太白山脈 イム・グォンテク監督 韓
実は、韓国映画を劇場で見るのは初めての経験である。見たことあるかも知れないのだが、記憶に無い時点で見ていないのと同じである。と言う訳で、この映画は、記念すべき私の韓国映画初鑑賞作品となった。つまらない映画を見ていると、終わる時間が気になるものだが、この映画は終わらないで欲しいと思わせる映画だった。つまり私にとって、久しぶりの大作であった。
物語は第二次大戦後で、朝鮮戦争勃発前夜および朝鮮戦争中の韓国全羅南道における、右翼と左翼の闘争記である。何かヤクザ映画のように聞こえるが、右翼は政府、左翼は共産勢力である。つまり、国共内戦のような状態である。日本人にとって、韓国の現代史は「日帝侵略」の時代が最も印象にあるかも知れないが、実は韓国の戦後はかなり動的(ダイナミック)である。韓国の現代史のダイナミズムは、南北問題と民主化である。南北問題の根幹は当然日帝支配になるのだろうが、2時間半のこの映画で、日帝のことは殆ど出てこなかった。この物語の登場人物たちは、完全に「今」を生きており、この物語の舞台となっている年(1948〜1950年)の3年前まで続いた日帝支配は過ぎた記憶のような感じだった。勿論、日帝支配のあの頃を覚えているのだろうが、それ以上に未来の方が重要だと言う印象が強い(デリカシーの無い日本人的な発想とか言われそうだが)。
中心は二人の兄弟で、兄は地域の共産勢力のトップで、弟は地域の警察の監察部長。昔から秀才の誉れ高く、時代の潮流に乗ってマルクス主義に走る兄に対し、屈折した対抗心を抱く右派の弟という役回りである。もう一人の主人公は、大地主の大学教授(中立派だが、右派と左派からは日和見主義と言われる)で、冷静かつ悲しい視線で時代を見ている。
全羅南道は、韓国の穀倉地帯で、かつ貧しい地域である。農業生産が主で、農民が圧倒的に多い。日帝時代から続く大地主を頂点とした旧態然とした農業構造で、小作農たちの不満が強い。それゆえに共産主義が唱える「土地の平等分配による被搾取階級の解放」に呼応して、左派支持の住民が圧倒的多数を占めているという背景がある。ソウル政府は鎮圧軍を派遣して、全羅道の弾圧を強化しつつある。それが、朝鮮戦争勃発前夜の韓国南部であった。
物語の最初に、左派が街を制圧するが、5日後には右派が奪還する。その後朝鮮戦争が勃発するまで、左派は山でゲリラ活動を展開する。左派に身を投じた男の家族は執拗な右派の取締りを受け、その中で左派の夫を持つ美しい女を、主人公の一人の右派警察監察部長が手篭めにしてしまう。このシーンが私に最初に問題提起をしたような気がした。もし自分の妻が手篭めにされたら、果たしてどうだろうか。だが、ここで辛いのは妻の方であろう。権力と腕力に勝る右派警察に、夫の赤化で抵抗の余地無く詰め寄られる気持ちが、山に入ってゲリラ活動をしている夫に分かるのだろうか。やはり男は勝手な生き物なのか、自分もそうなのか、と何故か反省している私。それに、兄で共産勢力トップの男の妻も、右派の取調べに頬を引っ叩かれながらも、耐えている。妻と子供と親を残して山に入った夫には、被搾取階級の解放の方が重要なのだろうが。また、若くて美しい巫女も、昔から惹かれていた左派の男と恋愛が進行するが、左派支持が右派にばれ、取締りで監察部長に蹴りを入れられ、流産してしまう。歯を食いしばって苦しむこの美しい女は、この時代に生れたことをどう思っているのか。政治色の強い映画であることは確かであるが、物語の中心は人間である。この意味で、非常に人間臭い映画だった。というより、映画は絶対に人間臭いものであるだろうが。
こうまでして争っているのを見て、果たして戦後直後に大流行した共産主義とは、一体なんだったのだろうかと思い始める。これになると私はよく分からない。何しろ、マルクスは読んだことが無いし、共産主義も「粛清」とか「思想弾圧」とか、資本主義メディアを通した目でしか知らない。だが、思い返してしてみると、今でも共産主義を掲げる国は少ない。「崩壊」とまで言われている。
小作農が求めたのは、農地の所有であった。共産主義は農地を完全に小作農に分配すると謳っている。だが、この「分配」の意味は小作農が求めるのとはまるで違う。小作農が求めるものは私有だが、共産勢力は共有、国有を是としているからだ。つまり、分配は私有を意味していない。ここのところは、劇中に出てくる農民達はまるで理解していないのだ。「結局、共産主義勢力下でも、この大地主土地所有制度と何にも変わらず、割り当てられた田圃で、要求された量のコメを作って、共産党に納めて、作った本人は小作料を貰うのか」という単純な構図に行き着いた。左派を支持すれば、私有農地が割り当てられると思い込んでいた農民たちは、何も知らずに左派を支持し、右派警察の弾圧に耐えていたということになる。ということは、これは悲劇である。
ソウルの国会で農地改革法案が通過。これによって農地の再編が行われ始めて、左派は求心力を失い始める。左派の求心力は土地であったため、右派政権の下で土地の再配分が促進されるとなると、農民は左派を支持する理由が希薄になる。ここへ来て政府軍の左派殲滅作戦が断行され、全羅南道の左派は壊滅寸前まで陥る。左派、もはや万事休すであるかと思いきや、左派の大逆転が起こる。朝鮮戦争の勃発である。
北軍は朝鮮半島を一気に南下、全羅南道も「解放」となる。左派は山を下り、北朝鮮軍と合流する。しかしながら彼らを待っていたのは、理想郷からやって来た救世主ではなく、現実主義の強行共産勢力だった。理想に燃えていた男達は、北からやって来た現実主義の、強力な北朝鮮労働党軍との葛藤に揉まれる。全ては党の決定に従い、自分達の決めた人事など全て一切は保証されたものでないことに気付く。男達はこの現実を前にして、一体何を思うのか。
山を下りてきた男達によって、女達の運命もまた流れ始める。主人公の弟の方、監察部長に手篭めにされた女は、青酸を飲んで自殺してしまう。左派に身を投じた夫は既に手篭めにされ、さらに監察部長とのその後の度重なる姦通を知っていたが、女は絶えられなかったのだろう。夫が山を下りてくる前に、自裁してしまうのだ。
妻が死んでから、妻が毎晩夢枕に立つというので、その左派の夫が前述の美しい巫女にお祓いを頼みに来るのだが、共産主義化ではいかなる宗教行為も禁じているため、巫女の男が止めろと言う。しかし、魂の存在を信じている巫女は、妻に先立たれた夫のお祓いを実行するのである。巫女の心もやや揺れているようだった。理想に燃える男の心は、やはり女には稚拙なものとしか映らないような気がした。
米軍が仁川に上陸、あわせて米軍主体の国連軍が前線を北上し始める。全羅南道の左派にも後退命令が下り、お祓いの日に町は大混乱に陥る。中立派だった大学教授は、左派のトップである主人公の兄の方に「これが結局理想の果てか」みたいに詰め寄るシーンがある。印象的なシーンだった。良かれと思ってやってきたことが、実は全く逆の方向に向かっている。夢中になればなるほど、問題の是非を考えることなく、思想が狭隘になってくる。気付かなければ自己満足的に幸福であるものの、大抵は何らかの失敗とともに、思い知らされるのである。「始めてマルクスを読んだ時の衝撃を忘れられなかった」と言い残して町を去る兄は、すでに町を出ている弟と一生会うことはないだろう。
左派が撤退した町で、巫女のお祓いが終わった。大学教授が「これほど人間の命が軽んじられる世の中で、人の命に対してあれだけの儀式を行うとは、考えさせられた」と言う。劇中で陰惨な形で血が飛び散る殺人モノの映画だとかは、いくら名作だと言われても見たくも無い私なのだが、そんな私にとって、この一言は重いような気がした。