イエスのDNA -トリノ聖骸布、大聖年の真実- レオンシオ・ガルツァバルデス著 林陽訳


高校時代の英語の先生が言っていたことを思い出した。科学はキリスト教と対立してきたように見えるが、神とは何ぞやという疑問を科学者達が追い求めて来たわけだから、本質的には目標は一致している筈である。確かにそれは当てはまっており、歴代の一握りの天才達によって、我々は神の作用としか思えなかった宇宙の理論を数多く知るに至っている。本書もまた、そんな神とは何ぞやという疑問を追い求める科学者の姿を描いたものであるようだ、と思っていた。しかし、本書の求めるのは、イエスその人なのである。

イエスが磔刑に処された後、イエスの体を包んだとされる白い布が、この本の主役である。本書は、現在イタリアのトリノ大聖堂に所蔵されいている「トリノ聖骸布」に対する、科学的なアプローチを試みた筆者の報告である。筆者は微生物学教授であり、生物学的アプローチから、この報告をまとめている。

筆者のガルツァバルデス教授は、1980年代後半において炭素測定から決定された「トリノ聖骸布は中世(14世紀)の贋作である」と言うことに対し、自身の微生物学的見地からの研究によって、明確に"No"を唱えている。以後、感想と言うよりあらすじを述べてから、ちょっと考えを記す。

1980年代後半、教皇庁は聖骸布の年代決定測定プロジェクトを決定した。利用する測定法は炭素測定法と呼ばれる手法である。これは、物質内に残存するC14(陽子は12個だが、中性子は14個ある放射性炭素)のC12(通常の炭素)に対する割合から、その物質の生成年代から現代までの年齢を割り出す手法である。当時は最新、かつ最先端の測定法であったらしい。測定は3つの研究機関に委ねられ、その結果がまとまった段階で、教皇庁から正式な発表がなされるというものであった。その結果、聖骸布の生成年代は1390年代から1400年代とされ、「科学的に」中世の贋作であると決定がなされたのである。

この測定法自体は、現在でも古代遺物の年代測定において利用されているものである。最早最新ではないかもしれないが、最先端であることに変わりは無い。したがって、この測定法自体を否定することは筆者もしていない。ただ、筆者はこの測定をする際の準備が不備であったと述べている。何故不備であったかは、筆者が指摘することを、当時誰も知らなかったからである。それは微生物学的な見地から見た、画期的ともいえる発見が端緒となっている。

筆者は中米の古代文明の遺物研究にも熱心に取り組んでいた。あるとき、筆者の所有するヒスイが、最近の贋作であると指摘するニューヨークの古物商が現れたらしい。古物商の主張によれば、「古代のものにしては光沢がありすぎる」というのだ。筆者はこのヒスイが古代中米文明のものであることを発見するために、独自の研究を重ねた。その結果、この光沢は古代遺物に発生する「バイオプラスチック膜」と呼ばれるもので、この光沢は古代の有機物上に繁殖したダニや細菌によって生成された「最近の自己防衛膜的な有機物」であることが判明した。その証拠に、ヒスイには古代マヤ人の血液が検出され、そこに細菌が分解反応を示し、また自己防衛的に「バイオプラスチック膜」という天然のポリエステルを細菌が合成していることが分かったのだ。

このバイオプラスチック膜は、古代の遺物に多く繁殖するという発見を、ガルツァバルデス教授は発見した。そして、この膜が聖骸布にも存在するのではないかとの思いを抱くようになったらしい。

バイオプラスチック膜とは、ポリエステルであると述べた。ポリエステルは石油製品であるが、天然にも細菌の作用によって炭素合成がなされ、ポリエステルが出来る現象らしい。ここで重要なのは「炭素合成」である。有機物は炭素を主成分とするものであるが、もし聖骸布にバイオプラスチック膜が存在したら、それは新しい炭素が細菌によって合成されたことになる。つまり、聖骸布サンプルに残存するC14の数は、当然増えることになる。小難しいことは置いておいて、新しい炭素があれば、その物質の炭素測定の結果は新しくなるのは当然である。つまり、バイオプラスチック膜と布が同様の条件下で測定にかけられたら、バイオプラスチック膜における炭素含有量による年代と、聖骸布本体の炭素量による年代の、平均値が割り出されることになる。バイオプラスチック膜は今でも増えつづけているわけであるから、測定された年代の炭素量も検知していることになってしまう。従って、バイオプラスチック膜を完全の除去した状態で炭素測定をかけなければ、聖骸布の年代測定は不可能である。

以上の考えのもと、ガルツァバルデス教授は聖骸布サンプルを用いて研究を開始した。彼が聖骸布サンプルを裁断する際、その手ごたえは明らかに薄い銅版やプラスチックを切るような感触がし、光学顕微鏡(理科室にあるような普通の顕微鏡)で覗いても、化学繊維のような光沢を有する繊維が発見されたという。酸・アルカリを利用した洗浄によってバイオプラスチック膜の除去を試みたが、逆に聖骸布繊維が溶出してしまって失敗に終わる。だが、バイオプラスチック膜の繊維に対する重量は60%であるという結果は残った。1980年代後半の測定を行った各アカデミーによれば、年代測定の誤差は不純物が60%以上含まれていなければならないとしている。ここで得られたのは、バイオプラスチック膜という「不純物」が、重量の60%を超えているという現状である。

相当端折ったが、以上が流れである。炭素測定法自体は間違いではないが、素材そのものに目が向けられていなかったのが、誤測定の原因であるとしている。確かにこれらの考えは納得のいく考えであり、特に微生物が聖骸布上を覆う皮膜を形成しているというのは、説明を受ければなるほどなと思えることである。私自身、80年代の測定は誤りであると、納得することが出来る。

しかし、そうは言ってもしっかりした年代測定はなされていない。それは、トリノ大聖堂枢機卿サイドから許可が下りないからである。何故下りないのかと言えば、このガルツァバルデス教授が、聖骸布から取り出した血痕からDNAのクローニングに成功し、少なからずの遺伝情報を得てしまったことが危険視されているそうだ。つまり、この聖骸布の主、もしイエスならば、そのイエスの遺伝情報を得られてしまうのではないか。

聖骸布には、包まれていた人の像が浮かび上がっているが、頭部や胸部、それから手や足に血痕と思しき染みがある。頭部の血痕は、茨の冠が頭皮を破った際に出来た血痕。胸部のそれは、最後にローマ兵が槍で刺した痕。手や足は言わずとも知れた、磔刑時に打ち抜かれた傷の痕であろう。そこからテープ(セロテープみたいなものだろうか)で貼り付けて取られた物質には、血痕と木材が検出されたそうだ。血液はAB型で、染色体から男性であることが分かっている。また、木材は樫材であり、磔刑に使われた十字架が樫であると思われる。また、相当破損されているものの、DNAも取り出され、若干のクローニングに成功したらしい。教授曰く、とてもイエスを再生できるほどの遺伝子量ではないらしいが。

面白いのは、著者がこの聖骸布が「イエスを包んでいた聖骸布である」と断定している点である。これは、彼の科学的な見地から論理的にはじき出した考えではなく、あくまで彼の信仰心からの現れである。どうもこれが、挫折を厭わない動機付けになっているような気もする。本書の後半部はかなり専門的になり、特に生物学的な記述には私も相当難儀したが、本書は全般的に信仰心と科学の融合させることが、きわめて自然であると訴えているかのように、時には坦々と描かれている。

ただ繰り返すが、本書では正確な年代は決定されていないし、何よりも本当にこれがイエスを包んでいたものかも証明されていない。その他、残存していた花粉が2000年前のパレスチナ地方に群生する植物のものであることが分かっていたりもするし、AB型はセム人(イスラエル/パレスチナ人)に多いというものがあっても、それがイエスのものかどうかは分からない。確かにこの布には血痕が存在し、そして人の脂や血に群がってバイオプラスチック膜を形成する細菌の存在が示されたため、誰かがここに横たわったことは確かであろう。だが、これがあのイエスの血であるかどうかは、全く分からない。恐らく、永遠に分からないのではないだろうか。それでも科学者達は、神を追おうとするのだろう。結局神には到達できないが、その過程で様々なものを生み出してきた人類は、今回でも何らかの発見をし、それを人類のために使っていくのだろう。

こう考えると、結局「神を追う」という姿勢によって、さまざまなことが生み出されるということが分かる。科学者達は、これらは神が授けてくれたものだと考える向きもある。案外、科学者達の方が神に対する畏敬の念が強かったりするのも、こういうことなのだろうか。彼らは極めて冷静に神を見て、そして極めて真摯に神を見て、そして極めて素直に神を感じている。何しろ、自然界の想像にも及ばないメカニズムを発見したときの彼らは、素人の我々とは比較にならないくらいの驚きと喜びを感じるのだろうから。

本書は前半部だけでも結構面白いと思う。

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