From Kuramae Jinjya to Ekouin

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今回は下町エリアの散策で唯一残っていた蔵前から両国方面への散策だったが、散歩途中東京大空襲で親族7人を亡くした方と話したり、復興記念館では関東大震災や東京大空襲で焼け野原となった東京の街並みの写真や展示物を見たり、回向院では明暦の大火の焼死者供養塔を見たりと災害に関するものが多かった。 そうしたら3日後に東日本大震災が起こり東京大空襲の写真で見たような瓦礫と化した東北の街がテレビで連日放映され この散策での写真の整理も手につかないような状態が続いた。 実は自分も4歳の頃十勝沖地震で津波の恐ろしさを経験している。記憶に残っているのは 2階にあったおもちゃのピストル取りに戻ろうとするのを母の手で強く引き戻され 泣きながら近くの山に逃げる時 海の水が遠くに引いて黒い雲のようなものが遠くの沖に盛り上がってくる光景を見ただけだったが。その日は雪の降る山頂で夜を明かしたらしい。

亡くなられた方のご冥福を祈るとともに被災者の方に心からのお見舞いを申し上げたい。 近頃は金融危機もそうだが想定外と言われる事象が多い、人間は万能であるという おごりに対する警鐘か。ブラックスワンは何処にでもいる。 


日時: 2011年3月8日
交通: 都営浅草線 浅草、 帰り JR総武線 両国駅 
ルート: 宗吾殿〜蔵前神社〜西福寺〜鳥越神社〜おかず横丁〜浅草御蔵跡〜復興記念館〜震災祈念堂・
東京都慰霊堂〜旧安田庭園〜回向院〜吉良邸上屋敷跡  徒歩約 4.5キロ

黒船神社の狛犬。神社は小さいがなかなか迫力のある狛犬だ。 黒船神社は昔の黒船町(現在は寿町)にあり増上寺に属す。ペリーの黒船や どら焼きで最近有名な黒船とは関係ないようだ。
宗吾殿。千葉佐倉の名主佐倉宗吾(木内惣五郎)が佐倉藩(藩主堀田正信)の重い年貢に苦しむ農民のために徳川家光に直訴して処刑されたが、その後堀田家が屋敷内に宗吾を弔うため建立したもの。佐倉宗吾は芝居や講談で登場するが、堀田家が弔うのは何かたたりでもあったのだろうか?
寿三丁目の交差点に鏡のように良く映るビルがあった。
かや寺の三叉とお地蔵様。江戸名所図会によれば、この寺には大きなかやの木があったため かや寺と言う名がついたそうだ。
かや寺にあった真っ赤な実のなっている植物。
蔵前神社の横の稲荷神社鳥居前の黒猫。
蔵前神社は応神天皇を祭る。江戸時代には安政の大地震の供養塔があったそうだ。
創建当時は勧進相撲が行われ横綱谷風や大関雷電等の力士が活躍した。鳥居前の壁には昔懐かしいし千代の山や吉葉山、栃錦などの名の彫った奉納された石玉垣がある。
西福寺。徳川家康江戸入府とともに三河からこの地に移ってきた浄土宗(法然)の寺。境内には家康の側室於竹の方とその娘振り姫の墓などがある。葵のご紋が建物に印され松平家と深い関わりがあるのが分かる。
西福寺を出ると墓所があり入り口が閉まっていたが お墓にお水をやり清掃していた人が中に案内してこの慰霊塔のことを説明してくれた。 この慰霊塔は3月10日の東京大空襲で亡くなられたこの近所の遺族の方達が建立したものだそうだ。 この方の親族は7人も空襲で死んだそうだ。10日の法要を前にお清めしていたらし。
鳥越神社に向かう途中神社のようなものが建っていたが どうもお風呂屋さんのようだ。 煙突がなければ勘違いしてしまいそうだ。
鳥越神社鳥居。 鳥居の柱を触ってお参拝に行く人がいた。この辺りから御蔵前の辺りまでを「鳥越の里」と言っていた。
この神社は6月に行われる4トン神輿を担ぐ夜祭で有名だ。 一度行ったことがあるが地元以外の人が神輿を担ごうとしていさかいを起こすのか 機動隊が隊列を組んで厳重に規制していたのにはビックリ。
ここの狛犬もなかなか恐ろしい顔をしている。鳥越神社は「寺は浅草、社は鳥越」と下町っ子に愛されている神社だ。
オリジナルのルートにはなかったが、鳥越神社の裏の方にある「おかず横丁」に寄ってみる。
うなぎ屋さんの看板ネコ。
  変わった衝立。写真はEさん提供。
夕方は買い物客で一杯になるのだろうが昼だったので客足はそれほど多くない。 皆で味噌屋さんで買い物をした。
鳥越神社前の蔵前橋通りの一風変わった街灯。
浅草御蔵跡よりスカイツリーを望む。この辺はかって江戸の物流倉庫である「米蔵浅草御蔵」があったところで、旗本や御家人はここの札差(ふださし)を介して米をお金に換金していた。
蔵前橋にはお相撲さんのレリーフがある。この反対側には「首尾の松」と言う松があったらしい。将軍家光の前で豊後守忠秋が氾濫した大川(隅田川)を馬で渡ったのを賞して近くにあった松を「首尾の松」と名づけたと言う。 これにあやかって吉原通いする遊客が今日はこれからことが首尾よく行くようにとこの松に願ったと言う。
横網町(よこあみ)公園の辺りは関東大震災当時空き地でここに避難してきた人3万人以上が焼死したと言う。公園内にある復興記念館で関東大震災や東京大空襲の写真や被災品等の展示物を見学した後、10日に行われる法要のための飾り付けをしている震災祈念堂・慰霊堂にお参りする。
   関東大震災による火災で溶けた自動車のシャーシとエンジンと思われる遺留品が展示されていた。鉄は千数百度で溶けるので、数百万度にもなると言う核爆発では蒸発してしまうのだろうか。
写真はTさん提供。
復興記念館では関東大震災に対して20数年後戦争相手になるアメリカや中国からも民間等の援助があり そのことを感謝している記録があったが、今度の東日本大震災でも色々な人や国から援助や励ましがあり感激している。
千鳥波風屋根の東京慰霊堂。 関東大震災、東京大空襲ともに10万人以上の人が亡くなられたが、ここにこのような慰霊堂があるとは今まで知らなかった。 だんだん実際に経験した人が少なくなっていくので記憶を風化させないようにしなければと思う。 ここに来る途中東京大空襲で親族の方が7人亡くなられた方のいった言葉が思い出される。 「自分ももう年なので私が死んだらこの慰霊塔は誰が管理してくれるのだろう」 
旧安田庭園から国技館を望む。墨田川の水を引き入れた潮入り回遊式庭園。
旧安田庭園の池に映るドコモのビル。 この庭園は大名の下屋敷だったもので明治になり安田財閥の創始者安田善次郎の所有になり 大正時代に東京に寄付された。
スカイツリーも映っていた。
庭園を見ながらしばし休息。
  ユリカモメも休んでいた。写真はTさん提供。
国技館の方に向かうと やはり場所柄お相撲さんを見かけた。自転車がちょっと可哀想である。
国技館は休業中。両国駅前の手打ち蕎麦屋で遅い昼食を取る。
  回向院山門前の左側の赤い梅の木。写真はTさん提供。
  回向院山門の右側の白い梅の木。写真はEさん提供。
回向院の力塚。元勧進相撲は富岡八幡宮で行われていたが 後に回向院の境内などで行われるようになり 回向院は春秋2回興行の定場所となった。 この力塚には歴代の横綱たちの遺骨が分骨されている。
回向院の大きなイチョウと観音像。回向院は明暦の大火で死んだ10万人に上る無縁仏の霊を供養するために将軍家綱に」よって創建された。
犬塚。回向院では人間だけでなく万霊回向で動物の霊も祭る。これは犬の霊堂。
これはネコの霊堂。後ろに見えるのは馬頭観音堂。
回向院は ねずみ小僧次郎吉の墓があるのでも有名で、墓の前にある「お前立ち」の石は原型をとどめないほど削られている。一生懸命石を削ってビニール袋に入れている女性に何を願っているのか尋ねたら「知らないんですか 先日テレビでお金がたまると言っていましたよ」とのこと。本来はねずみ小僧の強運にあやかって賭け事や合格祈願にご利益があるそうだが。
回向院の近くには両国広小路があり江戸有数の繁華街であった。広重は「両国回向院元柳橋」と言う題で回向院で行われた勧進相撲の太鼓櫓を富士山背景に描いているが、大相撲は休業中でもあり ここでは回向院の馬頭観音堂を高層ビルを背景に写してみた。
回向院の仲良しカップル。
あまりしつこいのはイヤ。
馬頭観音堂。 赤穂浪士が吉良上野介を討ち取った後 回向院に立てこもって討ち死にしようとしたが 住職は血まみれの赤穂浪士に驚いて門を閉じてしまい やむなく永代橋を渡り泉岳寺に行ったと言う。
高家筆頭吉良上野介の上屋敷跡。 元の屋敷は部屋数50以上もあったという。探し出すのは さぞ大変だったろう。 中に討ち取った吉良上野介の首を洗ったと言う首洗いの井戸がある。
  首洗いの井戸。 写真はEさん提供。 今回の散策はここが終着点、帰り両国でお茶をして帰る。

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