From Tamanoi to Asakusa

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今回の散策は永井荷風の小説 「墨東綺譚」や「墨田川」に良く出てくる地名を辿るようなルートであった。彼がその当時からすでに江戸時代からの勝景が破壊されていくのを嘆き、当時残っていたものも将来跡形もなくなるだろうと予測した通り、関東大震災や東京大空襲のせいもあるが 江戸や明治時代の痕跡はほとんど残っていない。 わずかに通りや橋の名称にそれを見出すのみである。 スカイツリーのある業平橋駅はスカイツリー駅に名称を変えるそうだが、この辺りはスカイツリーの出現によってさらに様変わりしそうである。後半撮影もスカイツリー オンパレードとなった。 


日時: 2012年3月13日
交通: 東武伊勢崎線 東向島駅、 帰り 都営浅草線 浅草駅 
ルート: 玉ノ井稲荷〜石浜神社〜平賀源内墓〜橋場のお化け地蔵〜妙亀塚〜玉姫稲荷・口入稲荷〜出山寺采女塚
〜今戸神社〜待乳山聖天〜墨田公園〜姥ヶ池跡〜浅草寺 約6キロ

東向島駅から線路沿いに鐘ヶ淵方面に歩き ‘玉ノ井いろは通り‘に出たら それをしばらく行き左折すると玉ノ井稲荷のある東清寺がある。お稲荷さんの社を探すが見当たらない。 近所の人に聞くと昔すぐそこにあったが今は 東清寺の建物の中にあるのではないかと言う。
確かに東清寺のビルの入り口の所にお稲荷さんの狐が鎮座しているが、お稲荷さんは建物の中に入らなければ見れないようなので諦める。近頃は建築基準法にもよるのだろうが街中の神社仏閣は少々味気ない建造物になってしまったようだ。
四角い入口と赤い自転車が印象的だったので一枚。

墨東綺譚」によれば昔この辺りは寺島町といっていたようだが現在は東向島とか墨田と言う町名になって 昔の面影がまったくなく 新しい家並みが続いている。入り組んだ路地はまだその形跡を残しているようだが 昔は「ぬけられます」とか「オトメ街」とか名の付いていた迷路のような路地裏に 墨東綺譚」に出てくるような待合がまだ残っているのかと思い探していたら 一人のおばあさんが それと察して”昔の玉ノ井の古い家ならこの先の左の一軒しか残っていないよ”と教えてくれた。
古い建物に盆栽一鉢

言われた辺りで見つけた古い建物だが イメージしていたのとは違いなかなか立派な建物で おばあさんが教えてくれたのとは違うものかもしれない。
玉ノ井を後にして大正通を隅田川方面に歩くと 白髭公園の先に巨大な集合住宅が現れた。
白鬚橋(しらひげばし)

大正時代に木造で作られた橋だが震災後鉄骨製の現在のものとなった。江戸時代は千住大橋ができるまではこの辺りの「白鬚の渡し」とか「橋場の渡し」と言われた渡船場で隅田川を渡るのが一般的であった。
白鬚橋よりスカイツリーを望む。

歌川国芳が「東都三ツ股の図」という題で船大工が防腐のために船腹を焼いている先に極端に高い櫓(井戸掘りやぐら?)を望む絵を描いているが その櫓が位置的にスカイツリーのある場所と一致しており 櫓が江戸時代には有り得ないような極端に高く描かれているので 国芳は未来を予言していたのではないかと最近開かれた国芳展の際に一時騒がれていた。
橋を渡りすぐ右手の方に石浜神社がある。この神社は奈良時代に創建された石浜の総鎮守である。
この神社は武蔵千葉氏の石浜城跡とも推定されているそうだが、関東武将の信仰篤く、関八州より多くの参詣者を集めたと言い「神明さん」と通称され名を馳せたという。
富士塚にしては少々小さいが 富士講の富士遙拝所がある。 石浜神社は当時は東に大川(隅田川) 西に富士山 北に筑波山を眺むる名勝地として江戸名所図会にも描かれている。江戸中期からこの辺りが風光明媚だったこともあり真崎稲荷の参拝者が多くなって 吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋が立ち並んで繁盛したとある。
石浜城主であった千葉氏が奉納したと言われる真崎稲荷。横の方に大黒天、寿老神、八幡神社、北野天満宮、江戸神社などの神社賽銭口がありよろずの神々を祭っているようだ。 ここの寿老神は浅草七福神のコースにも入っている。
境内には平安初期の歌人在原業平が東国に旅して隅田川で都鳥を見て望郷の思いを詠んだ有名な一節「名にし負はば いさこととはん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」の碑があるが 朽ちてほとんど判読できなかった。
石浜神社境内で見つけた梅のつぼみ。 遅くれた春がようやく間近になったか。
平賀源内の墓所の築地塀

石浜神社から明治通りに出て三ノ輪方面に向かい 三つ目の通りを左折すると右手の方に平賀源内の墓所がある。普段は鍵が掛けられているようだがこの時は開いていたので中に入ることが出来た。
平賀源内の墓

日本のダビンチとも言われるほど様々な分野で才能を発揮した異才で、博物学者・浄瑠璃作家・画家・陶芸家・発明家・科学者(エレキテルの実験など)である。杉田玄白が墓碑を記している。
橋場のお化け地蔵

昔はこの辺りは浅茅ヶ原が広がり‘浅茅ヶ原のお化け地蔵‘と言われていたそうだ。 かっては大きな笠をかぶっていたが 不思議なことにその笠が向きを変えたので‘お化け地蔵‘と呼ばれることになった等諸説ある。

写真はEさん提供
もとはここは総泉寺の入り口であったが 寺は板橋の方に移転し地蔵だけが残った。関東大震災で被災し地蔵の背に石版で補強してあるのが分かる。
川向こうの木母寺にある梅若塚の梅若伝説で知られる梅若の母妙亀尼の墓と伝わる塚。梅若伝説は謡曲「墨田川」で有名な物語で人買いにつれられて墨田川のほとりまで来て死んだ梅若を追ってきた母がこの浅茅ヶ原の池に自分の身を映すと 梅若の姿が見えたので池に飛び込んで死んでしまう。そのため その池の名は‘鏡ヶ池‘と言われたそうだ。尚遠方に見える塚の頂上にある版碑は妙亀塚とは関係ないものだそうだ。
玉姫稲荷まで行く途中`さかえや‘という蕎麦屋で昼食をとることにする。
店内に飾られていた「そばと米の値段の変遷」表。これによれば自分が生まれた頃のもりそばの値段は15円。 この店のご主人と3月10日の下町の東京大空襲の話になり、幼少の頃母親の背に背負われて逃げた時 防空頭巾に火がついて「熱い、熱い」と叫んで火を消してもらって助かったと言う話をお聞きした。以後「お前が熱いという言葉をしゃべれたから助かったんだよ」と母から何度も聞かされたそうだ。先日NHKで最近発見された東京大空襲を写した写真を基にした放送があったが、古い下町の痕跡が跡形もなくなったのもうなずける。
  玉姫稲荷社殿

奈良時代の創建と伝わる古社。玉姫というお姫様がいたという訳ではないようだ。
玉姫稲荷の横の方には口入稲荷が祭られている。‘口入‘とは現在の人材斡旋業のような商売で 当時新吉原の高田屋という口入屋の庭内に鎮座していたものをお告げにより玉姫稲荷の境内に祭ったものだという。
境内に玉姫発見!
玉姫稲荷を後にして 吉野通に出て東浅草二丁目交差点の‘はんこや‘の先を南千住方面にちょっと行った所にあるカフェバッハでお茶をすることにする。この店は我々が江戸散歩の反省会に使っている洗足池のカフェ「の今村」のマスターが東京で美味しいコーヒーを出す店の一つとして薦める店で何度か行ったことがある。実際クリントン大統領が沖縄サミットで日本に来た時に ここで自家焙煎された豆でコーヒーを出したそうだ。
出山寺の采女塚と思われる碑

吉原の遊郭 雁金屋の遊女采女を供養する塚である。 采女に恋した若い僧が師から固く諭され悩んだ末に思いつめて 雁金屋の格子の前で自害するが、これを知った采女が悲しみのあまり浅茅ヶ原の鏡ヶ池に身を沈め後を追ったという。時に采女17才。 江戸の狂歌師蜀山人(大田南北)らにより建立され 追悼の句が刻まれているようだが判読不能。
  今戸神社社殿で縁結びの祈願?

創建は平安中期 源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、篤く祈願し、鎌倉の鶴ヶ岡と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのに創まる。
また境内には今戸焼発祥の地の碑と新撰組の沖田総司終焉の地の碑があり、浅草七福神の一神である‘福禄寿‘も祭る。
最近縁結びで有名になった神社で、境内にあるテラスの庭にはここで縁結びがかなったカップルの情報が掲示されていた。 この似顔絵には‘HideoとMihoさんが2011.12.3このテラスで出逢ってご結婚されました‘とある。ここは出逢いの場でもあるようだ。
参拝者を観察すると女性は女友達と来るケースが圧倒的に多いが 男性は一人で来るケースが多く かなり悲壮感が漂っているように見受けられる。 
‘恋みくじ‘は湯島天神でも見かけたが ここには‘恋勝みくじ‘というのもあるようだ。
縁結びのお札がびっしり掛けられている。 このような札場が境内に3,4ヶ所ある。 見た限りではお札は99パーセント女性が書いたもので 男性の参拝客も多く お札を買っている人もいるのだが 恥ずかしくて見えないところにでも掛けているのだろうか殆んど発見できなかった。
  今戸神社の横にある本龍寺の梅

この辺りは今戸の寺町で江戸六地蔵の東禅寺から待乳聖天にかけて多くの寺がある。

写真はHさん提供
 
待乳山聖天本堂

今戸神社を後に待乳山聖天に向かう。 この寺が浅草寺の末寺であるというのを今回初めて知ったが、関東三聖天の一つで、本尊は大聖歓喜天で男天と女天の双身像。夫婦和合のシンボルの二股大根と商売繁盛の巾着が境内のあちこちに見受けられる。
また浅草七福神のコースに入っており毘沙門天が祭られている。
待乳山聖天横からスカイツリーが見える。 浅草の人力車の観光の撮影スポットにもなっているようだ。 ここから見えるスカイツリーは右側が出っ張って見える。
昔は待乳山はその名のとおり小高い山で隅田川方面を望む眺望を楽しむのにもってこいの場所だったそうだ。広重も待乳山を向島方面から望む「真乳山山谷堀夜景」という題で描いている。 しかし江戸後期に日本堤を作るのに削られたため現在はそれほど高くはない。
待乳山聖天から見えるスカイツリーその2
待乳山聖天から見えるスカイツリーその3

待乳山聖天本堂裏からのスカイツリー
お地蔵さんも火傷

境内には古い歓喜地蔵尊が安置されている。 数度の火災でその尊容を留めていないが古来より子育て地蔵として信仰されているとある。
待乳山聖天から見えるスカイツリーその4

待乳山聖天庭園の柑橘類の木の上に見えるスカイツリー。
スカイツリー その5

二股大根(大樹)から見えるスカイツリー
待乳山聖天の築地塀は江戸の面影を今に残す。
墨田公園よりスカイツリーを望む

待乳山聖天を後にして墨田公園に行ってみる。

写真はHさん提供
言問橋とスカイツリーその1
言問橋とスカイツリーその2
  夕日を浴び川面を金色に染めるアサヒビール社屋と墨田区役所

もう少し先に行くとスカイツリーがアサヒビールの側面に映るはずだ。
アサヒビール社屋側面に映る金色いろのスカイツリー

以前工事中は全体が映っていたが 完成後は高くなったので全て映らなくなってしまった。
墨田川パノラマビュー 

東部伊勢崎線、スカイツリー、墨田区役所、アサヒビール社屋
ススキと金色いろのスカイツリーと雲
墨田公園の外灯とスカイツリー
墨田公園のモニュメントとスカイツリー その1

写真はEさん提供
墨田公園のモニュメントとスカイツリー その2

写真はEさん提供
墨田公園を後にして花川戸公園にある姥ヶ池跡に行く。池はもうないがこの辺りがそうであったようだ。 
‘姥ヶ池乃旧跡‘という_真新しい碑が道路際にあったが この池は江戸の浮世絵師歌川国芳の傑作「浅茅ヶ原一ツ家伝説」に出てくる老婆が身を投げた池ということからこの名がついたという。以前浅草寺の地下にある大絵馬を見る機会があり なんて気持ち悪い絵だろうと思ったが 国芳の直描きで教科書にも載るような価値のある絵だと聞かされたことがある。 飛鳥時代この辺りに美しい娘と住む老婆がおり 娘をおとりにして旅人を泊めて寝ている間に石で打ち殺し身ぐるみをはいでいた。これを見かねた浅草観音様が若い旅人に変身するが 娘がその旅人に魅せられて身代わりとなって老婆に打ち殺されてしまう。娘と知って嘆き悲しみ老婆は池に身を投げるというようなストーリーである。
浅草寺二天門前にて
浅草神社境内にて
今年がちょうど三社祭七百年ということで江戸時代の浅草奥山風景を演出し当時の街並を復元していた。
相合傘とスカイツリー
当時の奥山の空を見上げれば こんな感じだったのでは?
浅草寺本堂前でツーショット

午後5時を過ぎて本堂はもう閉まっていたので我々も浅草土産を買って帰ることにする。
  都営浅草線に向かう途中雷門前で建設中の浅草文化観光センターが見に飛び込んできた。 下手な積み木細工のような不安定さがあるが4月20日オープン予定だそうだ。 景観を損なう等物議をかもしているが 展望テラスからは仲見世通りや浅草寺境内が一望できるという。

写真はEさん提供
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