
早朝チェックインした後、昼近くまで眠った。ウィーンとの時差は3時間あり、チェックインした朝6時過ぎはウィーンの夜中の3時に相当する。チェックインするとそのまま眠りについてしまったのだが、昼近く、つまりウィーンで言うと朝の9時くらいに起きたことになる。私は着替えてシャワーを浴び、ガイドブックを眺めながら「取り敢えず昼飯を取ろう」と思って、外に出ることにした。
ホテルに着いたときはまだ暗かったが、外に出るとホテルの前の共和国広場はかなり強い夏の日差しを受けていた。気温は特に調べなかったが、恐らく日中は40度くらいに達している筈である。非常に暑い。とにかくホテルを出る。
最初に私がしなければならないのは両替である。まだアルメニアの通貨ドラムは持っていない。ガイドブックによると、ホテルアルメニアを出て左手に進むと両替屋が店を構えているらしい。私は左手に進んだ。
エレバンは旧ソビエト社会主義共和国連邦を構成する15の共和国の中で最も小さな共和国で、アルメニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連と運命を共にした。街並みはそうは言っても赤岩のようなものを使った建物で出来た建物が並んでおり、ソ連らしい殺風景な建物はあまり見られない。私は街を見ながら道を行くが、道路を走っているのは空港でも見たソ連の乗用車ラーダやボルガが最も多く、外車もあるが大抵欧州車で、日本車はあまり多くない。道はレストランやオフィスなどが並んでいるが、露店のようなものも少しある。しかし何と言っても街を彩るのは女性たちで、彫りの深い目鼻立ちのくっきりした美人が多く、スタイルも良い。また、服装のタブーの無いアルメニアは、女性の服装もかなり派手だ。
何軒かの両替屋を回り、どれもあまりレートが変わらないことを確認した私は、それでも一番レートのいい店で取り敢えず100ドルを両替した。100ドルは5万5千ドラムくらいの札束に姿を変えるが、日本円に換算すると大体1円=5ドラムといったところだっただろうか。これはアルメニアでは勿論大金で、その証拠にかなり頑張っても結局100ドルを使いきることは無かったと記憶している。ただ単に派手に金を使うことを知らないだけかも知れないが。
ホテル方面に戻って、私は昼飯を取ることにした。ホテルの近くの「カフェ」と称するところに入り、ピザとコーラを頼む。これで確か400ドラム程度だったと思うが、つまり80円。アルメニアの物価は、私の馴染みの深いパキスタンとあまり変わらないようだ。カフェは姉妹(美人)が店番をしているが、英語は通じた。
昼飯を終えた後、私はホテル前に戻り、街を歩くことにした。わざわざホテル前に戻ったのはホテルアルメニアが「共和国広場」と言うエレバンの中心の広場(と言っても巨大なロータリーのようなところ)に面した位置にあり、そこが起点となるからだ。
宿泊先のホテルアルメニア
共和国広場に面する国立博物館(内装改装中だった)
ホテルアルメニア隣の外務省建物
街は共和国広場から放射状に道が区画されている。私は博物館前の噴水の方に行ったが、途中で比較的大きいアルメニア教会が見えたので、そちらの方に行くことにした。
教会の方の道は雑然としており、露天商が連なる場所であった。両替商がここでも両替屋を開いており、ここが両替のメインストリートのようである。といっても、レートは殆ど変わらないし、扱う通貨も米ドルと英ポンドと露ルーブルのみで、ユーロを扱っている両替屋は全く稀である。ここアルメニアで最も信用されている通貨は、どうやら米ドルのようである。尚、日本円を両替するような店は皆無だったが、日本の経済圏はさすがにここまでは全く及んでいない。
教会に向う途中、公園のようなところに入った。ここは小さいジェットコースターなどもある遊園地のようであるが、地味な遊園地は家族連れで賑わっている。
ジェットコースター
後ろを振り向くと、教会の近くに来ているのが分かる。
聖グリゴール教会 2001年完成
暫く公園の中を歩いていたが、園内の池に子供が飛び込んでいるのと、卓球台がいくつも置いてあって大人たちが卓球に興じている姿が目に付く。園内は先述の如く、遊園地のようにもなっているので、露店も多い。あまりに暑いので、私は露店の一つでアイスを買った。
公園の裏手から公道に再び出て、教会方面を目指す。中心からちょっと外れたと思われるこの辺は、ソ連時代に立てられたと思われるブロックで出来たようなアパートがある。
ソ連時代(?)のアパート
道を道なりに進むと、教会の裏手に出た。
アルメニアは世界で初めて、国家宗教としてキリスト教を受容した国である。現在のアルメニアは当時のアルメニア人国家のあった位置と必ずしも一致していないが、アルメニア人にキリスト教を最初にもたらしたのは、イエスの弟子である十二使徒のうちのタダイとバルトロマイである。以後、他の地域と同様に権力者からは迫害を受けていたが、4世紀の第一年目、以下のような伝説の下に、アルメニアはキリスト教を国教として受容することになった。
残虐であることで名高いアルメニア王トゥルダートは、キリスト教の説教師であるグリゴールをArtashatと言う土地にある死刑囚用の深い穴に幽閉した。しかしながらGrigorは、キリスト教徒である老女によって毎日食料を与えられ、そこで結局13年間に渡り行きぬくことになる。神の逆鱗に触れた王Trdatは病に臥すが、王の妹だか姉だかが夢枕だか幻想だかでGrigorを開放すれば王の病は癒えると啓示受け、王に進言しGrigorは穴から開放された。とたんに病は癒え、王はキリスト教に改宗、そして国家としてキリスト教を国教として受容するに至った。受容年は301年で、ローマのミラノ勅命は313年で、ローマのキリスト教国教化は392年を考えると、アルメニアのキリスト改宗は確かに他国より早いが、4世紀にはキリスト教がヨーロッパ世界にほぼ定着していたことを示すタイミングであるとは思う。
以来、アルメニアはゾロアスター教のササン朝、イスラム教のアラブ、モンゴルなどから様々なプレッシャーを受けてもキリスト教を棄てず、イスラム教と接する最前線で、しかもアルメニア正教と言うキリスト単性説を是とする、451年の東ローマ正教系のカルケドン公会議におけるキリスト両性説と言う解釈を拒否する、東方正教会系からは独自のキリスト宗派を守り続けている。
教会は新しく、ドームを頂く比較的巨大な教会は、中はかなり広い講堂のようだった。アルメニア教会に足を踏み入れるのは勿論初めてであるが、他の教会とは比較的色々違うようだ。
最大の違いは祭壇のイコンである。普通、我々が目にする教会の祭壇には、磔刑にされているイエスの十字架が据えられているが、ここアルメニア教会には磔刑のイエスの十字架は無く、代わりに幼いイエスを膝に抱いたマリアのイコンが嵌められている。これはアルメニアで見たどの教会においてもそうであるのだが、これがアルメニア正教の原則である「キリスト単性説(イエスは神)」に絡んでいるのかはよく分からない。
アルメニア正教会におけるキリストに対する姿勢は、先述の通り東方正教会のカルケドン公会議における「キリスト両性説(イエスは神であり人でもある)」の拒否である。そもそもカルケドン公会議自体が325年の二ケア公会議における三位一体(イエスは完全に神)と言う結論に対する異論であり、従って西方ローマ教会(カトリック)とアルメニア正教会の基本的な教義は「反対の反対」と言うことで同じになる、かどうかまでは分からない。印象は同じに見える。だが、教会の内装や外装と言う「見た目」は、まるで異なっている。イコン崇拝は正教でよくある傾向で、つまり外見は正教と言う感じなのだろうか。尚、イエスは説教中に神ヤハウェを信ずるように人々に呼びかけているところからすると、神ではなくて預言者と言う位置付けが正しいような気がしないでもない。つまり人間と言うことであるが、こんなことを言うと恐らくキリスト教徒は部外者が勝手なことを言うなと言う感じで猛然と反対するだろう。ポイントはイエスが死後に復活したと言うことであるが、これを事実と認めるかどうかと言うレベルの議論をするのは、キリスト教にとっては愚の骨頂以外の何物でもないだろう。何しろ、この復活こそが永遠の命を得るというキリスト教の至高の目標であり、復活こそがイエスの神性を証明する出来事であるからだ。
とにかく、正教系の教会は、祖国日本が長きに渡って西欧から影響を受けたためかは分からないが、普通の日本人である私にとっては東方正教会の建物から何まで馴染みの無いものばかりである。
教会内は灼熱の外とは異なり、涼しくて過ごしやすい。人々は椅子に腰掛けて祈っていたり、話していたりする。祈りの場でもあり、何だか集会場のような趣すら感じられる。
外に出た
暫くして外に出た。入ったのは裏手だったので、正面から出てみる。正面の階段には写真屋などがいて、その中の写真にローマ法王がこの教会の前で写っている写真などがある。外交的な現ローマ法王は、この教会も訪れたようだ。
階段を降り切ると比較的大きな道路があり、道路の向こう側にはバザールと言うか、何か鉄筋コンクリートで出来た若干いびつな形の建物が有り、そこでは日用品やらおもちゃなどが売られている。横は酒を売る市場のようになっており、少し覗くと有名なアルメニアワインやアルメニアコニャックが所狭しと並んでいる。
この市場の下には地下鉄が通っているらしく、地下駅に降りていく。
地下鉄は当然ソ連時代に建設されたものであると思うが、殺風景この上ない内装の地下鉄駅にはいくつかの売店もある。その中で最も賑わっているのがゲームコーナーだが、これはプレステが数台置いてあってそこでサッカーゲームを有料でやらせると言うもので、子供達が日本語の出るゲームに熱中している。ボール紙に「SONY」と書いてあり、アルメニアにまで浸透しているプレステの偉大さに若干引いてみたりする。
地下鉄はニューヨークの地下鉄などと同様、トークン(コインみてえな奴)を改札機に通して入場する。1回40ドラム(=8円)。交通機関がバカ高い日本から来た人間にとって、海外の交通機関の運賃の安さはいつも驚くに値するものである。
物凄い速さでゴンゴン音がするエスカレーターに乗って、地下深くのホームへ行くと、案内板はロシア語とアルメニア語しかなく、どっちがどっちに行くのかさっぱり見当がつかない。ホームは妙に綺麗で、そして薄暗いが、何か写真で見た共産圏の地下鉄駅と言う風情である。広告などは一切無い。
ゴゴンゴゴン言いながら、古臭くて無骨な、いかにも「共産ソ連」と言う列車がホームに入ってきた。二両編成である。車内に入ると一斉に東洋人の私は注目を集める。尚、この時点でこの列車がどこに行くのかはさっぱり分からないのであるが、取り敢えず乗って訳分からなければここに戻ってくればいいことである。何しろ、1回乗車賃8円だし。
次の駅で降りてみて地上に出ると、そこはホテル近くの国立博物館裏の駅だった。どうも戻ってきてしまったようであるが、また地下鉄に乗って今度は反対方向に行ってみる。どうも反対方向に行くと、エレバン駅に辿り着くようなのだ。私は辛うじて分かるホームのキリル文字駅名を見ながら鉄道駅を認識しようとしたが、何のことなく鉄道駅の地下鉄駅は地上に上がり、隣に鉄道駅が現れるという極めて分かりやすいものだった。
地下鉄駅を降りて、地下道を通じて鉄道駅のほうに向う。地下道は無数の露店が出ている。露店を冷やかしながら進む。
駅舎は結構立派だった。どうせソ連時代に出来たのだろうが、ソ連の威厳を感じる嫌な感じの駅舎である。だがホームは寂しくて、僅かに3面のみである。
エレバン駅
アルメニア共和国首都の駅としてはシャビーだが、まあこんなもんだろうか。尚、時刻表によると列車は一日3本。一本はお隣グルジアの首都トビリシ行きの国際列車であるようだ。モスクワ行きは確認できなかった。アルメニアはイラン・アゼルバイジャン・グルジア・トルコと国境を接しているが、アゼルバイジャンとはナゴルノ・カラバフ問題などで国境が画定しておらず関係は悪く、トルコはかつてのアルメニア人虐殺問題から国交を結んでいないため、両隣は国境が開いていない。アルメニアは南北に接するイランとグルジアとの国境しか開いていない。
鉄道輸送は廃れてしまったと言う風情で、空の貨車が寂しく並んでいるだけである。
ホームでブラブラしていたら、オッサンが話しかけてきた。と言っても、オッサンは英語を話すわけは無く、ロシア語で話しかけてくる。でもロシア語は殆ど分からないので、どうしたもんかと言う感じである。
彼は私に向って「ウズベキスタン?」と聞く。うーん、いいところ突いてる筈も無く、違うと言う。普通は中国人かと聞くところだが、さすが旧ソ連の国はこの面構えを見ると中央アジアの人間と間違えるようだ。中々新鮮な間違え方である。何しろ今まで数々の国を歩いていて、「ウズベキスタンから来たの?」と聞聞かれたのは、これが初めてである(当たり前だ)。どうやらオンはウズベキスタニャツをスマトリーチェしたことがあるらしく、それで私を「ウズベク?」と聞いてきた、と言うのは断片的に知っているロシア語の単語から類推したのだが。
ここにいても埒が明かないので、取り敢えず再度地下鉄に乗ってもとの所に戻ることにした。
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