From James slope to the Omori shell mound remains

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 今回は大井町から昔の鎌倉街道沿いの平安・鎌倉時代創建の寺社を巡る散策だった。 天気が悪く午後から雨も降り始めたので 鈴が森の刑場跡に行くのは割愛したが、今回もやはり東日本大震災の影響で寺社の灯篭などが被害を受けているのが目に付いた。 尚今回のルートは学研の「江戸東京歴史散歩1」江戸東京散策クラブ編を参考にしている。


日時: 2011年5月10日
交通: 東急大井町線 大井町駅、 帰り JR 大森駅 
ルート: 大井町〜ゼームス坂上〜高村智恵子終焉の地〜天龍寺〜海蔵寺〜海安寺〜泊船寺〜大井公園〜
鮫洲八幡神社〜来福寺〜西光寺〜光福寺〜来迎院〜鹿嶋神社〜大森貝塚遺跡  徒歩約 6キロ

学生の頃一時期 大井町に住んでいたことがあり この辺に良く外食に来たことがあったが 昔と変わらず飲食店が所狭しと並んでいる。 ここが別名ラーメン横丁というのを今回始めて知ったが、そう言えばその頃札幌味噌ラーメンが登場し この辺に良く食べに来たことがあった。現在は九州豚骨ラーメンが主流になり時代の流れを感じる。
ゼームス坂の途中に高村智恵子終焉の地の碑があると言うので探す。やはり同じ場所を探している人がいて一緒に探したが 黄色いレモンが添えられた碑だけがひっそりと佇んでいるのを見つけることが出来た。 「智恵子抄」で知られる詩人高村光太郎の妻智恵子は胸を患い ここにあったゼームス坂病院で亡くなったと言う。 光太郎は智恵子を想い死後最初の詩集「レモン哀歌」を発表した。
ゼームス坂の名の由来は ちょうどこの碑の向かいに その昔英国人M.ジェームスが日本女性を妻として住んでいたことによる。ジェームスは日本の海軍創設に貢献しており 坂本竜馬とも交流があったそうだ。
ゼームス坂を下った先にある曹洞宗 天龍寺に寄る。
真新しい木造の山門より門前通りを写す。 最近の街中の寺社は消防法や建築基準法等の規制によりコンクリート造りのものが多いが 敷地に余裕があるような寺社では木造の建造物が許されているそうだ。
倒壊した灯篭より芍薬(シャクヤク)を望む。天龍寺でも東日本大震災では灯篭が3ヶ所倒壊したそうだが、寺の住職と思われる方と地震や原発のことに関して長話をする。 随分詳しい方で今回の地震発生以前からいろいろ個人的に勉強していたようで(雑誌ニュートンの愛読者らしい)日本全国安全な所はないと言う結論になった。 人間は未来を知ることはできないので過去の統計データを基にした予測しか出来ないが、最近ようやく弥生時代まで遡って地震の発生確率を云々するようになったが、所詮確率の分母が300年から1,000年位になったとしても地球誕生から40億年以上であることを考えると想定外は起こりうる。起こった後の適切な対処が重要に思うが、最後は神仏にすがるより他ないのか。 
天龍寺の近くにある海蔵寺に寄る。 鎌倉時代創建の古刹で 三ノ輪には吉原の遊女の投げ込み寺として浄閑寺があるが、品川宿遊女の投げ込み寺としてはこの海蔵寺も有名である。遊女の霊を慰める無縁塔や牢で獄死した罪人の遺骨を葬る頭痛塚等がある。また慶應元年に建立された津波溺死者供養塔があり東京も昔は津波による犠牲者があったことが窺える。
仙台坂を横切り 海安寺に行く(”あん”という字は実際は安の上に日という字が付くがPCで変換できなかった)。寺の前の石塀に咲いていた花を写す。
  高村智恵子終焉の地で会った人の話では 海安寺は普段は中に入れないそうだが、この日はたまたま入ることが出来た。石職人のような人達と車が駐車していたので、ここも地震の被害があったのだろうか。
鎌倉時代の曹洞宗の古刹で、品川沖で取れた鮫の腹から千手観音像が出てきたことからその観音像を本尊として祀ったと言う。岩倉具視などの墓がある。 写真はHさん提供。
泊船寺。 俳句寺とも言われ芭蕉と弟子達の句碑があるそうだが中に入れなかった。
入れなかったのは 番犬として忠実に職務を全うしている柴犬の威嚇でした。
土佐藩主山内容堂の墓があると言うので大井公園に寄るが 土佐犬の威嚇はなかったが ここでも墓地には入ることが出来なかった。 代りに公園内の大きな木を写す。 この辺りに土佐藩の下屋敷があったそうだ。
  墓所の外からある墓の裏が見えたが、明治5年6月21日と記されている。 山内容堂が没した日なので どうやら これが容堂の墓らしい。写真はTさん提供。 
鮫洲八幡神社のネコ、何時ぞやお会いしたことがあるような。
鮫洲神社は以前来たことがあるが、江戸名所図会によれば 大きな鮫が揚がったことがあったが その頃この地に疫病が流行したため鮫のたたりかと恐れ漁師が鮫の頭を祭ったのが起源と言う。広重はこの先の鮫洲海岸の海苔の養殖風景を描いているが 現在は埋め立てられて鹿島運河や京浜運河に 当時そこが海岸であったことが想像できるのみである。
  本人も担いでいるようだが 近くの代書屋さんの話では 8月に行われる例大祭で昔担がれていた惣町大神輿(450貫)はとても重く 現在では当時と同人数では担ぐことが出来きないと 昔の担ぎ手は凄かったと感心していました(昔は海中渡御もあったし)。 現在は新しく作った八幡神社大神輿(300貫)を担いでいるそうです。大変賑やかなので今度来て見たらと言われました。 この狛犬は町内の漁師達が寄進したようだが漁師は”猟師”とも書くようだ。 写真はTさん提供。
  鮫洲八幡神社もやはり地震の被害があったようで灯篭が支え棒で補強されていた。 写真はEさん提供。
大森の布恒で昼食の蕎麦を食べる予定であったが閉店時間までに間に合いそうもなかったので 旧東海道沿いにある蕎麦屋で昼食を取る。
来福寺の長い参道。平安中期の真言宗の古刹。江戸名所図会によれば弘法大師の作になる地蔵菩薩を安置すると言う。
参道が気に入ったので上の山門から見たもう一枚。墓地には阿波国出の藍染物職人達の墓があり染物地蔵が立っている。
   これが阿波国出の藍染物職人達の墓と染物地蔵。 写真はTさん提供。
大福生寺、ヘルマン坂にある天台宗の寺院。大井の聖天さまとも呼ばれ大聖歓喜天を安置する。
立会道路。立会川はこの辺りから暗渠になって この緑道は大井町方面に向かうが、大井町でユーターンして碑文谷の碑文谷八幡まで続いている。
赤いバラと京浜東北線。京浜東北線の走る下を潜って西光寺方面に出る。
西光寺。鎌倉時代の浄土真宗の古刹。
境内には江戸名所図会にも描かれた桜の名木(ちご桜とあるが 江戸名所図会では醍醐桜と言う老樹があり この地第一の花の名所と記されている)があったが相当古い古木で現在は花を咲かせているかは不明。
大きなイチョウの木が目立つ光福寺門前。実際この大樹は品川沖の漁船の良い目印になったそうだ。
このイチョウの木は高さ約40メートル、樹齢約800年で区内最大樹で、麻布の善福寺のさかさイチョウと兄弟と言われている。江戸名所図会では弘福寺と記されているが了海上人の産湯(泉)があり この泉を大井と名づけたことにより この地が大井と呼ばれるようになったと言う。。
   これが墓地の中にある大井の泉。まだ水が湧き出ているようだ。写真はTさん提供。
光福寺の鐘楼とイチョウ。確かに遠くからでも良く見えそうだ。
光福寺の墓所から見える風景。
旧鎌倉街道をミラーで。普通の住宅街の通りのようになってしまった。
来迎院。 平安時代 鹿嶋神社の別当寺として創設された天台宗の古刹。三代将軍家光が鷹狩りの時よくこの寺で休んだので「お茶屋寺」とも呼ばれたそうだ。門前の旧鎌倉街道には念仏供養塔が並んでいる。
池上通りに入ると鹿嶋神社がある。 平安中期大井村の鎮守として常陸の鹿嶋神社を勧請したものである。
拝殿の裏にある鹿嶋神社の本殿。
手水舎の屋根とツツジ。
本殿屋根にはハトが置き物のように止まっていた。池上通りを下り大森貝塚に向かう。
大森貝塚遺跡のモース博士像と青いトライアルバイク。 アメリカのモース博士が横浜から列車で東京に向かう途中発見したと言う縄文時代の貝塚。
この遺跡は品川区にあり公園のようになっている。この辺りは品川と大田区の境目で一寸行くと大田区の大森貝塚の遺跡があると言うので行ってみる。
行ってみるとビルの谷間の小さなスペースに碑が立っていた。雨脚が強くなってきたので鈴が森の刑場跡はパスして大森駅ビルでお茶をする。

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