<動悸、いや動機>
山に入りたい(いきたい)気持ちの持続ってなんだろう(深刻に考えたいわけじゃないけれどね・笑)。
自然の懐に抱かれたいから・記録狙いの山・自分が行けるだけの力があること見せつけたいがため・雪の中をもがくラッセルのために・月夜に行動したいがため・変わった名前の山にひかれて・風に吹かれたいから・自分がいったことないから・検証のため・・(字数稼ぎか!笑)、自分でもそのときで変わるのだろうな。だから持続しているのかな。大きな原動力のひとつに人がいるから、なんて感じることもあるが、本当のところはわからない。ひとつ、はっきりしていることがあった。それは自分の場合、単独での山行というのはめったにやらない。別に危ないからとかの理由で拒否しているわけでもない。もともと山塾に入った理由のひとつにひとりでもできるように山を学べたらな・・・なんて動機にあったのに。でも現実に初めからそれを目的としての山行はほとんど無い。自分の場合、何らかの意味付けやこじつけ?が必要なようだ。日程都合で後からベースまで入る、先に下山する、少しだけコース変えたい、ランニング登山の練習、写真撮影のための単独くらいか。漠然と山にいきたいと気持ちが湧いても、それだけでの単独計画ではテンションが低く実現することが少ない。
読売新道から水晶岳へ、ここでメンバーと分かれ単独で烏帽子方面に向かう。なんのことはない、剣合宿に合流するためだ。夏の北ア・縦走路、女性も含め単独者も多い。同じ方向にも単独者が何人かいた。行程も似たようなものであれば途中顔を合わせることも増える。テン場も同じキャンプ地となる。そこは単独行同士の交流の場ともなる。一人用のテントから各自のペースでお茶でも楽しみながらの情報交換だ。そうした単独行者同士が突然パーティ風味?になってしまうこともあるようだ。行きずりっていうのかな。いいところだけ利用できるならいいけれど、片方が事故などあったときにどこまでフォローしていけるのか。途中気象変化などで分かれてしまっても、相手よく知らないし元々別パーティなんだからとさほど気に掛けず、危機に陥っていても発見が遅れたなんてね。
別に単独ではないが年配の二人連れ、こちらは講習で10人近くのパーティ。天候が悪くなり雪も混じり視界も悪くなる。やや疲労したそのパーティはルート取りを頼りにしている様子も見える。こんなときはっきりさせておかないといけないことがでてくる。行動判断と責任の所在。世知辛いといわれるかもしれないが、悪い条件での長時間行動が重なるなら重要なことかも。
ある猟師の話。山中での狩猟中、嵐による悪天候、岩小屋に避難。そこにはすでに先客が。森の動物たち、野ウサギ・熊・きつねなど普段は敵対する間柄の動物たちもその中で嵐をやり過ごす。そうした状況ではお互い助け合う。そんな動物たちの共生の仕方に殺生を繰り返してきた猟師たちは・・と、どこかで聞いた話か(笑)。
最近の山岳サバイバル・ドキュメント。重傷を負った登山者が、すでに死んだと思い下山してしまったパートナーがいるベースへ自力でなんとか生還する話。その中で彼が「生きるためにがんばった、じゃなく死ぬとき自分のとなりにだれかいて欲しかった、そのために」なんて語っていたけれど、これは人との関係に希望を持っていたからなのかな。自分はそう考えるだろうか。
山を持続していることに、人との関わりが面白い、同行者とは限らないにしても最終的には人との関係があるから山を持続するのが面白いのかも・・・無理やりのまとめ(笑)。