|
|
人と人の間に山 |
(1996年7月) |
|
「なぜ山に登るのか」という問いに対する答えは難しい。難しいというのは、答えられないということではなく、その答えは多用であって、一つに絞ってこうだからと答えるのがむずかしい、ということなのだ。だからマロリーも、とりあえず、「そこに山があるからだ」と答えておいたのだろう。
中高年の登山がブームだといわれている。たしかに中高年の登山者は目立って多い。では中高年は、なぜ山に登り始めたか。
僕が思うに、それは健康を意識してのことだと思う。医学の進歩で長寿は保証されたが、長寿イクオール健康ではない。健康すなわち自力で活動できる体力、気力が残っていればこその長寿だ。
歩くことが健康に不可欠の運動であることは、だれでも知っている。しかしだれだってかぜをひかなければかぜ薬を飲まないように、自らの不健康を認識いしなければ、“健康薬”を飲もうとはしないものだ。
僕に知り合いの山のグループには90歳という方がいらっしゃるとか。現在でもかくしゃくとして山に登られるという。うらやましいかぎりだ。わが90歳をイメージしたとき、だれだってそうありたいと願うだろう。そのためには日々の健康、今日から歩きはじめよう。どうせ歩くなら山がいい。
ということで、山登りを始めた中高年の方に、僕は「おめでとう」という言葉を贈りたい。山登り山歩きは健康運動として優れたものであし、空気はきれい、水はうまい。特に日本の山登りは、森林浴をしているようなものでフィトンチッド(樹木が発生する揮発性物質)を浴びることができるのだから。街で過ごすのも一日、山で過ごすのも一日。同じ一日なら山のほうがはるかに健康でハッピーに決まっている。
「だから、ひとりで山を楽しんでますよ」という人がいたり、「ひとりで山を楽しめるように、基本的な知識や技術を学びたいんだ」という声が聞こえてくるのだが、ちょっと待った。
ひとりで山に登ることの危険性を述べることは次の機会にゆずり、ここでは「なぜ山に登るのか」という問いに対する、ある一つの答えを述べてみたい。それは「山は人間を証明できる場であるから」ということだ。
自分は人間だということに、だれひとり疑問を呈する人はいないだろう。ではその人間というのは、一体全体どういうものなのか。
「人間という文字は、人間と読む前にジンカンと読むべきだ」ということを、ちょうど山登りを始めた高校生のころ、漢文を担当されていた清田清先生から教わった。50歳になる現在でも折にふれて思い出す。
有名な漢詩に「人間至ル処ニ青山アリ」とある青山とは骨を埋める場所のことだが、「ここで人間をニンゲンと読んではいけない。ジンカンと読みなさい」というのが清田先生の教えだった。
ジンカンつまり人と人との間である。人はひとりでは生きてゆけないということだ。複数の人がいて、その「あいだ」に愛とか友情とか信頼とかが生まれる適当な「ま」がある。たがいに関わりあってこその人間だ、というのだ。
「人間至ル処ニ青山アリ」で行動してしまっては、自分かってにすぎないではないか。
仲間たちといっしょに登る。山で美しい日の出を眺めたとき、ふたりでいればひとりでいるときより倍美しく、3人でいれば3倍美しいと信じられるところに人間の証明がある。
現代社会でとっくに失われてしまった他人への思いやりがなかったら、体力や技術にバラつきのあるパーティが、一つの有機体として山頂に立つことなどできようはずもない。
100才までは、あと50年。人生も中間地点までたどり着くと、先も見えて来る。見えないまでもおおよその想像はつく。恥ずかしげもなく、人間の幸福について発言もできようというものだ。
「山登りは、人間が幸福になるための、一つの道である」
|
|
|岩崎元郎文書集トップ|無名山塾ホームページ|月刊岩崎登山新聞| |
|
2002 Company name, co,ltd. All rights reserved. |