From Geihinkan to Naitoh Shinjyuku

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 前回は迎賓館から神宮外苑・表参道だったが、今回は同じ四谷の迎賓館から新宿方面の甲州街道に続く新宿通りを基点とする散策路である。新宿通りは江戸時代将軍の退路を確保するため四谷御門から甲州街道へのルートを整備したもので当時は甲州街道の一部であり、通り沿いには鉄砲組屋敷など武家屋敷が多くあったと言う。 四谷の見附番所はそのルートを護衛する要所として設置されたが 現在は四谷見附跡の石垣が残るのみである。 ちょっと意外だったが このルート沿いには江戸城拡張で外豪内から移されてきた寺が多く残っている寺町でもあった。


日時: 2012年2月20日
交通: JR中央線 四谷駅、 帰り JR山手線 新宿駅 
ルート: 迎賓館〜東福院〜愛染院〜西念寺〜須賀神社〜陽運寺お岩稲荷〜お岩稲荷田宮神社〜四谷大木戸跡・玉川上
水記念碑〜大宗寺〜正受院〜成覚寺〜天龍寺 約4.5キロ

前回は正門ゲート越しに写したが、今回はゲートの隙間からカメラを中に入れて写してみた。正門ゲートから迎賓館入り口まではかなり距離がありそうに見える。
尚 迎賓館は毎年応募すれば(多数の場合は抽選)参観することが出来る。
ちょうど正門ゲートのランプの後ろに太陽が重なったので一枚。
四谷駅より新宿通りを新宿方面に向かい 3つ目の信号を左に折れて四谷小学校の横の坂を下りると途中に東福院がある。そのため この坂は東福院坂と呼ばれるが、この辺りが明治以前は天王横町と言われていたため天王坂とも言われる。
東福院の豆腐地蔵。 この地蔵の名の由来は 不正な商売をしていた豆腐屋を改心させたという話が元になっているようだ。
真言宗 愛染院。この寺は防犯が厳重で門を入ると第一の警報がなり、無視してさらに奥に進むと第二の警報が鳴ったのであえなく退散。
この寺には以前渋谷の金王八幡神社方面に行ったとき記念館を訪れたが 「群書類従」を編纂した塙保己一の墓がある。また内藤新宿の開設者高松喜六の墓もあるという。
観音坂。 この坂の横にある西念寺に向かう。
この坂の名の由来は坂の西側にある真成院の潮踏観音に因んで付けられたものという。
西念寺。文禄2年服部半蔵が創建し、寛永11年江戸城拡張のため この地に移されたという。 
服部半蔵の墓。江戸城を警護するお庭番(番衆)を統率して江戸城半蔵門の由来となった伊賀者である。 主君家康の長男信康の切腹のおり介錯を命ぜられたが果たせず 後 信康の冥福を祈るため仏門に入ったと言う。半蔵は信康が幼名で竹千代と言われていたころの守役であった。
また「槍の半蔵」と異名をとった槍の名手で家康から拝領したと伝えられる槍は今でも西念寺に保管されている。
徳川信康の供養塔。 信長により切腹を命ぜられたと言うことになっているが諸説ある。供養塔の門には葵の印が記されている。
西念寺を出ると鉄砲坂に出る。現在は坂と言っても随分なだらかで 昔この辺りに御持筒組屋敷があり鉄砲の稽古所があった事によるためこの名が付けられたという。
須賀神社のかなり急な階段。右の方にもっと緩やかな階段もある。この辺りは谷になっており お岩稲荷に行くには須賀神社に上がり神社の裏から行く方が良いようだ。
須賀神社は四谷の総鎮守で外豪内にあったのが西念寺と同じく寛永11年この地に移されたもの。
須賀神社の手水場の黄金色に光る水。
須賀神社の主。
須賀神社社殿には天保7年に奉納された三十六歌仙絵が飾られている。
日蓮宗 陽運寺のお岩稲荷。最初ここが本家本元のお岩稲荷かと思ったら これは田宮神社が火災で一時移転していた時に 代わりに陽運寺境内にお岩稲荷を奉ったものである。ここも元は田宮家の敷地内であったそうだ。
陽運寺山門。お岩稲荷が幅を利かせているようだ。
陽運寺の斜め向かいにある 本家本元のお岩稲荷田宮神社。陽運寺のお岩稲荷に比べるとかなりこじんまりしている。
お岩稲荷の手水鉢と誰が置いたか一輪の菊。実際のお岩は田宮家では賢婦人で夫婦幸せに暮らしたと言うから「東海道四谷怪談」とはだいぶ違うようだ。
お岩の墓は田宮家の菩提寺が四谷から移ったため現在は荒川線の西ヶ原の妙行寺にある。
手前が田宮神社のお岩稲荷で後方が陽運寺のお岩稲荷。我々は後方から歩いて来たが、そっちの方には江戸城拡張の際 外堀内から移されてきた多くの寺があり須賀神社を中心に西念寺等とともに四谷寺町を形成している。
お岩稲荷から また新宿通りに出るとひょろ長い(高い?)マンションに太陽がまぶしく反射していた。
甲州街道の入り口に設けられた大木戸跡。 品川にある東海道の高輪大木戸と同じ元和2年に設けられたものだが、この他江戸には板橋宿にも大木戸があった。 大木戸口の周りに出来た茶屋が後の内藤新宿の花街となったというが、この宿は他の宿と違い浅草の名主高松喜六らが幕府に願い出て作ったものという。
ちなみに江戸四宿は東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿そして甲州街道の内藤新宿をいう。
多摩川上水記念碑。 神田上水と並ぶ江戸二代上水の一つ。後ろには東京都水道局の建物が建つ。
広重が江戸百景で「四谷内藤新宿」と言う題で 馬の後ろ足を前景にして内籐新宿の遊女屋等と内藤家の屋敷(現在の新宿御苑)を望む絵を描いているが、同じようにビル掃除を前景に新宿御苑方面を望んでみた。
新宿通りの消防署の脇の小さな不動尊で白い帽子のおばあちゃんが参拝していた。 扁額には「火防守護」とある、なるほど。
新宿通りを新宿御苑駅の先で右手に入った所にある大宗寺にあった塩地蔵。以前の散策でも浅草寺の塩なめ地蔵や、回向院、春日町の源覚寺(こんにゃく寺)や品川の安楽寺にも塩地蔵があったが 塩地蔵は都内には全部で7箇所ぐらいあるようだ。
先ほど見かけた白い帽子のおばあちゃんが大宗寺の閻魔堂でも参拝していた。内藤新宿にある寺を回るのを日課にしているのだろうか。
大宗寺は別名”閻魔堂”とも呼ばれる浄土宗の寺で 内藤新宿の名の由来ともなった信州高遠藩内藤家の菩提寺でもある。閻魔堂内には正面に閻魔像が左手に閻魔大王に仕える奪衣婆像が鎮座している。
大宗寺には江戸六地蔵二番目の地蔵菩薩が鎮座する。ちなみに一番めが品川の品川寺(ほんせんじ)、三番目が巣鴨の真性寺、四番目が浅草の東禅寺、五番目が江東区の霊巌寺で六番目が現存しないが深川にあった永代寺である。
真言宗 正受院。 この梵鐘は戦時中金属供出で失われたはずであったが 戦後アメリカに渡っていた事が分かり 返還され「平和の鐘」として除夜の鐘を響かせている。 またこの寺には先の閻魔堂にもあった脱衣婆像が小堂に安置されており 当時江戸で 咳き封じなどのご利益があるという評判がたち 歌川国芳も”脱衣婆に願掛け”という錦絵を描いている。
針供養でも有名な寺である。
これは境内の車庫のサンルーフから見た青空とサンルーフの汚れと光の加減がアートぽかったので一枚。
成覚寺。 三ノ輪の淨閑寺(吉原遊女の投げ込み寺)や品川宿の海蔵寺と並び内藤新宿の遊女の投げ込み寺として有名である。
米俵にくるまれて投げ込まれた飯盛り女(子供と呼ばれていた)を供養する「子供合埋碑」。
成覚寺の墓所をまもる墓守。
曹洞宗 天龍寺正門(天竜寺ともいう)。 上野寛永寺が江戸城の鬼門の鎮護の役割を果たしていたのに対し 天龍寺は裏鬼門鎮護の役割を帯びていた。又この寺は家康の側室 於愛の方の実家笠岡藩牧野家の菩提寺でもある。
境内にある天水琴。以前行った稲荷鬼王神社にもあったが 水を流すと微かに水の滴るような金属音が聞こえてくる。湧き水が豊富で かっては境内に池があり渋谷川の源流となっていたという。
江戸三名鐘の一つとされる時の鐘。 天龍寺の鐘は寛永寺、市谷亀岡八幡宮の鐘と並び江戸三名鐘と称された。遠く内藤新宿まで来て夜遊びする人には腰を上げるのを促したことから”追い出しの鐘”とも言われ30分ほど早く鳴らしたと言う話も伝わっている。又鐘をつく時刻を知らせたオランダ製のやぐら時計が現存している。
境内よりNTTビルを望む。
天龍寺正門(山門)を境内より望む。とても古そうで重厚な門である。
斜向かいにある新宿タカシマヤで食事をして今日の散策は終了。

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