無名山塾誕生の頃 (「岩小舎9」巻頭言)
(1993年6月24日)
 十年一昔という言葉がある。無名山塾の創立は1981年のことだから、創立以来11年と7ヶ月を経過した。創立が一昔前になると思うと、誰も見ていないことを見定めながら、得意の鼻を動かしてみたくもなる。
 ぼくの場合、はじまりはいつもインスピレーションからなんだ。『無名山塾』という言葉が、ふいにぼくの頭をよぎったとき、ぼくは頭の中からその四文字を引き抜いて、。机の上に並べておいた。それがどこから来て、どこへゆこうとしているのか見当もつかなくて、しばらくは机上にほったらかしておいた。
 81年5月のある日、初めてのネパールから帰国したぼくは、大塚駅北口改札口を出ると左へと進んだ。現在のぼくの事務所のもう少し先に、友人が経営している『マウンテンスポーツ』という山の店があったのだ。
 「こんにちは」と声をかけると、「いらっしゃい」と言う若い女性の声が返ってきた。「やあ、お帰りなさい」と友人も顔を見せた。「彼女はね、この4月から入社した山本明子さん。こちらはぼくの先輩の岩崎元郎さん。蒼山会同人の創立者、名前くらいは知ってるだろう」。友人はそんな風にぼくを紹介してくれた。彼女はにこっと笑ってうなづいた。明るい笑顔がすごくいい。
 農大を卒業したこと、B型であること、彼がいること、彼はO型でることなどを、その日、マウンテンスポーツを出るまでに知った。そして、その週末に訪れることになっていた鳥甲山の偵察に彼女も加わることとなった。
 初めてのネパールは、親しい山仲間6人でアンナプルナ山群にある、ニルギリ南峰のバリエーション・ルートを目指したものだった。山の方は力不足で敗退したが、ネパールの摩訶不思議な魅力に取りつかれてしまったぼくはサラリーマン生活にピリオドを打って、好きなことをやって生きてゆきたいと、強く思うようになっていた。
 鳥甲山の帰りの車の中で「登山学校をやりたいと思ってるんだけど、一緒にやらないか」と彼女にもちかけた。「いいよ」、彼女は軽いノリで賛成してくれた。「名前はもう決まってるんだ。“無名山塾”、登山者育成の場だよね、山の松下村塾というイメージでね、楽しい登山を学んでもらいたいと思っている」「いいね」。
 11月4日、初めての集会が開かれた。第一回目の講習会は、小泉共司さんの協力を得て、西丹沢・悪沢で実施した。生徒は二人だった。12月に富士山で雪上訓練。その頃は一ケ月に一回のペースで講習会を開催した。
 初心者に教えることは、ぼくにとっては楽しいことだった。どうやらぼくはトーナメントプロよりはレッスンプロの方が向いているらしい。一年くらい経過すると、無名山塾の常連も十数人になっていた。山岳会風になりつつあった。ぼくが目指しているのは山岳会を作ることではなく、登山学校の確立なので、無名山塾をどんな風に展開していったらいいか、大いに迷った。月に一回の講習会では、それを生活の柱とすることもできない。
 ぼくが逡巡している間に、無名山塾誕生に大きく寄与してくれた彼女は、彼女自身の夢を追って、彼と二人で田舎暮らしを始めてしまった。ぼくはサラリーマンをやめたとはいえ、生活のために仕事はしていたのだが、現場を担当してくれていた友人が、ポックリ病とでもいうのだろうか、突然死んでしまって、否応なく背水の陣に追い込まれてしまったのだ。
 捨てる神あれば、拾う神ありとは、よくいったもんで、気がつくといまの女房が黙ってついてきてくれていた。いま小学4年生になる純がお腹にいるとき、一ノ倉沢中央稜を登ったり、丹沢の沢登りの講習会のアシストを努めてくれたりした。小林英男さんとも縁あって知り合い、岳嶺岩を定番とした頃だった。岳嶺岩の頃には、さすがに隠せないくらいになり、一ノ倉の時には使えたゼルバンがまったく使いものにならなくなっていた。
 試行錯誤の連続でここまで辿り着いた。韓非子のいうように、なにかやろうと思えば必ず問題は起こるのである。問題が起こることが問題なのではなく、起こった問題にどう対処するかが問題であろう。考えてみると、今の状況も誕生の頃とそれはど変わってはいないようだ。問題が起こるたび、ぼくはわくわくしている−。    
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