<下草>

 憂鬱な梅雨がはじまる、しかし山にいく計画はどんどん出てくる(笑)。登山なのだから縦走はできるし、沢も条件がそろえばいける場合もある。岩はなかなか気分がのらないけれど。ところでこの時期にもうひとつ憂鬱なものが・・・それは森の中に下草が増えること。でも薮漕ぎの話じゃなくてここでは庭の話。

『え、そんなに広いのか、森の中〜っ?』
「あ、そうじゃなく下草の話」
『?!』

 山が新緑のころ、木々萌えるさまを快く思い、樹林の中の下草だっていろいろな種類があることに妙に感心したりするくせにね。庭にもそれと同じように名も知らぬ草木が増えてくるとどうも違う行動をとる。増え過ぎ、大きなものになると、整理したいと思ってしまう。すっきりさせたくなる。
 庭って手入れしてないと庭にはならない。それが実感できるのは塀の外がそのまま山になっているからだろうか。そこが市街下調整区域でもあるので山そのままの要素が強い。そこから植物が押し寄せてくるのだ。その中でも蔓性の植物が結構手ごわい。塀の中にある数本のクスノキも塀を越えて長い触手が伸び、からまり、そして樹氷よろしく緑のモニュメントになってしまう。その部分を剥ぎ取っても、年ごとに蔓の前線基地は確実に増え、こちらに近づく。ついにあるとき掃討作戦に出た。もっとも枯葉作戦や焦土作戦のような化学兵器など持ち出す真似はしないけどね。ま、緩衝帯を切り開いたわけだ、お互いのために。こうなるとそれまでその植物のいた下に日差しが入り、それまで押しやられていた新たな植物が幅を利かす。こうして次のシーズンには別のグループが大きな群れを成す。草木の生態を知ることができ、これはこれで面白い。まあ、ともかく庭の秩序を保つには、手入れが必要なわけだ。ほったらかしでは庭にならない。もっとも山を彩る樹林も、森林のもつ環境保全機能として活用、防風林・防火林・雪崩防止林・水源かん養機能など、目的を持ち間引きや下草刈など手入れされ、コントロールされているところもあるのだから、庭の一種かな。手つかずの原生林や手入れが行き届かない森は奥に入っていかないと少ないのだろう。

『オイオイ、いったいどう話がまとまるの、環境の話か』
「ここで話はそのコントロールなんだけど植物の、それも主に食べるとか、そうした生産性を追及した植物の」「ま、畑ですね、それもビルの一室を利用しての」

 都心の廃屋ビルを利用、日照となる太陽の替わりの光り成分や、水分・ミネラルその他の栄養など、生態系の研究からコンピューター制御で完全供給、結果均一の品質をいつでも一定量で効率よく生産できるシステムの追求。ビル内での農産物の商品開発技術の進められている話しを聞いたことがある。一般的にいう自然栽培のものに同一(いやそれ以上か)のものができるという。

 さて、いろいろな経験や知識が蓄積され、品質を生み出すシステムが高度化へ向かっている山塾はどうだろう。

『本当かよ』
「まあまあ抑えて(笑)、ともかく・・・」

 山をはじめて間もない人でも、よりはやくまとまった情報が届き、時間かけて(かかって)得られた場合と同じいろいろな楽しみが満喫できる。で、登山者として自然栽培と同質かそれ以上に。でもほんとうに同質なのかな(因縁つけてるわけじゃないけどね・笑)。同質であることを確認する、または示すのは実は結構大変かも。1000の因子で同じであっても。まだ気が付かない1001個目のなんらかしらの因子が、違うかもしれないからだ。だから自然栽培と同じとはいえないわけだ。そもそも自然栽培が必ずしもいいわけじゃないけれど(それは置いといて)、まあ、それなりにいける(楽しめる)ところに達しても、油断しないでね。ってことかな。簡単に言えば。こんなこと考えてる自分だっていんちき促成栽培、ニセ自然栽培品だろうから、1001個目の不足部分があると思って進んでいったほうが長生きするような気がする。と、いうことで気を引き締めていこう今年の夏。