自立した登山者たること
(1997年7月)
 人生とはいったい何なのか。そんな思いが頭をよぎるとき、その答えは人さまざまなのだろうが、「出会い」という言葉がきらめいたりする。
 その一つが、山との出会い。それは必然的に人との出会いである。山が好きという者にとって、山はまぎれもなく、自らが演じる人生の舞台となってくれるのだ。
 僕が始めて山と出会ったのは高校1年の秋、1960年のことだ。クラスメートの大川治彦君に誘われた秋の河口湖キャンプ。今思えば、帰りの富士急行線の電車が三ッ峠駅に停車したときのことだったのだろう。数人の登山者が車内に乗り込んで来た。鮮やかに、30数年たった今でも目にうかぶのは、彼等の登山への情熱が息づいているような紺色のキャラバンシューズであった。その印象が強烈で、その靴をはいて山登りなるものをしてみたいという欲求が心の中でムクムクと広がって行くのをどうすることもできなかった。それから僕の人生は山ひと筋となった。
 僕は終戦直前の昭和20年に東京大井町で生まれ、いくつか居を移したあと、親父の指示で、当時としては数少なかった中高一貫教育の駒場東邦中学に入学した。初代校長の菊地龍道先生の教育方針が明快で、教頭の清田清先生が包容力のある先生で、僕はこの学校で自立の精神を学べたように思う。
 背が高くなるということでバスケットボール部に入った。すぐに退部。剣道部も面を打たれると後頭部に入ってしまって脳震盪を起こしそうになるので退部。
 それが60年秋、山と出会って以来、山ひと筋で脇目もふらずにやってこられたのは、山を人生の舞台としえたからだと思う。
 18歳から23歳までの6年間、昭和山岳会に籍を置いたが、1963年の夏は新入会員として夏山合宿に臨んだ。計画は扇沢から針ノ木峠を越え、平らで黒部湖を渡って五色ヶ原に登り返し、立山を越えて剣沢に入り剣岳に立つ、というものであった。扇沢から歩き始めて5分と経たないうちに僕がバテ、全体の足を引っぱり、一ノ越から室堂へとコース変更となり、最終日は体力のある者のみ剣岳ピストン、体力フない者は立山の周遊コースとなった。合宿後半はほかにも体調を崩す者が出、僕もかろうじて立山パーティに加えられた。
 それでも歩き始めて5分でバテ、共同装備は取り上げられてほかのメンバーに分担してもらったという申し訳なさは、同時に屈辱となって、ちいさな胸はキリキリと痛んだ。こんなことでは登山を続けてゆく資格がないのではないか、会員失格だよなと思いながら悶々としていたら、先輩がこう言ってくれた。
 「オマエは基本的に体がない。必然的に体力がない。今すぐ新人仲間の最強のヤツと肩を並べられるはずがない。いってみれば適性に欠けているわけだが、山が好きだという感性はほかに負けないものがあるから、それを大切にして磨きをかければいい。体力は努力で養成してゆくしかないだろう。現時点としては、役割分担としてできることを分担しさえすればいい」
 このアドバイスがなかったら、僕は昭和山岳会を退会し、登山そのものを止めていたかもしれない。人生とは出会い、とするゆえんであるが、よき先輩に巡り会ったと、今もって感謝している。
 このアドバイスを受けて、僕は自分にできること、朝早く起きての食当や列車の席取りを率先して引き受けるようになった。食当とは食事当番のことだが、パーティの一つの役割を分担しているという認識が、アイデンティティーになって自分の登山人生を支えてくれたように思う。
 もちろん若かった僕が、そんなことを意識して山とかかわったわけではない。本当のところは山が僕を強くとらえてはなさないでいてくれたからであり、山のもつあの不思議な魅力に僕が縛りつけられてしまっていたがための結果かも知れない。
 ただ一つ、自分自身を誉めてやりたいと思うことは、どんなに辛くとも自分自身の足で立っていたと思うのだ。自分の足と手と、そして頭とで山に登ってきたという自負がある。
 自分の足と手と、そして頭とで山に登ること。それは登山者としての自立の証明だ。そうなれば、山はまぎれもなく人生の舞台たりえているであろうし、だれはばかることのない生涯の趣味となるはずだ。
 自立した登山者たること。それをすべての登山者に望んでならない。

 自分の人生を支えてくれたアイデンティティーの話しをした。「アイデンティティー」とは「個人の存在証明」で、人生という舞台の上でまぎれもなく自分という役どころを演じているかという意味である。
 中高年登山で、女性が圧倒的といっていいほど生き生きしているのは、山に自分の存在証明を見つけたからにほかならない。家事、子育てとがんばってこられて、それは人生にとって大事なことではあるのだが、「シャドーワーク」と名付けた学者もいるくらいで、アイデンティティー
として稀薄な一面があることは確かだろう。
 男性もこれまた同様で、仕事ひと筋できたものから解き放たれ、個人の存在証明を探っている。女性よりも顕著でないというのは、男性の仕事は何がしかの社会的評価につながるので、そこに存在証明のよりどころがあるからだろう。
 山は確かに、そんな自分の解放の喜びがある。しかし、その一方で僕が昨今感じるのは、自立していない登山者の増加である。
 自立していないというのは、自分の足と手と、これが特に大切なのだが「自分の頭で山に登っていない」ということである。真の意味で、山は自分のアイデンティティーになってはいない。ご本人のためにも、とても残念なことではないかと思ってしまうのだ。
 なぜ、そうなのか。僕は「長寿恐怖症候群」と呼んでいるのだが、昨今、山登りを始められた少なからぬ割合の方々は、動機が健康のためであって、本当に山が好きというところから出発していないところに要因があると考えている。
 本当に山が好きなら、こんな山にこう登りたいと思い、どうすればいいかを考え、今度行く山のことを調べ、自分の力を引き出したくて努力もする、はずだと思う。
 ところがどの山に登るかを決められず、有名な高山というだけで、岩登りのトレーニングをせず、ひいてはコースも知らず、人のお尻についていって汗をかき、それだけで充実しているのを、ほんとうに山が好きといえるだろうか。このあたりで山が好きという自らの感性の見直しをはかるべきではないだろうか。
 胸をはって山が好きといえるならば、どんな山かを知り、自分の実力を踏まえて、人のお尻についていくだけではない姿勢があって当然だろう。その山のことを知らず、他人に誘われるままに登ってしまっては、健康どころか命の危険すらあるということは認識しておかなくてはならない。
 孫子に「彼を知り己を知れば、百戦してあやうからず」という有名な一説がある。それを借りて岩崎曰く「山を知り己を知れば、百山してあやうからず。山を知らずして己を知れば一勝一負す。山を知らず己を知らざれば、登るごとに必ずあやうし」

 今の自分が負けない山を、負けない計画で登ろう。
 まず自分を知らなければならない。
 過去に経験のある登山者がいちばんあやういといわれているのは、自分のイメージがそのときのままだからだ。経験が少なく、体力も知識もないと自覚のある人は、近郊の低山で十二分にトレーニングする必要があろう。
 僕は若いころ、本田技研の狭山製作所に勤務していたのだが、ここでQC(品質管理)を学んだ。車の品質を高めることも、人の能力や適性、感性を磨いていくことも基本的には同じだと思う。自ら考え、判断し、問題があれば改善していける感性と適性のバランスが大切だ。
 それを備えていれば、自立した登山者と言える。高く厳しい山の登れるかどうかにかかわらず、そういう人は安心して見ていられる。一方体力や技術があっても、自分で考え、判断する感性とバランスのない人はいつ事故るかと目が離せない。
 「まず、自分でかんがえろ。自分は何がしたいのか。そして何ができるのか。アルピニズムとは何より自覚の問題である」。山との取り組み方を、ガストン・レビュファはそう端的に言い表した。
 計画することを大切なテーマにしよう。計画とは「何がしたいのか、何ができるのか」を具体的に形にしたものだ。自分がリーダーや計画する役ではなくても、自分の登山をイメージできることは自立した登山者の証しといえる。

 本田勝一さんが百名山を追いかける登山者を『貧困なる精神』に取り上げたのはずいぶん以前のことになる。昨今では独文学者の池内紀氏が、百名山を目標とすることのナンセンスをあちこちで主張されている。
 先にアイデンティティーについて述べたが、個人の存在根拠というものは独りよがりと違って、ほかの人からの評価に支えられて成り立っている。ひと言でいえば、認められたいのだ。だから山小屋の夕食時に、自分がこれまで登った山の話しを周囲に聞こえるように声高にしている人は、アイデンティティーを欲しているといえる。
 それが百名山だと相手にわかりやすい。だれも知らない藪山を見つけ、こいで登った方が個人の存在根拠を深く満たすと僕は思うのだが、その山をだれも知らなければ、自分の行為を理解してもらえない。これが百名山なら「へぇー、すごいですねえ」という評価を受けられやすい、ということになる。
 まず山の仲間を作ろうというのは、安心登山に機能的に働くのもそうだが何より山登りのアイデンティティー満たしあうことができる。「知られてない山だけど、よかったわ」とか「よくあんな山みつけたね」とか、自分たちの登山の存在根拠を確認しあえるのだ。仲間がいれば、どんな山にどう登ったって楽しい。
 それでも、そういう人ばかりではないだろう。自分が登りたい山とはいっても、始めたばかりの人は、そう簡単に見つけられるわけではない。そこで日本百名山を登ってみようと、比較的成就しやすい目標を出会えた人は、むしろ幸福といっていいのではなかろうか。
 百の頂きから周囲を眺め、その山域の山々を知る。今度はあそこに登りたいなという気持ちが沸き上がれば、それに素直に従えばいい。百名山は全国に点在しているわけだから、いろいろな山域を巡ることができる。百名山を自分が登りたい山探しの第一歩とすればいいわけだ。
 だから百名山大いに結構と、僕は両手を挙げて賛成する。ただし、やるからには人生の目標であると公言できるような登り方をして下さいね、というのが僕の立場である。深田久弥さんは「百の頂きに百の喜びがある」とお書きになっているが、百の喜びが得られるのは自分流の山登りをやってこそななのだ。
 冒険登山なら頂きに至ことが目標だが、我々の場合は趣味登山である。「山旅」といってもいい。山旅とは「山の中での旅」でもあるけれど、山への旅でもあるわけだ。頂きだけが目標でなく、家を出てから登山口まで、そして登り下って温泉に浸り、酒を飲んだりして家に帰る。このトータルなのである。
 百名山のピークハントから百名山への旅へと発想を転換するだけでも、オリジナリティが浮上してくるではないか。難しいか、やさしいかではない。要は自分の頭で考え、自分に合ったように無理なく組み立てること。コース季節、見どころ、メンバー・・・。それだけだってたちまちその山が、自信を持って自分の山になるのではなかろうか。それが自分流の登山であるといえる。
 深田さんが『日本百名山』をまとめ上げた感性と適性に負けないくらい、自分のそれを磨きあげることをしなかったら、心身ともにこれほと危険な試みはない。人のお尻について行き、頂きにしか目を向けず、ベルトコンベアに乗るように稼いだ頂きの数を誇るようなら、『貧困なる精神』と切り捨てられてもしかたあるまい。
 さて先に孫子の兵法を引用したが、浅学をかえりみず、孔子に学ぶ僕の考えを述べておきたい。
 弟子たちとの間で「知ル」がテーマになった。高弟の何人かの発言を受けて、孔子がいうには、「知ル」ということはそれほど難しいことではない。「コレヲ知ルヲコレヲ知ルトナシ、知ラザルヲ知ラザルトナス。コレ知ルナリ」。漢文の授業を思い出していただければいいが、重要なポイントは「知ラザルヲ知ラザルトナス」であると僕は思っている。知らないことを自覚するとたちまち頭が考え始める。知らないのは、恥ずかしいことではない。自分の頭で考えない登山者を、僕は自立してない登山者と言っているのだ。
 連れていってもらうのは、自立していないことではない。単独行ができるのが自立できたことでもない。自立した登山者というのは、自分の頭で考え学ぶことができる人ということ。そんな登山者が増えれば山でのさまざまなトラブルはずっと減るはずだと確信している。
 登山は楽しいのが第一だ。楽しくなければ山登りではない、というのは僕の常々の主張でもある。しかし、自分で考えないで楽しい登山を掌中にできようはずはない。楽しい山登りを生み出せるかどうかは登山者としての自立にかかっているといえよう。
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