From Kodukahara Ekouin to Senjyu-jyuku

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今回のルートは11月に行く予定だったが皆の都合が付かず12月に繰り延べられたものである。最初は小塚原の刑場跡や安政の大獄で刑死した人達の墓など歴史の暗い一面をたどる出だしだったが、旧日光街道の千住大橋を渡ってからは先日木曽路の宿場町を訪れた後だからなのかも知れないが 千住宿の当時の宿場の賑わいなどを感じることの出来る味わい深い散策であった。尚10月に行われた足立グルットウオーキングの際撮った写真も一部使っている。


日時: 2012年12月14日
交通: 地下鉄日比谷線 南千住駅、 帰り 日比谷線 北千住駅
ルート: 回向院〜小塚原刑場跡〜スサノオ神社〜奥の細道矢立初の碑〜千住問屋場跡〜不動院〜勝専寺〜千住本陣跡
〜絵馬屋の吉田屋、伝馬屋横山家〜名倉医院長屋門〜長円寺 約6キロ

小塚原回向院に入ると墓守のネコがお出迎え。この寺は両国回向院の別院であり ここの墓地では歴史上の有名人の墓地は一般の人の墓地とは区分けされているので有難い。
悪人達の墓
右より「腕の喜三郎」(江戸時代の侠客,喧嘩で片腕を怪我をしたが、見苦しいと子分に片腕をノコギリで切り落とさせたという、歌舞伎などで脚色されてる)、「高橋お伝」(古着屋殺しで明治9年日本で最後の斬首刑となり小塚原に埋葬された)、「片岡直二郎」(江戸後期の御家人崩れの無頼漢、天保六花撰など講談、歌舞伎でとりあげられた)、「鼠小僧次郎吉」(義賊、小塚原刑場で処刑されたが本当の墓は両国回向院にある)。
安政の大獄で刑死した越前藩士橋本左内の墓
吉田松陰の墓より立派である。

写真はTさん提供
同じく安政の大獄で刑死した長州藩吉田松陰の墓
この他回向院には頼三樹三郎、相馬大作、関良助、梅田雲濱、瀧本伊能子など多くの志士や井伊大老暗殺浪士などが葬られている。

写真はTさん提供
小塚原の首切地蔵
小塚原の刑場跡は現在常磐線と日比谷線の線路に挟まれる場所にある延命寺内にある。小塚原の刑場では明治に廃止されるまで約20万人余りの罪人が刑を受けたという。また前野良沢や杉田玄白らが日本で初めて死人の腑分け(解剖)をした所でもあり、回向院内には日本の解剖医学発祥の地としてそれを記念する観臓記念碑がある。
尚首切り地蔵(別名延命地蔵尊)は関東大震災にも耐えてきたのだが先の東日本大震災では左腕が落下してしまったようだが、現在は修復されている。

旧日光街道に出て円通寺に向かう。
円通寺
平安初期征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途上創設したと伝わる曹洞宗の禅刹。境内には彰義隊戦死者の墓などがある。
円通寺には上野寛永寺黒門口の戦いでの弾痕が残る黒門が移され保存されている。

写真はTさん提供
禅寺にしては異質なインド仏教で見られるような塔がそびえ建っている。
境内には小塚原(骨ヶ原)の地名の由来とされる源義家が奥州征伐で討ち取った敵の首を埋めたといわれる四十八首塚がある。右奥の松は三代将軍家光の鷹見の松。
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境内の円通精舎前に置いてある大砲(上野彰義隊が使った大砲のレプリカであろうか)。

千住大橋の前にあるスサノオ神社に向かう。
スサノオ神社
平安初期創建の石神信仰による「瑞光石」を祭神とする神社で荒川区内で最も広い氏子域を持つ鎮守。三年に一度の天王祭で担がれる千貫神輿が有名。スサノオ神社はちょうど旧日光街道と交わる旧奥州街道の起点に位置する所にあり、松尾芭蕉の奥州路「奥の細道」への旅立ちが始まる辺りでもあり境内には「奥の細道首途」の句碑がある。
水が入っているのであろうが落ち葉でいっぱのように見えるバケツ。
拝殿の鈴が5つもあるのは珍しい、参拝者が多いのが伺える。
紅葉と勢いよく水を吐く竜。
スサノオ神社の庭
庭には芭蕉の句碑やミニ千住大橋、梅や桃、銀杏などの木々があり飛鳥の杜(もり)とも言われ四季折々の表情を見せる。

写真はEさん提供
「瑞光石」を安置してある所へ続く小さな鳥居の横にある大提灯と紅葉
この時季は紅葉も終わりで被写体としてあまり良いものがないので 少しでも紅葉を見つけると写すことにする。
境内にある飛鳥の杜の子育て銀杏
木の周りには沢山の子育て祈願の絵馬が掛けられている。春には1,000体を超えるお雛様が飾られる桃祭りが行われる。
境内にあるミニ千住大橋
松尾芭蕉の有名な奥の細道矢立の初の一句「ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ」の句碑がある。文政3年(1820年)千住宿に集う文人達により建てられたが、経年劣化したため平成7年に復刻したものである。
千住大橋(下り)
下り(旧橋)上り(新橋)がある。 一方通行で信号待ちだったのか ちょうど車が一台も走っていなかった。
千住大橋(旧橋)の半端じゃないボルトの数。 昭和2年竣工で当時は溶接技術が進んでいなかったためであろう。

写真はEさん提供
千住大橋 足立区側より望む
橋の左手に新橋があり、右側には東京都水道局の千住水管橋がほぼ並行して掛かっている。広重は左手から俯瞰した視点で隅田川の上流側をみた構図で描いている。
千住大橋を渡り足立区側に入ると、橋のたもとに千住大橋を描いた浮世絵の前のテラスで本を読んでいる人がいた。

写真はEさん提供
右は歌川広重の「千住大はし」、左は葛飾北斎の「武州千住」。広重は背景に日光連山、北斎は富士を描いている。
  千住大橋の足立区側の橋のたもとには スサノオ神社の芭蕉の句碑に書いてあったのと同じ碑文が記された「奥の細道矢立初の碑」があるが、その向かいに奥の細道行程図があった。これによれば北は岩手県平泉から秋田へ、裏日本を下り南は岐阜県大垣までおよそ150余日の旅だったという。
橋戸稲荷
千住大橋の近くの橋戸稲荷に寄る。本殿は珍しい土蔵造りで伊豆の長八の白狐の鏝絵(こてえ)で有名である。

写真はSさん提供
伊豆長八の鏝絵
右扉の雄狐

写真はSさん提供
左扉の子狐を抱く母狐
名工長八の名作といわれる。

千住大橋駅付近の中華料理店で昼食を取り、千住宿へ向かう。

写真はSさん提供
ちょっと寄り道
今回のルートではないが 橋戸稲荷神社から隅田川沿いに帝京大学方面に行った尾竹橋公園には大正時代まであったお化け煙突のモニュメントがあってスカイツリーも見える。お化け煙突の由来は千住火力発電の4本の煙突が見る角度によって1本に見えたり3本に見えたりしたことによる。
千住大橋から旧日光街道を墨提通りにぶつかるまでの間は千住のやっちゃ場で千住市場の問屋が多くあった所。街道脇の家々の前には当時の問屋の面影を残す看板などが掛けられている。やっちゃ場の呼称の由来は青果市場の競りで「やっちゃやっちゃ」と掛け声が掛けられたことによる。また市場での仲買人のことを「投師」(他の市場へ転売するため)と呼んでいたようだ。
源長寺
旧日光街道を進み墨提通りを渡ると左手に寿老人の地蔵尊を祀る浄土宗源長寺があり、ちょっと寄る。
源長寺拝殿前の竹林を映す車の窓と葉が落ちかかった紅葉。

北千住の駅方面の不動院、慈眼寺に向かう。
慈眼寺
福禄寿を祀る不動院の横に慈眼寺がある。真義真言宗の寺院でこの山門は戦火を免れたものという。将軍が日光東照宮社参の際の休憩所であった。
千住町消防組の碑
慈眼寺の隣には千住消防署があり、町火消しを起源としている。この慈眼寺境内にある南北消防組記念碑にも「千組」と書かれた纏(まとい)いの碑がある。バックの高層ビルは東京芸術センター。
慈眼寺の怖がりの墓守ネコ。

潤徳学園の近くにある勝専寺に向かう。
勝専寺(毘沙門天)
鎌倉時代創建の浄土宗の古刹。山門が赤く塗られているので赤門寺とも呼ばれる。赤門は堅く閉じられていたが裏門ではなく横の通用門から入ることが出来た。左手に閻魔堂がある。将軍家日光東照宮参詣では本陣の代わりも勤めた格式ある寺。本尊は千住の名の起こりともされる千手観音(せんじゅかんのん)。
千住の遊女の投げ込み寺であった金蔵寺に行こうと思って北千住の飲み屋街に紛れ込んでしまい道に迷う。前方の女性が突然消え裏口から店にでも入ったのかと思ったら、抜け道の通路があったようだ。
この飲み屋街には何箇所か狭い抜け道用の通路があり結構通行人がいる。
モノクロ変換
千住本陣跡
金蔵寺を諦め北千住の宿場町通りに入るとすぐ左手の100円ショップの所に千住本陣跡の碑が立っていた。千住宿は日光街道及び奥州街道の初宿で江戸四宿(他に品川宿、板橋宿、内藤新宿)の一つ。 近くにあった説明版によればこの左手の見番横丁(神楽坂にも同名の横丁がある)の途中に千住見番跡(千住芸妓の手配などする事務所跡)があるというので行ってみる。
探しても見つからなかったが見番所があったと思われる辺りの八百屋さんで聞いてみると、そこのご主人の母親の実家がかって見番所をやっていたと言う。その店に掛かっていたこの絵は昭和初期と思われるが本陣跡辺りから見番横丁を描いたものでトリスバーやキッチンオカノ等の看板も見える。本陣跡の辺りは当時芸妓の置屋となっていたが、戦後不発弾による火災でこの辺り一帯は全焼したらしい。
宿場町通りにある都内では数少ない現役の絵馬屋「吉田屋」 当代で8代目という。
通りの向かいには伝馬屋敷(地紙問屋で宿場の伝馬役を兼ねていた)の「横山家」があり、柱には官軍と戦った彰義隊が刀で斬りつけてできたといわれる傷痕が残っている。
宿場町通りにある千住ほんちょう公園の千住高札場跡
宿場には必ず高札場と枡形という入り口を直角に2度曲げる道が義務づけられていたのだが千住宿では枡形がどこにあったのか発見できなかった。
そろそろ夕方になって来て冬の斜光線が黄色い家の壁を照らしていた。先を急ぎ名倉医院長屋門に向かう。
名倉医院長屋門
江戸中期に始まる接骨医院で長屋門は13代家定が鷹狩りの折しばしば立ち寄ったので建てられたと言う。現在も開業しており健保、国保、労災指定医とある、近ければこんな由緒あるところで治療を受けてみたいのだが。
名倉医院の中庭の紅葉
逆光だとさぞ素晴しい紅葉だろうが中には入れなかった。 名倉医院は東京各地にのれんわけした接骨医院があったらしく池上線長原の辺にも名倉医院があったとメンバーの人が言っていた。
氷川神社
名倉医院の近くの氷川神社に寄る。
隣の長円寺が氷川神社の旧別当であったようだ。千住で有名な寺子屋を運営していたとある。
以前行ったことがあるが宿場町通りの中ごろにも千住本氷川神社があり ラジオ体操発祥の地碑や、千住七福神の大黒天を祀っている。
長円寺
新義真言宗の寺で本尊は木造の薬師如来小立像。千住七福神では布袋尊を祀る。境内には「八十八ヶ所巡り毛彫り石碣」が立てられている。
山門の横にある「めやみ地蔵尊」眼病に効くとあり、祈願する。
長円寺の赤い帽子の地蔵群
変わった鬼瓦と思ったらネコでした。
金蔵寺をもう一度探そうかと思ったが暗くなってきたので諦め北千住駅でお茶をしてお土産に豆大福を買って帰路につく。



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