聖書の中の女性たち 遠藤周作著 講談社文庫


この本は小説ではなく、言ってみれば随筆集という感じである。遠藤周作が、聖書に出てくる女性や、その周辺の話、さらにイスラエルに行ったときの話などを著している。内容は軽めで、そんなこんなで簡単に読めてしまう本である。婦人誌に連載していたらしく、明らかに女性を意識した筆致である。しかし、軽めの内容とはいえ、遠藤周作の哲学を垣間見ることの出来る著作であると思う。

この本において遠藤周作は、聖書に描かれている奇跡物語を、実際にあった無かったに関わらず平然と述べている。例えば、盲人の目を治しただとか、癩病を治しただとかである。実際にそんなことがあったかと言うと、まあその時代に生きていないから分からないのだが、普通に考えれば無かったことであろう。天皇が天から降り立った神の子孫という物語と同じようなものであろう。遠藤自身も、それは十分承知して書いている筈だ。本書の目的は、聖書の内容を紹介するというのと、その中に登場する女性の生涯を、文学的視点から遠藤が予測するというのが主だと思われるので、一々「これは当然ありえないことであるが」などとは言わなかったのだろう。

聖書には確かに、様々な奇跡物語が書き記されている。しかし、それをそのまま現実に起きたこととして取るのではなく、何かを暗示している隠喩的なものを嗅ぎ取るのが、やはり通常の読み方ではないか。例えば、イエスが悪魔の誘惑に打ち勝ったというシーンがあるが、それは実際に目の前に悪魔が登場して、「この世のものを全てやるから云々」と言った訳は無かろう。これは何かイエスの身のまわりで起こったことを示しているのだろう。

このような数々の奇跡の中で、私が最も注目するのは次の奇跡だ。

ここに十二年血漏を患ひたる女あり。多くの医者に多く苦しめられ、もてる物をことごとく費やしたれど、何の甲斐なく、反ってますます悪しくなりたり。イエスのことを聞きて、群集にまじり、後に来たりて、御衣にさはる、『その衣にだに触られば救はれん』と自ら謂へり。かくて血の泉ただちに乾き、病のいえたるを身に覚えたり。イエス直ちに力の己よりいでたるを自ら知り、群集の中にて、振反り言ひたまふ『誰が我の衣を触りしぞ』。弟子たち言ふ『群集の押し迫るを見て、誰が我に触りしぞ言ひ給ふか』。イエスこのことを為しし者を見んとて見回し給ふ。女おそれ戦き、己が身になりし事を知り、来たりて御前に平伏し、ありしままを告ぐ。イエス言ひ給ふ『娘よ、なんぢの信仰なんぢを救へり、安らかに往け、病いえて健かになれ』

実際にこれが起こったのかは知らないが、これは代表的な遠藤作品の底に流れる哲学である。同伴者としての神の存在だ。

遠藤はこの作品の後半で、「昔病気で苦しんでいたとき、母親が側にいるだけでかなり楽になった筈だ」みたいなことを言う。これは確かにそうで、私にも記憶がある。自分が苦しんでいるとき、孤独感はその苦しみを増す。何も出来ないが、側にいて手を握られることによって、安心感と言うか、そのようなものを感じるはずだ。苦しみを分かち合っているというと、何だか変な感じだが、上の聖書の文面にもそれは感じられる。

女は藁をもすがる思いで、イエスの衣に触れた。イエスは「誰かが私の衣に触れた」と弟子に言うが、弟子は「いやあ、こんなに人がいるんですから、そりゃかすったりするでしょう」と応ずる。しかし、イエスは自分の中から力が外に出ることで、誰かが意識的に触れたのを気付いたのだ。これはイエスが女に力を与えたと取ることも出来るが、痛みを分かち合ったことによって女の苦しみが和らいだとも取れると思う。イエスがこのような超人的な力で女を治癒せしめた訳ではなく、少なくともどの医者からも見離された女に対して、イエスは深い同情としての癒しを実際には与えたのではないか。それを、福音書を表したマルコが、このような比喩を用いたのではないか。

遠藤の創作だが、「死海のほとり」において、イエスに付き従う人間に次のような男がいる。

男はアルパヨという。ガリラヤに家を持つ者だったが、熱病に冒されてその時は家族から隔離された湖畔で、襤褸をまとって死を待っている。家族との接触は毎日食事を運んできてもらうときのみで、その時ですら家族はアルパヨと顔を合わさず、食事だけ置いて逃げ帰る。だが、熱病で苦しんでいるある日、ある男が小屋に入ってきて、額の汗を濡れ布で拭い、アルパヨの世話を続ける。アルパヨが苦しみに耐えかね絶叫するとき、その男は「そばにいる。あなたはひとりではない」と言い続けながら、手を握る。その男が手を握るとき、不思議とアルパヨの苦しみは凪ぐような気がする。

結局その男、イエスの看病によって治癒するアルパヨは、その後イエスに付き従うのだが、とにかく側で苦しみを分かち合うという行為が、遠藤作品の底流である。この「聖書の中の女性たち」は、そのような同伴者的なイエスと言う視点で、筆が進んでいっている。あとがきに遠藤が書いているが、「私の小説『哀歌』や『沈黙』を読まれた読者には、私の考えの母胎が既にこの本にあることに気づかれたと思う。」と言っているところからも窺い知れることである。

私がキリストの話をするなんて、ちゃんちゃら可笑しい感じがするが、何はともあれ引かれるものには引かれるという感じである。将来的に行き詰まったとき、恐らく紐解くのは遠藤作品であろう。ということで、男のくせに遠藤周作ファンの感想文は終了です。

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