山は哲2002 (「PHPほんとうの時代」2002年8月号)
(2002年8月1日)
 若いときからずっと、私なりのやり方というものを考えながら、山ひと筋でやってきました。
 たとえば、私は身体が小さく体力がないので、五十キロの荷物は背負えません。では、三十キロしか背負えないと、山登りが楽しめないかといえば、そんなことはありません。三十キロには三十キロの山登りがあるのです。「前人未到」「おれだけしかできない」をひたすら目指すのではなく「おれだってできる」、そんな山登リにずっとこだわり続けてきました。
 私はいま、「岩崎流ゆっくり歩き」を提唱しています。
 でも、い<ら口を酸っばくして言っても熟年のみなさんは概して登るのが速いんです(笑)。標準タイムより少し早く登れると「勝った」、遅れると「負けた」という具合に評価につなげてしまいがちです。私は、タイムにこだわるよりも、息を切らせないような歩き方をしたほうがいいと考えています。ですから、山へご一緒すると「岩崎さんと歩くととても楽だ」と言われます。「風景も見られるし、おしゃベリもできる」と。
 最近は、百名山ブームのせいか、山登りがスタンプラリーのようになっていると批判する方もおられます。たしかにそういう部分もあります。でも、景色を見て、花を愛でて友だちとコミニケーシヨンできて、その結果、頂上まで到達してスタンプを押すのであれば、スタンプラリーも悪くないのではと思います。
 どんなにゆっくりでもいいから、足を上げて歩けば、気がつくと頂上まで来ている、そんな山登りが私のやり方です。むしろ山歩きといっていいかもしれません。
 ゆっくりと山を歩いていると、いろんなことを考えます。これがまたとても楽しいのです。一年中、山に登っていますから、時事問題から人生の来し方・行く末まで、硬軟取り混ぜながら、いつもいろんな事柄が頭をめぐっています。山に登ると、考えが広がるのです。そんな山との関わり方から生まれた言葉が「山は哲」てす。哲「学」ではなく、「哲」するこつまり、学ぶのではなく、考えるのです。

 最近、気になるのは、時事問題に対するる報道が極端に偏っていることですね。何でも「イエス」、「ノー」、「正しい」、「正しくない」だけで処理されてしまう。もうちょっとおだやかな着地点を探っでもいいのでは、と思うのです。物事は、どちらかが一方的に正し<て他方は間違っているということはあり得ません。かつて司馬遼太郎さんは「本人は軽薄である」と書いておられましたが、とくにマスコミはセンセーショナルな報道をして煽る、一般庶民はすぐにそれにのってしまうところがありますね。
 そういえば、九七年夏に、仙丈岳に登ったときに、山小屋でたまたま日本共産党の不破哲三さんとご一緒し、その後『私の南アルブス』という本を送っていただきました。この本がずばらしいんでずよ。山登りの魅力をとでもいい言葉で表現されています。それがきっかけで『赤旗』日曜版で不破さんと対談させていただいたこともあります。共産党を支持するとかいうことから離れ、不破さん個人が好きで、応援したくなったのです。
 最近は小泉首相も応援したいと思っています。人間として魅力を感じるからです。自民党の支持者ではないけれど、小泉さんは支持したい、こういうあり方があってもいいのではないかと思います。
 小泉首相は年まわりで言えば兄になりますが、髪形といい雰囲気といい、死んだ父親によく似ているんです。それで親近感があるんです。人間的な魅力を感じまず。ぱくは共産主義でもなければ、資本主義でもありません。あえて言えば岩崎主義、かな(笑)。
 自然保護問題だって同じことが言えます。現在、林野庁は大きな財政赤字を抱えていますが、省庁は独立採算制なので、木を切らなかったら赤字はますます膨れていきます。ところが、自然保護派の人たちは切るなと主張する。木を切らない代わりに、税金を払うから林野庁の赤字をなんとかしようという発想はどこからも出てこない。金は出さない、木は切らせないじゃ解決するはずがありません。日本の運動体は、好きなことばかり言ってるだけで、まだまだ未熟なところが多い気がします。
 日本人は、自分を危害のおよばない安全地帯に置いて、人を責めたがる傾向があります。たとえば、一連の外務省の問題で、誰かをいじめる。けれど、なぜ、役所がああいう体質になったかと言えばば、我々国民が、行政をすべて役人に任せっきりにしてきた面も少なからずあります。外務省の問題は対岸の火事ではなく、我々の精神の反映でもあります。国民の一人ひとりが考えをもっとクリアにしていけば、日本もよくなっていくはずです。
 マスコミも暗いニュースばかり集めたり、特定の人間の糾弾ばかりするのではなく、もっと明るいハッピーな視点で伝えていってほしいと思います。

 私の山の集まりに来られるのは中高年の方たちが多いのですが、よく「人に後ろ指を指される人間になりましょう」と話します。「どうせ老い先は短いんだ。迎合して生きるのはやめよう」と。一度きりの人生なのですから、世の中に流されるのではなく、自分の頭で考えて生きたほうが有意義です。
 たとえば、義理で行かなきゃならないお見舞い、葬式、結婚式などは、極力、断ったほうがいい。年をとって、ある日、コロッと死ぬならいいけれど、寝たきりになることもあるでしょう。そうなって「あのとき見舞いに行かないで、山に登ればよかつた」と後悔するより、断れるものは断って山に行つたほうがいいに決まっています。ほんとうに行きたいのか、いい人と言われるために行くのか、胸に手を当ててじっくり考えてみればわかるでしょう。
 私は、人生後半は、天国へ行くよりは地獄へ落ちるように生きたほうが楽しいと考えています。天国は、安らかかもしれませんが、どう考えたって退屈しそうです。その点、地獄は血の池や針の山があつて、面白そうじゃないですか。いい人と褒められて閻魔様に「あなたは天国行きですね」って言われるよりは、やりたいことやって地獄へ送られるほうが一石二鳥じゃないかと(笑)。何でも自己責任で言ったり行動したりしたほうが面白い。それが、ちゃんと自立した人間だと思いますね。(談)
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