどうしても小なりといえ山のてっぺんをめざしてしまいますが、ハイキングは山のてっぺんはめざさない。達成快感より課程快感にポイントを置く自然との関わり方、と定義しましょう。てっぺんをめざさないんですからシヤカリキになることはないし、シヤカリキにならなければトラブルが少なくなることも必然です。
危機管理の度合が小さくなりますから、その分軽装で済みます。ザックも軽くなるということで、足運びも軽やかになること請合いです。ハイキングを日本語に訳せば物見遊山と前述しましたが、まさに「山の遠足」です、よね。遠足気分で楽しめる3Gプランの充実にご期待下さい。
ハイキングを楽しんでいればバテることはない。バテるようなのはハイキングとは呼べないということです。
バテない登り方教えます(14)
大敵は睡眠不足 2002.6.10
僕か若い頃、昭和三十年代後半から四十年代前半、週休二日の会社なんてほとんどなかった。丹沢でも谷川岳でもたいていの場合夜行目帰り登山だ。
土曜日半ドンというのはタテマエで、新宿から小田急線に乗れるのは夜8時過ぎ。渋沢へ到着するのは9時過ぎるからバスはもうない。大倉への道をよく歩いたものだ。神社の縁の下や水無川の河原で着のみ着のまま、ゴロリと横になって仮眠するのだが眠れやしない。
谷川岳へは新潟行きの夜行列車利用となるが、熟睡できようはずがない。幸か不幸か熟睡できても、乗車時間が短いから夜はこれからというところでタタキ起こされるボーッとした頭でフラつく身体をかろうじてコントロールしなから、暗い道を一ノ倉沢出合へと急ぐ、それが常態であった。
谷川岳は遭難死者七百人を超え、魔の山と呼ばれた。たいていは一ノ倉沢や幽の沢での岩場での事故である。たいていの場合 事故者の未熟が非難され、谷川岳の難しさが喧伝される結果となるだけだったが、いま冷静に考えてみると、事故の直接的原因は夜行列車利用による睡眠不足に端を発する判断力、バランス感覚の低下にあったといえるのではあるまいか。
若者にとっても睡眠不足は太敵だったはずである。穂高や剱岳へもアプ口ーチは夜行というのが今でも普通だが、一日目は、ベースとなる涸沢や剱沢までの入山行動だけで、岩登りは入山2日目からとなるので睡眠不足は解消され、事故発生率か谷川岳より低くて済んだと想像するのだが、どうであろう。
若者でそれ、いわんや中高年おや、ということである。山でバテたくないと思ったら、いかにして快眠を獲得するかであろう。基本的に夜行はNG(ノーグッド)。登山口まで眠らずに夜行ドライブというのは遭難候補生として志願しているようなもの。残念ながらこのケースは非常に多い。発言を強めると、「貧乏人は山に登るなというのか」と反論される方かいらつしゃるが、車を持つことをやめたら、どれだけリッチな登山ができるか考えてみて頃きたいと思う。考え方を変える、ライフスタイルを変える、という選択肢があってもいいのではあるまいか。
いつでもどこでもよく眠ること。山小屋で眠れないどいつ方は、ちょこっとお酒と仲良くてみよう。睡眠導入剤や安定剤の利用も眠れないで悶々とーしているよりべ夕ーである。が、依存症にはならないようにして頂きたい。
なに、眠れなくたって横になっているだけで疲労は回復するものだ。悶々としてしまうと疲れてしまうので、横になっていれば疲労は回復するということを信じて、明るい気分で羊を数えるのが、べ夕ーな方法である。羊が一匹、羊が二匹あーあ、眠くなつてきちやったなあ・・・。
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