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山は哲 |
(1997年7月) |
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「人は心、山は哲」
この言葉が僕の胸のうちに沸いたのがいつだったかは、かくと覚えていない。以来、座右の銘としている。
聞かされた人は、わかったようなわからないような、奇妙な表情を顔に浮かべて、禅問答風に理解して下さるのか、具体的な説明を求めるまでもなく話題は実際の山へと向かって行くのが常だ。
「人は心」についてはわかったような気分になれるイメージのふくらみがどなたにもあろうと思う。それ以上の説明ができるほど、僕自信、修行を積んではいない。
「山は哲」
これはおわかりいただけないかも知れない。なにしろ、僕の勝手な造語だから。
畏友のひとりEから僕は、「学しちゃダメだよ。哲しなくっちゃ」と教えられた。ずっと昔、まだ山屋としてお尻が青かったころのことである。以来僕は教えを守って、「山は哲」し続けて来たような気がしている。
1961年、16歳の5月、僕はクラスメートのKとふたり、奥多摩の入川谷を溯行、川苔山に向かって長沢背稜を雲取山へ縦走する計画を立てて勇躍出発した。
入川中流の河原までは、そこでキャンプを楽しむ予定の同じクラブ中学生がいっしょだったからどうってことはなかったが、彼等と別れてKとふたりいま思えばどうってことないやさしい沢なのだが、入川谷の奥へ入りこんだとたん、不安が胸いっぱい広がって、休むこともできないまま必死に溯って当時船井戸に立っていた避難小屋に飛び込んだ。
中には早稲田大学の学生さんが休んでいて、夕食の準備をしていた。そこで力強いお兄さんたちに出会えた安心感は大きかった。緊張はプツンと切れて、連れていって下さいと頼み込んでしまった。
彼等は雲取山まで行かず天租山から日原へ下るということで、それでよかったらということで快く向かえてくれた。翌日はなんの不安を感じることなく、彼等の後ろを子犬のごとくくっついて歩いて一杯水の避難小屋、3日目に天租山から日原に下山、無事帰宅した。
今もって忘れることのできない懐かしい思い出だが、思い出すたびに恥ずかしくなって、きっと顔も赤くなっているに違いない。
自分をしっかり見つめ、他人について考える大きな出来事で、山あればこその出会いだったと確信している。
同じ年の夏、クラスメートのMとふたり甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根を登った。北沢峠の向かってバスが登るようになるのは、ずっと後年のことである。黒戸尾根は名にしおう急登。ザックは重い。暑いのと苦しいので汗がダラダラと流れる。そのとき、木立ちの間からさあっと涼風が流れた。その心地よさを説明する必要はないだろう。
街の中にも同じ風は吹く。しかしその心地よさはない。なぜか。きっと街の中には汗をかく生活がないからだろう。
1981年4月、僕はネパール・ヒマラヤのニルギルサウス峰のベースキャンプにいた。1か月近い登山活動で頂上を目指したが、力及ばず下山を決意した。キャンプ設営当初は一面の雪だったのに、1か月の間に周辺の雪はすっかり解けて草原となっていた。
翌日、キャンプ撤収ということで、ポーターたちが下の村から上がってきたその日、午後から雪が降り始めた。着のみ着のまま、雪の降る夜を過ごすポーターたち。どうすることもできない僕。
翌朝、雪は止んだが、冬にもどったような積雪。キャンプから距離にして1000m近くは危険な岩場のトラバースだ。ロープで固定しているとはいえ、ポーターたちの荷は重く、足こしられはよくてズック靴。ビーチサンダルというポーターもいる。
この周辺の盟主アンナプルナ、ミスティ・コーラの向こう側に毎日拝んでいた8000m峰にも別れを告げ、僕も下山を開始した。危険なトラバースではポーターたちの無事、メンバーの無事だけが頭にあった。
トラバースを抜け、急な斜面を下り、安全圏の台地に立つ。ほっとして立ち止まると、枝という枝に真紅の花を咲かせたラリーグラスが目の前にあった。ラリーグラスはネパールの国の花だ。ここはもう本当の春がやってきているのだ。
ラリーグラスの真紅は、今でもことあるごとにマブタに浮かびあがって来る。そのたびに僕は人生の意味を考えてしまうのだ。
だから「山は哲」。
自分がどんなレベルであっても、山はその時々に鮮やかな印象を刻む。そのなかで、その時々に自分を問うのである。
健康志向で山登り、山歩きするのは文句なくよい。
「山が哲」できればもっとよい。
そのためには、何よりもしっかり歩けなければいけない。
そんな山歩きの基本をしっかり学んでいただければ、と願っている。
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