虹の谷の五月 船戸与一著 集英社


船戸作品最新作、および私が読んだ船戸作品3作目となる、「虹の谷の五月」。珍しく、全編を通じて主人公ジャピーノの一人称セリフ的な記述である。今回の舞台はフィリピンである。つまり、船戸作品の多くに見られる「海外舞台」モノの一編であろうと思われた。思われたのだが、何だか少し趣が違うような気がする。今まで「砂のクロニクル」「蝦夷地別件」を読んできたが、これら2作と比較して、決定的な違いがこの作品からは伺える。以下、これら「従来とは違う点」も考慮に入れながら、記述を進めていきたい。

まずは舞台設定。フィリピンであることは既述の通りだが、設定の仕方が今までとは異なる。舞台は、フィリピンのセブ島にある一地域、ガルソボンガ地区にほぼ限定されている。今まで読んできた船戸作品は、その舞台領域が非常に広いのが特徴であった。例えば「砂のクロニクル」ならばイランを中心に英国、旧ソ連、パキスタンなどの国が錯綜し、登場人物もクルド人、イラン人、パキスタン人、中国人、グルジア人、ウズベク人、アルメニア人、イラク人、そして主人公たる日本人など多種多彩である。「蝦夷地別件」にしても、主舞台はあくまで東蝦夷地区であるが、ロシア全域と日本では江戸が両端となり、目まぐるしく舞台が変わる。登場人物はアイヌ、和人、ロシア人、ポーランド人が主で、その他オホーツクや東シベリアに点在している諸民族も出てくる。しかしながら、この「虹の谷の五月」は、舞台設定がほぼ90%まで、上述ガルソボンガ地区を中心とした、半径20km圏内程度に限定されている。登場人物はそれこそフィリピン人、日本人、そして主人公の日比混血児である。従って、この物語の舞台設定は、船戸作品とは思えないほどの「狭さ」を呈している。

次に物語の進行についてである。この物語は、作品を主人公たる「ジャピーノ(日比混血男児を示す)」の13歳・14歳・15歳という、年単位の3章で区切られている。つまり、それ以上の分類はなされていない。船戸作品はその舞台設定の広範囲さからも、舞台が章を追って目まぐるしく変化する。1章目にイランのとある病院での回想シーンが始まったとすると、次のシーンではいきなり舞台が英国に移ったりする。章ごとにその広い舞台を行ったり来たりしながら、最終的に全ての筆は、主舞台に集約される(砂のクロニクルならば、クルドが革命防衛軍司令部を攻めるイラン北部、蝦夷地別件ならば東蝦夷および江戸)。これはどの小説にしても見られる傾向であると思うが、船戸作品はこの手法が色濃い。しかし、今回の「虹の谷の五月」は、物語の進行が非常に単純である。つまり、章ごとに舞台が目まぐるしく変わると言うのが、全くもって無いのである。舞台設定が狭いと言うのが理由の一つであろうが、それにしても全ての文章が完全に連続しており、ジャピーノの年齢で区切った2つの大章の区切りだけが、物語が時間的に区切られているだけである。言ってみれば従来の船戸作品が「様々な舞台がバラバラに用意されて、最終的に主舞台に太く集約する二次元逆樹形図型」であったものが、今作では「全物語が枝葉の殆ど無い完全一次元数直線形」と言うものである。つまり、物語進行という面において、決定的に今までと一線を画していると感じられる。これはむしろ、短編などにおいて見られる手法であろうが、とにかく500頁を超える作品に対して適応されるのは、船戸作品以外でも稀ではないか。

以上より、主に技術的な側面で、従来の船戸作品との違いが感じられる。では内容はどうか。こちらも、外見上は少し異なる。だが、内面はやはり船戸イズムが感じられる。

まず外見であるが、いままでのような政治的な雰囲気は薄い。確かに出てくるのはゲリラや元民族戦線兵士であったりするのだが、政治的な争いと言うのはあまり見られず、物語が急展開するのは、日本人老人と結婚して、相当の金持ちになった女(通称クイーン)がガルソボンガに帰って来たときや、個人的な憎悪で、副主人公である元新人民軍幹部ホセを狙う国家機関の暗殺者の登場だったり、さらには慕われている日本人医師の誘拐だったりで、つまり社会的な問題が非常に多く見られる。政治色が見られるのは、クイーンの連れたポインターと、誘拐犯が連れているドーベルマンという、2頭の大型犬くらいである。それらの名前が「マルコス」「ニノイ」と言うのだが、言わずと知れた、マルコスはフィリピンの元独裁的大統領、そしてニノイはニノイ・アキノ、すなわちマルコス夫人のイメルダの指示によって暗殺された政治家、そしてマルコスを倒したコラソン・アキノ大統領の夫である。その後のフィリピン大統領であるラモス、エストラダの存在は殆ど無視されているが、船戸にはこれら2人の政治家には殆ど興味が無いかのようである。それよりも、現代のフィリピン、いや世界中で見られる社会的な諸問題を題材とすることに、何ともいえぬ船戸の気合が感じられる。

次に内面について。こちらは、従来までの船戸作品に見られる人間模様が引き継がれている。今まで私が読んできた船戸作品は上述の2作であるが、今回も主人公は少年から青年に成長する年齢の男である。そして、それを見守る祖父(元抗日軍の英雄)と、「虹の谷」というガルソボンガからさらに山奥にある谷に住む壮年ホセという、脇役と言うよりは副主役。さらに、一つ年上のヒロインも配されており、人物構成だけを見ると「蝦夷地別件」が基礎となっているようにも読み取れる。

物語はジャピーノ13歳(1998年)から始まる。その後、15歳(2000年)までに成長するジャピーノと、ガルソボンガ地区という寒村で起こる様々な事件を描きながら、ラストに向かっている。13歳から15歳と言えば中学生くらいであるが、中学生の特性を比較的知っているつもりの私としては、ここに描かれているジャピーノは、ある面では子供過ぎるが、ある面では大人過ぎるということが感じられる。しかしながら、「ジャピーノ14歳」で描かれたジャピーノと、「ジャピーノ15歳」で描かれたジャピーノが、ほぼ別人と思えるほどの成長を遂げているのは、非常に現実的な物語展開である。何しろ、14歳から15歳の間ほど、子供が著しく成長する期間は無い。私にしても最近3ヵ年に渡って中学校2年生から3年生に替わる期間を受け持ちはしたが、高校入学後以上の成長を子供が遂げるのがこの14から15の間であり、これについてほぼ例外は認められなかった。船戸はかつてからこの年齢の人物を主人公に置くことが多かったが、ひょっとしたら自身の経験において何らかの思い入れがあるのかもしれない。

また、ジャピーノ周辺で起こる様々な事件は、小説ゆえの大袈裟加減が鼻につく人もいるかと思う。確かに、ここまで人が惨殺されることは珍しいであろう。だが、それはあくまで日本人の感覚であり、フィリピンという国においては起こり得る事件ばかりでないか、と感じられる。現在のフィリピンが、かなり治安が悪化していることは、新聞紙上等でも窺い知れることだと思う。誘拐がビジネス化したり、ガルソボンガを出た一人の若い娘が、一年後にはエイズに冒されて故郷に帰って来たりも、フィリピンではあまり珍しいことではない。これは、フィリピンにかつて駐在した私の上司、そして現在フィリピンに月に一度は出張に行っている私の師匠ともいうべき教育係からも頻繁に聞かされることで、中学生の心理以上にフィリピンについて明るくならざるを得ない私にとって、非常に馴染み深いと言うか、戦慄を感じずにはいられない内容であった。

人間模様としては、ガルソボンガ地区の人々の人心の荒み具合と言うか、小さなコミュニティーの醜悪さが強調されすぎているような気がしないでもないが、これも現実にあり得ることだと思う。これはフィリピンの人によく見られると言う訳では決してなく、恐らくどの国でも、どんな小さな地区でも巨大都市でも、見られる傾向だと思う。自分中心で排他的、特に村人のジャピーノに対する差別は、混血児であると言う前提と、母親がマニラで娼婦をしていたことに対する蔑視が醜く混ざっている。「良識があり」、「途上国民からすれば清潔だ」と思っている我々日本人の多くにとって、このガルソボンガの現状には腹立たしさを感じるかもしれない。しかし、色々言っても韓国朝鮮人に対して蔑視観を持っていたりする我々日本人に比べれば、ガルソボンガの人々の差別心剥き出しの方が、むしろ素直であると思われもする。素直であれば良いと言っている訳ではない。ガルソボンガの人々とは異なり、韓国朝鮮人に対して差別的な暴言を吐くことは控えるべきなのは当然である。ただ、ガルソボンガの人々の態度を、全く軽蔑するような態度で見るのは間違いである、と言いたいだけである。

なんだか、色々書きすぎて焦点が完全にぼやけてしまった。ただ、これを書き直すのは非常に骨なので、これで掲載してしまおう。最後に、この作品は今まで呼んできた「砂のクロニクル」「蝦夷地別件」と決定的に異なるラストが用意されている。それは、船戸作品にあまり見られなかった、奇跡が起こることだ。それは読んでのお楽しみ。といっても、読む人などいないような気もするので一応少し記述。奇跡は2つある。一つは、最後の目的が果たされたこと。もう一つは、ヒロインであるメグのクイーンに対する約束破りである。これがあって、ああここまで読んでよかったと思うにいたった。

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