アジアは復活しているのか


現在、アジアは経済危機から立ち直り、昨年度の経済成長率は軒並み5%を超えている。ただ、これが構造的に本当に立ち直っているかと言うと、そうとも言い切れないような気がする。それは、以下のような経験から感ずる、私の個人的な不安である。

私がインドシナ半島縦断旅行をしていた1997年の3月、タイの株式市場が大暴落した。当時中国雲南省の省都である昆明のホテルに滞在していた私は、CNNで繰り返し報道されるこの暴落劇を見ていた。この旅行の出発はバンコクからだったので、僅か10日前にいたバンコクがこのような大騒ぎになるとは思わなかった。ただ、こんなことになるだろうなというのは、予想していたと言えば、予想していた。意外だったのは、こんなに早く破綻してしまったということで、早かれ遅かれ、これはやってくるべき試練だったと思う。

私が初めて東南アジアを旅行したのは、大学2年の9月である。当時、アジアは破竹の勢いで発展中で、初めてバンコクに降り立った私は、林立する高層ビルや華やかなショッピングモールに驚いたものである。タイが完全な発展途上国であると予想してきた私は、これらの情景に完全に予想を裏切られるわけである。海外からの投資はアジアに集中し、アジア各国は繁栄を謳歌していた。だが、どうも腑に落ちない場面にも出くわした。発展中なのだが、何となく違和感を感じたのだ。これはバンコク市内で感じたのではなく、地方都市を旅行したときに感じたものである。

タイ中部の交通の要衝である、ピサヌロークからバンコクに戻るバスの中で、私は半ばイライラしながら席に座っていた。バスがボロかったからか。とんでもない。バスは冷房が効きすぎて寒いくらいだし、座席だって日本の高速バスと何ら変わらない最新バスだ。私がイライラしていたのは、バス本体ではなく、バスが全然前に進まないということだった。大渋滞なのだ。大渋滞の原因は大雨である。しかし、いくらタイの大雨とは言っても、車がこんなに詰ることは無い。このときの原因は、川の氾濫による道路の洪水状態である。発展途上国ならば、これは致し方ないことである。私もこんなにはイライラせず、「まあしょうがないなあ」と思うだろう。もしラオスを旅行していてこれならば、別にどうってことはない。しかし、私はバンコクのビル群を見てきた。華やかなショッピングモールを見てきた。品数豊富なデパート店内を見てきた。世界中のメディアから脚光を浴びている、繁栄しつつあるアジアを目の当たりにしてきた。つまり、ここは中進国に近づいているとさえ考えていたのだ。それが、この様である。最も基本ともいえる、インフラに投資が全然行き届いていない。途上国と考えていた国に林立する高層ビルを見て予想を裏切られた私が、今度は中進国として基盤を固めつつあると思っていた期待を裏切られた。この、2時間で6kmしか進まない、徒歩と同じくらいの速さの冷房の効いた快適なバスの中で、私はこのことをずっと考えていた(暇だったし)。

インフラの未整備は、何も地方部だけの話ではなく、実はバンコクにも当てはまることだったらしい。さらに数日後にメコン河沿いのノンカイという町で見た新聞によると、バンコクも治水事業が中々進まずに、市内を流れるチャオプラヤ川が雨季には溢れ返ってしまうらしい。海外から凄まじい勢いで金が流れてきているのだが、インフラ整備のような地味で継続的な努力の必要な事業よりも、華やかな方面に金が流れている。バンコクを後にする際私が機上で考えていたのは、アジアの繁栄と言うよりも、なんだかお祭り騒ぎを見に行ったというものだった。

帰国後、色々なメディアを見たが、どれもアジアの発展を賛辞するものばかりである。発展するアジアを横目に、当時(今も)下降経路を辿っていた日本は、浮きまくった存在だった。年末にニュースステーションで久米さんが「この前シンガポールに行ったんだけど、日本は完全に置いてきぼりのような感じでした」みたいなことを言っていたのを覚えている。

しかし、そのような中にも慎重な意見や、またはアジアの発展は幻想であると言う意見も散見された。当時はアジアが発展していた最中だったので、誰もそのような意見には注目しなかった(それどころか猛反発を食らう)みたいだが、米国のメディアのごく一部だったと思うが、以下のような論調を見せていたのを覚えている。

アジアは、海外からの投資に浮かれていたが、海外の企業が投資する理由は、アジアの低賃金が魅力だったからである。自国の高賃金体質に参っていた先進各国の企業は、低賃金のアジアに目を向ける。これによってアジアで新しい雇用が創出される。失業率がどんどん低下するということを意味するわけであるが、失業率が低下して起こるのは、生活レベルの向上である。詳しい経済理論は分からないが、失業率が低下すれば、国民所得は全体的に増え、そうなると経済は全体的にインフレ方向に進む。インフレになれば、これはすなわち物価が上昇することになるので、労働者は賃金上昇を要求し、実際に賃金は上がっていく。まあ、自然な流れだろう。しかし、賃金が上がったところで、同時に技術力も上がれば、賃金を払う側はまあしばらくは我慢するのは想像できる。例えば、この前までは皿洗いしか出来なかった新米が、現在はメインディシュを作るまでに技術が向上していれば、賃金上昇はやむなし、である。

だが、アジアではこれが起きなかった。確かに若干技術力は向上した。しかし、どうも賃金上昇率に、技術力向上の度合いが追いつかなかったみたいだ。日本から進出しているキャットフード工場で働いている労働者が、昨日と全く同じキャットフードを作っているにもかかわらず、賃金だけが上昇していく。これでは、外資は引き上げざるを得ない。もっと賃金の安い中国やベトナムにシフトしていき、タイやその他のアジア諸国からは撤退を考えるだろう。いつまでたってもインフラも十分に整備されないから、国内流通が阻害されたりすれば、タイの奥にも投資など行かないだろう。

外資の劇的な撤退が始まるのは、時間の問題であったと思われる。その時、アジア各国政府は何をしていたのかは、私は知らないが、投資に浮かれていただけというのは何となく否定できない。投資されたものの、それを生かす努力が足りなかったのではないか。

「アジアの成長は幻」という理念を抱きつづけたのは、MITのクルーグマン教授などが有名だ。基本的に、上記のような考えであると思う。私がクルーグマン教授の著作を読んだのはアジア危機後であるが、かつて控え目ながら「アジア発展の幻想」論を展開していた米国メディアは、クルーグマン教授らの影響を受けていたのではないか。初めて読んだとき、初めて触れた考えとは感じなかった。

このような考え方を、やや短絡的とみる例も多い(例:ニッセイ基礎研レポート)。ただ、「成長しない奴に賃金上昇はありえない」という考えには、何となく納得してしまう節がある。確かに、労働の質と賃金格差だけで、あそこまで瓦解するのかというのは、私としても説得は出来ないのだが。

冒頭でも述べたとおり、アジアは急回復している。だが、私はまた同じ過ちを犯すのではないかと、多少思っている。私の業界は輸出産業で、競争相手は海外のコントラクター(コンストラクターとは言わんぞ)なのだが、韓国勢に受注をさらわれるケースが多い。ただそれは、先の経済危機で韓国が急激にリストラを断行し、そして急激に賃金低下が起こったのが大きな原因の一つだ。為替もウォンが低下しているのが後押ししている。低価格にモノを言わせ、負け知らずの受注競争を勝ち続け、日本のみならず欧米のコントラクターも相当仕事を食われている。だが、チラホラと、韓国企業の質のイマイチさが報告されている。完成はしたものの、顧客が要求した水準のプラントが納入できていないと言うのだ。確かに、経営改革を通じて、技術は向上しているらしいのだが、その向上度合いがやや低いのではないか。先の新聞紙上で、韓国の賃上げ圧力が急上昇しているらしい。そうすれば、低価格と言う魅力が薄れ、再び同じサイクルに陥るのではないか。

闇を忘れれば、またあの闇が戻ってくるかもしれない。真の成長を続けるのか、繰り返すのか、それとも本当に沈んでしまうのか。