マトリックス・レボリューションズ 米03年


マトリックスシリーズ三部作の完結編、マトリックス・レボリューションズ。イマイチ評判はよろしくないので、実はあまり期待しないで行ったのだが、まあそれが良かったのか、面白い映画だった。

この映画のキーワードは「愛」だと思う。愛と言っても、ネオのトリニティに対する愛だけではなく、言ってみればキリスト教で最も重要視される愛がマシンとの世界観に一線を画しており、結果的に人間の持つ愛の力が勝利すると言う映画である、ように思える。ネオは選択した使命を全うするためにスミスと最後の戦いに臨むが、ネオの「使命を全うする」と言う信念は、「己を犠牲にして友を救う愛が最も偉大だ」と言うキリスト教における最重要教義の一つを表していると感じる。ハリウッドの娯楽超大作で、CGを駆使した大アクション映画のくせに、映画館を出たときは何故か結構深く感動していたのは、多分私がこの映画に、キリスト教が規定する「人間の持つべき愛」を(勝手に)感じたからであろう。私はクリスチャンでは無いが。取り敢えず、これが私の感想の要約である。

マトリックス・レボリューションズで出てきた具体的な愛の形は、例えば冒頭の方に出てきたインド人の両親が子供にかける愛(彼らは人間ではないが)などがある。これはスケール的には小さく見えるが、見ている側に分かりやすい愛の一例である。この具体的な愛で最も顕著なのは、まあ第一作から貫徹しているが、ネオとトリニティの愛であろう。特にトリニティは、自らのすべての存在・行動・思考を、ネオへの愛と言う一点だけに依存して表現していると言わざるを得ない、究極の依存の形を取っていると思う。第一作でトリニティがネオを救った。第二作ではネオがトリニティを救う訳だが、そもそも第二作ではネオをピンチを救うために、無茶してマトリックスにトリニティは入って、電力を停止させた訳である。ミイラ取りがミイラになったとも言えると思うが、危険を冒してまでマトリックスに入っていったのは、何しろトリニティのネオに対する愛の具体的な行為である。

今作でもトリニティはネオへの愛を遺憾なく発揮している。まずはネオが変な地下鉄の駅のプログラムに迷い込んでしまった時のこと。ここでのネオの命運を握るのは嫌味なフランス人であるが、ネオを救うためにトリニティが取った行為は、映画だけに圧巻である。フランス人の額に銃口を突きつけ、フランス人の手下どもに銃口を突きつけられながら、「ネオを解放しないとここにいる全員(トリニティ含む)が死ぬ」と言う条件を提示するのである。フランス人のグラマーな奥方は「この女は本当にやるわ」と言っているが、脚本は「本当にやると言う表情を作れ」と当然要求していただろう。何しろ、トリニティにとってはネオが全てと言う設定なのである。

ネオは自らマシンの街に行くと言う、あまりに無謀な計画を打ち明ける。この自殺行為にトリニティは付き従い(ネオは当初は単身で乗り込むつもりだった)、トリニティはネオを力強く支え、遂にネオへの愛を捧げつつ戦死するが、これがトリニティのネオに対する最後で最大の愛情表現であっただろう。まあ、ネオにとっては最愛のトリニティを失うことのダメージは甚大であるが、ここにマトリックスにおける「観客に分かりやすく提供される、具体的な愛」が完結する。分かりやすいのは分かりやすく、振り返ってみると私自身が最も感動したのはこのシーンだった。

マトリックスシリーズの中で、一番のポイントはネオの救世主伝説であるが、結果的にはネオの救世主伝説は実現し、全て成就する。じゃあ、ネオの救世主としての行為は何だったのか、って愛に決まっているわけだが。

ネオが示した愛は、トリニティに対するものだけじゃない。ネオの愛の言葉は、本作の最後の方に出てくる。ネオが「世界を掌握しつつあるスミスを倒すのは俺だけだ」みたいなことをマシンの親玉(のような、何かセンティネルズで出来た悪魔みたいな奴)に言った際、その親玉みたいのが「何が望みだ」とネオに聞く。ネオは「平和だ」と答えるが、これがマトリックスシリーズにおける結論と言うか、最大のテーマである。戦争を悪と定義すると、平和をもたらすことは敵と味方双方に対する愛の行為となる。平和を実現させることは、全世界の人類、そして機械に対しても愛を与えることになる。それを実現するには、スミスを破壊することが必要である。スミスを破壊するのは決死行為と言っても過言ではない。これにネオは臨む。つまり、ネオは自らの小さな命を捨てて、全世界を救おうとしている。これはイエスが2000年前に目指した行為と同じである。自分の命はいいから、他のすべての命をどうか助けて欲しい、と言うもので、「友のために命を捨てるのが最大の愛」と言うものを実際示して死んだイエスと同様のことを、ネオが(映画で)やり遂げたわけである。

トリニティの行為にいきなり話を戻すが、トリニティはネオを支え続けたものの、それはネオにこの世の命運を賭けていると言う感情も含んでいる。だから、ネオに対して犠牲を払ってでもネオを守ろうとするのは、同時にネオの使命、つまりネオの全世界に対する愛を助けることになる。ということは、トリニティのネオに対する愛は個人的な小さいものではなく、ネオへの愛を通して、間接的に全世界に対して献身的な愛を捧げていることになる。こう考えると、ネオに賭けているすべての登場人物は、結局全世界に対する愛を、ネオを通じて表現しようとしている、と考えられないだろうか。

いきなり黒澤明の「七人の侍」に話が飛ぶが、私が好きなシーンの一つに、こんなものがある。以下、今年の最初の方に書いた日記の抜粋

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新年見た七人の侍において、一部の村人が離反すると言う状況が生まれた。村は外側に川が流れており、この川を天然の濠として防御に使う戦術を描いていたのだが、実は川向こうに3軒の家があり、七人の侍では「とても川向こうの3軒まで守れないから、3軒は空けて(棄てて)くれ」と村人に指示した(因みに川の手前の守る村には20軒ある)。これにとても従えない川向こうの村人は侍の指揮する部隊での行動を拒み、自分達の3軒を自力で守ろうと部隊を飛び出そうとする。その時、大将格の志村喬は抜刀し、戻らないならば斬ると3軒の村人の離脱を制止する。

「離れ屋は三つ!部落の家は二十だ!三軒のために二十軒を危うくはできん!また、この部落を踏みにじられて、離れ家の生きる道は無い!いいか、戦とはそういうものだ!人を守ってこそ、自分も守れる。己のことばかり考える奴は、己をも滅ぼす奴だ!!!

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登場人物全員は、命を賭けてネオを守ろうとするが、これは結局己を守っている行為に他ならない。愛に見返りを期待すると言う下世話な哲学があるのかは知らんが、結局人への愛は自分にも戻ってくる。トリニティとネオは死んでしまった(んだよな、ネオは)が、少なくともトリニティはネオへの愛を完成させたし、ネオは全世界への愛を完成させた。生存しているかどうかは、愛の行為としてはひょっとすると最早意味の無いことかもしれない。ここまでキリスト教が規定しているかは分からないが。

最後に、マトリックスシリーズは斬新な映像技術が話題となった映画であり、これにつられて流行った映画である。この映画に対してここに期待するのはまあ当然あるだろうが、映画である以上はここだけで面白いと言う訳には行かないだろう。何しろ、アクション物だけを期待するなら、映画なんて見ないで進化したテレビゲームを自分でやる方が面白いと言う時代に到達しているのではないだろうか。マトリックス(映画)に映像技術だけを期待すると言うのは、何となく時代遅れって感じがするが、いかがであろうか。

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