ベルリン・天使の詩 ヴィム・ヴェンダース監督 西独・仏合作


会社帰りとかに「ああ、疲れたな」とか「まだあれ終わってねーよ」とか「なんか金曜なのに全然嬉しくないんだよな」とか、心の中で独り言を言うことがあるだろうか。私は最近結構あるのだが、他の人にしてもそれはあると思う。その独り言は、当然私以外の誰も知らず、従ってこれは私だけの一種の秘密である。だが、もし今自分が思っていることが、他人に知れたら何と思うだろうか。大抵の人は、冗談じゃあないと思うだろう。しかし、口に出来ずに、今思っていることを誰かに聞いてもらいたいとも思っている瞬間もあるだろう。その秘密はとても人には打ち明けられないが、でも聞いて欲しいという秘密は、誰にでもあると思う。私にだって当然ある。

この映画は、それを天使が聞いているという映画だ。勿論、天使はその人と意思疎通を図ることは出来ない。何故なら天使は、子供以外には見えない存在だからだ。見かけは普通のおっさんなのだが、彼らはれっきとした天使である。この映画の中で、天使はベルリンの至る所にいて、生身の人間の物思いで考えていることを、全て聞いている。それは生活の苦労を心の中で話していたり、先が長くない自分の心情の吐露だったり、夢を追ってきてそれが潰えそうな時の胸のうちだったり、様々である。天使たちは彼・彼女らには何もせず、ただ傍で同情するように見つめるだけである。そうして、もう長い間天使として、このベルリンの街を漂ってきたようだ。

天使たちは人間の心を読めるかわりに、色の識別が無い。というわけで、スクリーンは少し前に流行ったセピア色のモノクロ写真のような色合いである。壁崩壊前の西ベルリンの街は見た感じあまり華やかではないのだが、モノクロなのでそれがもっと寒々しく感じられる。道路の路肩には沁み雪が残り、道行く人々は疲れた顔で寒そうに歩いている。高架鉄道はドイツ特有の近郊電車であるS-Bahnで、その滑らかとはいえない走りっぷりは、スクリーンを余計に陰気にする。見ていてうら寂しい気分になる映画である。

登場人物たちも、あまり明るくない人達だ。表面上では明るく装っているのだが、実は内面が少し暗いというのは、天使の心を読む能力によってよく分かる。スクリーンの情景と、かなり合致している心情である。そのスクリーンで、登場人物たちは、心の中で独り言を繰り返す。誰に言うのでもなく、しかしあたかも誰かに聞いてもらいたいかのような独り言である。

表面的には何も変化は見せないのに、自分の中が波立っているとか、かなり弱り果てていると言う経験は、誰にもあるだろう。常にそういう状態であると言う人もいるかもしれない。このときは人間やっててかなり辛い時であろう。表面と内面の乖離が大きくなるほど、得体の知れない疲労感が、我々自身を包むものである。ここでもし、この疲労感を取り除いてくれる存在がいたなら、どれほど救われるだろうか。実はそのような救世主を欲しているのに、表面では陽気を装わざるを得ないのは、相当辛い。陽気を装う必要など、実は全く無いのに、それでも装えば、この辛さは辛いなんてものじゃなくなって来るし、最悪の場合は深刻な結果を招いてしまうだろう。などという感情を、この映画を見ていて感じてしまう。しかし、暗い気分になると言うよりは、同情と言うか自分をこのS-bahnに乗っている中年の男に合わせてしまったりする。得意の感情移入が促進されていたのが分かる。

作中にサーカス団の女性が出てくるのだが、彼女は内面に暗い自分を持っている際たるキャラクターである。天使は彼女に同情以上のものを持っていて、結局中年男の格好のままで人間になってしまう。最終的には、人間になった元天使は、彼女を支える存在になるのだが、ここで彼女が、見えない筈の天使をちょっと前から感じていたことも分かる。この展開の解釈は、観る人によって異なってくるのだろうが、私はこれが一番いいのだと思った。

天使は色の識別が無かったが、人間になった途端に、スクリーンがカラーになる。カラーになっても、冬のベルリンの空は厚い灰色の雲が覆っているし、街も色彩に乏しい。路肩には薄汚れた沁み雪が残っている。だが、やはり色があった方がいいなと思った。全編モノクロ映画ならあまり感じないことであるが、色があると物語自体も明るくなる。何しろこの映画にしても、カラーになってからは随分明るくなった。それは登場人物の心情にしてもそうである。

あまり明るい映画ではないかもしれないが、それでもいい映画だったと思う。何か続編も出来ているらしいが、機会があったら観てみようと思う。

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