その二 ウィーンにて@
入国審査は言葉を一言も発することなく、呆気なく終わった。荷物も格安航空券で来た人間に対するものとは思えないほどすぐに出てきた。荷物を持って、ロビー前の両替所で何がしかの両替をする。レートは信じられないくらい悪かったが、何しろユーロが無い以上ここで両替せざるを得ない。
空港到着ロビーに出た。最近はロビーに出るや否やいきなりカートが他の人間によって勝手に運ばれたり、正に「黒山の人だかり」と言わんばかりのタクシー客引きが金蔓に群がってくると言う状況ばかりだったが、今日はそんなことは全く無く、誰にも声を掛けられずにロビーへ出た。
市内へはバスかSバーン(近郊電車=東京のE電=E電という単語もどの程度の人間が覚えているのだろうか...)で行くことになる。バスは5.5ユーロ、Sバーンは2.5ユーロであるが、バスの方が頻繁にある。ちょうど5分後にはウィーン南駅経由西駅行きのバスが出るらしい。掲示板に出ている。と言う訳で、私はバスで市内に出ることにした。
何しろ空港から自力で市内に出るのは久し振りである。最近はずっと空港まで迎えが来ていたからだ。ウィーンは初めてなので、どこで金を払うかも分からない。バスまで行って運転手に尋ねると、運転手に払うで良いらしい。私は5.5ユーロを払って、座席についた。バスは程なく出発し、高速道路経由で市内を目指す。南駅までは20分程度である。
空港を出てすぐ、左手に巨大な化学プラントが現れた。オーストリアの民族系石油会社(?)であるOMVのプラントである。石油精製プラントだろうか?比較的大規模である。周囲は他にも工場があり、空港近辺が工業地帯区域に指定されている様がよく分かる。オーストリアらしい街並みは全く無く、ドイツ近郊と同様な感じである。
工場地帯といっても工場が軒を連ねているわけではなく、緑地が整備されている。そんなドイツのような風景を見ながら、バスは進む。ようやく古い建物が目に入ってきたと思ったら、南駅に到着した。私は南駅でバスから降り、駅の構内へ入っていった。
南駅は市内に4つあるターミナルの一つで、オーストリア南部との列車と一部の国際線が発着する鉄道駅である。駅構内は他のヨーロッパ各国に見られる駅と異なり、それ程危なくは見えない。フランクフルトなどは麻薬中毒者やアルコール中毒者が結構いるが、ここはそうでもなかった。私は売店に入り、市内の地図を購入、今夜泊まるホテルに行く方法を探った。ホテルは予約済みだったが、ホテルまでの道順は分かっていない。分かっているのはフランツヨーゼフ駅から至近と言うことだけで、従ってフランツヨーゼフ駅に行く方法を地図で探らねばならない。
ヨーロッパの諸大首都は、市内に複数の鉄道ターミナルを有している場合が多い。ここウィーンも例外でない。ただし、日本と違うのは諸ターミナルが実質的に独立しており、相互の連絡手段が明確には無いというものである。東京は新宿、東京、上野と言う大ターミナルを山手線が結んでいるが、そのような分かりやすい繋がりは無く、地下鉄や市電、それから旅行者には若干分かりにくいバスで結んでいると言う場合が多い。ウィーンも、違うターミナルに行くのに数回乗り換えをしなければならないパターンである。
しかしながら、フランツヨーゼフ駅は南駅からD線という市電で一本と言う事が分かった。D線は市街中心を縦断する路線で、この路線は私もウィーン滞在中によく使った。D線にボーっと乗っていればフランツヨーゼフに着くようだ。と言う訳で、市電の電停に向った。
市電の電停にはかなりの数の東洋人がいたが、これらは全員が韓国人であった。この旅行でウィーンとブタペストにおいてそうだったが、東洋人の観光客は今は韓国人が圧倒的に多く、日本人を見るのは稀と言う感じであった。東洋人の観光客比率は、恐らく韓国人対日本人で7:3程度にまで広がっているのでは無いか?と言うほど韓国人ばかりだった。
市電に乗るのに小銭が無い私は最初の市電に乗れず、仕方なく売店でコーラを買って札をくずすと言う技に頼るしかなかった。海外旅行は久し振りだし、このように公共交通機関に頼るのも久し振りなので、何だか勝手が分からなくて最初は困った。次の市電はすぐに来て、運転席の横の券売機で券を買う。だが、何だか小銭が戻ってきてしまう。運転手にどうすればいいんだ?と聞くと、最初に券売機のボタンを押してからコインを投入する旨教わる。そうだった、ヨーロッパの多くはこの方式だった...
市電はすぐに進路を北に変え、程よいスピードでウィーン市内を走り始める。私はその街並みを眺めながら、7年前に初めてパリに行ったことを思い出した。7年前の旅行はパリがスタート地点で、すなわちパリが私が初めて見たヨーロッパと言うことになったわけだが、その時の街並みを見て、本当にこんな街が世の中に存在することを思い知った。それまで、ヨーロッパの街並みは地図帳に載っている写真だとか社会の教科書の写真だとかで見た程度で、このような街並みは歴史保存地区にのみ現存し、殆どは現代的な街並みになっていると私は勘違いしていたのである。パリ市内は市内そのものが歴史保存地区のような位置付けなのかも知れないが、私は日本の常識から離れたこれらの街並みを見て、正に別世界を見るような心地だった(別にこれが正しい都市の姿だとは思わない)。それは今、ウィーンの街並みを見ても思うことで、こんな街が存在することを再認識しながら、私はD線の車窓を眺めていた。
やがて、市内の中心に入ってくる。機内で予習したオペラ座やシュテファン寺院が見える。マリアテレジアの像や国会議事堂などを横目に見ながら、市電は淡々と街並みを縫うように走る。中心部から離れて暫く行くと、突き当たりに異形とも思えるミラーガラスに包まれた建物が見えた。これがフランツヨーゼフ駅で、私はここで市電を下車した。かつての皇帝の名を冠したこの駅は市内のターミナルでは最も小さいもので、ごく一部の国際線を除き、殆どが近郊線と北部への国内線が発着する程度の駅である。東京で言うと池袋駅のようなものであるが、駅周辺は池袋の賑わいからは全く程遠い、静かなウィーンの一角である。
ホテルはすぐに見つかった。駅の脇にある古いファサードの建物である。中々重厚な感じだが、日本から予約して7000円だった。
レセプションに入ると、いきなり東洋人の一団が目の端に入った。韓国人で、これから観光に向うようだ。やはり韓国人が多い。韓国人ばかりのロビーで、たった一人の日本人の私がチェックインしている姿は、今まで韓国内以外では見たことの無い光景であった。レセプションに置いてある世界時計は、世界の主要都市の時刻を刻んでいるが、そこに東京はあってもソウルは無いのである。
部屋の鍵を受け取って、比較的重厚な階段を上り、部屋に向った。ところが、いきなり離れのような棟に移動し、極めて殺風景な廊下に出た。私の部屋はその殺風景な廊下に口を開いた一室で、中に入ると何とも無味乾燥な部屋である。ファサードを見てこれで7000円はヨーロッパにしては安いと思ったが、部屋に着くとこれで7000円は高いと逆に思うようになった。やはり、ヨーロッパのホテルは高い。
荷物を置いて、少し休んで、そしてホテルを出た。既に時刻は夕方6時で、殆どの観光スポットもすでに閉まっている。ただ、現在夏時間を敷いているウィーンは昼が長く、日没は午後9時くらいで、完全に暗くなるのは10時前である。
外に出て地図を頼りにブラブラ歩き始めた。ハッキリ言って、何をすればいいのかよく分からない。一体、昔はどうやって初めて来た街を歩いていたのだろうか。フランツヨーゼフ駅は中心から離れているため、観光の目玉となるランドマークは付近には無さそうだ。と言う訳で、まずはドナウ運河に出て、その運河沿いの道を歩く。運河沿いは美しく整備されていて、散歩する人やジョギングする人、日光浴をする人などが大勢いた。私は下流、つまり市内中心の方向に向ってゆっくり歩いた。
ある人道橋を渡って市内にまた入り、当ての無いまま歩き続けた。特に地図を見るわけではなく、何となく風情のある通りなどをとにかく歩く。すると、いきなり目の前に大寺院が姿を現した。
ヴォティーフ教会
と、これはさっきD線から見た寺院だ。ガイドブックを見ると「ヴォティーフ教会」という教会で、前面のツインタワーは高さ99mとある。ガイドブックによると、1853年にフランツヨーゼフが暗殺者の魔の手を逃れたことを神に感謝し、弟のマクシミリアン大公の援助を受けて建立した献納教会とある。完成は1879年。このヴォティーフ教会は市内観光名所の北限と言う感じで、以下、南下すると名所に当たると言う密度であるようだ。
ウィーンの名所はリンクと呼ばれる旧堀の内側に集中している。当たり前で、リンク内はかつての城塞都市ウィーンの城壁内である。このヴォティーフ教会はリンク跡に建てられているが、リンクが埋められて整備されたのは19世紀中ごろ。従ってヴォティーフ教会はリンク埋め立て直後に建てられたという感じか。
教会の前は広場のようになっており、また市電も集中し、地下鉄駅もある。ここからリンク沿いに歩くと、ウィーン大学・市庁舎・国会議事堂と続き、リンク道を隔ててブルク劇場と言う演劇の殿堂がある。現在は改装中でよく見えなかったが、様式はイタリア・ルネサンス様式。19世紀末に改装がなされたらしい。
と、ここで腹が減っていることに気付いた。そう言えば、機内食以来ロクにモノを食べていない。レストランを探すのも面倒くさいので、ブルク劇場の向かいにあるオープンカフェで夕飯にすることにした。
どうせ1人で食べるには何か間違えているに違いないと言う量が出ると思っていた私は、素直に一品だけ注文する。注文したのはウィーン風チキンカツである。しかし、飲み物のところはワインだらけである。私はワインを解さない。店員に「ビールは無いのか?」と問うと、「もちろんある」と返された。どうやら当然過ぎてメニューには載せないような風情だ。これはウィーンのみならず、アルメニアのどこでも、ブタペストでもそうで、ビールがメニューに載っているのを見るのは殆ど無かった。
注文を済ませ、久し振りに南駅で買った地図を見ると、随分歩いた事が分かった。ホテルを出て2時間、ゆっくりとは言え殆ど止まらずに歩き続けたため、どうも5・6キロほど歩いたようだ。そして、今歩いてきたエリアを市内中心に当てはめると、これで市内中心をほぼカバーするほど歩いたことになる事が、地図から分かる。即ち、私は何となく歩いたことによって、ウィーンの距離感を掴んだわけである。明日はほぼ終日ウィーンを見て回る予定であるが、これで明日の観光は歩き主体でウィーンをほぼ見る事が出来ると分かった。途中で色々入ったり休んだりで、今のような2時間でぐるりと一通り見ることは出来ないが、補助的に市電や地下鉄を使えば、恐らくウィーンの概観は明日一日で分かるだろう。ウィーンは日本に帰る直前の最終日も半日ほど時間を残している。従って、日本に帰る頃にはウィーンの全体像を見て帰国できそうだ。
久し振りの旅行で、何だか要領を得ていなかったのが分かってはいたが、何となく勘を取り戻した。多少歩いて地図で確認するだけで距離感を掴むと言うのは、恐らく学生時代にどの街に行ったときもやっていたことだろうが、今は完全にそれを忘れていたようだ。ぎこちなかった初日だが、漸く楽しくなってきた。
ビールが運ばれた。飲むと、かつての思い出が蘇った。それは、「オーストリアのビールって旨いよな」と言うものである。濃くて旨い。日本のビールより好きな味だ。あまりに旨くてもう一杯頼んでしまった。
ウィーンの夏は暑い。しかし、乾燥しているから夕方になると涼しくなってくる。夕涼みと言う言葉がぴったり合うウィーンで、旨いビールを飲みながらのんびりした。