From Nishi Arai Taishi to Shirahata ancient tomb

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今回の江戸散歩は、まだお正月の気分が抜けない頃なので西新井大師の初詣を兼ねるルートにしたため前回に引き続き足立区内の散策となった。我々が住む大田区とは都内では一番遠い所ではないかと思うが東京を縦断して随分移動に時間がかかったが、めったに乗ることがない東武大師線などにも乗ることが出来た。西新井大師は川崎大師等と並ぶ有名な厄除け開運の霊場であり 今回の散策でも一番のハイライトであった。その分他の史跡が少し地味に見えたが、歌川広重の墓がある東岳寺なども思いがけず訪れることができて良かったと思う。


日時: 2013年1月10日
交通: 東武大師線 大師前駅、 帰り 東武伊勢崎線 竹の塚駅
ルート: 西新井大師〜猿仏塚〜国土安穏寺〜赤羽家長屋門〜島根鷲神社〜炎天寺〜東岳寺〜東陽寺〜易行院
〜法受寺〜白旗塚 約7キロ

大師前駅の商魂たくましいお正月のポスター
西新井駅から出ている大師線は大師前駅までの一区間のみ運行している東武鉄道の路線である。このポスターで初詣の後スカイツリーに行った人も随分いるのではなかろうか。

写真はSさん提供
西新井大師山門と参道
川崎大師よりは少ないが両脇は団子屋や煎餅、だるま、川魚料理店などが軒を並べて賑っている。

写真はSさん提供
中田屋の軒には千社札のような札がぎっしりと掛けられている。この中田屋は江戸名所図会に描かれている西新井大師の図で参道に唯一描かれている茶店がこの中田屋だという。ここの草団子をメンバー全員が買ったが、後日美味しいと言う評判であった。

写真はEさん提供
山門に立つ托鉢僧と中田屋の店前を境内より望む。

写真はSさん提供
西新井大師本堂
西新井大師は弘法大師(空海)ゆかりの寺であり、正式名は「五智山偏照院総持寺」と言う。 江戸時代には関東七か寺の一つに数えられていた。1966年の火災で焼失して今はコンクリートで出来ているがなかなか壮大な建物である。又兵火にも大師像は難を逃れることが出来たため火除け大師としても知られる。
西新井大師の常香炉
本堂の西(左側)に空海ゆかりの阿伽井と呼ばれる井戸があり(現在は涸れてコンクリートで固められている)、寺の西側にあるので西新井という地名が出来たと言う。境内にある牡丹園にはシーズンになると4,500株ほどのボタンの花が咲き競うため牡丹大師の別名もある。

写真はSさん提供 
三匝(さんそう)堂
俗に栄螺(さざえ)堂(さざえの殻のようだから)と言われ江戸時代に流行した仏堂の一形式であるが現在は都内ではこの堂のみである。内部に螺旋構造の回廊がある仏堂で そこを進んでいけば自然に巡礼したことになるように工夫されているが入ることは出来なかった。海外ではレオナルド・ダビンチが設計した2重螺旋階段が知られている。 広重が江戸百景で「五百羅漢さざえ堂」と言う題で本所にあった羅漢寺の三匝堂を描いているが今はそこに三匝堂はない。

写真はTさん提供
塩地蔵
境内の屋台の間にひっそり佇む塩地蔵(いぼとり地蔵)。この散策ではいたる所で塩地蔵に出くわすが、いぼとり地蔵としては堀切菖蒲園の近くの極楽寺にもあった。
境内にあった首を修復したお地蔵さん。東日本大震災で首が折れたのか?
この辺りには如意輪堂(女性の諸願成就に霊験)権現堂(地鎮)奥の院(高野山奥の院を奉納)などの堂がある。
奇妙なミラー
意外と見通しが悪いのかもしれない。西新井大師を後にして猿仏塚方面に向かう。
東武伊勢崎線を横切る通路は大雨の時は1メートル以上冠水するらしく冠水目盛が表示されていた。渋谷駅横の246号線下が冠水した時のことを思い出した。

写真はSさん提供
猿仏塚
文化ホールの先の目立たない所にあった。 この塚のいわれは昔ある農家に一匹の猿が飼われていてよく赤子の子守をしていたが、ある時親に代わって赤ん坊を行水させたが湯が熱すぎて死なせてしまう。 悲しんだ猿は食事も取らず赤子の墓の前で死んでしまうと言う話だ。 哀れんだ村人がこの猿を手厚く葬ったのがこの塚で庚申塔などが建っている。

写真はTさん提供
来迎院島根古墳庚申塔

残念ながらこの寺には入ることは出来なかったが、門前から中を覗くと古墳庚申塔が見えた。 どうやらこの辺りは飛鳥時代などの古墳が多くあるようである。

写真はTさん提供
桐田家のくろまつ
個人のお宅であるがこの黒松は樹齢300年といわれ足立区の保存樹木に指定されている。このお宅には将軍の鹿狩り(ししがりと読む)の際村の御用勢子人足が使用した旗が保存されていると言う。
近くにある国土安穏寺に向かう。
国土安穏寺の葵の御紋の屋根瓦
この寺はこの地の豪族千葉氏が創建した日蓮宗の古刹であるが、将軍秀忠や家光が鷹狩りの折に良く立ち寄り将軍家の御善処にもなった御朱印寺である。

写真はSさん提供
境内には旧本堂の鬼瓦が展示されていた。やはり葵の御紋が彫られている。

写真はSさん提供
将軍御手植えの松
三代将軍家光の御手植えの松。足立区保存樹に指定されている。

写真はEさん提供
居眠り小僧
掃除小僧
顔は居眠り小僧さんのほうが可愛いと思うのだが。

近くにある赤羽家長屋門に寄ることにする。
赤羽家長屋門
旧島根村の名主だった牛込金武家の屋敷門で江戸末期の建築。 昭和に入り赤羽家に買い取られ現在も住んでいるようである。幕末の牛込家は島根村の八割を占める大地主だったと言う。
欅材で作られた堂々とした中央門、セコムの標識がなければ当時のままである。
旧日光街道に出て島根鷲神社に向かう。

写真はTさん提供
島根鷲神社
鎌倉時代創建の「島根のおとりさま」と信仰されてきた旧島根村の鎮守。
  拝殿の前で20分ぐらい熱心に祈願する人と参拝を諦めて帰ってくる人。
神社では富士塚も良く見かけるが この神社にも裏のほうに富士塚があったようだ。
ようやく参拝を済まし俳句寺「炎天寺」に向かう。

写真はEさん提供
   炎天寺
平安時代創建と伝わる真言宗の古刹で、俳人小林一茶にゆかりの寺。
炎天続きの旧暦6月奥州の安倍一族の反乱を鎮定に従く源頼義、八幡太郎義家父子のひきいる軍勢が野武士と激しく戦い苦戦したが、京の岩清水の八幡宮に祈念し、ようやく勝利を得ることができたと言う。
そこで八幡宮を建立し気候が炎天続きの時に勝ったので八幡宮の別当寺として炎天寺と名づけたと伝えられる。又六月の炎天下の戦いだったためこの辺りは当時六月村と呼ばれていた。

写真はSさん提供
一茶の句碑「やせ蛙まけるな一茶是にあり」
一茶が宿場竹の塚の大道芸「蛙のたたかい」を見に訪れた時に詠んだものと言われる。

写真はTさん提供
六月八幡神社
炎天寺の縁起では京の岩清水の八幡宮に祈念して勧請されたとあるが、江戸名所図会では鎌倉八幡宮を祈念したとあるのだが。
竹の塚駅方面で昼食を取ることにする。
竹の塚駅横の開かずの踏み切り
この踏み切りは幅が広く電車の往来が頻繁にあるため常時見張り人がいて危険な横断を監視している。
昼食後広重の墓がある東岳寺に向かう。
東岳寺にあった広重の墓
東岳寺は曹洞宗の禅刹、もとは浅草にあった。広重の墓の横には広重の浮世絵に魅せられて世界に浮世絵を紹介し自らを広重ハッパーと称したアメリカ人ジョン・スチュアート・ハッパーの墓がある。
東岳寺境内には池泉回遊式庭園があり 池は青空を映し藍色の広重ブルーに染まっていた。
東岳寺の主
今日の人気のモデルさんです。

写真はTさん提供
東陽寺
曹洞宗の禅刹。東伊興の辺りは関東大震災後浅草から移ってきた寺が多くあり 寺町を形成している。寺内には講談や歌舞伎の 「塩原太助一代記」で有名な江戸の大商人塩原太助の墓や江戸時代前期の歌人で国学者の戸田茂睡歌碑、江戸時代の海運治水の功労者河村瑞軒の追慕碑などがある。
境内には五百羅漢ではなく「十六羅漢」がありました。
易行院(助六寺)
室町時代創建の浄土宗の古刹。境内には市川団十郎の当たり狂言、侠客花川戸助六にちなむ墓がある。
助六・揚巻の比翼塚
吉原を舞台にした歌舞伎狂言「助六由縁江戸桜」でおなじみの浅草の侠客花川戸助六と愛人の遊女揚巻の比翼塚。助六地蔵に蛇の目傘に煙管と紫ちりめんの鉢巻でも掛けていりゃ見栄えがするだろうに。良縁成就に御利益があると言う。塚の上が削り取られているのは助六の強運にあやかろうということか。

写真はTさん提供
伊興遺跡跡公園
助六寺を後にし帰路につく途中伊興遺跡跡公園に寄り上を見上げると、怪しげな雲が流れていた。
この辺りでは5〜6世紀頃の竪穴式住居が多く見つかったといい、園内には竪穴式住居のレプリカなどがある。

写真はTさん提供
法受寺の布袋様
三遊亭円朝の怪談「牡丹灯籠」ゆかりの寺。円朝は浪人新三郎にとりつく幽霊お露の墓のある寺を当時は谷中三崎にあったこの法受寺をモデルにしたそうだ。境内には牡丹灯籠の碑がある。 尚この寺は五大将軍綱吉の生母桂昌院の菩提寺としても知られる。

写真はEさん提供
白旗塚古墳
散策ルートの最後に飛鳥時代の古墳とされる伊興古墳群の一つ白旗塚古墳に寄る。八幡太郎義家(源義家)が奥州討伐に向かう際、白旗(源氏のシンボル)をこの塚上に立てて戦勝祈願をしたという伝説に由来するとされている。昔はその跡に建てられた小祠に立ち寄るものあれば祟りありと恐れられ荒廃していたが現在は公園として整備されている。ただ現在も中央の祠まで行ける道は閉ざされているので近寄れない。
竹の塚でお茶をして東武伊勢崎線から日比谷線、都営浅草線など乗り継いで長い帰路につく。

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