From Hirai Syouten through Kameido Tenjin to Houonji

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今回の江戸散歩はそろそろ梅の咲く時期だったので、梅と藤で有名な亀戸天神を訪れるコースにしてみた。しかし今年(2013年)は寒さが厳しいせいか亀戸天神の梅はほとんど咲いておらず、さらに天気が悪く午後からは雪になると言う予報の寒い一日であった。それでも平井聖天のある燈明寺では金堂内を案内してもらったり、訪れるスポットからは必ずスカイツリーを望むことが出来、幸い天候も散策が終わるまでは何とかもってくれたので良かった。今回の散策で東京の下町と言われる所は行き尽くしたと思うが、個人的には今まで行った所をもう一度歩いてみたいと思った。
と言う訳で 2016年2月また同じルートを仲間と散策してみた。今回は午前中はめったにないような晴天だったが、天気予報通り午後から突然曇り出し肌寒い天気となり、3年前と似たような天気になってしまった。幸い雨にはならなかったが、前回は時季が早すぎて亀戸天神の梅が撮れなかったので 期待していたのだが、今回もやや時期が早すぎたようであった。今回のルートでは、以前訪れた普門院や法恩寺などは端折り東京スカイツリーを終着点とした。
尚 2016年の散策で付け加えた項目と 一部写真を入れ替えているものに付いては日時を入れてある。


日時: 2013年2月12日、2016年2月17日
交通: JR総武線 平井駅、 帰り JR総武線 錦糸町駅
ルート: 平井聖天(燈明寺)~吾嬬神社~香取神社~普門院~亀戸天神~竜眼寺(萩寺)~法性寺・柳島妙見堂~
能勢妙見堂~法恩寺 約6.5キロ

燈明寺山門とスカイツリー
平安時代の創建と伝えられる新義真言宗に属し明雅山明王院と称される古刹。江戸時代には将軍家の鷹狩りおりの御善処となった格式ある寺である。
平井聖天堂とスカイツリー
燈明寺山門の先の正面に見えるのが燈明寺別堂で、平井聖天と言われ浅草の待乳山聖天、埼玉の妻沼聖天とともに関東三聖天の一つとして知られている。

写真はSさん提供
燈明寺は南葛八十八ヶ所霊場の51番と65番札所でもある。今はないが この奥の方には当寺をしばしば訪れたと言う歌人伊藤左千夫が設計したという茶室があったそうだ。
(2016,2,17)
南葛八十八ヶ所霊場の65番札所像
 メンバーとこの像の手の構えはおかしいと言う話になったが 不自然ではあるが可能であると言う結論になった、お試しあれ。
境内に白い梅の木があったので一枚。 境内にはこの他牡丹の花などが栽培されており4月20日頃が見頃になると言う。
(2016,2,17)
赤い帽子をかぶった稚児を抱く珍しい地蔵様
サンショウの木の鉢植え
「庭のサンショウの木」と言う歌では聞いたことがあるが 実物のサンショウの木は初めて見たような気がする。
普段は中に入れないようだが 寺の方に燈明寺金堂の中を案内してもらうことが出来た。金堂は関東大震災で倒壊したため当時の燈道大僧正の発案で昭和4年に起工し昭和49年に実に45年の歳月をかけて完成したもので 外部は宇治平等院や京都東寺金堂の様式を取り入れた格調高いものである。金堂の柱は石の台座に置かれただけのものだが3.11の地震の時も問題なかったそうだ。灯りを点けてもらった天井のシャンデリアは明治時代の鹿鳴館で使用されたものと言う。
真下から見上げた鹿鳴館のシャンデリア(鹿鳴館は当時 今の日比谷公園の辺りにあったらしい)。
真っ赤な実のなっている盆栽。 この寺にはサンショウの木など珍しい鉢植えや牡丹など植栽に力を入れているようだ。
  その他の植栽
(2016,2,17)
  石の台座に置かれている 金堂の柱より平井聖天を望む。

写真はSさん提供
  ちょうど付属幼稚園の卒園式があったのか ちびっ子たちが平井聖天の階段で写真撮影をしていた。
(2016,2,17)
平井聖天堂より燈明寺金堂を望む
この金堂の下はコンクリート製の建物があるがこの金堂を持ち上げて その上に置くのは大変な作業工程であったあったそうだ。
下の建物の上に移築したという、燈明寺の三つ屋根造りで軒ぞりの優雅な佇まいの金堂。
(2016,2,17)
  梅と園児
ここでも記念撮影。
(2016,2,17)
燈明寺横にある諏訪神社
燈明寺恵祐法印が出身地の諏訪大社から勧請したものと言う。境内には大正9年旧下平井村の丸星講の人たちによって造られた平井の富士塚がある。
諏訪神社の狛犬より平井聖天を望む。

諏訪神社を後に旧中川を渡り立花通りから吾嬬神社方面に向かう。
  平井橋前の真っ赤な建物。
(2016,2,17)
旧中川に架かる平井橋を渡るとスカイツリーが大きく見え始めた。
旧中川に映るビルと赤いボート
明治通りが北十間川に架かる福神橋からのスカイツリーは川にスカイツリーが映し込まれる撮影ポイントで有名らしいが、この日は少々風があり水面には綺麗に映り込まなかった。
吾嬬(あづま)神社
日本武尊が東征の折、暴風雨になったため弟橘媛命が海神の怒りを鎮めるために自ら海中に身を投じて、海上が穏やかになり船は無事を得たと言う。後、橘媛の御召物がこの吾嬬地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが社の始まりだと言われている。
(2016,2,17)
連理の樟(くすのき)の神木
この朽ちた枝の上の方は二股になっていたのであろうか?
連理の楠には以下のような伝承がある。日本武尊が弟橘媛の霊を鎮めた後食事をとり 使っていた箸を刺しておいたところ やがてこれが枝を伸ばし絡み合い一つの根から二つの幹をもつ楠(連理の楠)が生い茂ったと言う。
広重は「吾嬬の森連理の梓」(楠の間違いであろう)と言う題で十間川沿いにある吾嬬の森の一際高い二股の大樹(連理の楠)を描いている。

写真はEさん提供

福神橋を渡り次の目的地香取神社に向かう。
亀戸香取神社
香取神社の社伝によれば、天智天皇4年(665)藤原鎌足が東国へ降った際、この地に香取大神を勧請し、太刀一振りを奉納して旅の安全を祈願した。これが当社の起源であるという。武運・軍神の神として崇拝され現在ではスポーツ振興の神として崇敬を集めている。
亀戸大根の碑
亀戸大根は江戸時代末期の)頃にこの付近で栽培が広がったという。大きさはニンジンより少し大きいぐらいで、「おかめ大根」とか「お多福大根」などと呼ばれ普通の大根の時季でない早春に収穫されるため江戸っ子から大いに重宝されたと言う。
ちょうど大根足と言うよりは亀戸大根のようなスマートな足の女性が手水をしていた。

写真はTさん提供
  香取神社の門前町で売っていた亀戸大根。普通の大根に比べ小ぶりで辛いのだが、浅漬けとして食べるとおいしいそうだ。現在は主に千葉の松戸で収穫されているそうだ。
(2016,2,17)
亀戸香取神社は亀戸七福神の恵比寿神と大国神を祭る。
御利益にあやかろうという人が多いのか洗い清められピカピカである。 我々も置いてあった柄杓とたわしで洗い清め祈願した。
(2016,2,17)
社殿前の紅梅

香取神社を後に近くにある伊藤左千夫の墓があるという普門院に向かう。
普門院門前の人見知りするネコ
室町期に隅田川畔の石浜城跡に建立されたという真言宗の古刹。江戸時代にこの地に移ったが その時隅田川を船で運んでいた寺の梵鐘を淵に沈めてしまったのが「鐘ヶ淵」の名の由来であるといわれている。
  不思議な墓標
山門前にある伊藤左千夫の碑だが一文字が欠けている(右から 正岡子規の正、小説の小、大正の大)。削られた形跡がないので最初から意図的に除かれたと思うのだが理由は不明。 尚実際の伊藤左千夫の墓は墓所にあった。
普門院とスカイツリー
寺は理由は分からないがかなり荒れており、亀戸七福神の毘沙門天を祀っているが、毘沙門天がどこにあるか分からないのか七福神めぐりで来た人が銀杏の実を拾っていた。江戸名所図会にも記載されている格式ある寺で、名所図会によれば大樹(徳川秀忠)が鷹狩りの折腰掛けた御腰懸の松が本堂前にあるというがそれも確認できなかった。

写真はSさん提供
  伊藤左千夫の墓
ようやく発見したが周りはかなり荒廃している。尾長鳥が飛び回りジャングルにでも入ったような気になる。 亀戸七福神巡りの人たちが左千夫の墓を探していたので教えてあげる。

写真はTさん提供

普門院を後に近くにある亀戸天神に向かう。
亀戸天神の大鳥居と紅梅
鳥居脇には紅梅が咲いていたのでかなり期待して入ったのだが...

亀戸の由来は その昔、亀戸は亀の形をした小さな島で、亀島とか亀津島と呼ばれていたという。この付近には向島(寺島)や大島、柳島など島にちなんだ名前が多いことから昔は海に浮かぶ島々であったことが伺える。それが後陸続きになって亀村となり梅屋敷にあった亀ヶ井という井戸と混同され亀戸になったと言われている。
亀戸神社本殿とスカイツリー
社の縁起によれば 江戸の鬼門厄除けの鎮守として菅原道真公を祀る太宰府天満宮を勧請した古社で、東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されていた。明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和11年に現在の亀戸天神社と正称したと言う。
(2016,2,17)
   九州太宰府天満宮の神官であった菅原大鳥居信祐公(道真の末裔・亀戸天神社初代別当)が神のお告げにより、道真公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため諸国を巡り歩き 最後に江戸の本所亀戸村にたどり着き、村に元々あったした天神 の小さなほこらにご神像をお祀りしたのが起源と言われている。尚 道真公は牛との御縁が深く、神牛が奉納されている。
(2016,2,17)
菅原道真公を祀るので合格祈願であろうか。
(2016,2,17)
  亀戸天神なので手水所の蛇口も竜ではなく亀のようだ。
(2016,2,17)
  本殿にあった紅白の梅盆栽
近くの紅梅殿には菅原道真公が京都から左遷され九州大宰府へ渡った時、日ごろ可愛がっていた梅が管公を慕って京都から飛んできたと伝えられる飛梅(とびうめ)を祀っている。

写真はTさん提供
太鼓橋(女橋)より本殿を望む
亀戸天神全景
社殿や心字池・太鼓橋など太宰天満宮に倣い造営されている。梅も有名だが5月頃の咲き誇る藤の花で有名で、藤棚の骨組みが園内に所狭しと建てられている。
太鼓橋(男橋)とスカイツリー
昨年は亀戸天神御鎮座三百五十年大祭であったようだ。
梅祭りは2月4日から1ヶ月間と言う事になっていたが 藤が咲いていない藤棚があちこちにあり撮影的にはあまり良い環境ではなかった。(2016,2,17)
広重は藤の枝垂れを前景に太鼓橋を描いている。その絵に影響を受けて印象派の画家クロード・モネが自分の庭に日本庭園を造りこの太鼓橋を真似て架けたのは有名で代表作「睡蓮」にも描かれている。
尚広重の初版では太鼓橋の下が水面と同じブルーになっているがブルーのインパクトがあって面白いが手違いであろうと言われている。
(2016,2,17)
  クローズアップ
(2016,2,17)
亀戸天神境内にわずかに咲く梅とスカイツリー
広重は江戸百景で「亀戸梅屋敷」と言う題で大胆に臥龍梅の幹を前面に持ってきた構図で梅屋敷(この近くだが現在はない)の庭内を描いているが、ゴッホが油彩で模写したことでも有名である。
亀戸天神鳥居前の梅の木に別れを告げ、参道横の店で昼食を取り、船橋屋本店で葛餅入りみつ豆をお土産に買って竜眼寺(萩寺)に向かう。
竜眼寺の石灯篭と高層マンションとスカイツリー
竜眼寺は室町初期創建の天台宗の古刹。柳源寺と号していたが 寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、竜眼寺と改名したという。江戸元禄時代には秋の七草萩の名所となり、萩寺とも呼ばれるようになり多くの文人墨客が訪れ境内には句碑や歌碑が多くあり、江戸名所図会にも萩を愛でる人々が描かれている。
  竜眼寺の庚申塔と河津桜
庚申信仰により健康と長寿を願ったもので、1659年頃のかなり古いものといわれている。
(2016,2,17)
  境内の池の鯉が寒さのせいか寄り添っている。
池の傍の紅梅一輪

柳島橋方面にある柳島妙見堂に向かう。
スカイツリーと街灯
浅草通に入るとスカイツリーがかなり大きく見えるようになってきた。
(2016,2,17)
柳島妙見堂にあった柳塚
柳島妙見堂は法性寺内にあり、北辰信仰に基づく神秘宗教を奉じる。葛飾北斎も熱心に信仰しており北辰信仰の北をとり「北斎」を号としたと言う。境内には他に江戸の歌舞伎狂言作者近松門左衛門の供養碑などがある。
広重は江戸百景で北十間川と横十間川が交わる辺りにあった柳島妙見堂を俯瞰した構図で「柳しま」と言う題で描いている。
浅草通りを業平方面に向かうと十間橋があったのでまたスカイツリーが川に映り込んだのを撮れるかと思って寄る。 しかし近すぎて超広角レンズでもなければ撮れそうもなかったのでスカイツリーと撮っている女性を写す。
浅草通沿いに春慶寺のビルがあり「四谷怪談」で有名な歌舞伎作家鶴屋南北の墓などがビルの前に置かれていた。墓の前には市川団十郎など歌舞伎界の重鎮の名が記された奉納石が置かれている。またこの寺は鬼平犯科帳では押上げの春慶寺として度々登場する寺のようだ。
業平橋付近ではさすがにスカイツリーは首を精一杯上げないと天辺まで見えない。確かにあんな高い所から雪の塊が落ちてきたら危なさそうだ。

写真はEさん提供
或るお店の前にスカイツリーを写す大きな鏡が置いてあったので自分とスカイツリーを写してみる。本来はカップルが自分たちのツーショットを撮れるように置いてあるのだろう。
   スカイツリーはまだ上ったことがないが、真下にあるカフェでお茶をする。
(2016,2,17)
業平一丁目交差点を左折して能勢妙見堂方面に向かうと小梅銭座跡の説明版があった。当時この辺りは金座、銀座に対して寛永通宝などの銅貨などを造る銭座があった所だ。 現在この辺りは税務署とJTの敷地になっているようだ。
横川親水公園の紅葉橋を渡ると能勢妙見堂がある。旗本能勢頼直が攝津能勢の妙見菩薩を自邸に祀ったものと言う。最近自由が丘の立源寺で行われた寒明け水行の撮影に行ったが ここでも3日後の2月15日に「水行国禱会」が行われるようで その準備で水桶が用意されていた。それにしても境内が狭い所なので檀家の人たちや見物人は水浸しになるのではないだろうか?
境内に勝海舟の碑を発見。 洗足池の勝海舟の墓の説明にある写真と比べるとかなり若い時のもののようだ。碑文によれば多分海舟が犬に咬まれて瀕死の重症を負った時 親が妙見様に水垢離し祈って全快したと言う逸話を基にして建立したのではないかと思われる。尚勝海舟像は隅田川沿いの墨田区役所前にもあり、この辺りに縁が深いのが伺える(幼少のころは墨田区の本所で過ごす)。
  見事な蔦が壁を這うビルの前の紅葉橋を渡る銀輪隊。

大田道灌の墓がある最後のポイント法恩寺に向かう。
法恩寺とスカイツリー
室町期大田道灌が江戸城築城のおり平河濠の辺りに創建した日蓮宗の古刹、
元禄2年この地に移って来た。墓所には大田道灌の墓と伝えられる五輪塔がある。
大田道灌公記念碑とスカイツリー
この碑に描かれている絵は道灌が鷹狩で面影橋辺りに来た時 雨に会い農家の娘に蓑を借りようとしたところ 娘が山吹の枝を差し出した と言う故事がある「山吹の里」を基にしたもので、この江戸散歩でも「お岩の墓・雑司が谷霊園・鬼子母神」コースに故事の内容を記してある。
錦糸町のスタバでちょっとお茶をして雪にならない前に帰路に着くことにする。

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