Tabata

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今回の散策の田端も下落合付近と同じく、明治の中頃までは田園風景が見られる農村だったが、明治22年に上野に東京美術学校(東京芸大の前身)が開校されると、若い芸術家たちが住み始めるようになった。特に芥川龍之介が東京帝大生として転居してきて 「羅生門」や「鼻」を発表し一世を風靡すると、芥川を慕い若い文学青年が移り住み、田端はさながら「文士村」の様相を呈するようになったのだが、芥川の死とともに衰退してしまった。現在は谷中がその跡を引き継いでいるように思われるが、田端文士村は関東大震災後 尾崎士郎が馬込に移り住み「馬込文士村」と言われる様になったのと良く似ている。 歴史が浅いせいもあり今回の散策の歴史的スポットは寺が主になり、墓めぐりの様相を呈してしまったが、なるべくそれ以外のものも撮るように努力したつもりではある。尚メンバーの一人が後日もう一度行って撮ってきたカットも含まれている。


日時: 2013年10月23日
交通: JR山手線 田端、 帰り JR山手線 日暮里駅
ルート: 芥川龍之介居住跡~大竜寺~上田端神社~東覚寺~与楽寺~動坂遺跡~養源寺~高林寺~西善寺~海蔵寺
~団子坂~谷中銀座 約6.5キロ

田端駅南口よりスカイツリーを望む
田端駅は自分が東京に45年ほど住んで初めて降りたような気がする(これで山手線のすべての駅に降りたことになる)。特に南口は山の斜面に作られた とても小さな改札口であるが、スカイツリーが見えた。

写真はSさん提供
不動坂
南口改札口を出てすぐにあるこの坂の名前の由来は 昔不動明王が安置され不動の滝があったことによる。
芥川龍之介旧居跡
現在は住宅地となっており、芥川龍之介が住んでいたことを示す痕跡は説明版を残すのみ。ここに住んでいた13年間に「羅生門」「鼻」「河童」「歯車」などの小説や俳句を発表した。近くの田端文士村記念館には芥川の「羅生門」の初版本などが展示されている(月曜休館、入館無料 午前10時~午後5時)。

写真はEさん提供
下駄屋さん
大龍寺に向かう途中見かけた下駄屋さん。 もちろん靴も売っているが、昔懐かしい品揃えであったので一枚。
  上田端神社
大龍寺の横にある上田端神社に寄る。御祭神は応神天皇(八幡神)とある。上田端の鎮守で大龍寺が別当寺である。
  上田端神社の大樹
境内には楠木であろうか年代を感じさせる大樹があった。境内には他に白鬚神社が祭られているが、白鬚神社がもとあった場所には「争いの杉」といわれる大樹があったという。奥州平泉に源義経の討伐に向かった畠山重忠が遠くにその大樹を見て家来と松の木か杉の木か言い争ったという逸話が残っている。
大龍寺(子規寺)

真言宗霊雲寺派の寺。創建は明らかではないが、慶長年間(1596-1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781-1789)になって湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して、大龍寺と改称したと伝えられている。本堂わきの墓地には、俳人・正岡子規、宮廷音楽家・E・H・ハウス、陶芸家・板谷波山、柔道の横山作次郎などの著名人の墓がある。

写真はEさん提供

正岡子規の墓
「静かな寺に葬って欲しい」との子規の意に沿い 根岸の子規庵からも近いこの寺が選ばれたそうだ。そのため別名「子規寺」ともいわれる。

写真はEさん提供
大龍寺境内の蜜柑
この寺には花壇などがあり、自分はもっぱら花の写真などを撮っていた。
大龍寺境内に咲くマリーゴールド?
大龍寺を後に近代陶芸家の先駆者板谷波山の釜があったという場所からポプラ坂を下り東覚寺へ向かう。

写真はSさん提供
東覚寺(赤紙仁王像)
室町時代創建の「赤紙仁王」の寺として知られる真言宗の古刹。

写真はEさん提供
東覚寺本堂
一休の「諸悪莫作 衆善奉行」の扁額の横に戒めの言葉が書かれている。「多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩もまた多し」など。
東覚寺不動堂
両脇に赤い紙がべたべた張られている仁王像がある。戦時中も赤紙が張られていたのだろうか? 自分の病と同じところに赤紙を貼って平癒を祈ると治るという。
左の仁王像
手の形からかろうじて仁王様と分かる。

写真はEさん提供
右手の仁王像
こちらは ほとんど分からない。100円位なら赤紙を貰って張ろうと言うことになったが、社務所の中に入って貰わなければならず料金も不明で 100円じゃ無理だろうということになり諦める。右手の草履は祈願して治ったらお礼に仁王様に草履を奉納したものだそうだが、結構ご利益があるようだ。

写真はTさん提供
田端八幡神社
東覚寺の横には田端村の鎮守 田端八幡神社があり寄る。源頼朝が陸奥の藤原泰衡征討の途中戦勝を祈願して祀ったといわれる。東覚寺は当社の別当である。祭りの神輿を保管する神輿庫がずらっと参道に並んでいた。
東覚寺坂を下り六阿弥陀道沿いにある与楽寺に向かう。

写真はSさん提供
与楽寺
奈良時代の高僧行基が開山した真言宗の古刹で御朱印寺でもある。
与楽寺本堂
本尊は弘法太師の賊除地蔵尊であり秘仏である。昔この寺に夜賊が押入ったが退散したという。翌朝本尊の足が汚れていたので地蔵が追い払ったと信じられ 以来「賊除け地蔵」と称したといわれる。
大樹と墓
僧正という字が読めるので住職の墓であろうか。庭には南北朝時代作の四面石仏の石塔があるというが発見できなかった。
与楽寺阿弥陀堂
江戸名所図会にも記せられているが、与楽寺は江戸六阿弥陀の第四番としても知られている。
不忍通りを横切り、動坂上にある動坂遺跡に向かう。
道坂遺跡
都立駒込病院の横に縄文中期の貝塚や住居跡で、江戸時代は御鷹匠同心組屋敷でもあった道坂遺跡があるので寄ったが、この碑が残っているのみであった。
まだ紅葉していなかったが駒込病院前のイチョウ並木を通り高林寺に向かう。

写真はEさん提供
道坂の道端にあった小さな花(木?)
看板犬のいるカフェ
町の人に可愛がられている老犬がいるカフェがあった。

写真はSさん提供
養源寺
途中高林寺近くの養源寺に寄る。臨済宗の寺で、開基は、春日の局の息子の稲葉正勝である。
宮大工の作った自動販売機?
みんなで水分補給。おみくじでも出てくるかと思いコーヒーを買ったが おつりしか出てこなかった。

写真はEさん提供
稲葉正勝の墓
三大将軍家光の乳母春日局の子稲葉正勝とある。開基当初は湯島にあったが明暦の大火の後当地に移ってきたという。

写真はTさん提供
安井息軒の墓
墓所には江戸時代の漢学者安井息軒や明治時代の啓蒙学者西村茂樹等の墓がある。近くの蓮光寺には江戸後期の探検家である最上徳内の墓がある。

写真はTさん提供
養源寺の主
養源寺のミミズク
養源寺の地蔵尊
高林寺
慶長元年(1596年)開山の曹洞宗の禅刹。 もとは神田山北側の金峰山神杜跡地(現お茶の水坂に面した元町公園辺り)に創建されたが、明暦2年(1657)の大火の後、当地へ移転した。神田山に在った時には、徳川家光が立ち寄り、飲したお茶から、「お茶の水」という地名が付いたという。

写真はSさん提供
高林寺と熱帯情報研究所の関係は?
気になって後でネットで調べると、寺の住職が熱帯雨林の減少に危機感を持ちパルプのリサイクルなどの研究をしているようである。 境内墓域には、緒方洪庵や、アララギの歌人岡麓などの墓がある。
緒方洪庵の墓
洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが学んだ適塾の主催者でもある。
本郷方面に向かう道の途中にある西善寺に向かう。

写真はTさん提供
近藤重蔵の墓
西善寺は浄土宗の古刹で北方探検家近藤重蔵の墓がある。最上徳内らとともに択捉(えとろふ)に渡たったが、そこでロシアが立てた十字架を倒し、「大日本恵土呂府」の標柱を立てたのは有名な話。 しかし その蛮勇の通り のち諸奉行を務めたが身分不相応の行いがあり役を解かれ、長男の殺傷事件などにより改易され晩年は不遇であったという。

写真はTさん提供
浄心寺
江戸札所10番の浄土宗の寺。もとは湯島にあったが養源寺と同じく明暦の大火後当地に移ってきた。大きな布袋尊が門前にある。
団子坂に向かう途中にある海蔵寺に寄る。
海蔵寺
曹洞宗の禅刹。浅草寺の「縁結びの久米平内堂」で知られる久米平内とお里の墓があるという。江戸名所図会に久米平内が海蔵寺の檀家である旨記されているが、首切り役人の平内がなぜ縁結びなのかについては諸説あるようである。

写真はTさん提供
海蔵寺の庫裡
重厚な建物であるので一枚。
身禄業者の墓
身禄業者(1670〜1733)は富士講中興の祖で、富士信仰の布教につとめた。入定(断食による宗教的自殺)した富士七合五勺の烏帽子岩の石室の中の遺骨の一部を菩提寺のここにおさめ、富士山をかたどった溶岩の上に墓碑を建てたという。

写真はTさん提供
団子坂よりスカイツリーを望む
団子のように転げ落ちるような急な坂かと思ったら、そうでもない。 江戸時代坂の途中に名物の団子屋があったのが坂の名の起こりとか。小説の中で良く取り上げられた坂でもある。二葉亭四迷の「浮雲」、夏目漱石の「三四郎」などなど。

写真はSさん提供
谷中銀座
谷中方面に向かい日暮里から帰ることにする。平日の夕方は地元の人達が夕食の支度がてらお店の人と談笑しているのが見られる庶民的な銀座でもある。

フレスコ画処理
夕焼けだんだん
なるほど良い地名を付けたものである。命名は『谷中・根津・千駄木』の編集者で「谷根千」として同地を有名にした森まゆみ。
夕焼けだんだん上のお店でお茶をして日暮里駅より帰る。

写真はSさん提供
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