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無名山塾はパラダイス (「岩小舎2」巻頭言) |
(1986年3月31日) |
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“パラダイム”という言葉がある。コロンブスの卵という言葉に似ているが、ちょっと違う。コロンブスの方は、問題の解決法を意味しているが、パラダイムは、発想の出発点を示している。旧聞に属するが、裏ビデの名作と謳われた“洗濯屋のケンちゃんは”は、パラダイムの代表例といって良い。弁解がましいが、ぼくはまだ裏ビデオを観た経験がなく、評論家の意見を総合して当該ビデオを代表的なパラダイムと書いているのである。ケンちゃん以前の裏ビデオは、映倫カットの部分を觀せればいいという考え方で製作されていたらしい。そこにドラマ性と明るさを持ち込んだのがケンちゃんだった。以降、ケンちゃんスタイルの観る者をあきさせない裏ビデオが続々と登場するようになったとか・・・(ナニを書いてんじゃー)
さて、山の世界で(コレコレ、これを書きたかったのですよ)パラダイムといえば、最近のファミコンブームに勝るとも劣らないインパクトのあったものが、ハードフリークライミングであるといえる。それは岩雪77号の表紙を飾るジョンパーカーの表紙から始まった。実は水野祥太郎の昔から、ロッククライミングはフリーなものであって、彼の岩登り術を読めば、慣習律という項に、ハーケンをつかんだり乗かってはいけないというルールが書かれているのだ。しかし、、いつの頃からか積極的にハーケンを利用するようになり。、やがてロッククライミング界は人工登攀主流となって、デレッテシマ(これもパラダイムなのだ)の時代を迎える。
コロンブスの卵を解決策と訳すなら、パラダイムは方法論とでもいうことになりそうだが、主体性のある面白さ、価値を追及した発想の出発点なのであって、方法論と言い換えただけでは不十分なのである。平田紀之、戸田直樹の持ち帰ったパーカーの写真が、それ以前にもあるヨセミテクライミングの記録をさしおいて、ニューパラダイムたりえたのは、そこに明快な面白さ価値の追及があるからである。8000m無酸素登山、アルパインスタイル又は極地法登山にしても、それぞれ登山におけるパラダイムと言って良い。最今の登山界の議論の貧困は、パラダイムに対する認識が欠落していて、しかも同一平面上方法論としてのみマルバツサンカクを競うところにある。アルピニズム(より高きより困難を求める行為とその精神的背景)がパラダイムであった時代が永かったおかげで、登山がアルピニズム(上昇志向)と同値であると考えている人が多く(最近ではアルピニズムという言葉には否定的、あるいは知らず、その実、同根の登山者が増加しているので、問題の根は深そうだ)。アルピニズムを前提に議論を展開するから始末に悪い。そのハーケンつかまないという明快なルール(モラル)がそのクライミングを面白くするからこそ、平田、戸田の提案したフリークライミングがパラダイムになるのであって、このパラダイむに従ってクライミング計画を立てれば、女岩西面、小川山レイバック、ファミリークラックエリア etc、充実した1日を手中に収めることはできる。だからといってハーケンをつかまない−困難−価値という論理を押しつけてくるのは、上昇志向を是とする前提がある。
ぼくだってヒマラヤ登山をやってみたいと思っているが、上昇志向の山登りなどやって見たいとは思わない。ぼくが夢みているのは数人の仲間と気軽にチャレンジできる6000m峰だ。エベレストだって登ってみたいと思っているけれど、それもこれも、はっきり言って物見遊山である。物見遊山であるからこそ、死にたかないからトレーニングに励み(言うは易し)、慎重な登山を心がけたいと思っている。
ぼくには自分の登山を評価してもらおうなんて気はさらさらない。ぼくにもアルピニズム盲信の時代があった。あの頃のぼくは評価される山行を考え実行した。無雪期滝沢リッジ、荒沢奥壁北壁、南アルプスや奥秩父での沢登り、雨飾山フトンビシ岩峰群、前沢奥壁・・・・、その結果、それなりの評価は得たように思う。今のぼくがなぜに山に登り、登ったことを書くのかと言えば、面白さを提案したいからだ。奴の提案は面白いなどと評価されてもうれしくもないといってはウソになるが、そんなところだし、くだらねえと批難されたって痛くもかゆくもない。ぼくから提案を受け入れて見た人が、彼なりの面白さを実感できればそれでいい。その事実を報告してもらう必要もなければ、ぼくの面白さを同意してもらう必要もない。例えば東北栗駒山産女川は、ぼくが世に出したと自負している。そのインタレスト・グレードの高さゆえに入渓者も多いということを人伝てに聞けば、正直なところ悪い気はしない。沢登りを中心に精力的な単独登山を続ける治田敬人氏は、彼の山行記録集“燃えよ闘魂”の中で、こんな美しい沢は初めてだと感激しており、同日、他に5人と7人の二パーティが入渓していたと警告されている。ただいま現在、ぼくはぼくからの提案の面白さに自信満々だ。こんな風に書くと、自信過剰でハナモチならないといわれそうだが、ぼくはもう41才、多少ハナモチならないことを書いても許されるのではあるまいか。ようやく結論に近付いてきた。ぼくからの提案の最たるものが“無名山塾”である、ということだ。自分にとって面白い山登りが出来るときだけ、在籍していれば言い。
いままで書いてきたいくつかのこと、アイスクライミング、ウォータークライミング、歩くスキー、アドベンチャースキー、山とのかかわり方は数えあげればきりがなく、その一つ一つがパラダイムたりえるから登山界は多様化、混迷してしまう訳だ。無名山塾はコロンブスの卵ではないから、問題の解決は期待されても困る。期待してもらえるとすれば、発想の出発点、無名山塾もまた、一つのパラダイムにして欲しいのである。このパラダイム“山登りは、なんでもあり”の思想に立脚する。
パラダイムは、なんとなく語呂が、パラダイスに似てはいまいか。無名山塾はパラダイムは、無名山塾はパラダイス−−−−−−。 |
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