東京江戸散歩 写好倶楽部     Gallery I 旧乃木将軍邸から豊川稲荷・氷川神社へ

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 今回は坂の町 赤坂の散策だった。江戸名所図会によれば 昔この辺りは茜を多く産するので茜山と言われていたが 江戸時代は赤根山と呼ばれ 赤根山の坂なので赤坂と名づけたとある。 東京では稲荷坂や富士見坂などと言う坂が多いように思うが、実は赤坂と言う坂の名称は全国で最も多い名前だそうだ、東京で赤坂と言えばここしか思い当たらないのだが。 残念ながら今回のルートでは広重の江戸百景で描かれているポイントはなかった。東日本大震災後の初めての江戸散歩だったのだが、乃木神社の鳥居や氷川神社の石灯楼などが被害を受けているのを見るにつけても 大変な地震であったということを改めて思い知らされた。


日時: 2011年4月13日
交通: 営団千代田線 乃木坂駅、 帰り 都営南北線 赤坂山王溜池駅 
ルート: 乃木神社〜乃木坂〜稲荷坂〜薬研坂〜高橋是清記念公園〜豊川稲荷〜牛啼坂〜浄土寺〜丹後坂〜三分坂
〜報土寺〜榎坂〜氷川神社〜南部坂  徒歩約 5キロ

乃木神社の狛犬と枝垂桜。この後ろにあった一の鳥居と石玉垣が東日本大震災により破損したため撤去されていた。
旧乃木将軍邸。 中には入れなかったが門の外より中を写してみたが、意外に質素な屋敷である。
乃木神社では 4月13日はちょうど崇敬者大祭が行われる日であった(乃木将軍の殉死した日は9月13日)。
社務所から公家装束を着た人達が登場。
幣殿で行われる崇敬者大祭の儀式のため二の鳥居から本殿に進む。 写真はHさん提供。
崇敬者大祭の儀式のため奥の方まで入れなかったが 拝殿横に大きな枝垂桜がありちょうど満開のようであった。写真はEさん提供。
乃木神社参道横にあった桜の一枝。
乃木神社横の乃木坂は江戸時代は幽霊坂・膝折坂と呼ばれ急な坂だったが 乃木将軍が殉死してから乃木坂と呼ばれるようになった。
手水舎横に王子稲荷を勧請した赤坂王子稲荷がある。 乃木将軍御夫妻は生前 王子稲荷に崇敬篤かったとある。
乃木坂をずっと下りて来ると桧町小学校がある。 その交差点傍にあった枝垂桜と銅版葺きの建物。
稲荷坂の登り口と坂上を 途中にあったミラーで写す。坂下に稲荷神社があったのでこの名があるが、掃除坂とも呼ばれたようだ。 坂の上の方で道が鉤に交差しているのは 武家街に良く見受けられるが、当時のまま残っている。
稲荷坂を上りきって薬研坂に出る所にあった鋭角なビルと電柱。
薬研坂。 坂の曲がり具合が漢方を砕く薬研の形に似ていることからつけられた名前だ。
高橋是清記念公園の楓の木。 2.26事件で暗殺された政友会総裁高橋是清蔵相の邸宅跡が公園として残されている。
高橋是清記念公園横のガラスのビルの壁面に映った公園の木々。
豊川稲荷の石灯篭とホテルニューオータニ。
豊川稲荷本殿と狛犬 と言うよりは狛狐。
豊川稲荷は大岡越前の子孫が勧請したもので 珍しい仏教系の稲荷である。
元は赤坂一ツ木坂の大岡越前の屋敷にあったものがこの地に移されたと言う。
愛知県豊川市の妙厳寺の鎮守であるダキニ真天を勧請したもので豊川稲荷は妙厳寺の東京別院。なるほど豊川と言うのは豊川市から来ていたからなのか。
明治にこの地に移されてからは赤坂界隈の飲食店や芸能人の参拝が多く、参道の両側には多くの信者から奉納された幟が立ち並び「千本のぼり」と言われる。
 この一郭のお狐さんは 皆口に何かくわえている、手前の狐がくわえているのはチクワだと思うのだが。 写真はTさん提供。
牛ではなくラクダの鳴く声が聞こえてきそうな牛啼坂。旧大山街道の坂道で坂を上る牛が喘ぎながら上ったので牛啼坂と言うようになったと言う。
丹後坂(現在は階段)を下りて一ツ木通りに出た所にある浄土寺の一ツ木地蔵菩薩像。一ツ木通りは赤坂の有名な飲食街だが こんな所にお寺があるとは知らなかった。 写真はEさん提供。
浄土寺門前にある子育て地蔵と身代わり地蔵。近くの赤坂不動に寄り、食事をした後円通寺坂方面に向かう。
円通寺坂脇のかなり目立つ絵でペインティングしている建物。
円通寺と高層ビル。江戸名所図会によれば古の円通寺には大きな釣鐘があったと記されている。
円通寺坂を上がりきった所にちょうど満開の桜の木が一本立っていた。
三分坂の降り口にあった見事な白いサクラのような木。
三分坂下の報土寺の築地塀。この築地塀は江戸時代のものである。
三分坂とは「さんぷんさか」と読むようだが、名の由来は江戸時代、駕籠かきが 坂の手前で三分の割増金を取ったとか この坂を登る車の後押し賃が銀一匁目の十分の三だったとか言う話からきているそうだ。
報土寺境内からボケの花と高層ビルを望む。
報土寺裏の墓所には江戸最強の力士と言われた大関雷電為右門の墓がある。横綱にはなれなかったが 大関を16年間務めたという(当時 番付では大関が最高位)。手前の雷電が持ち上げたと思われる力石には三十貫(112.5キロ)と書いてあるようだが 持ち上げようとしたがピクリともしなかった。
   なるほど報土寺の屋根瓦には雷電の「雷」という字が彫られている。写真はTさん提供。
氷川神社の狛犬。報土寺から桧坂を上り赤坂氷川神社に向かう。この氷川神社は八大将軍吉宗によって建てられ、質実簡素な権現作りの社殿がある。この狛犬の後ろには大きな石灯楼があったようだが 東日本大震災でやはり倒壊したようだ。地震の時は石灯篭や鳥居の傍には行かないようにしよう。
氷川神社の境内で日向ぼっこしているネコ。傍に浅野内匠頭の正室・搖泉院(ようぜいいん)の実家があったことを記する史跡がある。浅野内匠頭が切腹した後 お預けの身になったところだ。
この後南部坂方面に向かう。
歌舞伎の「忠臣蔵、南部坂雪の別れ」で有名な南部坂の傍にあった黒い塀と鮮やかな緑の葉。
大石内蔵助は討ち入り直前 搖泉院を尋ねるが 密偵に悟られないよう 西国の大名に召抱えられたと偽りの報告をし旅日記(実は連判状)を渡し最後のお別れをするが 搖泉院は怒り席を立つ。 大石は断腸の思いで雪の降る南部坂を下る。

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