kanda Otamagaike

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8月は猛暑で東京江戸散歩はお休みしたので 久しぶりの江戸散歩であった。 今回は神田から浅草橋までで 江戸時代からの町名(紺屋町、小伝馬町、人形町、馬喰町 等) が随分残っているので期待していたが、歩いてみると戦災で焼けたため古い建物は殆んど残っていなかった。
結局 史跡はプレートや案内板で確認できるだけで 江戸名所図会で当時の情景を想像するすることぐらいしか出来なかった。 今回のルートでは広重は「神田紺屋町」と「馬喰町初音の馬場」を描いているが当時の痕跡はまったくなく 彼が現代にタイムスリップしてきたら きっとびっくりするだろう。 


日時: 2010年9月14日
交通: 山手線 神田  帰り 都営浅草線 浅草橋
ルート: 紺屋町〜千葉玄武館道場跡〜お玉ヶ池跡とお玉稲荷〜弁慶橋跡〜伝馬町牢屋敷跡と処刑場跡〜
宝田恵比寿神社〜椙森神社〜玄冶店跡〜薬研堀不動院〜初音森神社〜柳橋界隈  約4.5キロ

ご町内の人によれば 紺屋町は北乗物町で南北に分断されており南の方の紺屋町に昔 染物屋が多かったと言うので行ってみた。
しかし 現在はそれらしきものが見当たらないので 広重が描いた藍染の反物に見立ててカラフルな線が面白いビルを写してみる。
昔は藍染川が近くを流れており 藍染職人が多く住んでいて 反物を高くつるして干している光景がごく普通に見られたそうだ。高くつるされた反物の代わりに細長い建物を写してみる。
この近くの藍染川には昔 弁慶橋と言う変った形の橋 (大工 弁慶小左衛門が地形に合わせ工夫し筋交に架けた) が架かっていたが、赤坂にあった弁慶橋はその廃材を利用して明治になってから移築したものだそうだ。
最近省エネで緑で覆われた建物が多くなってきたが、この建物は古くから実践していたようだ。おばあちゃんを点景にして一枚。
この先には かって千葉周作で有名な神田お玉ヶ池の玄武館道場があり、その側には公立で明治初期につくられた桜池小学校があったが 後年 千代田小学校と併合され千桜小学校となった。しかし少子化のせいか 現在は空き地になっており 千桜百年の碑を残すのみである。
  戦災で古い建物は残っていなかったと書いたが、少しはあった。 この写真はメンバーのTさんから拝借したが 神田の裏通りにある随分レトロな建物。 店の名前に硝と言う字が入っていたが 染物屋とは考えられないので花火屋だったのだろうか。 
  これもTさんが写したもの。 建物は戦後だろうが名前が随分レトロなので。 
  この辺は江戸初期 上野の不忍池ほどの大きさの池があったそうだが、当時の江戸の人口増に対応するため幕府により埋め立てられ江戸後期には消滅していたらしい。 当時も開発でどんどん地形が変わっていたのは広重の「品川御殿山」などでも見ることができる。 江戸名所図会によれば 旧名を桜が池と言い その昔 玉と言う女が住んでいて 旅人 (この辺が奥州への通路でもあった)に茶などふるまっていたが 二人の旅人に思いを寄せられるも どちらとも決めかねて 池に身を投げた という言い伝えから お玉ヶ池と言われるようになったらしい。 
伝馬町牢屋屋敷と処刑場跡 (現在は十思公園になっている) の向かいにある大安楽寺。処刑場の跡なので安楽死と言うわけでもないだろうが、この処刑場では吉田松陰、橋本佐内ら安政の大獄で50人ほど入獄し処刑された。この他 十思公園には江戸の民に時を知らせた「石町時の鐘」(町内の家から時銭として月一文ずつ集めて維持していた)が残っている。
大安楽寺の隣にある身延別院の油かけ大黒天神。車のライトとの対比が面白いと思い一枚。 水の代りに油(菜種油?)を大黒様にかけて祈ると御利益(商売繁盛等)があるそうだ。 ここの油かけ大黒天神の由来は俳優の長谷川一夫の奥さんがお告げを得てここに祀ったそうです。
べったら漬けの市で知られている宝田恵比寿神社。普通の家の正面が拝殿になっているような造りだ。大勢の人が参拝しないで神社の横の狭い道を通り過ぎていくので なんだろうと思ったら、裏のほうに食堂街があり お昼のサラリーマンの群れでした。
その側に古い建物と新しいビルが渾然と一体をなしているのが面白いので一枚。
椙森(すぎのもり)神社。この辺はあまりお弁当を食べるような場所がないのか 神社の片隅でお弁当を食べている人がいました。
それにしてもこの辺は 昼食の激戦地のようで350円のお弁当に長蛇の列。デフレスパイラルを目のあたりにしたような気がした。
人形町の方に出た所で対照的な男女の看板が人目を引く。水天宮には別なルートで行ったので今回は寄らないことにする。
東日本橋方面に行くと正面に 出ました東京スカイツリー。 前日ようやく実際に日本一の高さになったそうです。
ここからも見えるが 何だか電線で支えられているように見える。 この先に川崎大師の別院で江戸三大不動 (他に目黒不動、目白不動)の一つ薬研堀不動院があるが そこでお参りして柳橋方面に向かう。
  これが 薬研堀不動院。 江戸三大不動にしては意外と小さい。江戸散歩メンバーのEさんの写真を使わせてもらいました。
柳橋の堀の柳と向かいのビルを 開きビルの窓から望む。
広重の「馬喰町初音の馬場」を描いた辺りを探したが まったく痕跡を視止めず ビルの一階にある初音森神社を下から見上げるように撮る。
広重がタイムスリップしてきたらこの辺りを描くだろうか。この右手後方に 当時は郡代屋敷や初音の馬場があった。柳はやや小ぶりで品川の船留りの近くにある方が大きいと思う。
それとも広重得意の手前に大写しの被写体を置き このサイズだとあまり良く見えないが 遠方の緑色の柳橋に目を行かせる様な感じで描くだろうか。
浅草橋から前方に見える柳橋を望む。 誰か暑くて橋から飛び降りようとしているのかと思ったら(このサイズだと良く見えないが) ロケをしていたようだ。
  浅草橋から郡代屋敷跡方面に向かって大正時代を彷彿させるような老人が歩いていた。メンバーの Eさんが撮っていたので拝借。 
黒い壁板に柳が佇む高級料亭の近くに 西日がベニヤ板に映えて眩しい家があったので一枚。
柳橋。なかなかモダンな橋だ(昭和4年架設) ランプが点くトワイライトの時間帯では さぞいい雰囲気なんだろう。
柳橋から両国橋(赤い橋)を望む。旧名は大橋(新しく出来た新大橋はこの両国橋と区別するため新を付けた)であったが 昔ここが国境であったため両国橋としたとある。
柳橋で日向ぼっこかな。
今日はここから浅草橋見附跡 (江戸に36門あった見附の一つ) を見て 遅い昼食を取り帰路に着いた。 


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