Itabashi

戻る 

今回の散策は前回 新撰組縁の地である高幡不動を訪れたので近藤勇の墓がある板橋宿を選んだ、というよりは暑い日が続くので距離が短いところを探したら板橋宿だったと言った方が近いかもしれない。実際 この江戸散歩の当日もかなりの暑さで板橋宿を選んだのは正解だった。板橋宿は中山道六十九宿の第一の宿場で、日本橋から二里半、江戸四宿の一つである(他は品川、千住、内藤新宿)。参勤交代でこの宿場を通る大名は中山道を使う加賀の前田家を始め30家ほどあったが、中山道最大の行列と言われる皇女和宮が江戸に下った時も板橋宿を通った。しかし当時の宿場町の面影を残すようなものはほとんどなく 説明の立て札ばかりでちょっと残念であった。という訳で写真的にはこれといって見るべきものがなかったが、こども動物園でフラミンゴなど見て暑い道中で一息付くことが出来たのは良かった。


日時: 2013年7月11日
交通: JR 埼京線 板橋駅、 帰り 地下鉄三田線 板橋本町駅
ルート: 近藤勇墓~東光寺~観明寺~脇本陣跡~遍照寺~こども動物園~板橋本陣跡~文珠院~板橋~縁切榎~
智清院~日曜寺 約4.5キロ

板橋駅を降りると 東口駅前の広場にある水場で子供たちが水浴びをしていた。午前中だがすでに30度以上あり、先が思いやられる。
近藤勇の墓
駅の前方に近藤勇の墓所がある。ここは近藤勇の菩提寺 寿徳寺の境外墓地である。多分 板橋駅東口を使う人は否応なしにこの立て看板が目に入るはずだ。

写真はEさん提供
近藤勇・土方歳三の墓碑
墓碑には副長土方歳三の名も刻まれている。近藤勇宣昌と記されているが本名は昌宣である。
平日だというのに若い女性や男性がお参りに来ていた。新撰組はここでも人気があるようだ。
近藤勇埋葬当時の墓石
近藤勇は鳥羽伏見の戦いに破れ江戸に戻るが 官軍に投降し江戸の三大処刑場(他は鈴が森刑場、小塚原刑場であるが、板橋刑場の代りに大和田刑場とする説もある)であった板橋刑場で斬首され、首は京都の三条河原に曝された。そのためこの墓地には胴体だけ埋葬されていると言う。慶応四年四月ときに近藤勇三十五歳であった。

写真はEさん提供
墓石の影に密かに咲く白ユリ
近藤勇像と紫陽花
高幡不動で見た土方歳三の像に比べると随分背が低いように見えるが 当時はこのくらいが普通だったのだろうか。
旧中山道
この辺りは板橋平尾宿と呼ばれ旧中山道がこの先で国道17号線(現在は国道17号線が中山道と呼ばれている)と交わる辺りからが いわゆる板橋仲宿であるという。
板橋宿
国道17号線と中央環状線の高架下を横切ると 旧中山道はウサギが腰掛けるアーチを潜るとこれより板橋仲宿に入る。
東光寺に向かう途中見かけた銭湯の煙突とビル工事現場のクレーン。
  東光寺の六道利生地蔵
東光寺は室町時代創建の浄土宗の古刹。
平尾追分地蔵とも言い道中の安全を祈願して建立されたもの。当初は平尾追分(現板橋三丁目辺り)にあったものが明治になり東光寺に移されたという。
東光寺にある宇喜多秀家の供養碑
秀家は豊臣家の五大老で備前岡山城主だったが 関が原の合戦で破れ一族と供に伊豆大島へ流され その地で没したが、幕府が倒れると一族子孫七十一人は旧加賀藩前田家に引き取られ 秀家の墓もここに移されたと言う。この辺りは前田家の下屋敷があり加賀や金沢など前田家縁の名称の地名が多い。
庚申塔と大樹
青面金剛像を刻んだ庚申塔。庚申塔としては全国的にも勝れた造りという。
観明寺に向かう。
  観明寺
室町時代創建と伝わる真言宗の古刹。この赤門は前田家下屋敷から移されたものと言う。

写真はTさん提供
観明寺の庚申塔
この庚申塔もかなり重要なものらしく、普段は木の囲いで覆われているが 鍵が開いていたので見ることが出来た。江戸の庚申塔では最古のものとされる。

写真はTさん提供
豊川出世稲荷
観明寺内には加賀屋敷稲荷とも言われる豊川出世稲荷が前田家下屋敷から移されている。

近くにあったという平尾宿脇本陣に向かう。
平尾宿脇本陣跡
残念ながら現在はマンションになっており、脇本陣跡を示す石碑と説明版があるのみである。平尾宿脇本陣は平尾宿の名主豊田家が代々勤めてきたが、近藤勇は処刑されるまでここに軟禁されていたという。本陣が大名や公家が泊まるところに対して脇本陣は武家が泊まる所として区別されていた。
遍照寺前の石塔
文珠院に向かう途中遍照寺に立ち寄るが、寺は荒廃して立ち入ることが出来なかったので、寺の前の石塔を写す。かって境内には宿場の馬つなぎ場がおかれており馬頭観音があったというが、これがそうであろうか?
こども動物園
途中暑さが厳しいので東板橋公園と併設され緑が多いこども動物園で一休み。

写真はTさん提供
フラミンゴ
園内にはフラミンゴが2羽飼われていた。一本足で格好良く立っているのだが、足は微妙に揺れていた。
子供のヤギ
この動物公園では以前は水族館もあったそうだ。

一息付いたので散策を続け文珠院に向かう。
(投込寺)文珠院
江戸初期創建の真言宗の古刹。正住職を置かず赴任する仮住職も短期間で他の大寺に転住したので「出世寺」とも呼ばれた。又板橋遊女の無縁供養等があり「投込寺」ともいわれる。 山門脇にあるのは延命地蔵堂。

写真はTさん提供
文珠院本堂
境内には二大閻魔を祀る閻魔堂もある。

写真はEさん提供
子の権現(ねのごんげん)と小槌
子の権現の縁起によれば、「平安初期の人で霊夢を感じ秩父山に登り御修行中、蛮人のため火難に遭い、腰より下に大火傷を負い、長い年月不自由したが、神仏の加護を得て遂に全快した。遺言に”我が霊、この後は、腰より下の病に悩む者を廣く救済せん”とあり。 後の人、その徳を仰ぎ、足腰の守り神として子(ね)の山に祀り、権現様と尊称し、腰より下の病の平癒を願う者、小槌をいただき、病の箇所を静に叩き成就の後、小槌の数を倍にして奉納し、恩に報いるを習慣とした」とある。
文珠院の小鐘楼
この鐘は小さいが打つととても良い音が聞こえる。

写真はEさん提供
文珠院の青いポンプと黄色い花

旧中仙道に出て少し戻り板橋本陣跡に寄る。
板橋本陣跡
ビルの横に碑と説明版があるのみ。
板橋本陣を務めた名主飯田家があった所。当時板橋宿には脇本陣3軒、旅籠は54軒あったと言う。
このちょうど向かいに高野長英の弟子の医師木村玄洞宅跡がある。長英が伝馬町牢屋敷の火災で脱獄した時一時かくまっていた。現在は別な名前の医院があるが親族であろうか?
板橋
当時は仲宿と上宿の境を流れる石神井川に板で出来た橋が架かっていた。当時は丸太の橋が一般的で板の橋は珍しかったようだ。そのため「板橋」と言う地名になったと「江戸名所図会」に記されているが、それより前の「義経記」には当地に板橋又太郎という領主がいたとも記されており 地名の由来とも考えられる。

写真はSさん提供
板橋
橋の袂の説明版によれば、橋は当時は太鼓橋であったと言う。又この橋より川を渡り京寄り(左手)を上宿と言い、江戸寄りを仲宿、平尾宿と言って三宿を総称して板橋宿と呼んだと言う。

川向こうの縁切榎に向かう。
只今取組中
営業中の代りに取組中の看板を出している力士料理店。

写真はTさん提供
縁切榎
江戸中期の頃から この木の下を嫁入り行列が通ると必ず不縁になるという流言が広がり、そこからこの霊木にまつわる縁切信仰が生まれたと言う。皇女和宮が徳川家に降嫁した際もこの榎の側を通らないよう迂回したという話しが伝わっている。
一般には病気や貧乏と縁を切りたいというようなことを願うのかと思って、沢山掛かっているお札を見ると、いやな上司が海外に転勤されることを願っていたり、不倫相手と別れることが出来るようにとか かなり具体的で身に詰まされるようなものが多かった。

写真はSさん提供
智清院
日曜寺に行く途中にあった智清院に寄る。室町時代創建の浄土宗の御朱印寺。板橋宿名主の板橋家の墓があるという。
木下藤吉郎出世稲荷大明神
境内の横に木下藤吉郎出世稲荷大明神というお稲荷さんがあったが いわれは不明。
出世稲荷の参拝鈴、瓢箪ではない。
日曜寺
江戸中期の真言宗の寺。愛染明王を祀るので 愛染に語呂が似ているので板橋の「愛染さま」と染物職人に信仰されたと言う。
山門の扁額
この扁額は奥州白川藩主松平定信の自筆によるものであり当寺で戦火を免れた唯一のものである。

写真はTさん提供

板橋本町駅側のレストランで汗で濡れたTシャツを取り替え、遅い昼食とお茶をする。
戻る



Tweet