From Mita to Roppongi

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今回は主に幕末の動乱期に歴史上の舞台になった地の散策であったが、都内でも有数の開発が進んでいる所でもあり歴史的な痕跡を見出すのはなかなか難しかった。 朝方まで雨模様で出発を1時間程遅らせたのだが、散策するころには雨も上がり桜もちらほら咲きかけていた。 桜を見つけては写していたので あまり歴史散策とはいえないかもしれないが、慶応義塾の構内を散策したり、国立新美術館では水墨画を鑑賞したりちょっと文化的な香りのする散策でもあった。


日時: 2013年3月14日
交通: JR山手線 田町駅、 帰り 地下鉄日比谷線 六本木駅
ルート: 西郷・勝会見の地~鹿嶋神社~薩摩藩邸屋敷跡~慶応大学・三田演説館~イタリア大使館~三井倶楽部~
ヒュースケン遭難の地~ねずみ坂・植木坂~スペイン村~国立新美術館~東京ミッドタウン 約7キロ

Reflections1 江戸開城西郷・勝会見の地の碑
幕末官軍による江戸総攻撃が行われる前日の慶応4年3月14日西郷隆盛と勝海舟がここ薩摩藩屋敷で最後の会談を持ち江戸庶民を戦火から救うため江戸城の無血開城と将軍慶喜の水戸謹慎を取り決めた。
隣は三菱自動車の本社で玄関上のステンレスの壁に三菱車が映っているのが面白い。
鹿嶋神社と青空を映すビル
西郷・勝会見の地のすぐ近くにある鹿嶋神社の手前のこの辺りは海が入り込んだ船溜があったところで、大正のころまでは小魚が陸揚げされ雑魚場と呼ばれていたという。
  赤穂浪士切腹の地
慶応仲通りの商店街の入り口近くには水野監物の屋敷跡があり、元禄16年 間(はざま)十次郎以下9名の赤穂浪士がこの屋敷で切腹した。周りは飲食街であるがその隅で説明版と灯篭がその面影を伝えている。説明版によれば水野家は細川家とともに赤穂浪士の取り扱いが丁寧で一般大衆の評判がよく「細川(細川家)の水(水野家)の流れは清けれど、ただ大海(毛利家)の沖(松平家)ぞ濁れる」という落首がその状況を伝えている。

写真はEさん提供
NEC本社ビル
薩摩屋敷跡に向かう。 このビルが建ったころは変わった建物だと思っていたが、どうやら広大な薩摩屋敷跡に建てられていたようだ。
薩摩屋敷跡
NECビルの横には薩摩屋敷跡の碑があった。道を挟んだ反対側には薩摩藩島津上屋敷跡あり、幕府挑発のため、浪人らを集め江戸市内の攪乱をを計ったが、逆に幕府により島津上屋敷は焼き討ちされてしまった。多くは討ち死にしたが首謀者藩士益満休之助は捕らえられ斬罪になるところを勝海舟により救われたという。最近まで「薩摩屋敷焼討事件無縁供養塔」が建てられていたが、今は鎌倉の妙法寺に移されているという。
桜田通の東京タワー
桜田通を横切り慶応大学三田校舎に向かうと東京タワーが桜田通の正面にほぼ全容を現していた。
春日神社
大学の横には都内では珍しい春日神社があった。階段両脇の桜は見事だそうだがまだ咲いていなかった。
Reflections 2
春日神社の向かいにはステンレス製の階段の踊り場が周りの建物を映していた。
慶大東門
桜田通に面した入り口の階段を上ると図書館旧館である。
図書館旧館
日本人の手によって作られたゴシック建築で重要文化財に指定されている。

写真はTさん提供
図書館入り口
慶応出身のメンバーの話によれば、入り口先に見えるステンドグラスには慶応のシンボル「ペンマーク」の基になったという言葉がラテン語で「ペンは剣よりも強し」と書かれていると言うが よく見えない、ラテン語なので解読不能ではあるが。
ガッツポーズの彫像と図書館の時計盤
時計盤文字にはラテン語で「TEMPUS FUGIT」(時は過ぎ行く)が組み込まれているそうだ。
構内で唯一咲いていた桜

写真はEさん提供
三田演説館
明治8年に開館した日本最初の演説会場で福沢諭吉が創設したものである。

写真はEさん提供
三田演説館の窓に枯れ葉一枚
壁はなまこ壁で、中には入れないが窓から覗くと教会の内部のような造りになっているようだ。
綱坂を上りイタリア大使館方面に向かう。
綱坂下の津国屋酒店
相当昔からある酒屋のようであるが、現在は居酒屋もやっているようで酒場放浪記で吉田類も訪れたとか。

写真はTさん提供
綱(つな)坂
右手方面にはイタリア大使館、左手方面には三井倶楽部がある。羅生門の鬼退治で有名な渡辺綱が生まれた地であることから付けられた坂の名前と言う。

写真はTさん提供
イタリア大使館正門

門は硬く閉じられていたが、門を撮ろうとすると中で掃除をしていた使用人の人が撮りやすくするように除けてくれた。イタリア大使館はもと伊予松山藩松平家の中屋敷で、赤穂浪士の大石主税、堀部安兵衛ら10名が切腹した所でもある。一度テレビで見たことがあるが大使館内には大きな池を配した美しい日本庭園がある。

写真はTさん提供
三井倶楽部
大正2年旧三井財閥三井家の迎賓館として建てられた。ネオ・バロック風の建築で広大な和風庭園をもつ。庭園内入り口近くには「綱の産湯の井戸」があるが、一般には公開されていないようである。
天祖神社
神明坂を芝方面に下ると右手に天祖神社がひっそりと建っていた と思ったのだが、坂を下りた神社の裏側には大きな近代建築の社務所があり、結構大きな神社のようだ。

写真はSさん提供
神明坂より東京タワーを望む
神明坂を降りるとここも東京タワーのほぼ全容が見える。この先の古川をに架かる中之橋に向かう。

写真はSさん提供
ヒュースケン遭難の地の碑
日本最初のアメリカ公使館通訳のヒュースケンはこの中之橋で開国反対派に襲われ重症を負い麻布の善福寺に運ばれたが、惜しまれながら翌朝絶命したという。
橋もかなり古いが上の首都高も相当老朽化しており地震の時はこの辺りにはいたくないと皆で話した。
中之橋下の古川
当時は赤羽川とも言われ渋谷川に続いている。 相当汚れているが、渋谷の再開発でこの辺りも整備されると言う。
中之橋を渡り麻布方面に向かい昼食を取る。
狸穴稲荷大明神
鼠坂方面に行く途中に狸穴(まみあな)公園に寄る。
鼠坂
細長く狭い道を江戸では鼠坂と呼ぶふうがあった。 一名いたち坂で上は植木坂に連なる。
鼠坂の上で見かけた桜
赤みが強いので河津桜の類であろうか?
乱立するクレーン
鼠坂を植木坂方面に向かうとそこは大規模開発地区で大きなマンションが2棟建設中であった。2年後にはこの辺りは様変わりするであろう。
東京タワーを見下ろすクレーン

写真はTさん提供
植木坂
この辺りに植木屋があり菊人形を始めたと言う。又この辺りは島崎藤村が「夜明け前」を書いた頃過ごした所というが痕跡は発見できなかった。
ベンツの上の今日の人気モデル
この猫はベンツの上をねぐらにしているようだが、車の持ち主も容認しているようである。

写真はEさん提供
スペイン村(和朗フラット)
飯倉片町方面に向かう途中スペイン村と呼ばれるスペイン風の建物がある一角に寄る。有名人(兼高かおる等)も住んでいたことがある賃貸住宅で、4棟あったが現在は1棟取り壊され3棟が残っている。
スペイン村(和朗フラット)
一般の人が住んでいるようだが、我々がウロウロしていても写真を撮られるのには慣れているようで逆に挨拶された。
スペイン村(和朗フラット)

空き部屋があれば誰でも借りれるようで、ちなみに現在洋室(12畳)キッチン(1畳)で賃料13万円の案内がネットにでていた。この辺りで借りるにしては随分安いが老朽化しているためであろうか。

写真はSさん提供

首都高速を越えて六本木方面に向かうと桜(河津桜?)が満開の所があったので皆で写す。

ピンクの花弁をクローズアップ

このマンションの住人は部屋からお花見が出来そうだ。

写真はEさん提供


写真はSさん提供
六本木の裏通り
新国立美術館方面に向かうとフォトジェニックな光景に出くわしたので一枚。 この先にEX(エックス)というカッセラーが美味しいドイツビヤレストランがあったが店が閉じられたようでちょっと残念。
新国立美術館より太陽の陽を反射する高層ビルを望む

写真はEさん提供
新国立美術館のラウンジ
書道と水墨画の展示会が行われていたので水墨画を鑑賞した後、ここでお茶をする。
新国立美術館
この建物は建築家黒川紀章の設計になるもので前面ガラス張りでウエーブしたフォルムは独特であり、黒川紀章設計の最後の美術館でもある。

写真はSさん提供
新国立美術館
散策のスタートが遅かったのでそろそろ日が翳ってきたのでここで解散。今日はホワイトデーである、自分だけバレンタインデーの義理チョコのお返しを買うため、有名なスィーツの店が多くあるというミッドタウンに寄ることにする。
ミッドタウン
どのスィーツ店も長蛇の列でようやくある店のレジまでたどり着いたら何気なく持ってきたチョコがえらく高価で取り替える訳にもいかず えらく高くついた義理チョコのお返しでした。
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