最終話


一旦宿に帰り、夕飯を食べるためにまた外に出た。最後のエルサレムの夜ではあったが、何となくアルメニア料理というものが食べたくなったので、アルメニア人地区に向かった。先ほどの喫茶店の前を通り、アルメニア人地区に足を踏み入れたすぐのところにあるレストランに入る。よく分からないので、適当にコースを頼む。値段は覚えていないが、確かあの旅行では最も豪華な食事となったと思う。アルメニア料理は全く初めて食べるが、何となくトルコ料理に似た感じで、パンは中近東でよく食べられるような、あのインドのチャパティ(ナンを円盤状にしたような)みたいなものが数種類で、肉は羊肉であった。ビールはアルメニアのローカルビールを飲んだが、素朴な味がした。店員は厨房に何人かおり、ウエイトレスは若い女2人だが、この2人がアルメニア人かどうかはよくわからない。美人でスタイルがよく、そして愛想があまりよくない。

店を辞し、少し小路を歩いた後、聖墳墓教会に向かう。今日も人でごった返している。明日にはローマ法王ヨハネパウロ二世が、特別ミサを行う筈である。だが、特にそれに向けての準備がなされているとは思えない。私は正面の入口から教会内に入り、イエスが磔刑に処されたと言われるところに向かう。

ベンチはどこも人がたくさんおり、仕方なく階段に腰掛ける。しばらく人の流れを見てはいたが、残り頁の少なくなった「死海のほとり」を取り出し、そこで読み始める。

最終章。そこでは「私」と「私」の旧友の戸田が、この旅の最後にさしかかっている。今は信仰も薄れ、殆ど教会にも足を運ばない二人が、この旅の最後にさしかかっている。

と、私の心にふたたび、寮生がまだ布団にもぐりこんでいた冬のあの真暗な朝、ノサック神父に続いて聖堂に出かけた戸田のことや、あの時、神父や、彼や、そしてねずみが押す寮の壊れた扉のギイと言う音が耳に甦ってきた。あれから、全てが目立たぬように始まったのだ。あれから長い長い歳月が経ったのに、私もも戸田もまだイエスにこだわっている。いつも、お前のそばに、わたしがいる。
「付きまとうね、イエスは」
私の言葉に戸田は黙っていた。

一冊の本を読み終わり、私は聖墳墓教会を後にした。

宿に帰り、同室の数名と暫く話をする。今日の話は彼らにはしなかった。彼らの殆どは、表面的にはクリスチャンであろうが、それだけではない何かが、私に話させるのを止めていた。シャワーを浴びて戻ってくると、ドイツ人の医学生に飲みに誘われた。北欧からやって来ている二人も一緒である。私たちは地下にあるバーに行き、そこでビールを数本飲む。ビールはイスラエルのローカルビールである。私は翌朝が早いので、12時過ぎには部屋に戻ったが、その際に北欧の二人に「明日の朝、起きたときに起こしてくれ。ヨルダンに向かうんだ。」と私に言ってきた。私は心得たと応ずる。彼らはまだ旅を続けるらしい。

翌朝6時に目を覚ます。部屋の中は、まだその殆どが眠っている。ドイツの医学生も、南アフリカからきた若夫婦も、そして北欧のあの二人も眠っている。気配を察してか、北欧の二人のうちの一人が起き上がった。「お、起きたね。別に起こすことなくなったな。」と声をかける。私は荷物を持って、tabascoを出た。

朝の湿度のやや高い、すこし肌寒いエルサレムの小路を抜けて、ヤッフォ門からバス停に向かう。バス停には数名のユダヤが立っていたが、旅行者は私一人だった。バスがやってきて、長距離バスターミナルに向かう。ベングリオン空港行きは、少し待ってから来た。バスに乗り込み、今度は1時間ほどをかけて、テルアビブ近郊にある空港に向かう。周囲の景色は、もはやユダの荒野のように荒々しくない。耕作地も見られる。その中を、バスは進む。

イスラエルは空路で出国する際に、チェックが非常に厳しい。ハイジャックを恐れているからであるが、それ以外にも様々なテロ行為を警戒している。数十年前、ここで日本赤軍の岡本公三ら数名が、イスラエル軍と銃撃戦を繰り広げたのである。それからかなりの年月が経っているが、それでもイスラエルはあまり手を緩めない。かつての出国前尋問に比べれば、かなり緩和されたそうだが、それにしても尋問を40分程度に渡ってこまごまとされた経験は、これから先にしてもそうはあるまい。

チェックインを済ませ、飛行機に乗るまで暫くの時間を潰す。私は書店に入り、少し見て回る。帰りの飛行機も、17時間くらい乗りつづけるので、何か暇つぶしの本を欲しいと思ったのだ。何冊かを見たが、私の目にとまったのは"Child Bible"というものだった。「こどもせいしょ」という直訳が最も合いそうな表紙である。旧約を絵本調にまとめたものである。私はそれを手に取り、レジに持っていった。

飛行機に乗り込み、椅子に深く腰掛ける。最早この国に来ることはあるまい。何となくそう思った。

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