その四 アルメニアへ
アルメニアの首都エレバンに向う飛行機は、何故か深夜にウィーンを出て、まだ深夜と呼べるような超早朝にエレバンに着く。飛行時間は約3時間である。私はかなり早い時間にチェックインと出国審査を済ませてしまい、その為ターミナルビルディング内で余計に時間を過ごさなければならなかった。その間、アルメニアの本を読んだりして時間を過ごす。相変わらず韓国人の旅行者が多い。こう韓国人が多いと、オーストリア航空もその内ソウル便を開設するであろう。
時間となり、エレバン行きの飛行機の待合室ゲートが開いた。私はすぐにゲートに赴き、待合室で出発を待つ。さすがにエレバンのようなマニアックな場所に向う韓国人はおらず、東洋人は待合室で私一人だ。旅行者は明らかにアメリカ人が多いように思うが、彼らはアルメニア系アメリカ人だろう。世界で一番アルメニア人の多い国は、アルメニアでなくてアメリカであると思う。ユダヤ人のように離散したアルメニア人は、ユダヤ人と同じような運命を辿っているようだ。
アルメニアは美人が多いと聞く。しかし、そうは言ってもみんながみんな美人と言う訳じゃないだろう、と思っていた。だから、待合室で待っていて、すぐにブリトニー・スピアーズのような顔をした若い女性が入ってきたときも、どれもあんな顔じゃないんだろうなどと思っていた。
ところがである。
「美人が多いってもなあ」と懐疑的に見ていた私にとって、ひいき目と言うのは無かったと思うが、待合室で飛行機を待つアルメニア人女性達は、事もあろうか美人揃いである。私は、おいおいこんなに民族に偏りがあっていいのかよ、と憤りを禁じ得なかったが、俄然アルメニアが楽しみになってくるのは仕方が無い。後々書くが、私の訪れたアルメニアは、聞きしに勝る、確かに美人大国であった。今までの旅行経験で、こんな国は見たことが無かった。
飛行機に乗る時間になり、席につく。ギリギリまで取れなかったウィーン-アルメニア線であるが、確かに座席は満席で、定刻にオーストリア航空は真夜中のウィーンを、エレバンに向けて飛び立った。私は一日ウィーンを歩いて疲れ切っていたため、離陸後間もなく眠りについてしまった。
飛行機は黒海を越えて、コーカサスの小国アルメニアに向っているはずだったが、窓際でもなく、しかも真夜中のフライト外は真っ暗で、さらに眠りについていた私にとっては、そんなものを全く感じることなく、飛行機は着陸に向けて下降していた。下降していたのは、気圧が大きくなることで耳が痛くなってきたから分かった。私は目を覚まし、到着の準備を始めた。と言っても、飛行機に乗ってすぐ眠ってしまった私は、特に準備など必要ない。気持ちの準備くらいだろうか。
窓外はまだ暗く、街の明かりも特に見えない。エレバンの空港は市内から結構離れているため、市街の明かりも見えないのだろうか。私を乗せたエアバスは、定刻とあまり変わらぬ時刻に、エレバンのZvartnots国際空港に着陸した。滑走路はデコボコらしく、着陸すると機体は小刻みにガタガタ揺れた。
Zvanrtnots空港は、当然ソ連時代に建設された空港で、空港の建物も殺風景であるが、デザインはアルメニアに存在し、地震によって崩壊した寺院をモデルにして作られたらしい。その寺院は現在再建中で、この旅行中にも訪れた。だが、このときはそんなことは知らなかったので、ターミナル内部にいて「ソ連って感じだな」などと思っていた。旧ソ連圏内は初めて足を踏み入れたため、これがソ連っぽいのかは定かではないのだが。
空港についてまずやることは、ビザの発行である。アルメニアは観光目的でも勿論ビザがいるが、一昔前のCIS諸国で必要とされた煩雑な方法は既に取られておらず、空港で簡単にビザの発給がなされるようになっている。確か30ドルで、米ドル以外は受け付けなかったような気がする。何しろ、ビザ発給は小さいとは言え外貨獲得の重要な手段である。
ビザ発給の書類に記入を済ませ、パスポートと米ドルを渡し、ビザであるシールが貼られるのを待った。私はターミナル内を見渡した。
ソ連崩壊から既に10年程が経っている。コーカサスにおいてアゼルバイジャンと並んでソ連最南端に位置するアルメニアは、確かにソ連だった。隣のグルジアからは名高いスターリンも輩出されている、そんなコーカサスである。だが、案内板にロシア語の文字であるキリル文字は全く見当たらず、難解なアルメニア文字に英語が併記されているだけである。既にソ連時代が遠くにあるというのがよく分かる。中央アジアの国々と異なり、アルメニアはソ連時代からアルメニア人が人口の大多数を占めており、現在も97%がアルメニア人である。独立後のロシア人との摩擦などは少なかったはずであるが、従ってアルメニア語の再導入は簡単に決まったような印象がある。そうでもないのかも知れないが。
ビザが何の抵抗も無く発給された。私は入国審査の列に並んだ。審査時は特に何を問われる事も無く、入国スタンプが押される。
ターンテーブルの前に行き、荷物の出てくるのを待つ。ターンテーブル横の窓には、迎えの人々が知り合いの顔を見つけようと目を動かしているが、私の姿を認めると目が止まる。確かに、ここには東洋人は私しかいない。
ところで、ここで私は、初めてといえる経験をした。荷物が出てこないのである。アルメニアよ、お前もか、と一瞬思う。
石油化学系の仕事をしている私の会社は、中央アジアのカスピ海沿岸やロシア地区を新たな重要マーケットとして注目している。私自身、この時点でカザフスタンの製油所近代化プロジェクトのチームの一員として働いていたくらいである。このような環境ゆえ、私の上司は何度と無くロシアおよび旧ソ連地区を出張しているのであるが、そんな出張中、彼らはモスクワの空港で必ずピッキングに襲われている。一度など、空港職員がスーツケースの鍵を開けられなかったらしく、開錠用のアイスピックが鍵口に刺さったままでターンテーブルに現れたと言う例まであったらしい。それを何度と無く聞いてきて、休暇前に上司から「注意しろよ」と言われて出てきたのである。だが、ここは荒んだロシアじゃないし、そんなことは無いだろうと思っていた。しかも、私の荷物は鍵のついたスーツケースなどではなく、無防備なボストンバックだったのである。中にはユニクロで買ったような中国製の衣類しか入っていない。
ターンテーブルの動きが止まった。これで全ての荷物が出てきたと言う。ああ、俺の荷物はどうなったんだ、と、生まれて初めて「バゲージクレーム」のシールを持って係官の方へ向う。だが、そんな人はかなり多いようで、係官の前に列が出来る。おいおい、どうなってんだよ。
だが、その列に並んでいた時ふと横を見ると、私のボストンバックが置いてある。あれ?と思って確認すると、確かに私のものである。ターンテーブルを凝視していたのに、全く出てこなかった私のボストンバックであるが、どうやら誰かに間違われて持ち去られたのか、もしくは盗まれそうになったのか定かでないが、今ここに持って来られたようである。衣類程度しか入っていないとは言え、私は安心してその荷物を持ち上げ、出口に向った。
出口に出ると、私の名前を書いた紙が貼ってある。私はここエレバンで、ホテルアルメニアと言う元インツーリスト経営のホテルに泊まることになっている。一泊100ドルと言う、アルメニアで二番目に高いホテルであるが、短い旅行期間を考慮して日本から予約が出来るホテル(と言ってもe-mail予約であるが)にしたのである。ここは無料で空港からの送迎をしてくれる。その送迎バスに乗る人間として、壁に私の名前を書いた紙が貼ってあったわけである。荷物を取るのが大幅に遅れたため、すでに外はやや明るくなっており、時間も朝6時を回りそうである。私はホテル職員にエスコートされ、ホテルのバスに乗り込んだ。駐車場はラーダやボルガと言ったソ連製の乗用車が埋まっており、外車はあまり見当たらない。ホテルのバスには既に一人のアメリカ人と思しき婦人が乗っていた。私に遅れること約10分でもう一人の客が入ってきて、バスに乗り込む。これもソ連製と思われるバスはエンジンがかかり、空港を後にしてエレバン市内へ向う。もう東の空が赤く染まり始めていた。
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