From Nippori Doukannyama to Yanaka

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今回は広重の江戸百景にも描かれている日暮里道潅山から谷中の寺町へ抜ける道のりだった。 あいにく天気も悪く寒かったので以前歩いた「谷中霊園から根津神社へ」と重複する所もあったのでショートカットしたのだが それが良くなかった。谷中は寺が多く道がその周りを取り囲むようになっており さらに蛇道といわれるように もと川だったところが道になっているので真直ぐな道がなく途中道を間違えるとえらいことになる。 今回寄る予定だった所を何箇所かパスしたので いずれ再挑戦してみたい。 


日時: 2011年2月8日
交通: 山手線 西日暮里、 帰り 山手線 日暮里 
ルート: 西日暮里公園(道潅山)〜諏方神社〜浄光寺(雪見寺)〜南泉寺〜夕焼けだんだん〜延命院〜経王寺〜
自性院〜感應寺〜金嶺寺〜瑞輪寺〜大円寺(瘡守稲荷)〜谷中銀座  徒歩約 4キロ

西日暮里から間坂(あいの坂)を上って道潅山(現在は西日暮里公園)に行く途中の石塀に竜が無理やり顔を出しているような木の根があったので一枚。道潅山はもと大田道潅が出城を築いた所と言われている。
公園の下は西日暮里駅のプラットホームで広重の描いた「日暮里諏訪の台」のような面影はない。昔日暮里は新堀と言われていたのが風光明媚で一日中いても飽きない日暮の里(ひぐらしのさと)と言われていたため日暮里と呼ぶようになったそうだ。当時は虫聴きと言う風流な遊びがあり道潅山は虫聴きの名所でもあった。
諏方(すわ)神社の狛犬。 この神社は「すわ神社」と読むが「わ」の漢字に言(ごんべん)がない。信濃の上諏訪神社を勧請して、日暮里、谷中の総鎮守としたもの。
  諏方神社社務所。 確かに言(ごんべん)がない。 写真はTさん提供。
広重の「日暮里諏訪の台」によれば眼下に見えるのは 田んぼが一面に広がり遠方には筑波山が見えていた。現在は風光明媚とはとても言えないが。
諏方神社の灯篭形の庚申塔。庚申塚は路傍などにあるが寺社にもあるらしい。青面金剛(庚申)をまっつてあるものを言う。
  雪見寺として有名な浄光寺山門。日暮の里では他に本行寺(月見寺)、青雲寺(花見寺)、修性院(花見寺)などが江戸時代の景勝地として有名だった。
写真はHさん提供。
浄光寺(雪見寺)のお地蔵様。
広重は「日暮里寺院の林泉」でこの辺りの寺院が林泉を構え花木を植える寺が多かったのを描いている。
浄光寺は江戸六地蔵の一つである。これは巣鴨の真性寺などの江戸六地蔵尊とは別のもので 東都最初の六地蔵で現存する唯一のものである。左の地蔵の後光(頭光)が鉄製なのか錆びているのが印象的である。
  立像の背面。 昔はボルトがなかったので頭光は差込んで留められているようだ。 写真はTさん提供。
境内にあるお地蔵様の前には寺の人が毎朝 ワンカップ大関の様なコップに表面張力が見える程一杯にした水(多分お酒ではないと思うが)を全てのお地蔵様の前に置いてあるようだ。 一体コップがないお地蔵様を発見したが多分置くのに手が届かないからだろう。
富士見坂。浄光寺にお参りに来ていた人の話では良く晴れた日はここから富士山を見ることが出来、冬のこの時期は夕日がが富士山の頂上に沈むダイアモンド富士が見えるそうだ。先日ここから撮ったダイアモンド富士の写真が新聞に載っていたと言っていた。 いつか挑戦してみたい。
富士見坂を下ると六阿弥陀道に出る。谷中から田端の阿弥陀如来を祀る与楽寺までの道を言う。六阿弥陀道の南泉寺門前の老いたネコ。
ここは武蔵野の面影残るとあるが当時の武蔵野国は現在の東京、埼玉、横浜の一部を言ったようだ。
  谷中銀座には実際ネコが多いが、上を見上げるとネコのオブジェも見受けられる。 写真はHさん提供。
以前歩いた夕焼けだんだんを上ると延命院がある。この寺には樹齢600年の椎の木があると言う。
なるほど鉄骨で補強されてかろうじて延命している椎の木があった。 でも椎の木の朽ちた部分からセンリョウの木が育っているのにはビックリ。
夕焼けだんだん方面を望む。ここからオリジナルのルートから外れて三崎坂(さんざきさか)方面に行く。
ブリキ屋さん。ブリキとはこう言う字を書くのか。
ルートにはなかったが龍泉寺のウメ。
感應寺。 このあたりは寺町だけあってやたら寺が多く地図に載っていない寺も多くある。 渋江抽斎の墓があるが, 森鴎外の「渋江抽斎」は彼の史伝ものでは最高傑作であろう。
自性院のお地蔵様。 川口正太郎の小説「愛染かつら」はここにある愛染明王と院内の桂(かつら)の古木を見て作品を草稿したと言われている。

瑞輪寺の大伽藍。この寺には家康の命を受け江戸に上水道を導いた大久保主水の墓や赤穂浪士で有名な吉良家の家臣清水一学(一角とも言う)の墓がある。 メンバーの一人が お兄さんが養子に行った先の家の墓があったはずだと言うので探したが 広大な墓地だったが偶然探し当てることが出来 20年ぶりの対面を果し感激していた。
古い格子と緑色のカーテンがレトロな玄関。
何処を歩いているか分からなくなり 歩いている途中たまたま見かけた小さなお稲荷さん。真島稲荷と言うらしいが、タモリのブラタモリでも紹介されたそうだ。
昼食を取る予定にしていた蕎麦屋(鷹匠)が見つからず グルグル回って探して写真を撮るどころではなかった。スマートフオンに代え時かなと思った。
大円寺。この寺には美人画の先覚者で錦絵の鈴木春信の碑と春信が美人画で描いた笠森稲荷の茶屋の看板娘お仙の碑(永井荷風による)がある。お仙は突然店からいなくなり駆け落ちしたといううわさが立ち、春信も「お仙の駆け落ち」と言う題で錦絵を描いているが、実際は御家人に嫁いだということだったらしい。
笠森お仙以外に明和の三美人としては浅草の楊枝屋「柳屋」の看板娘 柳屋お藤、水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし が美人画によく描かれていて江戸で評判であった。寛政年間に入ると喜多川歌麿は個々の容貌の特徴を描きわけた美人画を描き、バスとアップの大首絵を描いた。 芸者の宮本豊雛、浅草水茶屋の難波おきた、煎餅屋の娘高島おひさが当時三美人と言われた。
怪しげなレトロな写真がある店。古本屋さんでした。
結局目的の蕎麦屋は見つからず 谷中銀座に戻り 近所の人に聞いた近くにある蕎麦屋さんに入る。 寒くて早く切り上げたのに喫茶店で5時過ぎまで長居してしまった。

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