蝦夷地別件 (上)(中)(下) 船戸与一著 新潮文庫
あまり内容について触れると、ひょっとして万が一将来これを読もうと思った人にとって、非常に良くないと思うので、これを読んで分かった時代背景を中心に。
主な舞台は現在の道東地区及び国後島であるが、ここを軸に松前、江戸、それからロシア(極東からサンクトペテルブルク)が絡む。船戸作品は中東や南米などが主舞台のものが多いが、これは異例とも言える国内舞台の作品だ。内容は、小さく言うと蝦夷の反乱、大きく言うと日本の暗い夜明けの一舞台、という印象である。主な登場人物たちはアイヌ・松前藩士・浪人・僧侶・ポーランド人である。話の取り敢えず終わる最後の川沿いのシーンまでに、生き残る登場人物はこの内4名だけである。その他は、必ずと言っていいほど、人の手によって命を絶っている。
この物語は、アイヌ蜂起の中でも後期に起きた「国後目梨の反乱」が素材である。と言っても、これを読むまで私はこの事件を知らなかった。アイヌ蜂起と言えば「シャクシャインの反乱」が有名だが、シャクシャインが立った120年後の乱の話だ。時は田沼意次失脚後、松平定信執権在任中。アイヌの生活と松前藩の存亡、そして幕府の野心と外界からの危機意識。これらのバランスが崩れる瞬間が、国後目梨の反乱であったと言える。
本書で描かれている時代背景には、次のような事情がある。和人は蝦夷地と呼ばれる現在の北海道に進出したが、街として整備しているのは松前周辺だけで、その他の地は依然アイヌのものであった。だが、そのアイヌの地にも和人が進出し、アイヌに対してあらゆる暴挙を働くようになる。アイヌの和人に対する不満は、爆発寸前まで達する。アイヌは外部勢力(ポーランド貴族)と接触し、銃の調達を依頼、蜂起を企てる。一方その頃の幕府は、江戸や大阪に農地を捨ててやってくる農民達による、極度の過密化と、開国を迫る対外勢力の接近に対応を迫られていた。特に北からは、ロシアの接近が目立つ。幕府(というより松平定信)の思惑は、蝦夷を松前藩から取り上げ、直轄領として配下に置き、一方では過密化した住民を蝦夷へ流し、一方では国防体制を強化するというデザインを組む。さらに、当時ロシアとの交易で利を上げていた薩摩の動きを牽制し、その利を蝦夷地で幕府にあげることをも画策していた。つまり、幕府は虎視眈々と松前から蝦夷地を取り上げる瞬間を狙っていたのである。この際、アイヌをどうするかと言うのは、松前と幕府は異なっていた。松前は和人をアイヌを切り離して考えたが、幕府はそうではなかった。アイヌの和人化を考えていたのである。つまり、アイヌのアイデンティティーを否定し、名実ともに蝦夷を日本に組み入れようと考えたのである。
この本は史実を元にしているため、当然ながら奇跡は起きない。これは以前読んだ船戸作品である「砂のクロニクル」でもそうだった。砂のクロニクルはクルド人がイラン政府(ホメイニ支配下)に対する独立蜂起がその内容であった。蜂起の手順として、外部勢力に銃調達を依頼するところや、結局奇跡が起きずに敗れ去るところ、それに登場人物設定までが「砂のクロニクル」と「蝦夷地別件」の間で酷似している。基本的に現代も過去も、支配する側とされる側、屈服させる側と屈服してしまう側の論理に大幅な変更は無いことを示しているような印象がある。窮鼠は猫を噛もうとするも、窮鼠が猫を一時的にでも駆逐する歴史は無い。それと同様に、小勢力が大勢力を屈服せしめる歴史は非常に稀で、あっても大勢力内部が瓦解寸前だったりした瞬間くらいだろう(日露戦争とか)。そのような奇跡は人の目を引くが、この「蝦夷地別件」にはこれが無い。アイヌが立ち上がった時、松前は瓦解寸前と言うわけではなかったし、幕府にしても問題は抱えながらも、アイヌに惑わされる程度では無かった。機を狙った訳ではないアイヌは結局、完膚なきまで叩きのめされる。ここに、小勢力の何とも言えぬ敗北感が窺い知れる。負けが決定的になったときの、アイヌの重い雰囲気は、読んでいる私の心をも重くさせた。その重さとは、結局どうすることも無く、投降か死、その二つの選択肢しかないのだから。しかも、首謀者は罠にはまり、次々と首を刎ねられるシーンには、私は心の中が沈黙せざるを得なかった。この汚いやり方は、もう何千年と続いているのだろうし、その歴史の上に、私は生きている。
さらにもう一つ、船戸与一はこの作品に二人の僧侶を登場させている。この僧侶の存在は、幕府の更なる意図がふんだんに盛り込まれている。アイヌを配下に置くのは、武力だけで十分であるかもしれない。だが幕府はアイヌの完全な和人化を狙っていたとは、先述のとおりである。つまり、宗教的にも支配を強め、登場人物である天台宗僧侶の言葉を借りれば「心を盗む」ことで、完全な配下に置くことを狙っていた訳である。
この方法は、豊臣政権や徳川幕府がかつて外国勢力から受けたやり方である。つまり、南蛮勢力の日本人キリスト教化運動である。16世紀、日本は拡大する西洋勢力と初の接触を持ったが、その際に流れ込んできたのは西洋文明とキリスト教である。スペインやポルトガルは、一方では武力でアジア地区を配下に置き、一方ではキリスト教を以って「精神」の支配も進めていったと言うのは、歴然とした事実であるが、この方法を日本に対しても適応しようとしたのは、意図としては明確である。秀吉はこれに気付き、九州平定の後、即座にキリスト教を禁教とし、徳川政権は切支丹殲滅に本腰を入れ、キリスト教除去を断行する。両権力者とも、西洋勢力の領土的野心を嗅ぎ取ったからとされる。
この方法を、幕府は蝦夷地平定に利用しようとしている。宗教が政治に利用される場面である。
以上のような時代背景の下、物語は進んでいく。アイヌはこの戦いを境に、完全に変わっていく。そして、物語の主人公達も、どんどん変わっていく。特に主人公のアイヌ少年であるハルナフリの変貌は、吐き気を感ずるほどである。途中で挫折してはならない、最後まで読んでこそ、時代の移り変わりの無情さを垣間見れる作品である。