2002年09月02日

パキスタン行きが諸々の理由で延期になっていましたが、とりあえず9月に入ってパキ行きが具体化してきました。と言う訳で、そろそろ再開準備をしたいと思います。

準備なんて何もありません。

2002年09月07日

出張準備を開始しようと思う。まず最初はこのパソコンの設定から始まり、次に落として壊したデジカメの修理、さらには免許の書き換えだ。業務上の準備は鋭意進めていくが、多分明日も出ないと終わらない。

2002年09月15日

荷造りは80%完了した。あとは明日向こうの事務所に土産を買って(パック酒とラーメン)、手荷物の荷造りをするだけである。

パック酒を没収されたらヤだな(パキスタンはアルコール持ち込み禁止)。

2002年09月16日

さあ、いよいよ明日出発だ。今日は出社して最終準備をやった。

最終準備その一 お土産購入
 向こうの事務所にいる日本人向けにお土産を購入した。その中でラーメンを頼まれていたが、何か袋詰めのラーメンってあんまり置いてねえのかな。って、時間も遅過ぎでスーパーは開いてない。結局コンビニで1000円分位買ったのだが、棚の袋麺が殆ど無くなってしまったぞ。

最終準備その二 データの移し変え
 会社のパソコンに入っているデータを自分のパソコンに移した。計7ギガくらい。って多すぎるぞ。

最終準備その三 業務上最終準備
 何かこれで準備終了でいいのかなあ。気分的には今週の火曜位に業務準備は終わった気持ちだったが、何か振り返ると色々遣り残しているような気がする。出張前はいつもこんなもんかあ?

最終準備その四 友人へのお知らせメール
 を昨夜から送っているものの、全然反応が無くて寒い。

最終準備その五 最終荷造り
 パソコンとかCDとかスキャナとか、あとは専門書って言うか大学の頃の教科書って言うか、そういうのを詰める。担当外ではあるが、不安は杭基礎の設計。やったこと無えってのにもう。

最終準備その六 会議議題決め
 今週は殆どミーティングに終始すると思う。実設計の開始は来週からだ。と言う訳で、会議議題と進行の準備をしなければならない。これは飛行機内とバンコクのビジネスラウンジでやる。今回は一人ぼっちの出張で、道中ヒマなのよね(14時間)。

最終の最終準備 目覚ましセット
 明日は横浜7時26分発の成田エクスプレスで成田に向う。と言う訳で、起床は午前6時である。

では、次の更新はパキスタンラホールからです。

2002年09月17日

何だか殆ど眠れなかったが、取り敢えず6時前に目を覚まし、身支度を整える。向こうの日本人駐在者向けに買った土産のラーメンが嵩張り、結局荷物は二つになってしまった(既に巨大なスーツケースと子会社に土産として会社で買った本を詰めたクソ重い段ボール箱は成田に送っている)。また、教科書類も数冊入れたため、かなり重い。父親に駅まで送ってもらったから助かったものの、一人で歩いていたらちょっと辛かっただろうと思うほどの量であった。
地下鉄で横浜駅まで行き、そこでJRに乗り換え。JR横浜駅は前から工事中で、何だか色々狭い。また、成田エクスプレスの発着する横須賀線のホームはかなり狭く、荷物を抱えた旅行者には辛いものがある。しかもラッシュ時でクソ混んでいる。「全く、旅客駅としての自覚はあるのか」と、朝早いだけに私自身機嫌が頗る悪い。
成田エクスプレスは横浜の時点で半分以上の席が埋まり、次の停車駅東京で満員になった。私は缶のお茶を飲んで、乗車中目をつぶって休息をとっていた。しかし、途中から休息どころじゃなくなってきた。腹が痛くなってきたのだ。最初は我慢していたのだが、だんだん辛くなってきて、「こりゃトイレに」と言う段階に差し掛かった。しかし、既に列車は成田を過ぎており、あと10分で私の下車する空港第2ビルに到着してしまう。別に終点の成田空港(第一ターミナル)まで行ってもいいのだが、問題は終点の時点までで事が片付くかである。膝に置いた手の爪を腿に立てながら、我慢することに決定した。
空港第2ビル着。車内の7割くらいが下車し、狭いホームはデカイ荷物を抱えた旅行者で一杯。しかも、改札口に上がるのは細っちろいエスカレータ二本のみ。おいおい、日本の玄関がこんなに狭くていいのかよ、と言うほどのショックを受け、
「全く、旅客駅としての...」
と先ほどより若干趣を異にした怒りを覚える。
トイレを発見して一目散に急行。これでティッシュは入り口の自販機で買わなければならないなどと言うシステムだったら成田廃止運動に参加する、と思いながらトイレに入るも、そうではなかった。さらに、あの室内は広く、デカイ荷物を持った人間を配慮した設計。そして、事は一気に解決した。
ターミナルを上り、チェックインの階へ。まずは土曜に送った荷物を取りにABCへ。そして、クソ重い荷物4つをカートに載せ、チェックインカウンターへ。今回の出張はビジネスクラスで優雅に出発ゆえ、空いているビジネスカウンターよりチェックイン。ビジネスクラスは30kgまで荷物が許されているが、秤を兼ねたカウンター横のベルトコンベアに荷物を載せると、総勢49.2kg。だが、別に追加料金を要求される事は無かった。ビジネスはいつもこうだ。
すぐさま手荷物チェック、そして出国審査。前回のアルメニア旅行時、私は出国審査に40分を要した。と言う訳で、われ先に出国審査に向った。しかし、今回はそれほど時間を要せず、10分程度で済ませる事が出来た。やはり夏休み期間中とは違うのだろう。
ビジネスクラスラウンジへ向う。先ほどの事もあって、腹の調子は極めて悪い。しかし、貧乏性からタダ酒を飲まないわけには行かず、朝から生ビールを一杯。しかし、一杯が精一杯だった。やっぱ調子悪いよ。
搭乗の呼び出しがあったので、ラウンジを出る。エコノミー客長蛇の列を横目に、ビジネスクラスゲートから搭乗。ああ、席が取れてよかったとしみじみ思う(ビジネス満席でエコノミーで当初予約を取っていた)。あとはビジネスクラスでの旅だが、今回は通路側が取れずに窓際。途中で窓外を見ると、結構大きい島が見える。個人液晶テレビで現在地を確認すると、奄美大島。とかやっているうちに機内食を食って熟睡。因みに機内食はあまり美味くなく、残してしまった。相変わらず腹の調子が悪いのだが。
気が着くとタイ領空内に入っており、バンコクドンムアン空港にほぼ定刻着。で、ビジネスラウンジに入り、4時間の乗り継ぎ時間を只今潰し中。ああ、まだあと2時間もあるよ…。

2002年09月18日

深夜、ラホールに到着した。前回同様、日曜大工で作ったような入国審査台の前に並び、審査を待つ。そこで、タイで買い込んだお土産の菓子を機内に置いてきてしまったことを思い出す。振り向くと、後ろは長蛇の列。機内に戻る気は一気に消沈した。

ターンテーブルの前で荷物を待ち、総勢50kgの荷物が出てくるのを確認し、そそくさとカートに荷物を積んで荷物検査場へ。

前回は会社の日本人駐在員が迎えに来てくれていたが、今回は二回目と言うこともあり、ホテルの送迎バスでホテルに向うことになっている。よくある、紙にMr. Iwataと書いてあるあれだ。最初は見つからなかったが、黒山の人だかりのゲート出口の大勢の人々に「AVARI(宿泊先)はあっちだ」と促され、AVARIのプラカードを発見。

外に出る。子会社のスタッフは「季節が変わって大変凌ぎやすくなりました」と言っていたが、やはり暑い。汗が出てきた。

バスが走っている間、暗い道沿いの風景を見ていたが、あまり懐かしさを覚えない。隣を日本の塗装屋の名前のプリントが残ったままのトヨタハイエース(乗り合いミニバス)が走り去るが、これも相変わらずの風景である。

ホテル到着。入り口でいきなり空港にあるような金属探知ゲートみたいのをくぐらされる。そうか、今は去年のテロから1周年の頃だ。しかもここはパキスタンじゃないか。と昨年の出来事を思い出す。しかし、入り口の金属探知機以外は、何一つ変わっていない。恐らく、数年前から変わっていないと思われるが。前回泊まったのと同じつくりの部屋に通された。既に午前1時半で、極めて眠い。サンダルを脱いで、靴下のままでバスルームへ向う。と、いきなり足の裏が濡れる。見ると、床が濡れている。そして天井を見ると、水が漏れやがっている。おいおい、いきなり漏水かよ。しかし、今から直せと言ってももう2時前。これから部屋を移れとか言われるのも面倒くさい。仕方なく、ゴミ箱を漏水受けにして、シャワーを浴び、就寝。

ポタポタ言うのが煩くて眠れねえ。

今使ったバスタオルをゴミ箱の上に載せると、音が幾分和らぐ。これで我慢するかと思い、就寝。

微妙にポタポタ言うのが却って気になって眠れねえ。

ビジネスクラスで貰ったアメニティキット内に入っている耳栓をして就寝。おお、完膚なきまで何も聞こえないぞ。

耳栓の感触が気になって眠れねえ。

いい加減にしろと言う感じでそのまま眠りに落ちてしまった。

2002年09月19日

金縛りにあった。って何でだよ。朝起きると起きれないという有様である。時間は午前5時と言うあまりに早すぎる時間だったが、どうも疲れているのだろうか。って、毎日仕事していてやはり疲れるな。遠くでアザーン(モスクから大音量でコーランを流すアレ)が聞こえる。かすかにだが。

既にこちらの事務所での執務は開始している。久し振りに子会社の事務所に顔を出したが、部の連中は殆ど知り合いで、人間関係において緊張感のようなものは殆ど無い。と思っていたが、やはり若干あることが分かった。

今回のプロジェクトでこちらのトップに座っているのは、かなり経験豊富な上の人で、他の若手スタッフが私に対して取る態度と、彼が私に対して取る態度は、ハッキリ言ってかなり異なっている。結論を言うと、若造相手の居丈高な態度、と言う感じである。前回の赴任で散々「最初は舐められる」などと言われていたが、前回の赴任ではそれは無かった。だが、今回は来る前からメールでやり取りしていて、既にメールの時点で舐められていると言うのが分かっていたため、まあ今回は最初若干ストレスを感じるだろうな、と思っていた(想像通りになった)。日本以外は階級社会の意識が極めて強く、従って若造は大抵年配に見下される態度を取られるので、結局今回のような状況が当たり前と言えば当たり前であると思う。だが、話していてムカついてくる局面もある。ガイジン(って、ここでは私がガイジンだが)相手だとどうもエキサイティングする傾向にある私は、今日も仕事内容の話をしていて若干切れ気味になっていた。

普段は仲のいい若手(と言っても30代半ばくらいまでの人たちが主力)も、彼を相手にすると別人のようにおとなしくなる。若手の発言は基本的に制され、彼が代表してモノを言う。しかし、悪いけど彼では話にならない事が多く、結局私のほうから若手に話を直接聞き、結局彼が浮いた形になってしまう事がかなり多い。と言う訳で、実際この人との関係は今ひとつうまく行っていない。

と言っても、大した問題じゃない。私は親会社の本社の人間であるが、仕事以外ではこの人の事は当然目上と見ている。それより何故か無茶苦茶忙しいのがよく分からない。立ち上げ時期はこんなもんだったかなあ。

2002年09月21日

こちらに来て初めての休日。昼飯を兼ねて久し振りに街を歩いたが、2時間で帰ってきた。まだ暑いのだ。日本はもう涼しくなっただろうか。秋分の日3連休だな。

昼飯はマック。実は前回以来、ホテル内以外で飯を食う場所をあまり知らない。知っているのは近所のHolidy innにあるメシ屋。街を開拓する前に逃げ帰ってしまったためだ。今回はもう少し視野を広げて帰ろうと思っているが、今日のところはまあいいや。

その後、ホテル前のマールロードと言う市内随一(らしい)の大通りに沿って、何とか通り(名前忘れた)に行く。ここは電気製品ばかり売っている通りで、日本で言うところの秋葉原である。とこっちの現地スタッフに言ったところ、「(失笑しながら)まあ、超縮小版秋葉原ですね」と言っていた。確かに並び称させる程ではない。

1年ぶりにこの通りに来たが、街の雰囲気が変わっている訳は無い。しかし、品物のラインナップに若干変化を感じる事ができる。韓国ブランド(サムソンとLG)の躍進と、パナソニックの取扱量低下である。ソニーは相変わらず多いが、ソニーは高級品扱いで、恐らく売れているのはサムソンとLGだろう。

サムソンなどは最近品質の向上が著しい、かどうかは分からないが、マスコミでの取り扱われ方を見るとそう言う傾向があるような気がする。しかし、何と言っても韓国製品が強いのはウォンが弱いからで、韓国の産業界は為替を完全に味方に出来ている。日本の経済政策は色々問題があると思うが、産業界的に何とかしてもらいたいのは実情より強すぎる円である。切り下げろとは言わないが、もっと円高誘導してもいいのではないか。せめて1ドル160円くらいなら、私の会社も他の会社も生きていける。円高で国内産業を保護するでは、日本のものは外で売れないし、海外の安いものも入ってこないから円高の恩恵を消費者が受けられない。どっちかにしろよ。

そんなことは置いておいて、買おうと思っていたのはUSB接続のフロッピーディスクドライブである。私のバイオ、フロッピードライブが無いのだが、日本で買ってくるのを忘れて来てしまった。別に無くてもいいのだが、何かインストールする時などに必要かも知れない、と思って。しかし、この通りはテレビとかビデオばかりで、隣の通りも電気製品がたくさんあるが、こちらは白物家電ばかりである。そういえばスタッフの一人が、「コンピュータ関連ばかり売っている通りも別にあります」と言っていたのを覚えている。と言う訳で、何も買わずに引き返してきた。

ホテルに戻る途中、衣料品を扱っているパノラマセンターと言う所に寄った。持ってきたYシャツが古いことに気付き、こりゃYシャツ買った方がいいなと思っていたからだ。ある店に入って、首周りを測ってもらい、Polo Ralph Laurenなどと称するものを含むシャツ2枚とネクタイ1本を購入。全部で500ルピー。1000円くらい。

案外高いな。

日本とパキスタンの物価を勘案すると、大体15分の一と言う感じになると思う。物品によっては30分の一(食料品など)とか、物品によっては数分の一などあると思う。国民一人当たりのGDPは80分の一くらいだ。今日くらいのモノなら、もう少し安くなるような気がしないでもない。日本でも4,000円から5,000円くらいでは無いだろうか。いや、そりゃポロラルフローレンなら安いよ。ネクタイは一本100ルピーだ、って200円くらいなんだけど、何かパキスタンならもっと安そうな気がする。因みにネクタイは中国製だ。

ホテルに帰ってきて暫くすると眠くなった。やはり疲れているようで、そのまま夕方まで眠ってしまった。

2002年09月24日

今日は秋分の日で休みだ。日本は。ここパキスタンは秋分の日は休みでも何でもない。秋分であることは世界どこでも同じ筈だが、少なくともパキスタンは休みにはしない。隣の電気部にいるエンジニアに「すみません、今日日本は休みですか?」と聞かれた。恐らくメールの返事なりが一向に届かないからおかしいと思ったのだろう。今後、このエンジニアは秋の間金曜とか月曜とかにメールの反応が一切無いことを経験するだろう。やっぱ日本の秋の公休の多さは際立っている。まあ日本の事はどうでもいいや。

今日はスタッフから大体同じ話題を振られた。週末はどうしたのかと言う話題である。悪いけど暑くてホテルの周りを回っただけで汗だくでホテルに戻って昼寝を貪ると言う有様だったので、満を持して「ラホール博物館(超有名な「苦行するシッダールタ」の置いてある博物館)に行って来た。」とか「ラホール砦を一周してきた」と言う返答は出来なかった。

ラホールはパキスタンきっての古都で、日本で言うと京都に相当する。かつてはムガル朝の都が置かれ、それにまつわる名所旧跡は枚挙に暇が無いが、何しろ二回目の出張にしても全くこれらを見ていない。そりゃじきに見に行こうと思うが、何しろ暑くて...

で、ムダにシャツを買った話をした。てゆうか、今日一昨日買ったシャツ着てるし。しかもネクタイも。今日来ているシャツとネクタイだけで600円である。それをムダに話すと、「あー、それは安過ぎる」と言って来た。何?パキ人でもこの水準は安いのか?

日本人の私の感覚でも案外高いと思ったのに...

あ、このネクタイよく見たら中国語の脇に「HK$218」と書いてある。3,000円くらいじゃねえか。まあこの3,000円くらいで売っているわけねえと思うが、200円は確かに安いかもしれない。

2002年09月26日

●10月下旬からリビアに赴任する同期へ宛てたメール

ところで、現場赴任の準備は進んでいるか?俺は来週こちらに来るプロジェクトの方にトランクスのパンツを頼んだ。3枚持ってきたのだが、先発ローテーションに無理があることが分かった。しかも、各パンツとも完投しなければならないのだ!

○その同期からの返信

靴下パンツを含め、衣類は向こうで買えない(高いらしい)のでかなり準備していくつもりです。スーツケースに入らなければ、ズボンを一本一本減らすしかない。圧縮袋も買ったので大丈夫なはずだが・・・。しかし、バスタオルまで持っていかなければならない。ほんとに何もないらしい。

先発5本柱+ローテーションの穴を埋める3本を主に組み立てるつもりだ。これで防御は万全でしょう。

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確かに万全だ。俺もこのくらい準備してくるんだった...

2002年09月29日

昨日で体調不良を克服し、今日は結構調子が良い。と言う訳で、今日はホテルの向かいにあるラホール動物園に行った。

ラホール動物園はパキスタン最大の動物園であるが、日本で言うと普通の規模の動物園だと思う。従って、動物の種類もスタンダードな動物が揃っているそうだ。ラホール動物園オリジナルと言える動物はホワイトタイガーで、これが1頭や2頭でなく、結構な数がいる。

動物園は日曜と言う事もあり、家族連れで賑わっている。入場門の脇にあるチケット売り場で券を購入する。大人は7ルピー(14円)である。因みに子供は2ルピー(4円)、学生は3ルピー(6円)。

入っていきなり案内板があるが、全部ウルドゥー語表示で当然何が書いてあるか分からない。取り敢えず左に行く。すると、鳥の檻がたくさんある。鳥コーナーのようだ。孔雀が各檻につがいで入れられている。メスは地面をちょっと掘った穴で休息しているパターンが殆どである。だが、ちょっと先に行くとポツンと猪の檻がある。イスラム教で豚は不浄の動物であるが、猪は果たしてどうなんだろう。

鳥コーナーを抜け、さらに奥にいくと「アヂアチックウルフ」の檻がある。勇猛に見えるアヂアチックウルフはパキスタンのほぼ全域に生息している事が分かるが、そのアヂアの狼たちは、全員暑さで参ったように眠っている。死んだように眠っている。寝息が聞こえるほどだ。とてもやる気になれないようだ。確かに暑い。

さらに行くと、今度は堀をめぐらした厳ついコーナーがある。ライオンコーナーだ。逞しい鬣を持つオスは、我々に背を向けて横になって寝ている。メスはちょっと動いているが、かなりかったるそう。

裏はトラコーナーだ。よく分からないが、トラは多い。まず目に入ったのがホワイトタイガーで、堀をめぐらしたところに放されている。案外広いところだが、同じところを行ったり来たりしている。で、その隣は普通のトラがいるところで、見ると普通のトラは池に浸かっている。案内板を見ると、

「トラは他のネコ科の動物と異なり、水浴びや水泳を好みます」

と書いてる。確かにその通りのようだ。そういえばちょっと前、ビーマンバングラディシュ航空の広告で、土色の川をトラが泳いでいる写真が載っていた。ただ、ここのトラは小さい池に浸かっているだけで、何か風呂に入っているような風情だ。ザバーっと池から出てきて、ブルブルやって水を飛ばし、その辺を徘徊し始める。さっきのホワイトタイガーは、相変わらず壁際を行ったり来たりしているが、たまに隣の塀の向こうを覗こうとしている。どうも今まで水を浴びていたトラが気になるようだ。恋をしているのか?トラの恋。

このトラ山みたいなところの裏は檻になっており、各室にトラが二頭ずつくらいいる。ホワイトタイガーも結構いて、こんなにいるとあんまり珍しくないのかな、などと思う。檻の中にも小さな池みたいのがあり、そこにスッポリ入って水に浸かっているトラがいる。体はデカイが、可愛らしいので写真を撮る。

さらに行くと象がいる。暑いらしくてサトウキビを食いながら、耳をバタバタやっている。尚、ここにいた象はアフリカ象だけ。インド象はいないみたいだ。

象の隣はサイだ。サイはそもそも夜行性なので、もう完全に陥落したように寝ている。カラスがちょっかい出すのだが、もう構っていられない様子。

さらに行くと今度はカバコーナー。だが、いないぞ。説明板を読む。

「カバはボスのオスを中心に、小さな群れで行動します。夜にエサを求め、昼は水に浸かって暑さから逃れます。」

外に出ると池があり、そこに巨大なカバが1頭、鼻だけ出して眠っている。説明板の通りだ。

さらに行くと、今度はサルコーナー。動物園のサルコーナーは結構好きだ。何しろ、奴らの挙動が最も面白い。日本のようなサル山は無いが、檻の中を叫びながらガンガン飛び跳ねて木から木へ移動する奴、水溜めの桟のところで座ってボッとしている奴、檻にぶら下がるような格好でずっとしている奴、檻の外の木の柱の塗装をはがす奴。と言う訳で、サルを見るのはあまり飽きない。

他にも鹿やらいたが、小一時間ほどで園内を回る事が出来た。7ルピーだからまたヒマだったら来ようと思う。

最後に、園内に来ている客が最も珍しがっていたのはホワイトタイガーやカバでなく、他でもなくニッポンジンの私であり、ガキがベタベタ触ってくる。

「ハロー、ハウアーユー、ウェアユーフロム?チャイナ?ジャパン?」

と言って触ってくる。何故触るんだ?明日事務所で「触らないで下さい」とウルドゥー語で書いた紙を作ってもらおうかと思うほどだ。それから、二番目に珍しがったのは私の持っているデジカメで、ディスプレイを見ながらシャッターを押す時、必ず誰かが覗き込んでいた。

2002年10月02日

今日から新たにプロジェクトのQさんが加わった。Qさんは横浜の上司から頼まれていた計算書を私のところに持って来てくれた。

だが、封筒がなぜかゴツゴツする。何だ?

魁!!クロマティ高校第5巻。

上司からの差し入れである。うれしい...

2002年10月04日

本日は金曜日ということで、お祈りの時間が長いから昼休みが1時間半もある。異教徒の我々はダラダラ過ごすと言う感じ。事務所も郊外で周りロバや馬の乾燥糞が舞うと言う状況なので、外にも出ない。

さて、一応このページは「日記のススメ」と言うコーナーに入っており(上記「他の日記を読む」をクリック)、そこでのサイト内容説明は「エンジニアのパキスタン日記」と言うことになっている。と言う訳で、たまにはエンジニアとしてのここパキスタンでの仕事の説明をしたいと思う。

と思ったがヤメタ。

いや、だってさ、結局面白く無いじゃん。昔は書いたけどさ。

若干話は逸れるが、学生時代(特に院生時代)に、「研究って何やってるんですか?」とか聞かれて説明してもさ、聞いた奴は聞かなきゃ良かったみたいな顔をすると、大体相場が決まってるんだよな。こっちが一生懸命説明すればするほど引いていくと言う感じでさ。真面目に話して面白がって聞く人はやっぱり稀でね。だから、よくバイト先とかで「研究って何してるの?」と聞かれても、いつも返す返答が、

「説明してもどうせ分からないから説明しません」

と言うモノに収束するんだよな。

まあ、つうことでですね、エンジニアのパキスタン日記と言いながら、多分エンジニアな日々を綴る事は無いでしょうね。

2002年10月05日

ムダとサジャさんと言うエンジニアがシニアエンジニアと言う奴に昇進したらしいのだが、今夜はその昇進祝いパーティーを行うことになった。と言う訳で、私もそのパーティーに呼ばれたのだが、ドライバーの都合がつかない事が分かった。我々日本から来ている人間にはドライバーが2人に一人付くのであるが、今は日本からの出張者が多く、別行動にドライバーを割けないという事情があるからだ。

と言う訳で、参加するの止めるかと思っていたら、ムダが「私の車で連れて行ってあげます」と言うではないか。じゃあ行こうかなと思い、参加することになった。

パーティーは8時からであるが、ムダが「6時15分前に出ますから」と言ってきた。おいおい、随分早いじゃねえかかと突っ込むと、「一旦家に帰って着替えたい」と言いやがる。何だ、じゃあ俺は家に行っていいのか、と聞くと、「あーー、構いません」と言うので、ムダ号でムダ邸に行くことになった。

時間通りに仕事を切り上げて、事務所の外に出ると、慌てて日本人世話係のスタッフが追いかけてくる。どうも日本人がこちらのスタッフの車で帰ると言う事態は初めてらしく、確認に来たらしい。「いや、今日はドライバーいりません。彼の車でホテルまで送ってもらいますから」と言い、ムダ号へ向った。

ムダの車はパキスタンで最もポピュラーなスズキの軽であるが、こちらは車体は軽でもエンジンは大抵1000ccくらいを積んでいる。ただ、基本的に軽なので、車内は狭い。ムダは私よりちょっと身長が高いくらいだが、横幅は私より5回りくらいデブなので、二人で乗るとそれで限界と言う感じである。尚、この車は中古で買って、日本円にして70万円と言うことである。おいおい、高いなと思い、どうやって買ったんだと聞いたら、「貯金を崩しました」と言う。いや、そうは言っても君らの給与水準じゃ難しいだろうと言う感じだ。ムダは「日本の中古車は何であんなに安いんですか。何とかして買って帰りたかったですよ。」と言うが、確かに日本は中古になるとかなり安い。

ムダ号でムダ邸に向う。ムダの家は事務所から車で30分程度であるが、バスを使うと1時間くらいかかるらしい。「ウチまではちょうど18kmです」と言うが、なんでちょうどと分かるのか。車中は喋り倒す。

ムダ邸に着いた。住宅街である。中に入ると中々小奇麗である。居間に通されたが、誰もいない。だが、台所で誰かが何かをしており、ムダが紅茶を二つ持って居間に戻ってきた。かみさんがいるのかと聞いたら、いるといい、かみさんを呼びに言った。

かみさんの写真は見たことある。結婚式の写真を見たのだ。しかし、化粧が凄くてその時はおばさんのような印象を持ったものである。

しかし、実際見てみると(ムダとは違い)品と知性を兼ね備えたような風情で、少し驚いた。おばさんみたいだったのは化粧のせいで、実際は27歳ということで私より一つ年下である(ムダは30歳)。結婚する前は何してたんですかと聞くと、MBAの勉強をしていたと言う。大学はテキサスらしいが、テキサスの大学ではBBAまで取ったと言う。へー、そうですかとその場は相槌を打ったが、BBAの意味が分からなくてしばし考える。

「英国...何とかか?いや、アメリカだしな。」

あとでパーティー会場に向かう時、ムダ号の中で「あ、BBAの最初のBは学士(Bachelor)のBか?」と気が付き、帰って英辞郎様で調べるとそう書いてある。Bachelor of Business Administration。これだ。

まあそんなことは置いといて、とにかく学のあるかみさんであることは分かった。英語は当然私の8倍上手い。しかし、今は専業主婦で何もしていないらしい。こちらでは結婚した後も働く女性は珍しい方ではあるが、まあ日本なら勿体無いとか言われるのか?

しかしよく聞くと、かみさん一家のみならずムダ家もエリート一家であることが分かり、普段のムダとは想像の付かない家族構成であった。やっぱ曲がりなりにも外資系にエンジニアで勤める人の家はこうなのか?ウチより絶対上流である。

今度はムダの甥っ子が登場した。パキスタンはどうやら、複数の家族が一緒に住むというスタイルらしく、ムダ兄弟の家族も一つ屋根の下で一緒に暮らしている。

甥っ子はまだ小さくて、言葉は通じない。が、そのうちムダの親父さんまで出てきて、
「あ、同じ会社の者で日本から来ました。」
と挨拶してしまう。親父さんは水力電力公社(?)の元電気エンジニアで、海外経験もあるから英語が通じる。

ムダのお祈りと着替えが終わったので、短いムダ家訪問も終了した。

パーティー会場に向かう途中、ムダが、「このまま言ったら無茶苦茶早く着きます」と言う。「パキスタン人はパーティーとかで8時開始と言うと、大抵8時半から始まるんです。だから、どうせ誰も着てないからその辺を流しましょう。」と来るまでダラダラ色々回る。

車内ではムダと下らない話をし倒し。って、いつもどおりか。

2002年10月06日

5日から6日の深夜にかけて、パキスタンの夏時間が冬時間に切り替わった。本日から日本との時差は夏時間採用時の時差3時間から、通常の時差4時間に戻る。

1時間遅くなったので、ダラダラ寝ていて、起きてもまだ午前8時である。昼前までダラダラし続けて、外へ出てラホール博物館へ向う。

ラホール博物館はパキスタン国内随一の博物館である。英国治世時、ビクトリア女王がインド女王を兼ねるようになってから50周年を記念して建てられたそうだ。様々な時代の展示品があり、ムガル朝時代に明や清から貰った磁器などもある。日本の一輪挿しの磁器みたいのも一点だけあった。その他、独立闘争時のジンナーの写真が飾られているコーナーや、紀元前3世紀位から現在に至るまでのコインの陳列などもある。しかし、メインはムガル朝の頃のイスラム美術品と、それからガンダーラ美術の陳列コーナーで、中でも白眉は歴史の教科書にも載っている「断食するシッダールタ」で、あのガリガリの釈迦の像はこのラホール博物館に置いてある。博物館の場所はホテルから歩いて20分ほどで、マール通りと言う、ホテル前の通りと同じ通り沿いにある。

パンジャブ高裁、中央郵便局を抜けて、ラホール博物館到着。マール通りを挟んで向いにはパンジャブ大学がある(ムダから説明を受けていたから知ったのだが)。建物は赤レンガで出来たドーム建築で、中々重厚である。入場料は大人10ルピーだが、ガイジンは10倍の100ルピーだ。200円。結構高い。さらに、カメラ持込の際はプラス10ルピーである。私は110ルピーを払って館内に入った。

展示室はテーマごとに分かれている。まずは入ってすぐ右手にある"GENERAL"とか書いてある室に入る。ここはどうも「その他」にカテゴライズされるものが展示されているらしく、展示品の半分くらいが中国の明王朝および清王朝からの贈り物のようである。中国とムガル朝との結びつきに思いを馳せるが、実際両国の当時の外交関係は全然知らない。

GENERALことその他コーナーの向かいは"ISLAMIC"と書いてあるが、その隣は"GANDHARA"である。もういきなり真打に入ることにしたが、そこでいきなり停電。まあこっちではしょっちゅうだが、暗くて暑い中電気が付くのを待つのは結構だるい(館内は冷房が無い)。

ガンダーラコーナーに入ると、多くの仏像が目に入ってくる。顔つきは噂どおり、ヘレニズムの影響を受けた西洋顔と言っても過言で無い、正にギリシャの遺跡にあるような顔だ(ギリシャ行ったこと無いけどね)。現在でもパキスタン北部にはアレクサンダー大王の東征に参加した人々の末裔がいて、彼らはギリシャ系と言うかマケドニア系と言うか、とにかくパキスタン国内では違う種類に属する顔つきをしている人がいるらしい。その北部こそ、そこに行けばどんな夢もかなうガンダーラ、愛の国ガンダーラ、They said it was in India♪と言うが実はパキスタン領内にあるガンダーラのある場所の近くである(らしい)。ガンダーラ美術が東洋と西洋の融合したモノであることは有名だが、仏像を造ると言う習慣はガンダーラが最初であると言うのも聞いた事がある。と言うことはつまり、仏教がこのギリシャの影響を強く受けたガンダーラを通過しなければ、仏教において仏像を造ると言う習慣は出来なかったのではないか。と言うことはつまり、現在の日本に数多ある仏像は、仏教がガンダーラを通過しなければ、存在しなかったのだろうか?タイにたくさんある仏像も存在しなったのだろうか?

まあとにかく、現在インド亜大陸以東の多くの国々にたくさんある仏像の原型は、このガンダーラの仏像たちである。と、そう考えながら眺めると、何とも感慨が湧いてくるかと言うと、見てるときは特にそう思わなかった。「こりゃ確かに西洋顔だぜ」とか思いながら、バシャバシャ写真を撮っていただけだった。アホか。

日本人にとってラホール博物館の真打がガンダーラコーナーだとすると、その真打中の真打は先述「断食するシッダールタ」であろう。これはコーナー左手中央に安置されている。

大きさはそれ程大きくない。大体人間の上半身くらいだろうか。近くで見ると社会の資料集に載っている写真からは分からないほど、かなりリアルに彫られている。まず全身に血管が浮き出ている。目は落ち窪んでいると言うか、殆ど頭蓋骨そのままだ。腕は細い筋肉の上にこれまた血管が走っている。アバラが浮き出た胸部も、やや太い血管が浮き出ている。首筋は確かに筋が頭部から放射状に広がっているようで、写真で見るより実物は壮絶感がある。

この「断食仏陀」像は、釈迦の一生を彫刻で表したシリーズの一角で、このシリーズ物の中には菩提樹の下で悟りの境地に達した釈迦だとか、入滅する釈迦と言う彫刻もあるらしい。これらは同じパキスタン国内のペシャワール博物館などにあるとのことだ。ペシャワールは正にガンダーラの近くで、またアフガニスタンに抜けるハイバル峠の近くでもある。ハイバル峠はアレクサンダー大王が越えてきた峠でもある。現代のペシャワールはアメリカのアフガン攻撃の際に激しいデモなどが起こってよく日本のテレビにも出たから、知っている人も多い...訳ねえな。

仏教徒のくせにあまり釈迦の一生だとかを知らない私だが、釈迦はこの断食中、断食しても悟りの境地に達する事は出来ないと言うことを悟り、結局菩提樹の下で瞑想することで悟りに達したと言うわけで、この断食仏陀は悟りに達する直前の、やんごとなきお釈迦様になる超直前の像である。この像をだれが作ったのかは知らないが、その辺のことをしっかり認識して作られたのだろうか。

イスラム圏にあるものの、ラホール博物館内のガンダーラ美術コーナーの仏像たちは特に顔を破壊されていると言うわけでもない。手などが破損されている場合が多いが、殆どは顔は大丈夫である。このようなものが集められたと言うことかも知れない。

その他はビルマのネ・ウンから送られたビルマ美術コーナーだとか、インド美術コーナーもあり、中々の充実度である。ただ、インパクトとしてガンダーラコーナーの次点に位置するのはやはりイスラムコーナーで、当たり前だがガンダーラと対照的に、像は全く無い。美しい紋様を付した絨毯などが多い。ただ、やはりイスラム美術は博物館で見るより実際のモスクなりで見る方が良いだろう。

今週末は以上のように、一人でラホール美術館に行ったと言う程度だが、来週の日曜は事務所の若手がラホール砦、およびバードシャーヒー・モスクに連れて行ってくれるらしい。こちらで買ったラホール写真集みたいので見ると、この砦とモスクは確かにスゲエ。

と言う訳で、何とか今週を無事に過ごし、来週日曜を無事に迎えたいと思っている。ブッシュイラク攻撃で帰国命令発令とかマジでやめて欲しい。

2002年10月25日

現在はホテル住まいの身分であるが、私の泊まるホテルは会社から帰ってきた後、3人の男と関わりを持たねばならない。

一人は寝る前のベッドメークをしに来る男、一人はフルーツバスケットを持ってくる男、そしてもう一人は本日の主人公、洗濯物を持ってくる男である。一度に来いと言う感じであるが、小銭(チップ)欲しさに毎晩現れる。

この内、前二者は毎回追い払っている。ノックがして居留守を使っていると、合鍵でもって勝手に入ってくるから始末に負えないが、チェーンをかけていると諦める。"Don't disturb"の札をドアノブに提げておけば済む問題ではあるが...そもそも、寝る前のベッドメークなど全く無用だし、フルーツバスケットも私はあまり手をつけないから来ないで欲しい。ダメ社会人な私は、ホテルに仕事を持って帰ってきたりして、案外部屋の中では忙しいのだ。全くドントディスターブである。

しかし、洗濯屋は別である。宿泊費には会社の交渉によって洗濯代が含まれているので、私(他の日本人駐在者も同じ)は全く躊躇無くクリーニングを出しているが、夜洗濯物を持ってくる男を拒絶するわけには行かない。明日のパンツが無くなったりするのはちょっと困るからだ。一応社会人になった以上、学生時代のように「汗まみれのシャツとパンツは最低二日着る、短パンは旅行期間中洗っても1週間に一度」などと言うわけには行かない訳である。と言う訳で、洗濯屋は拒絶するわけには行かない(そもそも衣類は俺のモノだ)が、洗濯屋はそれをいいことに、と思っているかは定かでないが、毎晩モノスゴイ笑顔で私の部屋にやってくる。

洗濯屋の手口。

まず私が帰ってきたことを確認(してると思う、あのタイミングを考えると)し、ちょうど私が着替え終わった頃にノックしてくる。ドアのスコープから外を見ると、満を持した洗濯屋が立っている。ドアを開けると、そこにはスコープから見た男と全く異なる、ぐにゃりとした笑顔を作った男が現れる。

男は恭しく「ぐっいぶに〜ん(good evening)」と挨拶する。相手が洗濯屋なだけにgood nightと切り捨ててドアを閉めるわけには行かない。男は部屋に入り、ベッドの上で私の衣類を一枚ずつ置き、置き終わると伝票にサインを求める。いつもの通り私は漢字で自分の名前を殴り書きし、それに10〜20ルピー(20〜40円)を添えて渡す。洗濯屋はチップを貰って「サンキュー」と言葉を残し、後はわき目も振らず、私に振り返ることなく後ろ手でドアをバタンと閉める。注意してやりたいくらい礼を失したドアの閉め方である。

以上が洗濯屋の手口である。別に犯罪ではないが。

しかしこの洗濯屋、私の帰りが遅いと先の夜のベッドメーク男やフルーツバスケット男同様、合鍵で部屋に押し入り、洗濯物をベッドの上に置いていく。つまり、彼の営業時間を超過すると、勝手に置いていくのである。最初からそうしろと言う感じであるが、何しろ彼は私からチップをもぎるのが目的であるため、ベッドの上に洗濯物を置くのは、彼にしては不本意以外の何物でもない行為である。

そんなある日、私は残業が込んでちょっと遅くなった。部屋に戻る途中、廊下からちょうど洗濯男が私の部屋から出てきたところを発見した。つまり、彼は前述の「不本意以外の何物でもない」行為を終了し、私の部屋から出てきたのである。思わず私は「ぱ〜ふぇくとたいみ〜ん(perfect timing)」と言いそうになったが、ハローとだけ言って部屋に入っていった。彼は他の部屋に洗濯物を届けに行くため、私の存在を認めて挨拶してきたものの、私からチップをせしめることはタイミング的に出来なかった。正にパーフェクトタイミングだ。

部屋に入ると、男が無念にも置き去りにした洗濯物が、ベッドに横たわっている。今日は俺の勝ちだ、と思った矢先、部屋をノックする男がいる。思わずドアを開けると、何とあの洗濯男だ。例のぐにゃりとした笑顔だ。そして、こう言い放った。

「ここに置いておきましたが、これでいいですか?」

いいに決まってるだろこの野郎!わざわざチップ貰いに戻ってくるんじゃねえ!と後で振り返ると思うのだが、その時はあまりの転進の早さに完全に飲まれた私は、いつもの通りチップを払ってしまった。勝ったと思ったら負けたのである。敗走している軍隊が、深追いしてきた敵を急転回で破ったような心地だが、俺は深追いなんてしていない。それどころか、追ってもいない。追ってきたのはあの洗濯男だ。

一昨日、私は細かい金を持っていなかった。いつもの通り洗濯男はやって来たのだが、細かい金が無いことを言って詫びると(何詫びてんだよ)、洗濯男はこう言い放った。

「いえいえそんな、次で結構ですよ。」

「次で」は余計だろうが。何か俺がお前に貸し作ったみたいじゃねえか。

で、昨夜はいつもより多目の30ルピー払ってたんだがね。貸しを返すために。

洗濯男と会わないためだけに残業長めにしようかと考え中。

2002年10月28日

仕事の話なんかしないと明言していたものの、ちょっと書こうと思う。

ラホール砦、バードシャヒーモスクを目前にして、私は土曜は半日出て、日曜はホテルで仕事と言う按配に生活している。つまり、仕事以外に特にしていることは無い。唯一の楽しみは土日の晩餐で、これはホテル組で街のレストランに繰り出してウマい鳥料理を食ったりするくらいである。

基本的に仕事まみれのこの生活では、ネタは必然的に仕事に限られてくる。と言うわけで、本日は遂に、仕事の話をちょっとしようと思う。

私の仕事は化学プラントの土木設計だが、担当は地面から上の構造物設計である。

ああ、もうこれだけで読んでいる人が引いていくのが分かる...

理系の人間は相手が引いていようと全く気付かずに自分の専門を説明するものだ。と言うわけで続ける。

地面から上の構造物とは、具体的には鉄筋コンクリート構造物、鉄骨構造物である。このうち、パキスタンは鉄骨があまりなく、従って鉄骨設計に明るいエンジニアはかなり少ない。鉄骨は金持ちの国の建設材料なのである。と言うわけで、かなり経験を積んだ人でも、私のような若造より知らなかったりする。だから、この若造が教えなければならないものも結構ある。

で、昨日ホテルでやっていたのは、なんつうの、柱脚の計算方法の例とか、接合部設計の計算例を、裏紙に鉛筆で書き続けて渡すという、バイト塾講師時代の授業ノート作成(授業の予習)みたいな仕事だった。

実は昨日、こちらの若手に市内観光に連れて行ってやると言われたのだが、上記の件が済まず、「悪いけど今日忙しい」とそいつの携帯に電話してまたの機会にしてもらったほどだ。って、お前(その若手)が鉄骨出来れば俺だってお前の車で市内観光したさ。

で、今日は会議室で、昨日作った模範解答みたいな奴を見せながら、ちょっと授業。しかし、時間が勿体無いから詳細はしなかった。中学生じゃねえんだから読んどけと言って、コピー渡しただけである。

来週はどんな授業準備すればいいんだろうか。てゆうか今日とっても眠いんですけど...

2002年10月29日

仕事まみれを二日連続に渡って書くつもりは無い。本日は週末の晩餐について書こうと思う。

パキスタンの街にバーとか飲み屋は無い。イスラマバードに1軒だけあるらしい。パキスタンの人口は確か1億3千万人で、日本より若干人口が多いくらいだろう。ということは、東京に一軒だけ飲み屋があるという状況である。国内に飲み屋が1軒しかないと言うのは、日本は有史以来経験した事があるのだろうか。

と言う訳で、週末に飲み歩くと言う業は不可能である。勢い飲食に関しては食に関心が集中することになる。では、パキスタンはどんな食があるのか?

一言で言うと、インド料理とほぼ同じである。日本人はカレーと言う、あんなのが主体である。米も食べるが、よく見るのはナンやチャパティーで食べるものだ。ナンは日本人にも有名だが、チャパティーは馴染みがないかもしれない。両方とも原材料は小麦だが、ナンは発酵させるものの、チャパティーは発酵はさせない。

じゃあ私は毎週そんなのばかり食べているかと言うと、食べていない。確かにたまには食べるが、パキスタン料理はそれだけではない。韓国料理が焼肉と辛いものを連想するのでは全く認識不足のように、パキスタン料理もバリエーションは富んでいる。その中で、我々日本人のホテル駐在者を魅了してやまないのは、鶏肉である。

この鶏肉は明らかに日本の鶏肉より美味いと思うが、調理法は色々だ。だが、その中でも最も美味いと感じるのは、よく茹でた丸ごとの鶏肉をフライにしたような、非常にシンプルなものだ。これが、食べている最中の我々日本人を沈黙させるほど美味い。

毎週土曜は「鶏の日」と決まっており、現地のスタッフにオススメを聞いては土曜の晩に市内に繰り出す。マズイ鶏屋に当たった事は無いが、恐らくこれはそもそも鶏が美味いからだろう。市内にケンタッキーフライドチキンがあるが、単なるケンタだろうが恐らく美味いような気がする。鶏はこの国で最も美味い食材であると思う。

次は羊肉だ。羊肉は苦手な人も多いが、私は結構好きだ。確かに羊肉そのままだと匂いがキツイが、こちらは基本的に何事にもスパイスを使用するため、羊肉の臭みは完全に飛んでいる。味は勿論するが、味が飛んでしまったら意味が無い。

私が最も好きな調理法は、日本人から見ると「マトンカレー」のようなもので、これが柔らかくてかなり美味い。どうもこれに対する支持者は少ない模様だが、支持していない人はパキスタンのカレーの類が苦手な人で、したがって根本的に私の味覚とは相容れないものであろう。とにかく、私は鶏の次に好きなのがこれである。

あと、安いので言うと先述のナン。このナン、日本のインド料理やで食べるナンとはかなり違う。日本のナンは平たい棍棒のような巨大な奴だが、こちらのナンは円盤状で密度が濃く、上にゴマが載っている。パンにかなり近く、香ばしくて美味しい。また、何とかナンと言う緑がかったナンもあるのだが、これもかなり美味い。かなり美味いしか形容できない時点で私の味覚も表現力が無いと言わざるを得ないが、日本のナンしか知らなかった私にとって、このパキスタンにおけるナンは新発見と言う感じだった。上司はいつも朝飯でも食べている。

他にも中華料理屋などもあるが、まあこれは私の持論だが、料理はその国の料理が一番美味いと思う。と言う訳で、上述したものは今までの中でも最高位の味を与えてくれている。

しかし、こちらに赴任している日本人を誘っても、誰一人としてホテル以外のメシを食わない。そういえば、白人達も外で食べているのを見たことが無い。勿体無いが、やはり精神衛生的にホテル外で飯を食うのはイヤなのだろうか。

2002年11月02日

鶏が旨いことで誉れ高い我がラホールであるが、今日は全世界にチェーン網を広げる超一流ファーストフード店、ガソリンスタンドの親父が開業したか定かで無い、あのケンタッキーフライドチキン、略してKFCで昼餐を取ろうと思い、いざドライバーの兄ちゃんに「ケンタッキー!」と言った。

「すいません、場所が分かりません。」

想像通りのオチにより、KFC訪問は延期となった。じゃあ、という訳でマクドナルドに行き先を変更。市内に4・5件はあると思われるマックだが、そのうち一号店らしい店に行くことにした(同じくラホール駐在中のプロジェクトエンジニア、Qさんの「あそこは空いてるんだよ」と言うインストラクションによる)。

ラマダン直前最後の週末、マックは激混み。全然空いてないじゃないっスか!とQさんを責める間も無く、行列になっているんだかなっていないんだか分からない、全く秩序の無いレジ前の人だかりに紛れ込む。ダブルチーズバーガーセットとマックチキンバーガーセットを頼み、一つだけ空いている席へ着席。何だか知らんが女グループが多い。

外国人の少ないこのラホールでは、こう言うところに来ると結構見られる。動物園と同じ状況である。が、暫く経つと見なくなる。という訳で、逆に観察してやると、あることに気付く。

パキスタンはイスラム教国ゆえ、男女間のへったくれなどはかなり堅い。マックでも男と女の混成グループは家族連れ以外には皆無である。若い奴は若い奴で固まっているが、完全に男グループと女グループである。何だかイマイチ男女間の距離を踏み越えられない、中学校や高校にあるクラスのようだ。合コンの待ち合わせした直後みたいな感じでもあるだろう。

しかし、視線の投げ合いは繰り広げられているようだ。どうも男から一方的と言うわけではなく、女性グループからも男グループに視線を投げているらしい。と言ってそこからどうなる物でもならないのが恐らくパキスタンだと思うが、この程度までは許されているのだろう。もっと厳格な国は男席と女席が隔たっているような気もするし。

視線と言えば、先日事務所の私の部屋(オフィス)に、QA(Quality Audit)係のスタッフが私にインタビューするために入ってきた。彼らは無茶苦茶乱雑な私の机の上の前に座り、この会社のProduct Qualityについて「親会社のスタッフから見た」感想を聞いてきた。いくら品質がどうのと言っても、私の机上の汚さからは何事も説得力が無いものとして取られざるを得ないインタビューだったが、その時やや戸惑ったのが入ってきた女性スタッフと目を合わせて良いのかだった。

QA係は二人いて、一人はチーフ格の男性で、もう一人は女性だった。この女性が目だけしか出していないと言う、イスラム圏では普通(ラホールではそれ程普通では無い)の格好をした人だったが、果たしてこの人と目を合わせて良いのか分からなかった。いや、目だけは出ているとは言え。

インタビューは男性スタッフばかりがして、女性スタッフは書記係みたいな感じで、彼と私のやり取りを筆記していた。しかし、コミュニケーションとっている人に対して満遍なく視線を流す習慣のある私は、思わず女性の方も見てしまうのである。ここで、目が合うと「マズイかな」と瞬時に思ったりして、中々やりづらい。だから、その後は男性だけを見ているのだが、こうすると今度は女性を無視しているような気もしてきて、逆に失礼のような感じにもなってくる。結局、途中からは一貫して男性スタッフの顔だけ見て話していた訳であるが、どうも未だに要領を得ていないことを感じ入ったQAだった。

で、今日はマックで視線投げ合いを見て、まあ見るだけなら良いのだろうなどと思ったのだが、やはり異教徒的にはイマイチ踏み切れないものも感じる。

目が合う合わない程度で踏み切るもへったくれも無いと思うが。

2002年11月03日

最近は日曜もホテルで終日仕事をしていたりで、頗る不健康な毎日を送ってきた。今日はさすがにリラックスした方が良いと思い、仕事を打っ棄って「観光」に出かけた。

まずはホテルからラホールシティー駅へ歩いていく。私は鉄道駅を見るのが好きなのだ。地球の歩き方の地図によると2.5kmくらいだろうか。途中までの道は飯を食いに行った事があるから分かるが、それ以降は分からない。地図をチラチラみながら北上する。道はゴミが散乱し、車が走り、馬が走り、馬がメシを食いながらクソをするという、典型的な「きったねーパキスタン」である。やはりパキスタンは今で訪れた中でも最も汚い。ちょっと前に写真週刊誌で見たイラクのバグダッドの貧民街である「フセインシティー」のような感じだ。

駅に辿りつく。この駅はパキスタン全土に通じているラホールの重要ターミナルの一つであり、パキスタン最大の駅でもあるらしい。特徴はインドのアムリトサルまでの直通国際列車が発着するということである。パキスタンとインドの間は、ラホール-アムリトサル間以外に国境は開いていない。他にも開いているのかもしれないが、外国人の往来を許しているのはこの国境だけである。印パ首脳会談がラホールで行われたりするのは、インドの首相がバスでラホールに来たりするからだ。その他、ユーラシア横断をインドを起点(もしくは終点)として企てている汚いバックパッカー達も、ラホールは必ず経由する街である。ラホールシティー駅はそんな国境を越えて旅行する人間には、パキスタン最初(もしくは最後)のポイントである。国境まではバスもあるが、バスも駅前のターミナルから出るらしい。ラホールにはラホールキャントンメント駅と言うのもある。カラチなどはキャントンメント駅のほうがメインターミナルになっているようだが、ラホールはシティー駅が中心である。

ラホールシティー駅は9番線まである結構大きい駅である。5ルピー(10円)で入場券を買える。ラホールシティー駅は日本の駅と同じく、券が無いとホームに入れない。ヨーロッパや東南アジアの鉄道駅とはちょっと違う。入場券を手に、跨線橋を渡って一番奥の9番線に行く。すると、よく旅行雑誌で見るような、窓に鉄格子を張ったインドスタイルの巨大な客車が何両も止まっており、中は人でギッシリである。上の荷物棚は荷物が満載だ。車内の様子は貧乏旅行の紀行文などでよく見る、4人掛けと1人掛けがクロスシートになったもので、4人掛けには当然最低5人が腰掛けている。インドとパキスタンの鉄道は英国が作ったものであるが、ここのゲージ(レールの幅)はブロードゲージ(広軌:軌間1676mm)で、日本の新幹線のスタンダードゲージ(標準軌:軌間1435mm)よりさらに広い。従って、車体はかなり大振りで、定員も多い。上記、「4人掛けに5人は座っている」はこれを基にしており、大人でも5人は座れる広さである。椅子は木のベンチ。これでカラチまで20時間とか行くんだから、結構疲れるだろう。私も学生時代なら大丈夫だっただろうが...まあ今も大丈夫かな。

貧乏旅行者のみならず、インドは旅の目的地としては「憧れの地」と言う場所である。私の会社の相当上の人も「俺も死ぬまでに一度ベナレスに行って、ガンジス河を見ながら過ごすというのをやってみたい」と言ってる人もいるし、鉄道紀行作家の宮脇俊三がインド鉄道旅行記で「行こうと思えば行けたが、インドは何となく自分の中で『取って置いた地』である」と言うようなことを書いていたのを覚えている。私にとってもインドは最終目的地的なところがあり、学生時代は敢えて行かなかった。パキスタンはインドとどうやら違うところだが、私にとって英国が敷設したインドタイプの鉄道車両を目の前にしたのは、そんなこんなで長年望んできたものを目の当たりにしたようで、中々感慨深かった。たかが汚い車両だが、人によって見方は変わるものだろう。

駅舎見物を終え、腹が減ったから飯を食うことにする。しかし、食堂は汚いところばかりで、食べるだけで腹を下しそうなところである。とは言え、それ以外に食堂は無く、仕方なく学生時代を思い出しながら、汚い食堂の一軒に入った。

注文は調理しているところに行って指差しで頼むと言う、学生貧乏旅行時代そのままのスタイルである。私の横では鶏をばらしている最中で、その下の床をこれまた汚いネコが徘徊している。床はハエだらけである。ハエは食材にも当然止まっている(写真はそうでも無いが)。私が頼んだのは鶏プラウ(焼き飯で、ピラフの語源らしい)、ラム肉を炒めた奴、そしてチャパティだ。食べる前に生野菜とヨーグルトが出る。最早学生じゃないのでこんなの食って大丈夫だろうか、と思いながらヨーグルトをちょっと食べてみる。ヤバイ事に、これがかなり美味い。うわー、美味いよこれ、と思いながら食べてしまう。

次に鶏プラウが出てくる。これは普段も食べているので、特に美味くも不味くも無い。強いて言えば美味い、って結局美味いのかよ。そして、メインディッシュのラム肉炒めがジュージューいいながら鉄ナベに盛って出てくる。火が通っているから大丈夫と油断していると大間違いで、大抵こういう食堂の油はかなり悪い。チャパティに包んで食べる。

「だからヤバイだろ、この美味さ」

と思いながら、殆ど平らげてしまう。てゆうか食いすぎた。周りを見ると、二品食べている人間はいない。胃にもたれるくらい食ってしまった。一品で十分だったのだろう。値段も110ルピー(220円)だった。これじゃマックと変わらねえじゃねえか。

お愛想を済ませて、外に出てオートリキシャーを捕まえる。これからラホール砦に行くのである。地球の歩き方様によると、「駅からバスだと渋滞していて遅い。徒歩だと40分くらいかかるから、オートリキシャーを利用した方がいいだろう」と書いてあったから、そのアドバイスに乗っかったまでである。「ラホールフォート、幾ら?」と言っても「ラホール駅はあそこだ」と目の前の駅を指差されるだけで、埒が明かない。「バードシャーヒーモスク」と言うと、漸く要領を得たようである。25ルピー。リキシャーのレートは1km10ルピーとムダに聞いていたので、まあこんなもんか(駅からバードシャーヒーモスクは2kmくらい)?

初オートリキシャーであるが、タイのトゥクトゥクに比べてかなり狭い。日本人離れした座高を誇る私は中々辛いものがある。って、足もキツイよ。これでよく家族連れで乗ってたりしてるのを見るが、よく乗れるな...。因みに、ムダに「リキシャーは元々日本語と言うのを知ってるか?」と聞いたら、知らなかったのを覚えている。「リキシャーは日本の明治時代と言う、3代前の天皇の時代にあった乗り物で、元々は『人力車』と言うものだ。人力はhuman powerで、シャはvehicleだ。クルマだよクルマ。ところがそれが東南アジアとかに広がって、『人』が取れたみたいだな。最近はオートリキシャーと言うらしいが、まあエンジンが人に取って代わったってことか。」と言うと「じゃあリキシャだけだとパワーカーですか」とムダが言ってきた。うーん、まあ直訳はそうかな、と言うと「でも全然パワーありませんよ。」とムダが言っていた。その通り、リキシャーはあんまりパワーが無い。

バードシャーヒーモスク前に到着。って、バードシャーヒーモスクはラホール砦の対面だから、「ラホールフォート!」が通じなくてもここで降りればいいのだが。第一、ラホール砦なんて言ったところで、地元の人間には通じないかも知れない。何しろ、ラホール砦は旧市街を覆っている城壁全体のことを指すだろうし。

まずはラホール砦に入ることにした。入場料大人4ルピー。そこでガイドの申し出が数人からあったが、これは全て断った。一人でゆっくり回りたかったからであるが、これは失敗だったとあとで思い知る。

中は庭園と宮殿跡で、ムガル朝第三代皇帝のアクバルがラホールをムガル帝国の首都と定めた時から、この砦の増改築が始まった。有名なシャージャハーン(妃の墓がインドのアーグラーにあるタージマハル)が建造したものもある。

私はかつての王の謁見所から、ジャハーンギールの庭園を眺めた。うーん、結構小さいな、と思っていると、子供が私のほうに寄ってきた。日本人を珍しがって寄ってくる子は多いが、この子は子供乞食だった。分からない言葉で手を差し出しながら、私の足を触ってくる。ダメだよと言いながら逃げるのだが、彼は追ってくる。そして、今度は足にまとわりついてきた。ダメだと言いながら足から剥がし、そのまま奥の室に行くと、まだ寄ってくる。このままジャハーンギールの庭園に降りるところに来て振り切ろうと思ったが、そこはちょっと高く見える段差で、明らかに通路ではない。しかし、この子が若干しつこい(と言って引っ叩いて追い払うなどと言う真似も出来ん)ので、そこから飛び降りて下に行くことにした。

が、予想より段差は高かった。

着地に失敗し、モロに前に滑り込む。「いってえ」と言いながら膝の辺りを払うと、ユニクロチノパンが破れている。そして、払ったところに血がついている。

ユニクロ血のパン

とそんなこと言っている場合じゃなく、手の平を見ると派手に擦り剥いている。チノパンをたくし上げると、膝も想像通りに擦り剥いている。イタタタと思っていると、周囲から負傷した日本人をからかう為にパキ人がやって来る。その中に

「私は学生です。日本語を教えてください。」

などと言ってくる奴がいる。うるせえな、こちとらそれどころじゃねえんだよ。

一気に見学と言う気が失せて、砦を出る。てゆうか痛いし、ちょっと消毒しなきゃ不味いとも思う。一応破傷風の予防注射は昨年打って、10年間効くことにはなっているが。

旧市街に入り、商店の軒先で水を頼む。その水で傷口を洗う。すると店主が私の傷に気付き、絆創膏を与えてくれた。有料で(1枚1ルピー)。既に市内見物などする気が失せた私はそのまま帰ろうと思ったが、何を間違えたのかバードシャーヒーモスクに入り、見物してしまう。

広大な中庭にポツンと立って、傷が痛いのを我慢する。あー、痛い。って感想この程度。殆ど見学と言う風情は消えていた。

外に出てオートリキシャーの溜まり場に行く。ホテルまで50ルピーのところを40ルピーにまで負けて(中々値が下がらなかった)、狭いリキシャーに乗り込む。ホテルまでは4kmくらい。さすがにこの状態で歩いて帰るのもかったるい。あー、さっきガイドを頼めばこうはならなかっただろう。

リキシャーは旧市街のとんでもない小路まで普通に入り込んで、車体をガタガタ揺らしながら走る。速くは無いが、小回りが利くので中々忙しい乗り物である。ホテル前に着いて45ルピーだと言う運ちゃんと揉める。5ルピー(10円)の差で、市内第二の「御高級ホテル」前で揉める私も馬鹿みたいだが、つい学生時代のあのノリが出てしまった。

ホテルに帰ってウォッカで傷口を消毒。無茶苦茶沁みる。

中々災難な休日だった。ホテルで仕事してた方がマシだったかな。

2002年11月04日

朝、スタッフに昨日の擦り傷を見せたところ、一様に顔色を変え、「病院行った方がいいですよ」と言うので、不安になって病院に行った。彼らが大丈夫じゃないと言うのは、相当大丈夫じゃないだろう。

病院では破傷風の予防接種(の中のブースター)の接種経験を問われたが、昨年に一度やっている。我々の年代は小学生時に3種ワクチンとかで破傷風の予防もやっているので、基礎抗体が既に入っていることから、1度打てばまた10年はもつらしいのだ。だが、免疫を活性化させるため、tetanus toxoide(予防接種の名前らしい)を再度打った方が良いという訳で、結局この医院で打つことになった。ブースターって奴。

その後、傷の治療を受け、そのまま退出。事務所に戻る途中、薬局で処方箋を見せて薬を処方してもらい、事務所帰還。

出張で来ていながら一人でフラフラ観光地に行ったことが軽率だったと、かなり反省している。

因みに、新しくない病名は日本語が多いから、破傷風がtetanusであることは私には馴染みの無いものである。途上国に赴任もしくは旅行に行く際、病名の英単語は重要。

他に
肝炎 hepatitis 
腸チフス typhoid fever 
デング熱 dengue fever
結核 tuberculosis(TB) 

等が罹患しやすい病気である。疲れている時は結核に注意か?で、テング熱じゃなくて「デ」ング熱ですから。

って、使いたくねえよこんな単語ども。

2002年11月06日

後輩から忘年会案内の能書きを書いてくれと頼まれた。何でも私の文章のファンが多いらしい(プ)。という訳で、「〜〜で始まり、〜〜が起き、〜〜が起きた2002年も終わろうとしています」みたいな書き出しで書こうと思ったら、〜〜の内容がまったく出てこない。果たして2002年は何があったかを思い出しても、ワールドカップとノーベル賞受賞しか記憶に無い。という訳で、これは人様の記録を見るのが手っ取り早いとばかりに、後輩のホームページを見て1年を思い出すことを思いついた(俺のは世間のイベントあまり無いし)。

まずは小林のホームページだ。何かが起こるとそれに対して短く取り上げていると言う印象があるからだ。私が欲しているのはヘッドラインだけだ。〜〜だけが分かればよい。

しかし、改めて彼のページを見ると、案外社会問題を扱っていないことが分かった。無断転載で申し訳ないが(見てたら許せ小林)、このようなものが多い。

で、昼飯もしゃれた店はラブラブなカップルがフリフリでひなまちゅり状態なので、仕方なく、どんなおしゃれスポットでもサラリーマンを集めることができるお店「とんかつ和幸」に行くか・・・と思ったが、やめた。(2002年2月14日付)

このように人生の葛藤を描いている場合が多い。しかし、彼の日記にはタイトルにさりげなく社会の出来事が書かれている場合も見受けられる(タイトルと本文は全く関係ない)。

オリンピックおもしろくない (2002年2月11日付タイトル)

これを見て、「ああ、今年は冬季オリンピックがあったのか」と思い出したほどだ。彼が詰まらないと言うのに等しく、私も殆ど見ていなかったような気がする。ソルトレイクシティーだっけ?

しかし、それ以降の日記を見ると、あまりタイトルにも社会の出来事が書いていないことが分かる。うーむ、歌のタイトルとか芸能ネタが多いな、と思う(この辺もう疎くて俺は全然分からん)。

取り敢えず小林ホームページからは「オリンピックがあった」と言う情報のみを確認して、次は島のホームページに出かけた。彼は社会問題を結構扱っている。

ここで「おお、そういえば田中真紀子が外相ヤメタのは今年の頭の方だ!」とか思い出した。それを言ったらムネオハウスがへったくれとかあるが、これの場合ちょっと洒落にならないので採用見送りだとか。ただ、見ていたのだが、途中で挫折してしまった。

長くて...

凄い文章量で、しかもかなり細かい。って流し読みすればいいんだけど、ちょっと見ちゃうよな。読んでいるだけで恐らく年を越えそうな量なので、結局途中で挫折してしまったと言うわけである。

と言うわけで、挨拶はこうしようかと思う。

本年はソルトレイクシティー冬季五輪から始まり(皆さん覚えていますか?)、日韓共催ワールドカップ(会議室は大盛り上がりでしたね)、アジア大会(中国やり過ぎです)、貴乃花復活(さすがに千秋楽は見てしまいました)、巨人日本シリーズ4連勝(私はヤクルトファンです)と、スポーツのことしか話題に上がらないような、冴えない1年でした。

とは書けんな。ネタ練り直し。

2002年11月08日

昨日は事務所のスタッフから家に呼ばれて、メシを食いに行った。と言ってもこのスタッフは頻出するムダではなく、ファランさんと言うスタッフである。

彼とは今回同じプロジェクトではないが、前回のプロジェクトで同じだった。彼は私が生涯で関わりを持った最初のパキスタン人である。それ以来の付き合いになるが、ファランさんは私より結構年上(8つくらい上)で、こちらの子会社内でも序列的には恐らく第三位である。人当たりがよく、能力もあるので、こちらのスタッフの誰からも信頼されている。日本人スタッフの受けも最も良い。

前回は初めての海外事務所勤務で、出国前に散々舐められるとか言われていたのだが、そんな事は全く無かった。こちらのチームのトップをやっていた彼は、私を年下として見下すようなことは一切無く、常に対等の立場として接してくれた(今は全く逆)。と言う訳で、仕事も中々スムーズに行った。

プロジェクトが終わってからも、メール程度の付き合いは続いたが、今回は違うプロジェクトで、お互い無茶苦茶忙しくて、あまり事務所でも話す事が無かったほどであった。私が一応今月中旬に一旦帰るということで、彼は私を誘ってくれたようだ。」

ラマダン入り最初の断食を解いた5時過ぎ、私は彼の車で彼の家に向った。私はもちろん昼飯を食べているが、彼は朝5時以降、全く飯を食べていない。きっと腹をすかしている筈だが、その風情を微塵も見せずに普通に車を運転する。道は断食を解いた直後ゆえ、みんな飯を食べているそうで、かなり空いている。

彼の家もムダの家同様、エリート一家である。しかもムダの家と同様、兄弟の職業が何故か「医者と電気技師」である。電気技師の兄は現在カナダに住んでいるらしい。あとは妹が医者、それから彼のお母さんが住んでいる。さらに、ファランさんのかみさんもいるのだが、彼女は昨日女の子を産んで、現在は実家にいるらしい。ファランさんのかみさんは同じ事務所のシビルエンジニアで、先月までは事務所で働いていた。昨年同じチームだったので、当然私も知っている。子供がある程度に大きくなったら、職場に復帰する予定だ。こちらは大家族で住んでいるため、子供の世話を気にする必要は無い。

家に入ると、まず平尾誠二に似たファランさんの兄さん(医者)が迎えてくれた。平尾誠二はアーリア顔だったのか?と思いながら握手。いやあ、会えて光栄です、だなんて挨拶を交わす。

次は母ちゃんが出てきた。中々ユーモラスな母ちゃんで、英語を普通に話す。「中国人よりfineに見えるね。」などとお世辞を言う。尚、お父さんは既に他界されているとのこと。

この家もムダ家同様、大家族である。兄さん一家とファランさん一家が住んでいる。私の部屋に来ませんかと言うので、部屋に入る。すると、広い部屋にダブルベッドが置いてある。うわ〜、愛の巣じゃねえかこりゃ。鏡台があって、そこに化粧品がたくさん並んでいる。ああ、女のいる部屋だ、などと思う(今はいないが)。

結婚式の写真があるというので、その写真を見るの。彼女は私も知っていて、結構美人であると思うのだが、どうもこちらの結婚式は化粧が濃くて、全体的にあまり綺麗に見えない。化粧しない方がいいだろう、などと思う。

新婚旅行の写真も見た。新婚旅行は北部パキスタンである。新婚旅行は冬で、北部パキスタンは積雪のある地域もあるため、その写真もある。

メシが出来たと言うので、階下におりてテーブルに座る。普段は兄さんのかみさんが作るらしいが、本日はお母さんが作ってくれたとのことだ。日本人が来るからと言うので、スパイスはちょっと控えてくれたらしい。確かにそんなに辛くないが、こちらのは食べているうちに辛さが蓄積していく。次第に辛くなってくる。想像通り、肉主体のメシを結構食うも、かなり残る。って作り過ぎだろ、こりゃ。

その後はちょっとゆっくりして、ホテルに帰ることにした。帰りにアラジンが出てきそうな巨大な水差しを貰った。私はこういうのは余計に恐縮して貰わない方ではない。普通に礼を言って貰った。今度来る時はトイザラスでおもちゃでも買って来よう。

結婚したら新婚旅行でまたパキスタンにいらっしゃいと言われた。いや、それはちょっと...

2002年11月09日

小林へのメールにも書いたことだが、昨日インターネットで日経のサイトを見ていたら、東京タワーの前にデカイクリスマスツリーがライトアップと言う記事がトップで出ていた。

クリスマス?

こっちは職員全員が断食していると言うのに、そんなに主イエス・キリストの誕生日が目出度いか。仏教徒じゃねえかよ。花祭りに盛り上がれよ。甘茶飲んで楽しくやりゃいいじゃねえか。

何か毎年クリスマスが近づくとこのネタに終始するような気がする。ちなみに12月25日はパキスタンは休日である。おいおい、「結局パキスタンだってクリスマスにあやかってんじゃねえか」とか言うのは早計だぜ。12月25日はジンナーの誕生日なのさ。ジンナーを知らない人はネットで調べやがれ。

さて、本日も土曜出勤をしている訳であるが、本日は何と!断食にチャレンジしている。朝から何も食べていない。といっても、別に経験してみようと言うのではなく、昼にプロジェクトのQさんとケンタッキーに行ったら、開店は4時からと言われただけであるのだが。人口500万を誇るラホール市のレストラン、昼間は全部休業。マックも休業。やはり圧倒的にイスラム教徒の多い国(97%)は、万事がイスラム教義に則っているようだ。何しろ正式国名は「パキスタンイスラム共和国」。

レストランが開いてないからと言ってホテルに戻るのもかったるく(ホテルにはガイジン向けにひっそりやっているレストランがある)、結果的に本日は昼飯は抜きで過ごしているというだけである。尚、怠惰な私は土日は朝飯を取らない。だから今日は何も食べていない。一日の断食が明けるのは、午後5時15分くらい。

さて、とは言っても本日は午前中は仕事をしていたわけではないため、あまり問題が無い。昼は確かに腹が減ったが、それを超えると食欲は引いていった。まあ、朝早くから労働かましているわけじゃないので、あまりエネルギーも使っていないのだろう。

ところが、午後3時を過ぎると急激に腹が減ってきた。実はこちらの事務所、ラマダン期間中は午後3時15分が定時である。朝は15分早く始まり(7時45分始業)、昼休みはお祈りの15分のみで、それ以外は午後3時15分まで働き続ける。その後は残業扱いになり、残業代が支給される。1日の断食明け後は食堂で飯が供される。

午後3時に定時が来ると言うのは、3時頃に限界がやって来る、と言うことなのかもしれない。何しろ私も今現在無茶苦茶腹が減っている。目が回る、と言うレベルではないものの、動きは緩慢になる。ああ、早く日没が来ないかな、とは私も思う。

1日の断食明け(Break Fast)まであと1時間。

2002年11月11日

無茶苦茶頭が痛い。

イテテテテ。

2002年11月13日

日曜以来、体が熱っぽくて頭痛くて仕方なかったが、今日は新たな展開に入った。

血便出ました。

おいおいマジかよ、と思い、病院に行くことを決意するも、ラマダン中で病院は何と午後6時から。と言うわけで、仕事をしながらネットで合致する症状を探す。すると、ある程度症状が合致する伝染病に「アメーバ赤痢」があり、それをヤフーで検索する。

《 臨 床 的 特 徴 》
 病型は腸管アメーバ症と腸管外アメーバ症に大別される。
 腸管アメーバ症は下痢、粘血便、しぶり腹、鼓腸、排便時の下腹部痛あるいは不快感などの症状を伴う慢性腸管感染症であり、典型的にはイチゴゼリー状の粘血便を排泄するが、数日から数週間の間隔で憎悪と寛解をくり返すことが多い。潰瘍の好発部位は盲腸から上行結腸にかけてとS字結腸から直腸にかけての大腸である。まれに肉芽腫性病変が形成されたり潰瘍部が壊死性に穿孔することもある。
 腸管外アメーバ症は多くは腸管部よりアメーバが血行性に転移することによるが、肝膿瘍が最も高頻度にみられる。成人男性に多い発熱(38〜40℃)右季肋部痛、嘔気、嘔吐、体重減少寝汗、全身倦怠などを伴う。膿瘍が破裂すると腹膜、胸膜や心外膜にも病変が形成される。その他、皮膚、脳や肺に膿瘍が形成されることがある。

太字が私に見られる症状だ。

今週末帰国なので、帰国してからも診断を受けようと思う。

2002年11月14日

遂にパキ更新最終回を迎えました。2ヶ月弱でしたが、何だかあっという間でしたね。結局仕事しかしていなかったしで、あっという間だったのでしょう。今夜ここを発ちます。

って、今週末帰国と言う昨日書いたのに、何故今夜出発かと言うと、現在の症状を本社に連絡したら、帰国命令が出たからです。

しばしさようなら、パキスタン...ってこんな別れ方もどうかと思うが。

2002年11月23日

本日は土曜出勤。駅で6か月分の定期券を買うも、買った後で5月22日の日付を見て、「しまった、5月22日までなんて全然いない」と思い出した。

昼飯は会社の近くのマックで「ベーコンレタスバーガーセット」を買って、事務所で食おうと思っていた。マックに来るのは帰国後初である。

私「ベーコンレタスバーガーセットで、(飲み物は)コーラ」
店員「こちらの方はいかがなさいますか?」
私「こちら?」

見ると、その「こちら」の方に、ポテトとかナゲットとかサラダが縦に並んでいる。

私「...これ選べるんですか?」
店「はい、お一つお選び頂けます。」

何だこのシステムは?世界共通の新システムか?でもパキスタンのマックには無いものだったぞ。

仕事終わらずに会社から家にメール送ったが、疲れちゃって全然やる気にならない。もう今日は仕事おしまいだい。

2002年11月24日

昨日仕事が終わらなかったので、本日は休日にしてはちょっと早めに起きて、さっさと会社に行って仕事を済ませようと思っていた。

だが、起きるとキンコンカンコンキンコンカンコンキンコンカンと、婆ちゃんの見ているテレビから鐘が聞こえる。つまり、NHKの「のど自慢」をやっている時間に起きた。午後1時10分前くらい。いきなり一日へのやる気が無くなる。確かに、昨夜は寝る前、尋常じゃなく疲れていたのを覚えているが、まさかここまで寝るとは思わなかった。大失敗。

会社に向う。本日は桜木町の一つ前の高島町で下車し、PCデポと言うパソコン屋に寄る。USB接続のハードディスクを買うためだ。あの100円ライターくらいの大きさの奴ですよ。こりゃスゴイアイディアだと思って。128MBの奴が10,000円くらい。

結構高いな。

その後は事務所に行って、働いて、日が完全に沈んだ頃に事務所を出る。早速「メールで送るにはちょっと大きすぎる容量のファイル」をUSBハードディスクに入れて。

帰りにファーストフード店に寄って、ちょっと勉強をする。何の勉強?いや、数学ですよ、数学。「土木系の数学入門」とか書いてある本を買ってきて、それを通読しようかなと思って、帰る途中にファーストフード店に寄ったわけである。いきなり数学やってるのは大した理由からではなく、後輩と「あんなにやった割に結構忘れちゃうもんだ」と言っていたのが発端である。本屋で件の本を見かけて、何となく買ってしまったのである。

とは言うものの、買った本は全般的に高校数学のおさらいと言う感じで、若干大学教養レベルの数学が含まれている程度である。とは言え、我々土木の設計はそれで殆ど事足りる。そりゃ大学院レベルとかになると困った数学使ったりするものの、実務ではそこまで必要ない。ただ、問題はそれすら忘れていると言うことであるが。

最初は全く何も問題を解かずに読み進めていったが、何だか意味が無いような気がしてきて、目に止まったものをやってみようとする。高校時代は「暗記」していた公式とかを「導出」してみたりする。

例えば加法定理。sin(a+b)=sin a cos b + cos a sin bと言う奴だが、こんなものは「咲いたコスモス、コスモス咲いた」などと覚えた奴は私以外に数千万人は確実にいると思うが、何故こう展開できるのか、と言うのを知っている人間はどれくらいいるのだろうか。私はこれを暗記した記憶はあるが、どうやってこれが「咲いたコスモス、コスモス咲いた」になるかを当時しっかり把握していたのだろうか。

と思いながら、買った小さい無地のノートに円を書いて、三角関数のグラフ書きながら、式を連ねて、結局導出に成功した。「ああ、これで出るんだな。多分高校時代は丸暗記だったような気がするな。」と思いながら、その他の、かつては単に覚えた公式みたいな奴を導出していった。

やってみると結構面白いが、ハッキリ言ってこんなものは私の人生の一助には全くならない。それより休みに何やっているんだと言う感じでもある。ただ、ちょっと頭が疲れて一息ついたとき、こう思った。

「受験は数学と言えども暗記である程度なら通る。」

ってこんな結論得てどうすんだって。

で、帰宅して朝日新聞を読んで、ちょっと思うところがあった。最近の子供の学力低下、と言うより意識低下の記事があった。中々興味深い記事だったが、以前こんな文章をしたためた記憶があるので、転載する。

2000年2月 さらば教壇

2月に覚えていることは、入試応援である。何故なら寒かったから(一部結果も寒かった)。最後の最後だったので、結局6校も応援に出かけたが、この入試で2年8ヶ月にわたるバイト講師生活は終了した。当HP自己満足紹介において、私の講師時代の教育姿勢を結構しっかり書いたが、実は最終年度となった1999年度はまだ書いていない。というより、もう書くつもりは無い。だって、最早詳細に覚えていないんだもん。と言う訳で、詳細に覚えていないかわりに、昨年度教えていて妙に良く覚えていることを書こうと思う。以下のシーン自体は2月というより、去年の秋くらいだったと思うけど。

昨年は一応最上位クラスを担当していた。担当科目は数学だったが、今思い出しても頭を抱えるほど、生徒は数学が苦手だった。数学が好きになって欲しいというのは究極の目標である訳だが、高望みはしなかった。ただ、若干ながら数学関連の脱線をしたことがある。皆様にとっては他愛の無い1シーンだろうが、私にとっては結構よい思いでである。

当時、私はシネマライズで公開されていた「?」という変な映画にハマっていた。映画自体は見る人が見れば完全な駄作だと言われそうだが、テーマが「数学と神」だったので、自分にとっては面白かった。ヘブル語とフィボナッチ数列をかけ、そこから黄金螺旋に話を持っていくのが、私にはまったく強引には見えなかった。自然だとすら思った。

そんなとき、授業で「黄金比」を扱うことになった。黄金比というのは、正五角形の一辺の長さと対角線一本の長さとの比から得られる比のことで、結構昔の入試問題で流行ったものだった(最近もやや復活する気配あり)。ちょうど「?」にはまっていた私は、黄金比で少し脱線をした。以下、当時の脱線口調で記述。

「えーと、ちょっと脱線するけど、この黄金比と言うのはちょっとしたエピソードがある。黄金比1:(1+√5)/2と同じ辺の比で長方形を描いてみる(これを黄金長方形:Golden Rectangleという)と、まあこんな長方形になる(ホワイトボード注目)。で、辺の長さが1の正方形を切り出すと、残る長方形は最初の長方形と相似な長方形になる。こういう長方形は、これ以外には存在しないんだよ。でね、さらにこの長方形から同様に正方形を描いていってやると、こんな風になるな(ホワイトボード注目)。で、ここで各正方形の中を4分の一円が入るように描いていくと、螺旋ができるだろ。これを黄金螺旋と言って、数学の世界では最も美しい螺旋と言われているんだ。」

殆ど全ての人にとって、「数学」で「美しい」なんて言葉を吐く奴は100%危ないと思うだろう。私も思う。そして私の教えている中学生位の世代はこの傾向が顕著で、生徒は私のこの言葉を聞いて全員失笑を漏らした。言っている私ですら、笑いながらヘラヘラしていた。しかし、中学生に失笑を買うのが私のこの脱線の目的ではない。次の私の言葉を聞いて、果たして彼らがどんな反応をするのかを、ちょっと知りたかった。

「まあ美しいというのは何か変だけど、この螺旋はお前らもよく見ているはずだ。例えば風呂で水を抜いた時に出来る渦、あれは黄金螺旋だ。台風の衛星写真なんてのを見ると思うけど、台風も黄金螺旋だ。まあ気圧の乱れとかで完全にはなっていないだろうけど。それ以外、例えば巻貝の螺旋も黄金螺旋、銀河の渦も黄金螺旋、さらにはお前らの遺伝情報を格納しているDNAも黄金螺旋で形成されているんだ。つまり、この螺旋は自然界でよく見られる螺旋なんだな。原因はよく分からないけど、形状的にとか力学的に、一番安定している螺旋なのかね。」
その後、フィボナッチ数列の話に持っていって、さらにダ・ヴィンチが黄金螺旋を使って作品を残している話もした。

こんな話をされても、最近の理数離れの著しい子供には退屈な代物かと思っていた。しかし、風呂の渦の話をした途端、生徒の失笑は消え、ダ・ヴィンチの話に至った段階では、ちょっと違った笑みになっている生徒もいた。よく授業とか講演とかで、興味深い話や「なるほど」と思う話を聞くと、頬が緩むことがあると思うが、そんな笑みを見せている生徒がいたのである。

「1年以内に結果を出せない子供の商品価値は皆無に等しい」というのが、受験業界における宿命である。また塾の全体研修に行った際も、「優秀な生徒には御三家を受けるよう洗脳してください」と、「洗脳」とまで言っていた塾首脳陣がいたのをよく覚えている(この辺の記憶力は自信がある)。子供を教えるのは楽しかったが、最上位クラスを担当した最終学年時、私はこの思想に振り回された。「40とか50にもなってまで、子供のエネルギーに付き合うのは体力的に不可能だ」という持論と供に、上記のことを痛感した私は、将来教育産業に身をおくことは無いと思う。それでも生徒達が興味深そうに話を聞くシーンは、先生業一番の魅力だった。

「理数系離れとか言うけど、やっぱり子供は知的な事に関する好奇心や理解力は、大人よりあるもんだな」と、その日の授業から帰る時に思った。

ここまで読んでくれた人、他愛も無いなど言わないように。

2002年11月25日

まあ私はそんなに齢を重ねているわけじゃありませんから、人生の悲哀や苦しさを分かっている訳ではないのですが、どうなんでしょうね、

「いい大学を出てもリストラされたら意味無いじゃん」

これはテレビの見すぎではないでしょうかね。てゆうかテレビしか見てないだろ。

2002年11月27日

本日、会社の私のアカウントに大学からのメールが入って来た。送り主は学生時代に所属した研究室の院生で、研究室OB会のお知らせがその内容である。私の専攻はコンクリート工学なのだが、毎年OB会はコンクリ界のプロを呼んで講演をしてもらうと言う、堅くてマニアックなモノになっている。その名もコンクリート技術懇談会と言う、もう業界以外の人にとってはマニアックを通り越して「危ない」と言う感じであるが、我々同期はこのイベントを「コン懇」と呼んでいる。

まだパキスタンにいる時、同期の若杉と言う男から「今年のコン懇はいつなんだ」と言うメールが入ってきた。私は今年度のリクルーターをやった関係上、研究室の院生のメールアドレスを控えている。と言う訳でメールを出すと「一応12月14日です」と言う返信が来た。で、今日のメールは正式に12月14日に決まったことと、講演者と講演内容が決まったことを知らせてくれたわけである。早速同期に送ると、若杉と健一(と言う男)から「俺も行くよ」と言う返信が来た。岐阜のダム現場にいる伊庭と言う男からは返事が無いが、恐らくメールを見るタイミングを逸していると思う(伊庭は案外反応が無い)。それから1年後輩の太田と言う男からも返信が無いが、こいつも現場(横浜の遊水地)にいるので、ちょっと反応が鈍いと思われる。

折角だから研究室時代についてちょっと書こう。

研究室に配属になったのは大学4年の春だが、以来大学院卒業までの3年間、コンクリート工学を専攻するこの研究室に入った。私の研究テーマは「中性化したコンクリート中における鉄筋腐食機構」についてと言うマニアックなものだが、大抵大学院で研究することなどマニアックなものである。

私の研究室は実験に次ぐ実験で、休みを取るのも至難の研究室だった。修士2年の時は夏休みが4日だけで、あとは殆ど実験室にいたと思う。6年間の大学・大学院生活の中で、研究室における3年間は学生時代において紛れも無く多大な比重を占めた時間であり、またそれだけ印象に残っている。

そんな中で重要なのは研究室のメンバーであり、同期である3人は、私の学生生活を通じて異質と言える連中であった。

私は理工学部の学生ながら、文系のサークルに所属していた関係上、普段付き合うのは文系の連中ばかりであった。3年目はサークル中心で、同じ学科の人間とそれ程深くは付き合っていない。私の所属していたサークルも様々なキャラクターの人間が集まっていたが、研究室の同期3人は、そのどれにも当てはまらない人間ばかりであった。タイプも全く異なっており、恐らくあまりに異なっていたからバランスが取れていたと言えるのかも知れない。珍しいことに4人とも東京出身で(私は横浜在住だが)、全員が自宅から通っていると言う状況ゆえ、家に遊びに行くなんてことは全く無かったが(4人ともそんなガラではない)、研究室が「深夜まで意味無くいる研究室」だったため、過ごした時間は妙に長かった。バイトが終わって終電で研究室に行くと、必ず誰かいるのである。

4人は大学院卒業とともに全員が就職し、現在も全員が各々その時就職した会社で現在も働いている。配属先すら変わっておらず、特に伊庭は岐阜の現場へ、若杉は仙台へ配属になったため、あんまりちょくちょく会うと言う訳ではない。と言うより、卒業してからちょくちょく待ち合わせて会うというのは、この4人のガラではない。

伊庭の反応が無いため、4人が勢揃いするかは分からないものの、勢揃いすればそれこそ卒業式以来の揃い踏みである。特に健一には一度も会っていない(健一は都内勤務だが)。卒業してからわざわざ集合するガラではないと書いたものの、そうは言っても私はこの4人で勢揃いすることを妙に楽しみにしている。サークルの友人やバイト先の人たちも楽しい人々だが、この研究室の、しかも「たった4人」は、どうも特別な感じがする。

12月14日は久し振りに学校へ行くのだ。

2002年12月02日

昨日から入ってるじゃねえか。

さて、12月と言えば何と言ってもクリスマスである。こういうのを書くことを趣味にする人間にとって、クリスマスはかなりネタにしやすいイベントである。今年のクリスマスはパキスタンで国父ジンナーの誕生日をパキスタニ達と祝うと言うのを予定していたが、パキス出張が年内は無くなった関係上、今年も日本で下らなく過ごすことになった。

今年も昨年同様、こんなイヴを過ごすのだろうか。

☆☆☆昨年の日記より☆☆☆

突然ですが、クリスマスイブに寿司食い放題行きませんか?
イブなのに一人っきりの方、一人じゃないけどイブは暇だよって方、大募集です。
(ひやかしMailはやめてください)

日程確認の上、参加できる方は以下ボタンを押して下さい。

日時 :12月24日(月) PM6:15 JR関内駅北口集合
PM6:30〜食べ放題スタート
場所 :雛鮨関内店(詳細は後日参加者に地図を送ります)
会費 :4000円程度

一応予約を取りますので参加できる人は12月19日いっぱいまでに返事下さい。


多数のご参加お待ちしております。


電気部 A井

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今朝、会社のメールを開けたら、今年の夏に一緒に会社から花火を見た同期から、上記のメールが入っていた。
(ひやかしMailはやめてください)
と言うのが寒い。

☆☆☆以上転載☆☆★

何か、無理にクリスマスを直視しようと言う姿勢が、彼・彼女がいない人間には強いような気がする。彼・彼女のいる人間は、結構面倒なイベントだと思っている奴もいるよな。

どうでもいいっちゃどうでもいいんだけど。

2002年12月05日

1年間の駐在予定で日本に来ているN氏が、今月末に帰国する予定である。帰国前に送別会を開こうと思っていたのだが、事もあろうか本人から家に招待する旨伝えられた。パキスタン人は食べ物に制限があるし(パキ人と付き合うと、いかに豚が様々な食材に含まれていることか分かる)、店を探すのも一苦労なので、取り敢えず彼の申し出に乗ることになった。

1年目のYが、N氏の家に何故か下見に行くことになった。Yは「土曜の午前中はどう?」と聞いたらしいが、その時のN氏の返答は印象的である。

「土曜の朝は平日に不足しがちな睡眠時間を埋めるために、殆ど寝ているので勘弁してください。」

不足させているのは俺か?不足させているのは俺なんだな?

2002年12月07日

昨日は関連会社の忘年会に行ってしまった。仕事終わってないのに。で今朝、土曜なのに9時半に起きて、10時過ぎに家を出た。会社に行く予定は行く予定であったが、その前にベルリッツに行こうと思って...

英会話スクールに通おうかなと思い始めたのは、パキスタンにいるときだ。学生時代に比べて英語力はたぶん落ちており、パキスタン子会社に行って、特に契約関連で揉めると、上手く丸め込めないと言うのを痛感しつつあった。また、仕事上の話をエンジニアとしても、彼らの英語は私より上手い。そりゃそうだと言う感じでもあるが、どうももどかしさを禁じ得ない状況が続いていたと言うのが正直なところだ。と言う訳で、今年の新入社員でベルリッツに通っている後輩に話を聞いて、取り敢えず本日、カウンセリングと言う奴を受けに行ったわけである。 

学生時代、「金払って英語習うなんて信じられん」などと思っていたが、それは普段サークルなんかでやっていたから言えることだったと思う。ヒマがあれば海外旅行なんてやっていたのだから、英語を使う機会は当然多い。今でもそりゃ英語は使うが、日本の会社であるため、いっつも英語ばかり、と言うわけじゃない。加えて、ウチの会社の社員の英語のレベルは多分「普通」レベルであり、周りに刺激されて伸びると言う雰囲気でもない。

パキスタンから帰って来て、何となく意識が芽生えたことから、これはチャンスとばかりに一度しっかりやり直してみよう、とこう思ったわけだ。加えて、クリスマスキャンペーンとかで入学金割引、修了後会社が4割負担、ボーナスが出たよ、と色々要素が重なったので、ベルリッツにした(ウチの会社はベルリッツと法人契約を結んでいるようだ)。

久し振りにクソ寒くなった横浜西口を歩いて、横浜西口校に向う。尚、家の近所から会社までの間に、ベルリッツは数軒ある。一番家から近いのはたまプラーザ校だが、会社から近い横浜西口の方が何かと便利だろう。横浜元町校と言うのもあるらしいが。

英会話学校に足を踏み入れるのは初めてである。横浜西口校は神奈川地区で中核の校舎、かどうかは分からないが、あんまり広くない。ビルの1フロアを占有している訳ではないし。何か塾みたい。私が着いた時はちょうどコマが終わる寸前で、受付前の待合スペースに人が待っており、またガラス張りで中の様子も見える。2・3人のレッスンをやっており、その中に白人が一人いて、何かをやっている。まあレッスンやってるんだろうけど。その他、1対1のプライベートレッスンは面談室みたいなところでやっている。私が希望しているのはこのプライベートレッスンだ。

最初、書面に色々書かされて、暫く待つと受付のお姉さんに個室に連れて行かれ、まずレベルチェックを行う旨伝えられる。で、さらに暫く待つと、白人のおっさんが入ってきた。名刺を貰ってカタカナの名前を見ると明らかにドイツ系だが、名刺を引っ繰り返すと名前にウムラウトが付いている。ドイツ人か?などと思う。で、レベルチェック。結局レベルチェックとはガイジンと英語で話して、どれだけ話せるかを見るというものだったが、若干難しい表現を使われると私は返答に詰まる。く、これがダメなんだよな、と思いながらも、基本的には和やかな雰囲気で喋る。レベルは8だった。

次に日本人スタッフがやって来て、そこでコースの選定や見積もりをする。と言っても、見積もりは弊社向け割引コースを使うことから、事実上見積もりは無いに等しく、私の希望を述べてコースを設定すると言う感じだった。無いに等しい見積もりだが、取り敢えず価格の方をちょっと考えてみよう。

ベルリッツは高くて有名と、2ちゃんねるにも書かれている。プライベートレッスンは1レッスン(40分)8,400円って、確かに狂気の沙汰だな。会社負担と会社割引を考えると、結局1レッスン4,500円くらいになるが、それでも高いだろう。学生時代の私が「こんなもんに金払うなんて...」と信じられなかったのもよく分かるというものである。尚、2・3人のセミプライベートレッスンになると3,808円。これも会社負担並びに会社割引を考えると2000円くらい。これなら結構安く感じるかも知れない。

レベル的にセミプライベートレッスンなどは無いと言われたが、最初からプライベートレッスンにするつもりだったのであっさりプライベートで決定。レッスン数は40レッスンにして、3月下旬のカザフ赴任前までには終わるようにした。通う日は金曜夜2コマと日曜午前3コマと言う、信じられない構成にしたが、この理由はこの時間が空いているから、ってそりゃ空いてるだろうな。

迷ったのがコースだが、色々説明を聞いていくうちにビジネストピックと言う奴に決定した。教材は25,000円くらいと言われたが、何かCDじゃなくてテープであることにダルさを覚え、結局本だけにした(本だけにした途端4,500円)。

レッスンは12月15日スタート。間に3週間ほど出張が入るが、それを考慮した結果、終了は3月第一週。

と言う訳で横浜西口のベルリッツを辞し、会社に向うも入門証を忘れて会社に入れない。結局何もせずに帰ってきた。で、家で仕事。

ベルリッツ行っただけかよ今日。

2002年12月10日

私の会社は新聞の株式欄において「建設」の中に入っているが、一応ゼネコンではない。ただ、そうは言っても普段図面や計算書を客に出すと言う仕事が多いので(エンジニアの私にとっては図面と計算書は金との引換券である)、これらの図書類を纏めるチームが会社にはある。そのほぼ全員(完全に全員か?)は女性であるのだが、この女性と仲良く出来ないと、図面の発行がスムーズに行かないなど、実はプロジェクトの命運を握っているのはこの女性達と言う場合が多い。

さて、私は新入社員の頃、よく計算書のページ振りなどを間違えて、このチームの女性から電話がかかってきて、修正させられることが多かった。と言う訳で、これらの女性と対応する機会が必然的に増えたのであるが(余計な関わりは増えなかった)、その中で印象に残っているモノを一つ。

いつものように何かに落ち度があって、このチームから連絡が来た。問題を確認して、それでは計算書を私の方に戻してください、と私はその女性に言ったのだが、その時、この女性はこう言ったのである。

「じゃあ終わりましたら私の方に電話を下さい。内線は○○○で、ブラックと言います。」

は?

ブラックと言いますって、名前?エライ日本語上手いな、こんなガイジンいたかな、と思い、作業後にそのチームのいる階に行った。

会社の各階には座席表がある。私はその座席表に、確かに「ブラック」と書かれた席があるのを確認した。しかも、「ブラック」じゃなくて「ブラック」と半角で書いてある。座席表に名前が全角では入らないから、敢え無く半角にしたのであろう。

座席表でブラックさんの席に行こうと、そのフロアに入ったのだが、ブラックさんの席には、どう考えても日本人と言う女性が座っている。おかしいなと思って再度確認するのだが、座席表には明らかに「ブラック」と書いてある。間違いなく、あの女性の座っている席は「ブラック」席である。

意を決してその席に行った。何だか「ブラックさんですか?」と聞くのに勇気を感じたので、私の所属する部と名前を彼女に言うと、「ああ〜、終わりましたか?」と言ってくる。間違いない、この人は「ブラック」さんである。

後日、先輩にこの話をしたところ、先輩は事情を知っていた。この方はニュージーランド人の旦那がいるというのである。つまり、これは国際結婚と言う奴だ。ハッキリ言って、私は彼女が何故「ブラック」と言う名前なのかさっぱり分からなかった。そりゃ何かの名簿で日本人まみれの中で「トンプソン」などと言う名前の人がいたら、ああ国際結婚している人かなと思う。苗字が「李」だったり「盧」だったりすれば、ああこの人の旦那さんは韓国人かな、などとも分かる。しかし、いきなり電話で「ブラックといいます。」といわれても、「いや、ブラックなんて言われても」と言う感じであった。つまり、実際に目の当たりにすると、「横文字の苗字⇒外国人の配偶者がいるよ」とは繋がらなかったのである。

とまあ、こんな話はどうでもいいのだが、最近面白いページを発見した。旦那さんがパキスタン人と言う方のサイトである。国際結婚のことが詳しいが、イスラムのことを短く明快に纏めている。いいから見てこい

2002年12月11日

外国人の友達がいる国でダントツトップはパキスタンだが、その中でも特に仲がいいのがムダサルと言うエンジニアだ。私は今年の10月5日には彼の家にまで行って、親父さんにも会ったことがある。

さて、このムダサルと言う男とは、昨年の夏の終わりくらいからの付き合いである。彼は研修生と言う形で日本に来ており、日本には1年間滞在した。彼のネタは枚挙に暇が無いわけであるが、今日はその中でも「彼の日本語学習に対する姿勢」を書きたい。

日本にいるときから、彼は「これはどういう意味ですか?」と言う質問を私によくしてきた(彼は私の対面に座っていた)。その中で、印象に残っている質問は、かつての私の日記にこう書いてある。

\以下転載\

今日、対面に座るムダサル氏から、直接訊けばいいのに、以下のようなメールが送られてきた。

PLEASE TELL ME THE MEANING OF THE FOLLOWING

zutto kininatte itandesu????

BR

ウチの会社はロータスノーツを使っていて、イントラネットメールはレタリングが効く。というわけで、上記のようなメールがいきなり送られてきて、私としては少し困惑した。ムダサル氏は、何事も無かったように仕事を続けているのだ。

「ズット キニナッテ イタンデス」

ムダサル氏は殆ど日本語を解さないのであるが、取り敢えず国だか団体だかの何とかプログラムの一環で来日しており、弊社子会社所属の割に、日本語研修なども受けている(しかも、何故か大阪で)。というわけで、たまに日本語の表現について相談を受けるのだが、今日のように唐突に謎なメールを送られることは今まで無かった。訳が分からないのが最後のBRで、これについては取り敢えず触れずに想像した方が楽しそうだと言う訳で、触れなかった。

メールで送りつけてきたと言う事は、メールで詳細に返せという意図があると勝手に判断した私は、いつもの私のノリで、以下のような返答をしておいた。

ムダサルさん

大体の意味は次のような感じです:
"I've been concerned (about that) for a long time."
( )を付けた理由は、この日本文に目的語が脱落しているからです。
これは日本語でよく見られるもので、日本語は主語や目的語を言わないで、
動詞だけで表現する傾向があります。

詳細な説明:

1. zutto = for a long time

2. kininatte ≒ kininaru (original form) = be concerned about (that)
"~~tte"は3.のような文とくっつけて使われます。
"kininatte"の原形は"kininaru"です。
例) watashi wa sore ga kininaru (=I'm concerned about that)

さらに、"tteiru"のように使う場合は、進行形になります。
例) watashi wa hashitteiru = I am running.
(hashiru(run) + tteiru(~ing) = hashitteiru(running)
ガイジンには文字の脱落(hashirutteiru=>hashitteiru)を理解するのは
かなりムズカシイと思います。日本語教本でも読んで下さい。

3. itandesu = これは日本語における「現在完了」です。また、これは
誰かに問い掛ける時などに使います。誰かに何かをアピールしたい時、
「itandesu」を「~~tte」と一緒に使います。
日本語には「時制」という考え方はあまり明瞭にはありません。
特に、現在完了は日本語には無いものです。だから、日本人が
英語の現在完了を習得するのは、かなり難しいことです。

まあとにかく、2.と3.を繋げると、次の文が得られます:

kininatte itandesu = have been concerned (about that)
これは、誰かにアピールする時に使うものです。

以上


\以上転載\

彼との関わりはその後も続いたわけであるが、1年経つと日本語も結構話せるようになっており、社内バレーボール大会に遊びに来ていた社員の子供に「お父さんの名前は何ですか?」と聞いていたりした。

この前、私が子会社に行ったとき、彼は日本語OSの入ったパソコンで仕事をしていた(日本語OSで無いと動かないソフトがあるため)が、それ故向こうの事務所でも日本語でメールを打つことなどが出来た。その時、"Please find attached"と言う文章を私に送ろうとした彼に、私は「日本語で送れ」と言ってみた。すると、彼は日本時代に買った辞書を引き出し、頑張って日本語を書こうとし始めた。ただし、「添付」と言う単語は見つからないらしく、「attachedは何と言いますか」と聞いてきたので、それだけは「添付」と教えた。

さて、彼が作成した図面ファイルを「添付」してメールを送ってきた。文章はこうだ。


広いもの テンプ おねがいします。



ムダサル



findを拾い物と引いたようだ。これをそのまま日本に転送したら、ムダサルのキャラクターを熟知しているチーム員に相当ウケた。

とまあ、こんな具合でムダサルには今でも日本語でメールを送ったりしているのだが、今日は驚異的な文章を受け取った。

サルマンと言うエンジニアから反応が無かったので、「サルマンさんは きょうは やすみですか」とメールを打つと、何と、

「サルマンさんは きょうは いそがしくて やすみがとれません」

などと送ってきた。これを見たチームの大将Tさんは、「スゲエな」と感嘆。何しろ「いそがしくて」という表現を使用している。外国人で日本語を学習する人で、一番難しいのが助詞の使いこなしと助動詞の接続などで、「『てにをは』はお手上げ」と言うガイジンは多いはずである。しかし、今日のムダサルは、「忙しくて休みが取れません」などと、かなり高度な日本語で返して来たのだ。

まあ翻訳サイトからコピーペーストしただけかも知れないが。

2002年12月14日

本日はコン懇であった。しかし、二日前の会社忘年会のダメージを引き摺っているのか、土曜の朝10時に起きてもまだ眠い。布団でダラダラしていたら、後輩のOから電話がかかってきた。

O「今日どうしますか?」
私「行くよ。」
O「何時くらいに行きますか?」
私「はぁ?(午後)2時からだろうが」
O「みんな2時に来るんですか?」
私「そりゃそうだろ」
O「じゃあ僕もなるべく2時に行くようにします。」
私「なるべくじゃなくて普通に2時に来いよ。」
O「分かりましたよ。ああ、(私の)家江田ですよね?」
私「そうだよ。」
O「僕今青葉台に住んでいるんですよ。」
私「は、何で(お前の寮は綱島の辺りでは?)」
O「いや、社宅が青葉台なんですよ。」
私「社宅?って結婚したの?」
O「メール出したじゃないですか」

どうも私がパキスタンに行っている間に結婚してしまったらしい。自宅のメールアドレスに連絡したそうだが、自宅のは2週間以内に取り込まないと消去されるから、知らなかった。

さて、起床して準備して、大学に向う。大学に行くのは久し振りだ、と言いたいところだが、春にリクルーターとして二回くらい来た。だが、研究室の面々と会うのは久し振りだ。

渋谷で乗り換えて、山手線で新大久保に向う。渋谷は何か工事中だ。と言うか、渋谷なんて全然来ないよな。何か止まる路線が増えてるし。

新大久保到着。微妙に変わっているが、基本的には大久保通りに小さい店が並ぶ街並み自体に変わりは無い。ハングル文字が多いのも特徴の一つ。韓国語が飛び交っている度合いが増えているような気がする。何はともあれ、懐かしい。俺はこの駅を使って6年間も大学に通ったんだ。

大学到着。大学の他のキャンパスは現在大改造中であるが、私の通っていた理工キャンパスは私が入学前に改造を終えており、殆ど変わっていない。が、今日のコン懇会場はその中でも私が出る直前くらいに出来た新校舎で、当然迷った。62号館ってどこよ。

受付でリクルート時に世話になった学生に挨拶し、入室。で、全然来ていない私の同期と後輩のO。おいおい、結局遅刻かよ。

コン懇は熱い研究を行っている研究者やエンジニアにコンクリートに関する講演をしてもらうと言うカタイイベントであるが、今回は竹中工務店の方による再生骨材の研究報告、および我が研究室の助手Aさん(インドネシア人)の博士号取得テーマとなるセメントの複合水和反応モデルについての講演である。カタイ。コンクリなだけに。

既にコンクリ研究から遥か遠ざかっている私、最初の再生骨材に関しては、私が学生時代は構造材料として実用化するレベルにはなっていなかった。しかし、現在はかなりの努力が実り、清水建設と竹中工務店の方で実用化の道が開けている。といっても、既存の構造物を壊してそれを使う、なんていう成熟した社会で仕事をしていない私にとっては、全く別世界の話である。国内で仕事すれば関係あるかな、と言う感じであるが、市正直言っていろいろな意味で「日本は進んでるな」と言う印象ばかりが目に付いた。だから、この講演は当然興味本位で聴いていると言う感じだった。一応会社のデータベースに報告をアップしようとは思う。まあ、みんなあんまり興味を持たないだろうけど。

次のA氏の発表。もう難解でさ。「大学レベルの本当の基礎研究」になると、研究室から遠ざかった身にとっては付いていくのも難儀する代物である。これが実用として利用されるのは、一体どれくらい先なのだろうか。

とかやっているうちに、Oが遅刻してきて、仙台からやって来たWも遅刻してきた。しっかり来いよ。

講演後、研究室に行って暫く待つ。Oが後輩に話をしているのである。Oは清水建設に勤めている関係上、学生の希望者は当然結構多く、その話をしているのである。偉そうに。誰かウチの会社にも興味持ってよ。

講演を聞かなかった後輩のYが研究室に来た。「いや寝てました」と言う。しっかり来いよ。私とWとOとYで、いつも行く焼肉屋に向う。最初は4人だったが、院生が8人来て、12人になった。これじゃ割がキツイと言う訳で、同期のKを呼ぶ。Kは高田馬場で勤めており、何と今日は出社していた。これでファイナンスは5人になった。会計は6万3千円。÷5で一人1万3千円。いや〜、院生の食いっぷりを見ていると、一人2万は行くかと思ったが、やはり馬場は安い。しかし、コートとかスーツとかスッゲエ焼肉の香りが...

Wが「今日中に仙台に帰らなければならん」と言って消えていったが、すぐに戻ってきた。みどりの窓口の人に、「もう(新幹線の)最終間に合いませんよ」と言われたらしい。可哀相に、奴は徹夜後に始発新幹線で仙台に帰り、そこから休日出勤だ。

その後、院生を連れてさかえ通りと言う飲み屋街に向う。そこで飲んだが、10人くらいで1万5千円。安いな。あんまり飲んでないけど。

取り敢えず、これで土曜は終了。

2002年12月15日

12時過ぎ、さかえ通りに再結集して、研究室に向う卒業生達。すでに院生達は帰っている。我々は帰れなくなったのだ(Wを筆頭に)。私はベルリッツ第一回レッスンが明朝10時45分からあると言うのに...。

途中am/pmで何がしかのモノを買い、塀をよじ登ってキャンパス内へ。はー、懐かしいな。昔もよくこの塀を越えたもんだぜ。

理工学部は不夜城が可能な環境にあり、深夜でも研究室が開いていたりする。当時は深夜に戻ると必ず誰かが研究室に残っていた。そりゃ勉強もしていたが、大抵夜中の3時を過ぎるとだれて来て、喋ったあとに書庫に置いてある寝袋を敷いて就寝と言うパターンになる。今日の我々は当然勉強でなく、始発が動くまでの時間つぶしである。って、昨年もこんなことやってるし。

研究室に入って暫くすると、Oは書庫に入って寝始めた。おいおい、まだあの寝袋あるのかよ。また、Wも椅子を並べて寝始めた。私もインターネットとかやっていたが、眠くなってきたので寝ようと思った、が、明日ベルリッツがあることを考えて、「やっぱ帰ろうかな」と思い始める。いや、この全身焼肉臭とぼさぼさの頭と寝不足の白い顔で英会話なんて言うのもイヤだし。で、結局「じゃあまた正月な」と言うのをKと後輩に投げかけて、大学を脱出。明治通りでタクシーを捕まえて、午前4時半帰宅。因みに大学前から家まで、9300円。一日で幾ら使ってんだよ...

4時間半くらい寝て、起床⇒風呂⇒着替え⇒家を出る。ベルリッツ横浜西口校に向う。あー、もうスッゲエ眠い。

で、初回と言うことで必要書類になにやら書き込んで、授業開始を待つ。疲れててあんまり緊張しない。ただ、どんなことやるんだと貰ったテキストを見ながら考える。レベル9〜10って書いてあるけど、これでいいのかな(レベルチェックは8だった)。

チャイムが鳴って指定された部屋へ。1対1のプライベートレッスンだから狭い部屋に通されるかと思いきや、グループ用のデカイ部屋に通される。日曜午前はやはり空いているのだろう。今日はこれから、この部屋で3コマやることになっている。因みに一コマは40分なので、3コマあっても2時間だけ。あんまり長くない。

最初は若い白人。恐らく私と殆ど年齢は変わらない筈だ。レッスンはテキストに沿って行われるが、今日のテーマは会社の組織に関するもの。リスニングから始まり、会社の組織図を埋めたりする。で、これだけなら普通の英会話のレッスンのような気がするが、「じゃあ、この組織構成のadvantageとdisadvantageを言ってみて」等と言われ、面食らう。で、説明していて英語を間違えると、すぐ訂正されたりして、中々大変だ。教科書どおりだけじゃねえぞ。

次のレッスンは太った白人講師。エネルギッシュな感じだ。彼は私にテキストを音読させ、その後にその文を自分に当てはめて復唱のようなものをさせる。読んだだけで文を覚えるはずは無いが、内容を覚えているからそれを英語で言うと、必ず細かい点(文法など)を間違える。これをすぐに直される。で、最初からまた言わされる。どうもこれが「ベルリッツメソッド」と言うモノらしく、確かに何度もやらされると、記憶力が錆び付いている20代後半の頭にもこびり付いてくる。言い続けるのは結構キツイ。案外基礎がしっかりしていないのね。まあ何もしなければ明日になって全て忘れている、となるんだがなあ。

あと、会社の概要説明プレゼンの章にいたので、プレゼンの手順などの指示を受ける。何だかあんまり上手く行かなくて、何度も直される。自分で喋っていて、何か一貫してないような気がする。うーん、どうもダメだな。

さらに、何だか紙片のような絵が描いてあるページで「次のメモをもとに取締会において10分以内に話し終えるようプレゼン内容を纏めろ」と言うのがある。メモを見ると、「一つは売り上げについて、国内と海外各セクションについて報告し、改善案の提案をせよ。もう一つは人の動きとへったくれ」と書いてある。おいおい、これだけかよ、と思っていると、じゃあやってくれと言われて、報告を始める。

本日は売り上げと人事関連で連絡があります。まず売り上げですが、国内の売り上げは不景気の影響で依然低迷しております。一方海外の方は、売り上げの方が好調です。えー、理由は...

の所で詰まる。で、白人講師に「円安が進行していると言う理由にすれば」と助け舟を出される。尚、円安の表現はallow yen rateである。

国内売り上げに関する対策ですが、まず国内販売価格を下げるべきと考えます。一方、円安が進行している海外価格は上げて、offset domestic deficitをするのが良いかと思います。

と言ったが、offset domestic deficitと言う表現は講師からの助け舟。

結局、今日のレッスンは終わったが、殆どノートを取っていない(取れなかったな)、色々出てきた表現を全部把握していないなどと言う状況に陥った。これではあんまり意味が無いので、今後の対策として
@ICレコーダーを購入する(講師から「レッスンを録音しろ」と助言を受けた)
A予習の方法を考える(特にテキストにあるレベルの表現をよく見る)
BICレコーダーで復習して、ノートを纏める
と言う方法を取ろうと思う。で、ICレコーダーはすぐにビックカメラのサイトで購入。

レッスン後会社に向う。今日は対面に座るN氏邸で忘年会をやるのである。と言っても、彼はパキスタン人だから、酒は無し。彼が手料理を振舞ってくれる。当然パキ料理だ。

会社は誰も出社していない。私も仕事をやる気が起こらず、トルコの業者に鉄骨調達のレターを書いてあとはボーっと過ごす。その内上司のTさんがやって来て、ついで一つ上のIさんがやってきて、5時くらいに会社を出る。

N氏の家は会社が借り上げたアパートで、黄金町にある。黄金町は横浜随一の赤線街(表現が古いが...)であるので、彼らはスゴイところに住まわせられていると言う印象を抱いていたが、それを完全に覆すような、無茶苦茶小奇麗なワンルームマンションに住んでいることが判明した。いやー、マジかよ会社。俺にも住まわせてくれ。尚、彼の家のあるところは赤線街と反対方向で、非常に閑静な住宅街だ。全くイメージと違う。

N氏は年末に国に帰る。1年間の滞在だったが、妻子を残しての渡日は非常に辛いものだっただろう。何しろ、彼の子供はまだ1歳だ。彼らにとって、海外に行くことは当然生涯初だろうし、そんなに海外に出るなんてことは出来ない。日本人が軽く海外に行くのとは訳が違う。実際、彼は来日当初(今年の1月)、体を壊して休みがちだった。大丈夫かなと思ったが、かなり生活にも慣れたのか、現在はバリバリ仕事をしている。実際、あんまり帰って欲しくない(戦力だから)。

今日の料理は事前にリクエストしたとおり、マトンのカレーとチキンのカレー、それからナンとプラウだ。あとヨーグルトベースのカレーもあった。味はかなり美味い。どれもパキスタン風の味付けだが、スパイスの方は当然気合を緩めているようだ。

食いすぎて動きが緩慢になった。あと、酒の入らない忘年会は、生涯初であった。

2002年12月20日

今日は大物機器架台の図面・計算書発行日でした。って、結局発行間に合ってねぇー!

さて、私は毎朝ラジオの爆音で起きるのだが、今日はマライアキャリーの「恋人達のクリスマス」がラジオで流れていた。ネクタイを締める手を止めて、思わず聴いてしまった。

I don't want a lot for Christmas
There is just one thing I need
I don't care about the presents
Underneath the Christmas tree
I just want you for my own
More than you could ever know
Make my wish come true
All I want for Christmas
Is you...


アホだな。

と言う訳で、今年も関内のすし屋でクリスマスパーティーをやる日が近付いている。今まで27回に及ぶクリスマスを仏教徒として過ごしている私であるが、その内「特定の彼女と一緒に過ごしたクリスマス」は僅かに二回。高校時代はバイトしてプレゼントを買ったものだ。が、何を買ったか覚えていない...しかし、この時彼女から貰った定期入れは、未だに使っていると言う思い出の品だ。って凄いなおい。もう11年くらい経っているんですけど。

以下、昨年の日記。やはり、クリスマスは無視するより直視するに限る。何しろネタになる。

12月25日(火) こんなイブの過ごし方

まあハッキリ言わせて貰えば、日本でのクリスマスは、子供たちとカップルたちのものである。彼/彼女がいない人に、クリスマス独自のプレッシャーとか無いじゃん。プレゼント何にしようとか、どこに行こうとか、何食おうとか、全然関係無いじゃん。可哀相とか寒いとか痛いとか言う意味で、彼/彼女がいない人にとっても意味のある日という意見もあるのかもしれないが、それでも私の意見は「やっぱ意味ねえよ」というものである。だってさ、意味を考える以前に、彼/彼女がいなかったら、その日に生きていること自体に意味は無いと思わないかい。別にベツレヘムに向かってお祈りする訳じゃ無えんだろ。キリスト者でなくて独り者の人に、クリスマスが一体どんな意味があるのか、考えれば考えるほど分からなくなるんだよ。あまりに意味が無くて。
とは言うものの、結局、電気部のAが召集した寿司食い放題に行った私。以下報告。

集合はJR関内駅北口改札前に午後6時。4時半くらいに、本屋に寄ろうと家を出たのだが、その時同期から電話が入る。「1000円以内のプレゼントを買って来い」という指令だった。

おい、男だけの集まりに、プレゼントは無いだろ。

と思ったのだが、一応儀式と言う事で、伊勢佐木町の有隣堂本店で、タイ語会話を買っていく。タイ語会話の理由?

他意は無い(爆笑)。

関内駅前に着くと、建築部のMに「うおーい」と声を掛けられる。何か、途端に気持ちが沈んでしまった。その後も、ポツポツと集まり始める同期たち。

忙しいらしくて、結構出社しているようだ。会社から来ている奴が多いのだ。いや待て、恐らく調整すれば、この日に出る必然性は無い筈だ。例え忙しくともだ。

寿司屋に向かう。食い放題の寿司屋で、最初は家族連れが多かったのだが、どんどんカップル率が高くなっていく。そんな中、妙に迷惑なくらい盛り上がっている男6人。プレゼント交換の仕方で揉めに揉めていたのである。

最初、「ジングルベル」の音楽に合わせてプレゼントを6人の間でグルグル回し、歌が終わった所で持っているプレゼントを貰う、というものを提案した奴がいた。しかも、「ジングルベール ジングルベール 鈴が鳴る 今日は楽しいクリスマス hey」の「hey」で、その時点で持っているプレゼントを頭上に掲げると言うのである。

寿司屋でだぞ。

本気の大反対勢力が勃興し、結局「古今東西山手線ゲーム」で、負けた奴がプレゼントを引き取るというものになった。それはそれで結構盛り上がったのだが、何しろ周囲の視線が物凄かった。私たちを見ているのは、殆どが女性である。男は見ない。というより、見ようとしない。しかし、女の子は見るのである。それが、もう何と言ったらいいのか、形容のしようが無いのだが、とにかく「凄い視線」と言う他無い。

吐く寸前くらいに寿司を食っていると、先日SとドライブをしたHから電話が入った(注・この日記の巻末を参照)。今会社にいて、これからこちらに向かうと言うのだ。時間制の寿司屋だったし、これで出ることが決定。Hとはイセザキモールの入口で待ち合わせである。

伊勢佐木モールは変なオブジェが入口にあるのだが、それに寄り掛かっている渋く寂しい格好で待っていたHと合流。入ったのは事もあろうか、伊勢佐木モールに入ってすぐ左にある、「かもん」。この時点で7人になった我々だが、時間はもう10時前だったし、日も日なだけに、店も店なだけに、7人でも余裕で入店できた。

色々話していたのだが、その時、今デートをしているS(ドライブでサングラス)の男に電話をしようという提案が立ち上った。

Hがワンギリ。

その数十分後、Sから電話が入る。電話の内容は「今から送っていくんだよ」と言うもの。Hが言うに、「何か完全に余裕のある語り口調だった」とのことで、それはそれで盛り上がる。数人以外。

彼女を送ったSが、その後この関内の「かもん」にやって来た。いや、横浜ってのは結構狭い街で、こんな風に出来るんですよ。俺だったら絶対来ないけど。

Sは先週の初デートで成功を収め、このイブの夜に一緒にいることにも成功したのである。まだ付き合っている云々の段階ではないと言うSだが、常識的にイブに一緒にいれば、殆ど当確である。しかも、来週のカウントダウン(@石川町)の約束までしているらしい。コリャ決まった。大体、「かもん」に来た時のSの服装は、いつもと全然違うのである。今日のために5万を叩いて、服を揃えたそうだ(会社の近くにあるJ・CREW)。

しかし、ドライブ中にも一言も声を発しないSは、やはり奥手であり、まだ踏み切れないものを感じていたらしい。そんな中、HがSに詰め寄る。

「もう言っちゃえばいいんだよ、殆ど決まりなんだから(そうだそうだの外野の声)。大体お前は何でそうハッキリしないんだよ。いつもそうだよ。だから、来週で決めるんだよ。向こうだって行こうとか、この前楽しかったね、また行こうねとか言ってんだろ?いいからさ、こうやって…」

愛してるぅ〜 ってさぁ〜いきん 言わなくなったのは

有線で流れるゴスペラーズ「hitori」。滑って立ち上がれないH。

本当にあなたを  愛し始めたから
瞳の奥にある  小さな未来のひかり
切なくて愛しくて吸い込まれてく
.
たった一つのこと 約束したんだ
これから二度と 離さないと
たった一人のため 歩いてゆくんだ
あなたに二度と 悲しい歌
きこえないよぉにぃ〜

結局、私は電車で帰れなくて、タクシーで家まで帰りました(7000円)。

本日、不愉快な二日酔い。
wish you a merry Christmas.

---
Appendix 2001年12月9日の日記

12月9日(日) 忘年会シーズンも終わり

今週は忘年会が月木土という感じだったのだが、赴任帰りの先輩と飲みに行ったり、他のプロジェクトに移る同期を上司と送ったりで、結局月水木金土が飲み会であった。しかも月曜と土曜の夜は同期宅泊。新婚宅に週二度泊まっている。

昨日は同期の忘年会。1次会は関内のちゃんこ料理屋で午後6時から、2次会は桜木町の魚民で午後8時半から、3次会は桜木町の中華料理屋(よく行く所)で午後10時半から、で終了は午前1時半くらい。タクシーで同期宅へ4人で押しかけて、午前3時就寝。

3次会(参加人数7名)において、興味深いネタがあった。

同期HとSのドライブの話

同期Hは、ちょっと狙っている女の子をドライブに誘った。向こうが友達を連れてきたので、こちらも友達を連れて行こうと言う訳で、S(彼女いない歴26年)を誘ったらしい。

1. サングラスについて

「こいつ(Sのこと)、合コンとかでもあんまり話さねえんだけどさ、その日はいきなり助手席に座ってきて、おもむろにサングラスをかけて腕を組んで、一日中その姿勢で口を利かないんだよ」

という、Hの報告がなされ、サングラスについての意見が飛び交った

意見と議論

同期A:多分S一流のカッコつけだったんじゃないのか
同期B:照れ隠しか?

これが二大意見であるが、S自身は酔いまくっていて何を言っているのか判別できない。取り敢えず結論流局。

2. ガンズのCD

Hはそれでも、女の子たちと運転をしながら会話を続けていた(その間もSは腕を組んで無口)。その中で、女の子の一人が高校時代にバンドをやっていて、ガンズ アンド ローゼスとかをコピーしていたらしい。しかし、ガンズのことを殆ど知らない同期Hは話題に詰まり、困ってしまったらしい。相変わらずSはサングラスをして、一言も口を利かない。Sもガンズを知らないのだろう。

話は進んで女の子たちを帰した後、Sが衝撃的な言葉をHに向かって浴びせた。

S「俺、今日ガンズのCD持ってきてたんだよね」

H「.....!何で出さねえんだよ!」

意見と議論

同期A:Hがガンズを知らねえのに、SがいきなりガンズのCDを出したら、Hの立場が無いとSは判断したんじゃねえのか?余計な判断だが。
:それまでサングラスして腕組んで何も話さねえ奴が、おもむろにガンズのCDを出したら、俺ならみんなが引くと判断するね。第一、何でドライブにガンズのCD持って行くんだよ!

取り敢えず同期Aの意見が統一見解になりかけたのだが、Sは相変わらずの状況。紹興酒のビン蓋を私がSに投げつける。

3. JR横浜駅の改札口

あんまり楽しくないドライブも終わり、彼女たちを横浜駅で降ろす事になったHとS。だが、Hは車を止める良いポイントを見つけられず、仕方なく相鉄横浜駅側に車を止めた。「ちょっとJRの改札まで遠くなっちゃったけど、ごめんね」と彼女たちに軽く謝るH。その際はSも「じゃあね」という声を発したそうである。彼女たちは、横浜駅の周りをぐるっと回って、西口の改札から帰っていったらしい。その際のSの一言。

「西口まで回らなくても、相鉄側にJRの改札あるんだけどね。」

意見と議論

同期A:これもHが知らないのにSが知っていたらHに悪いと思ったんだろう。
同期B:もはや救う余地無しだ。

そこへ来て正気を保ち始めたSの一言

「いやあ、あそこから西口まで歩いて行ったって、数分しか変わらねえだろうから、いいかなと思って」

参加者全員からおしぼりが飛ぶ。私は最大級の「死ね」という罵声を浴びせ掛けた。居酒屋じゃねえっての、ここは。

そのSだが、来週合コンで知り合った女性と初デート。結末や如何に。クリスマスはもうすぐそこに!
---

と言う訳で、忘年会シーズンの締め括りに相応しい1日でした。

2002年12月21日

本日は池袋の芸術劇場にコンサートを見に行った。私が塾講師バイトをしている時受付嬢をしていたNさんから誘われたのである。尚、Nさんとは恋愛関係へったくれとかは全く無い。何故なら、Nさんの彼氏の伝手で今回のコンサートに誘われたからだ。今回のコンサートにはその「彼氏」も出ている。

池袋に来たのは数年振りであるが、駅前が随分小奇麗になっている。こんなのは池袋じゃない。しかし相変わらず人は多い。どうして都内はこんなに人まみれなんだ!

芸術劇場はすぐに分かった。と言うより、ここが分からない奴は相当ヤバイと言うくらい駅前にあるのだが。で、Nさんの登場を待つ(時間が読めずに早めに来てしまった)。時間になってつかまらないので電話をすると、すぐ近くにいた。Nさんは髪型が大幅に変わっていて、最初声をかけられても気が付かなかった。尚、私は中学生の頃から殆ど変わっていないので、すぐに分かったみたいだ。

Nさんと会うのは卒業以来実に3年振りくらいだ。当時の塾職員の中でも「常識人最右翼」と言う感じだったが、プロの音楽家と付き合うようになろうとは、結構意外である。もう4年も付き合っているらしい。まあこんなことはどうでもいいや。

本日のコンサートは合唱コンサートで、まあ私にとっては初めての合唱モノとなる。って、まあクラシックのコンサートなんてこれで生涯3度目と言う程度ですけどね。メインはメンデルスゾーンである。これとて、音楽の時間に習った程度で、曲など1曲たりとも知らない(と思う)。

最初は荒川区何とか児童合唱団であるが、一曲目が「ぞうさん」。二曲目は「おじいさんの時計」。突っ込まざるを得ない選曲であったが、三曲目にしてようやくクリスマスソングになった。きよしこの夜だったかな。

次はアマチュア社会人合唱団が大挙して出てきて、筑後川と言う日本の歌曲をやる。当然知らない。しかし、歌っている人の顔を見ていると、何とも気持ち良さそうだ。いや、別にエクスタシーとかじゃなくてだな。

休憩を挟んで、次はベートーベン。バイオリンのソロがあった。本日で最も良かったのはこれかも知れない。

最後がメンデルスゾーン。場内のスクリーンに、この曲の背景が映し出される。で、メンデルスゾーンがユダヤ人だってみんな知ってたか?俺は知らなかったぜ。改宗キリスト教徒の子孫らしい。だが、内にはユダヤ人としてのアイデンティティを持っており、その葛藤の結果生まれたのがこの曲らしい。まあ、ハッキリ言って分からなかったが。歌詞はドイツ語だしよう。

都合によりNさんの彼氏に挨拶は出来なかったが、その後はNさんと東武の8階だかにあるスペイン料理屋にてメシを食う。こんなところで食事をするのはいつ以来か記憶に無いなあ。手当たり次第頼んで、腹いっぱいになったが(美味かった)、二人で12,000円くらい。高いのか安いのかよく分からないが、私の普段の行動からすると、高い。二次会まで行ってこの位と言うのが私の基準である。

彼氏の家に行くと言うNさんと別れて、私は一人で帰った。週末の「かなり混んでいる田園都市線from渋谷」に乗り、やっぱり都内は人が多くてヤダ、などと再び思った。

ああ、何か本日は久し振りに常識的な休日を過ごしたなあ。明日はベルリッツだ。でも雪になるんだよなあ...

2002年12月23日

今年の下半期初の3連休であるが、本日は出社した。クリスマスにはあまり行きたくないところにある会社だが・・・相変わらず楽しげな雰囲気の街だ。しかし、2年前に見たときのようにカップルまみれと言うわけじゃなく、家族連れがかなり目立つ。アニエスbに群がる女とか。おいおい、男はいねえみたいなだな君達、寒い奴らだな、と言う感じか。俺は出社してるけどさ。ああ、女はいないさ。

帰りの地下鉄。私はジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」と言う、戦後日本下世話物語のようなものを読んでいたのだが、隣の若い女二人がうるさくてあまり集中出来ない。女達は3単語に一つは「超」を付ける。お前の生活はそんなに何事も普通を超越しているのかと突っ込みたくなる。突っ込まないが。その中で、隣に座っていた女がこう言った(しかも傍若無人なデカイ声で)。

「何かさー、○○くんってさー、恋愛対象にはならないけどすっごくいい人だよね。私と話しているときとかぁー、携帯切ってくれるんだよ。」

それを聞いて、「ああ、それは気配りの利く奴だな」と感心してしまった。どうも二人の共通の男友達らしく、その話題で暫く盛り上がっていた。

私は座っていたのだが、ふと対面の窓を見ると、反射して私が映っている。勿論隣の女も映っている。その時、「恋愛対象にならないのはお前の顔だよ、全く」と思わず心の中でつぶやいてしまった。

いや、意識して言ったんじゃなくてマジで反射的と言う感じで叫びが出てしまったんだよ。ほら、熱い鍋を触ったら、脳に行く前に脊髄で信号が戻ってきて、「超」緊急的に手を引っ込めるってあるじゃないですか。アレですよ。角を曲がってそこに体長2mを超える羆がいたら「うわっ」くらいの声を上げるじゃないですか。そりゃもう、その後に「何て失礼な考えが出てきちまったんだ」と猛省しているわけなんだよ。いやでも、仕方ないじゃないか、反射なんだから。第一、俺は女性の顔に対してそんなにうるさく言う方じゃないじゃないか、ってそれがこの事態をさらに悪化させているわけなんだけど、ってダメだろそれじゃ。

つうわけで、どなた様もメリークリスマス。

2002年12月24日

遂にやって来たネタまみれの日、クリスマスイブ。しかし、週明けで時間が作れなくて、結局寿司を食いに行くことは無かった...

夜、仕事をしていたら、先輩Sさんの彼女のTちゃんからメールが入る。指示は「今すぐ来るように」と言うもので、Sさんに電話して桜木町の庄屋に来いと言われる。

「メリークリスマース!」

と言って乾杯。

wish you a merry Christmas

2002年12月25日

本日はパキ子会社お休み。クリスマスだからじゃないぞ。国父ジンナーの誕生日だからだ。つうことで、メールが全然来なくて楽な一日だった。はあ、しかしメールだけのやり取りじゃ正直限界感じてるのよね。やっぱ来月一度行かないとダメだなこりゃ。電話が出来ればいいんだけど、簡単に会社の専用線敷設を認めないのよ、あの国は。不便だな。

さて、今年も残すところあと1週間となった。激早だな。しかも勤務日はあと1日半しかない。金曜は納会ってことで、半ドンなんですよ。いまどき半ドンなんて単語を使うのかは不明だが、とにかく午後は会議室でビール飲んで寿司食って終わりだ。しかし、ハッキリ言って全然嬉しくない。何故なら全然仕事が終わっていないからだ。大体、入社以来「年内にきっちり終わるべき仕事が終わっている」と言う状況を経験したことが無い私は、今年だって全然終わっていないんですよ。そうですよ、けじめの無い男ですよ。ああ、やはり経験不足の私とパキ子会社のコンビは良くなかったのか...第一、パキスタンは新暦の正月休みなど概念自体が全く無いので、1月1日も通常勤務である。だから、絶対こっちに連絡を取ってくると思うんだよな。とにかく出来るだけ「休み中コンタクトを取らなくて済む方法」を纏めて、出来るだけ休む。まあでも、俺の家のアドレスくらいは教えなければならないかな。

さて、その正月。一体何をするのかと言うと、特に予定が無い。実はカンボジアに行きたいなどと思っていたのだが、何だか疲れちまって行く元気も無い。今年の正月は出来るだけ休もうと思う。旅行するとかアイディアも出ない。いいんだよ、旅行なんてしなくたって年明けまたパキるんだから。

2002年12月28日

ついに今年の(公式)出勤日が昨日で終わった。昨年の大型年末年始連休は全日休んだ私であるが、今年は設計業務がピークであり、かつパキスタンは全然年末年始を休まないと言うことで(つまり業務進行中)、何日かは出ると思う。

さて、まず昨日。昨日は「納会」と言うものがあった。これは昼から会議室でビール飲んで年末の挨拶をすると言うイベントである。すでに最若手最古参レベルに達している私は、ビールを買いに行ったりする。

一応、部の納会以外にも顔を出したりするのだが、午後3時には殆ど納会は終了し、みんなはぞろぞろ帰っていく。私は夜からベルリッツのレッスンがあるため、一人オフィスに残って予習。あー、眠くなってきた。

ベルリッツのレッスン終了後、後輩のHに電話をすると、まだ野毛で飲んでいるらしい。先輩Sさんと、Sさんの彼女Tちゃんも一緒である。と言う訳で、家とは反対方向の桜木町に向かい、彼らが飲んでいるバーに向う。

野毛は納会終了後の(ウチの会社の)サラリーマン達が飲んでおり、行きつけの中華料理屋(野毛に多数ある汚ねえ中華料理屋という訳で、我々は上司から若手まで「キタチュー」と呼んでいるが、安くて美味い)も、明らかにウチの社員で一杯だ。キタチューを横目に、私はSさん、Tちゃん、Hの飲んでいる都橋(と言う大岡川に架かる橋;この橋を越えると福富町と言う風俗街が広がっている)のたもとにあるバーに向う。このバーは一度だけ来たことがある。イタメシつまみ(値段高め)を出す飲み屋だ。

SさんとHは昼から飲み続けているため、若干疲れ気味であるが、私はレッスン終了後で結構疲れている。しかし、当然まだ飲める。ビール頼んで、カクテルまで頼んでしまう。で、まあ色々喋る。

今年一年はあっという間だった。現在やっているカザフスタンのプロジェクトの仕事は昨年末に声をかけられ、年明けには正式に参加を指示された。Sさんは当時現場にいて、戻ってきてからの合流であった。Sさんは1年上であるが、現場が長かったことから面識が無いというレベルにあったため、今年仲が良くなった先輩と言う感じである。Hは新入社員だから、当然今年仲良くなった後輩である。という訳で、今では仲の良いこの社員達は、昨年はあんまり知り合った(もしくは全く知らない)者同士では無かった。1年は短かったが、こういう風に係わり合いを持って親しくなる人が増えたと言うのは、やはり1年と言う時間は長かったのかな、とも思う。この間、私はパキスタンに2ヶ月行って、Sさんはリビア2ヶ月、カザフスタン2ヶ月行っていたと言うのを考えても、やはり1年は長かったのだろうか。

「いや〜、今年一年振り返ってどうよ?」

と私が下らない会話の合間に言ってみた。すると、後輩Hが

「僕はこの会社に入ってやっぱり良かったなと思っています」

などと話し始める。実は一昨日、Hは出身大学の学生(何と8名も)からOB訪問を受けている。その時、Sさんと私が時間を作って彼ら相手に質疑応答もやったのであるが、その時Hは、後輩に話しながら1年を振り返ったと言う。どうも彼にとって、この一年は結構充実していたようである。暑苦しく語るHを見て、まあ良かったなあと思う。

じゃあ私はどうかと言うと、正直言って今年の1年は自らの未熟さがモロに出ると言う連続だったように思う。3年目に入り、私に任された仕事はそれ以前とは責任も範囲も大幅に大きく重くなったものであったが、人の上に立つとか、組織を上手く遣り繰りするとか、そう言うレベル以前の問題に直面することが多かった。そういうレベル以前の問題とは、結局エンジニアとしての基本的な知識がまだ足りないというものである。それ故立ち往生する事も多く、それによって「人の上に立つ」とか「上手く遣り繰りする」と言うことが出来なかったと思う。結局、私の仕事は何をするにしても「技術的な知識」が基礎になるというのを、身をもって理解したという、そういう一年だったのだろう。未熟さ=基礎が成っていない、と言うのをよくよく自覚した一年だったと言う訳ね。

まあそんな話を絡めながら、1時半にはバーを出て解散した。最終出勤日と言うことで、いつもは簡単につかまるタクシーが、全くつかまらない。仕方なく桜木町のタクシー乗り場に行って、行列に40分くらい並んでタクシーに乗り込んだ。

翌日の今日、起きたら午後1時半。ダラダラした後で起きて、青葉台の石丸電器に行く。別に何を買うという感じでも無かったのだが、CDとかDVDでも買おうかなと思って。

CDを眺めていたら、柱に諏訪内晶子のポスターが貼ってある。これがまた無茶苦茶美人で「うーん、諏訪内晶子のCD買おうかな」と思って衝動買い。

隣に出来たブックファーストで、「中央ユーラシア史」を購入。正月に読もうと思っている。ほら、来年はいよいよカザフスタン赴任ですから。

帰りに地元のセブンイレブンで、文庫化がスタートしたゴルゴ13を買ってしまう。レジで年賀状を思い出したように購入。あー、年賀状全く書いてねえ...

2002年12月29日

今年も本日を入れて、残すところ僅か3日となった。という訳で、そろそろ今年を振り返ってみようと思う。

何か、あんまりパッとしなかったな...

以上。以上であるよ。もう以上より多くの感想は無いって感じ。

本日は朝からベルリッツのレッスン。宿題ってのをやってなくて、朝早めに起きてやったものの、今日はそこまで行かなかった。で、横浜駅西口にある「ビックP-KAN」でマウスを買う(会社に置いてきちまった)。

出社。誰もいない。おい、マジで誰もいないのかよ。パッとしなさ加減がここでも際立つ。しかし、上司Tさんがやってきた。「おい、日本には正月と言う休みがあるのを知らないのか?」と言われた。そっくりそのままお返しした。

腹が減った。ああ、そういえば昼飯食ってないじゃないか。という訳で、よく行くラーメン屋に行く。あのラーメンあんまり好きじゃないんだけど、何か他に適当なところが無くて。ニンニク入れたら美味くなるだろうになあ...

CD屋に行く。で、また買っちまったよ諏訪内。こりゃマズイ、はまりつつある。今日買ったのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64って奴とチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35って奴が入っているCDで、録音は2000年9月7日-8日とある。諏訪内晶子28歳の作品か。まあ、当然メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲へったくれなんて曲名言われただけじゃ分からないんですよ、素人には。でも、聞いてみたら、おおこの曲か、と言う感じで知っている曲だった。聴きながら仕事。CD3回くらい回しちゃったよ。いや、美人と言うだけじゃないぜ。素人でも感じる。こりゃスゲエCDだ。多分この分だと、正月休み明けるまでに諏訪内アルバム全部買ってるだろうな。

そう言えば、今年の春先に早稲オケのコンサートに行った頃から、クラシックを聴くようになったんだな。齢27にして初めてね。今年の良かった点はこのくらいかしら。

2002年12月30日

後輩原田の急病により、飲み会は豪快に中止。という訳で、本日はダラダラ出社。

今日はまず、横浜ワールドポーターズに向う。HMVがワールドポーターズの中にあるのである。何か一昨日くらいに後輩に聞いて知ったんだけど...いやほら、ワールドポーターズなんて行きませんからね。海隔てた向こうにあるんですから。

HMVって、どの店も同じような作りなんだなあ。ウチの近くの都筑阪急の中にある奴と殆ど変わらないよ。で、クラシックのコーナーへ。何を買うって、当然諏訪内晶子だって。

全然無いよ。

いや、クラシック自体が無茶苦茶少ないな。売れねえんだろうな、クラシックって。しかもこんなところじゃな。仕方なく店内をブラブラして、何か買おうかと見て回る。あ、ニルヴァーナのベスト盤が出てる。ってだいぶ前なのか?まあ全然詳しくねえけどさ(因みに買ってない)。

一旦会社に行ってカバンを置いて、まず横浜銀行へ。金を移動しなければならん。カード引き落とし分のな。

次に本屋へ。吉村昭の生麦事件を買った。いつ文庫化されたんだよ、全く。言ってよ。

次はCD屋。買ったよ諏訪内晶子。

その次は無印。CDラックを買った。音楽なんてあんまり聴かないんだけど、何か最近CDが本棚から溢れるようになった。32枚まで入れられる背の高いフレームで組んだCDラックだ。

会社。来てる来てる、パキスタンから。一つ一つ返信。で、仕事。全然やる気出ない。はー、もう帰ろっかな、と思っていたら、パキスタンからチェック依頼メール。もうこんなの適当でいいかな、と思ったらそうは行かない代物だった。こんなもん帰ろうかなと思った矢先に送ってくんなと。早く送れボケが。

結局夜9時半に会社を出た。外に出て、会社のビルを眺める。流石に殆ど電気が点いてない。それを見て、

「つくづくパッとしない一年だったなあ」

と思う。

帰宅して、早速CDラックにCDを詰めていく。すぐにいっぱいになったが、入りきらないCDはあまり無い。やっぱり俺はあんまり音楽聴かないんだな、と思う。CDなんて普通100枚単位で持っているもの...でもないのか?よく分からん。DVDが入らないが、まあDVDは本棚でいいや。で、溜まった土木学会誌とコンクリート工学を処分。

てゆうか、年賀状書いてない。とりあえず部長を筆頭にした部の偉い人3人と、学校の先生には書かねばならんなあ。

うわぁ〜、大晦日から元旦にかけて雪なの?

2002年12月31日

昨年の大晦日は突然、大学時代の友人から電話が入って、4人で横浜で飲んだ。「横浜港に停泊中の船が一斉に汽笛を鳴らすあれを聞こうぜ」と言うコンセプトで集まったのだが、2002年が明ける正にその瞬間、気が付いたらまだ関内のかもんにいたのを覚えている。何か飲んでたら店員がクラッカーを配り始めてさ。何ですかこれはと聞いたら、年が明けたら一斉に鳴らしてくださいとか言われてさ。おいおい、随分早くから配るんだなあ、とか思って時計を見たら、何だか年明け5分前。汽笛はどうする。

で、ちょうど1年が経とうとしている今日、4人のうち2人は1年が過ぎる内に結婚してしまった。という訳で、この4人に本年の年末の集まりがある訳も無く、私は静かに2003年を迎えんとしている。

2003年か。

なんかさ、イマイチ割り切れないものを感じないか?いや、2003ですよ。2003って数字。これ素数だよなあ。(という訳で、エクセルで確認)。ほら、やっぱり素数だよ。どうも割り切れない数字ってあんまり好きじゃねえんだよな。37とかさ。5とか3ならいいんだけど、13とか17とかって、何かやなんだよな。√67とか答えが出るとさ、何か間違えてんじゃないかな、とか思わなかったか、理系諸氏。実は√64=8になるんじゃないかとか、余計な検算したりして。

試みに、2003以降に素数の年があるかと言うと、私の作ったハイテクエクセル素数診断プログラムでは、何と2011年まで無いのである。唯一素数っぽい2009にしても、何と1と2009を含めて6つもの約数がある。ずばり、約数は1, 7, 41, 49, 287, 2009である。2009年に受験がある人。中学受験・高校受験・大学受験問わずなんですが、2009=41×49であることを知っておくと良いでしょう。私も知りませんでしたが...

さて、2003年以前で素数の年は一体いつなのか。折角私の「IT駆使によるハイテクエクセル素数診断プログラム」があるので、ちょっと調べてみる。って、多分1999年なんですけどね。

(計算)

やっぱり1999年だよ。因みに最も約数が多いのは、当然ながら2000年で20個ある。2000年は割り切れまくる年だったのだろう。じゃあ、割り切れない1999年を振り返ると、一体どうだったのだろうか?

1999年は、大学院修士2年生だった。無茶苦茶忙しかったな。バイトも忙しかったし。しかし、首尾よく会社の内定を貰ったな。あんなに不景気だったのに、よく取ってくれたよ今の会社。年は割り切れなかったけど、私自身の生活はまあまあ割り切れることが多かったのだろうか?まあ、それ以外は研究室での実験とバイト先の授業しか記憶に無いけど。意外と灰色の一年だったかな。専攻も灰色のコンクリートだしなあ。別に1999年に限った話じゃないけど。

そろそろ2002年が明けますが、年は割り切れなくても、皆様にとっては割り切れることの多い、さっぱりした1年になるよう祈念しております。尚、平成15年と言うのも、約数がありそうで実は1と3と5と15しかないと言う、案外割り切りにくい数字ですね。まあそうは言っても、皆様にはスッパリと割り切れることが多い1年になるよう、祈念しております。結婚するとか別れるとか会社変えるとか、そんな割り切るなら、この割り切れない2003年が良いのではないでしょうか?

全然意味分かりませんがね。

じゃ、どなた様も良いお年を。

2003年01月02日

明けましておめでとうございます。

とか言うよな、一応。

さて、毎年1月1日は父方の叔父叔母家族がやって来る。まあ父親の姉さん一家なんですけどね。

この父親の姉さんのご主人、つまり私と血の繋がりが無い叔父には、昨年偉い世話になった。え、何の世話になったかって?そりゃあんた、私がパキスタンで血便出した時、適切な助言をくれたのはこの叔父だったわけですよ。いやー、昨年ほど親戚に医者が要るって素晴らしいと思ったことはありませんよ。

で、まずは長津田にある私の爺さん(私が小学校2年生の時に、享年72歳で亡くなりました)の墓参り。いつも墓を参るとき、私は思うことがあるんですよ。

「ああ、爺ちゃんが死んで、今年で何年になるのかな(20年目)。」

この爺ちゃんのことは、今でもかなり鮮明に覚えている。よく野毛山動物園に連れて行ってくれたものである。爺ちゃんはかつての東急の電気技師で、私の血筋の中で唯一のエンジニアである。恐らく、私がエンジニアになったきっかけを生涯最初に与えたのは、私の爺さんである。これはいつか語ろう。

で、次は檀家になっている大林寺に初詣。で、次はおみくじ。

小吉。

で、その次は毎年恒例のレッドロブスター。何故か叔父叔母家族が来る時は、いつもレッドロブスターである。この日くらいしかロブスターなんて食わないんだけどね。因みに、上司Tさんに「毎年正月はレッドロブスターに行くんですよ」と言うと、「ロブスターって、一体何者なんだ?ありゃ海老なのか?ハサミあるじゃん。あれさ、ザリガニの一種なんじゃないの?」等と言ってくる。そんなの土木専攻の俺には分かりませんよ。

その後、何故かカラオケに行って、取り合えず尾崎豊と吉幾三を熱唱。いや、結構歌には自信があるんですけど、私の父親の松山千春と新沼謙治には敵わなかった。やっぱ、歌は一生父親に敵わないんだろうな。因みに、最近はカラオケと言ったら100%ネタしかやらない私であるが、一応身内には弾けているところを見せていないので、「Long Way Home」とか検索しちゃっても間違えて転送なんてしない。

で、叔父叔母家族が帰った後、私はちょっと寝て、で、これを見たわけですよ。

★七人の侍DVD購入記念-第一回サムライ映画DVDでハシゴ大作戦★

その一 七人の侍

野武士に襲われる農村を守るため、割の悪い役目を引き受けた七人の侍の物語。日本が誇る巨匠・黒澤明の超代表作!とか言われているが、ハッキリ言って重要なのは、俺が観て面白いか面白くないかと言う問題だけである。だってほら、娯楽でしょ。で、面白いか面白くないかと言うと、面白い。そりゃDVDも買うっちゅーねん。

感想書いたらキリが無いので、今回「ん?」と思った点を一つ書きます。

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私の好きな洋画に「BRAVE HEART」と言う、メルギブソンが監督やった映画があるんですよ。で、かつて作っていたホームページで、こんな感想を述べたことがあるんですね:

ハリウッド映画を観ない、などというカッコつけたポリシー(ポリシーとカタカナ表記すると何だか笑ってしまいます)を持っている訳では無いのだが、ハリウッド映画を映画館で観ることは最近は無くなりつつある。理由は簡単で、あとでビデオで見られるからである。ミニシアターでやっているような映画も最近ではビデオ化される傾向が強いが、全てビデオ化される訳では無い。しかし、話題のハリウッド映画はほぼ絶対ビデオ化される。時間の無い社会人として、「将来ビデオ化される作品を、わざわざ土日の時間を削ってみるのは勿体無い、他にも観たい映画はあるんだ」という事情が第一であるのだが。「ビデオで見るのと映画館で観るのは迫力が違うからダメだ」と言われる向きもあるかと思うが、私のノートパソコンの14.1インチ(しかもワイド画面仕様だとさらに小さくなってしまう)の画面でも、良い映画はまるでその質を損なわずに観ることが出来る。まあ、私の場合ですが。その好例は、このブレイブハートである。実はブレイブハートはかつて劇場で見たことがある。だが、DVDでハナクソのようなパソコン画面で見ても、ブレイブハートの迫力は(私には)強烈に伝わってきた。その、ブレイブハートについて感想文を書こうと思う。

と言っても、長い物語だし色々追って行くと大変なので、私が最も印象深く感じた場面のみについてだけ、ここで述べたいと思う。いつも感想というより研究のようになってしまうこのかんそうヴんのコーナーだが、今日はその際たるものになる予定。

ブレイブハートは95年度のアカデミー賞受賞作品である。スコットランドの反英の英雄、ウィリアム・ウォレスの伝記的物語を、両親がスコットランド系/アイルランド系というケルト系アメリカ人俳優、メルギブソンが監督から主演まで、色々やっている。

で、DVDを買って、4回くらい観たのだが、私が最も印象に残っているシーンは、スターリングにおける英軍との戦いで、メルギブソン扮するウォレスがスピーチをするシーンである。他の感想文系のホームページを見ると、ほぼ全ての人が、最後の「ふりーだぁーーーーむ」とウォレスが叫んで果てるシーンを「もう涙が出て仕方なかった」的に書いている。感動するシーンとしては、私のとってもこの最後のシーンである。だが、印象に残っているのは、スピーチのシーンだった。

ゲリラ戦を指揮・展開してきたウォレスは、遂にエジンバラの西北西70km余、グラスゴーの北東50km余のスターリングで、英軍との本格的な戦闘を指揮する。が、見るだけで吐き気を催すような大群の英軍を前に、スコットランド軍は怯み、何と帰ろうとする兵士まで現れる。そこで、ウォレスの主力軍が到着するのだが、その際にウォレスが士気高揚のためのスピーチを打つのである。

スピーチの内容を、メモ書きした。下記のようになる:
(ウォレス、以下W) Sons of Scotland! I am William Wallace.
(Scotland兵、以下S) William Wallace is seven feet tall.
(W) Yes, I've heard. He kills men by hundred. And if he were here, he'd consume the English with fire balls from his eyes, and lighting form his arse.
(Ss) HA HA HA!(兵士大受け)
(W) I am William Wallace.
And I see
a whole army of my countymen hare in defiance of tyranny.
(一同沈黙)
You've come to fight as free men
and free men you are.
What will you do without freedom?
Will you fight!(*)
(Ss) (No!の大合唱)
(S) Against that? No.
We will run, and we will live.
(W) Aye. Fight and you may die.
Run, and you'll live.
At lease a while.(**)
(兵士、この言葉にやや沈黙し、ウォレスを注目)
And dying in your beds, many years from now,
would you be wiling to trade all the days from this day to that
for one chence, just one chance!(***)
to come back here and tell our enemies
that they may take our lives but they'll never take
our freedom!
(Ss)呼応の大合唱

字面だけで追うと、よく分からない。しかし、私は今上記のモノを書いていて、途中からやはり興奮してきた。そのシーンを思い出したからである。

最初(*)の所、ここは聴衆である兵士と、スピーカーであるウォレスの気持ちが通っていない。つまり、ウォレスの呼びかけは全く兵士達に届いていない。スピーカーであるウォレスの気持ちが先走っていて、ついていけない兵士が拒絶反応を示しているのだ。Will you fight!と言った際、兵士たちからブーイングとも取れるNoの大合唱が起こったからまだ良かったものの、このWill you fight!を聞いた時点で、帰ろうとする兵士が出てきてもおかしくない、それほどスピーカーと聴衆の場の共有は出来ていなかった。このような時、スピーカーは聴衆に歩み寄らねばならない。

このスピーチの次の山は、(**)である。兵士が「逃げれば生き長らえる」と言った際、ウォレスが肯定しつつ、ややposeを置いてAt least a whileと言う。それで、兵士たちの態度が、若干変わるのである。その後、ウォレスは平定なデリバリーで、しかし力強く、and dying in your beds, many years from nowと一気にスピーチする。そして次のsentenceの最初の語wouldから徐々に力が入り、all the days from this day to thatとこれも一気にスピーチする。(**)の瞬間、

そして(***)である。このスピーチ最大の山場は最後のour freedom!であるが、この(***)でスピーチの勢いが断然上向く。つまり、アドレナリン分泌の度合いが一気に上昇し、そして兵士たちの士気もグッと上がっている。ここへ来て、兵士の気持ちは完全にウォレスに追いつき、to come back hereからthey'll never takeまで一気にデリバリー、そして最後のour freedom!で兵士たちとウォレスの心は最高潮に達し、戦いへの準備が完了する。映画を見ている私にしても、いよいよ戦闘シーンに行く準備が出来た。つまり、ウォレス、兵士、そして私が三位一体となった瞬間、それがここである。

スピーカーであるウォレスのスピーチ中における感情を、時系列にして追ってみよう。

@登場のシーン (威勢がいい)
Afree menがどうのと、自説を展開 (聴衆ついて来ず)
Bwill you fight!と呼びかけるが、拒絶反応によって低下
Cat least a whileで、ややカーブが上向く
Djust one chance! 兵士がついてきた
E戦闘準備完了

私が最も鳥肌が立つシーン、それは上のDである。テンションが最高潮に達するEにはまだ時間があるが、兵士の心を掌握するシーン、これがDである。完全に勢いを付いているものを最後まで持っていくのは、比較的容易である。難しいのは、今まで止まっていたものを動かすときである。この、今まで止まっていたものを動かすドライブ点、これがDである。兵士はCのat least a whileのシーンで、静の状態から浮かび上がる気配を出す。それを動かすシーン、それは繰り返すが、Dである。C、Dを経れば、Eに持っていくことはもう難しくない。

このスピーチを終え、ウォレスの同志であるアイルランド人のスティーブンのところに戻ったとき、スティーブンは「fine speech」と言って迎える。このときのスティーブンの顔は非常にリアルである。上手く説明できないが、凄いスピーチをした人間に対する顔である。このシーン、私の勝手な印象なのだが、スピーチの偉大さを物語っている。それが、このスティーブンの顔であると思うのだ。

スピーチは双方向のコミュニケーションである。確かに話しているのはスピーカーだけのときが殆どだ。だが、このようなシーンにおいて見れば分かるように、スピーカーと聴衆は完全に場を共有している。以心伝心までは行かないものの、このような成功しているスピーチは、相手である聴衆が共感を得ている、共感を得るスピーチをしているスピーカーは、聴衆の求めるものを理解している、と言う点で、コミュニケーションに成功していると言えるのだ。

結局、スコットランドはこのスターリングの戦で英軍に大勝する。実際の歴史では間に川があって、橋を渡るのにもたついていた英軍をウォレス率いるスコットランド軍が急襲して勝利を収めると言うものらしいが、この際史実はどうでも良い。問題は物語に興奮できるかである。

ここで、私はスターリングの戦において、映画とは違う史実があると述べた。BRAVE HEARTにおいて、スコットランド軍がイングランド軍に勝利したのは、メルギブソン扮するウィリアム・ウォレスが、英軍の重騎馬部隊(とでも訳せば良いのか?)の突撃を阻止するために、木で作った長槍を以って全体で応戦すると言う戦術を取った。どうやら、これは史実とは異なっているらしく、メルギブソンの創作なのかな、と思っていた。しかし、本日七人の侍を見て、「おいおい、ひょっとしてメルギブソンは、このシーンからあのシーンのヒントを得たんじゃないのか?」と思うところがあった。

志村喬を大将に頂く「七人の侍」部隊であるが、彼らの戦術で一シーンを築いたのは、「槍襖と袋の鼠」作戦である。要点としては以下の通りだ:

村を野武士の襲撃から守るため砦を築いて厳重に防御を固めるかたわら、一つだけ村への入口的に砦の口を開いている箇所がある。そこは志村喬が「わざと」弱くした村の口で、敵の野武士が主力がこの弱い口に集中するのを計算に入れて、そこを村にとっての主戦場とすることにしている。

城の一部分を弱くして、敵の主戦力をそこに集中させ、双方にとって決死の場とする戦略は、歴史小説などを読んでいるとよく目にする。これが七人の侍でも用いられていた。とは言うものの、戦闘経験の乏しい農民を率いて、30騎からなる野武士軍団とまともに対峙するのは酷く具合が悪い。そこで志村喬が取った戦略は、「突撃してきた野武士軍団の先頭を走る野武士一騎を村に誘い込む。で、二騎目以降の野武士軍団を、多数の農民からなる槍襖で鉄壁の防御を敷き、村への侵入を全力で防ぐ。これによって、野武士軍団は村へのさらなる侵入を妨げられ、一方村に入ってしまった一騎は、多勢に無勢で村の中でボコボコにされて討死する、とまあ、こんな算段だ。

この騎馬部隊の進入を妨げる槍襖、これが件のBRAVE HEARTで用いられたんじゃないか、と思い至った。

BRAVE HEARTにおけるスターリングの戦であるが、圧倒的な強さを誇る英国騎馬部隊に対して、スコットランド軍が恐れおののいていたのは映画でも知ることが出来る。その時、メルギブソン扮するウォレスは、林の中の木を眺めながら、この木を使って長槍を作ろうと、木を仰ぎながら提案(命令)する。

百戦錬磨の英国騎馬部隊を、長槍で阻止する。このような戦術が西洋においてあったかどうかは私には定かでない。史実でもこの通りで無い。重騎馬部隊を「槍で止める」と言う発想は、あんまり見たことが無い。と言うことはつまり、少なくとも英蘇戦争の中で、この戦術が取られたかと言うと、こんなことは無かったんじゃないだろうか。で、BRAVE HEARTの中でも名場面の一つであるこの「スコットランド版槍襖」は、実は黒澤明の「七人の侍」から来たのではないか、そんな思いを今日「七人の侍」を見ていて感じたのである。

まあ、マッドマックスメルギブソンと話したことがあるわけじゃないので、この点は私の口から何とも言いがたいのであるが、今日「槍襖」のシーンを観て、「何か見たことあるな」と思った私の勘は、全く的外れなものなのだろうか...

その二 サムライフィクション

中野裕之第一回監督作品、SFエピソード1・サムライフィクション。これをはじめて見たのは渋谷シネマソサエティである。今まで見た中で「最もカラフルなモノクロ映画」であるサムライフィクションであるが、七人の侍を見た後、何だか妙に見たくなって、DVDコーナーから引き出してきた(もう手持ちDVDで何度も見てるんですけど)。

初めてサムライフィクションを見たとき、私は見ながら七人の侍が重なってきた。これは、平成の七人の侍なんじゃないか、と。だが、今日見て思ったのは、その当時とは全く逆の感想だった。外見は全然違うな。

SFにおける吹越満扮する平四郎を、七人の侍における木村功扮する勝四郎に連想させることは出来る。SFにおける緒川たまき扮する小雪を、七人の侍における津島恵子扮する志乃に連想させる事も出来る。ある斜面における二人関係は、SFや七人の侍に、ひょっとしたら共通のコンセプトがある、いや、中野裕之が黒澤明に負った場面では無いか、と考えられなくも無い。

しかし、SFの、七人の侍から考えられない点、つまりオリジナリティーは、例えば悪役っぽいが実際は全く悪役でも何でもない、布袋寅泰扮する風祭蘭之介が七人の侍ではいないこと、非常な剣客である風間杜夫扮する溝口半兵衛がこれまた七人の侍にはいないことが挙げられる。七人の侍には、やはり悪役としての野武士軍団がいたのに対し、SFでは明確な悪役は、奇跡的とも言えるほど全くいない。つまり、七人の侍にあった対決姿勢と言うのが、SFでは殆ど描かれていないのである。七人の侍には、生死を賭した(そして、実際に何人かの侍が死んだ)対決が見られた。ところが、SFは確かに何人かの侍は死んでいるものの、生死を賭したという勝負はあまり感じられない。それ以上に、生死を賭した戦の無意味さが、これでもかと言うほど強調されている。つまり、SFは生きるために死んでしまう、と言うことに対して、別に哂っている訳ではないが、その無意味さを強調すると言うオリジナリティーを感じてしまう。

SFは、途中にも、そして最後にも、「天から授かった命を全うするのが人の勤めである」と明確にメッセージとして規定している。これがSFのオリジナリティーであると思う。

SFサムライフィクションは、サムライ映画の中でも特異と言えるメッセージを、あからさまに描いている。それは、天寿を全うすることの重要さを説いていると言うことである。勿論、他のチャンバラモノでもこれを描いている場合は少なくない。しかし、これほど明瞭に、誰でも分かるように描いているサムライ映画は、ひょっとしたら全く無いんじゃないだろうか。

尚、監督中野裕之は、SFエピソード2、STEREO FUTURE2002でも、生命の尊さを説いている。これは、結局映画のオリジナリティーと言うわけじゃなく、どうやら中野監督のオリジナリティーではないか、と見終って思った。

まあ断片的な感想は以上である。

じゃあ、取り敢えず今年も頑張りましょう!

2003年01月03日

元日と1月2日に日記をアップデートしているが、これは元日の深夜(1月2日の午前3時くらい)に書いたものである。何故二日分書いているかと言うと、1月1日の日記に記述量がおさまらなかったからである。

記述エラー!次のことを確認してください。

みたいのが出てきて、箇条書きの中の一つに「一日の日記は5000字以内におさめて下さい」、みたいにある。おいおい、テキストで制限なんてあるのかよ、と思ってゲンナリして、仕方なく2日分に分けたと、まあこういう訳である。

仕方なく二日分に分けて、で、昨日の更新は事実上お休みをしたわけだ。別にネタも無いからいいけどよ。

で本日、そういえばかなり前に、私がプロバイダとして使っているイッツコムから連絡メールが来て、「ホームページサービスがどうの」と書いてあったのを思い出した。早速過去の履歴からそのメールを探すが、イッツコムからのメールは殆ど削除しており、全然残っていない。仕方なくイッツコムのサイトに行って探しているうちに、どうも私は無料でホームページを持てる権限があると分かった。

早速作成したのがこれ。結局日記にここ(無理強い)を使っていてはどうしようもないと言う感じであるが、まあファイル制限10MBだからムダにサーバーに入れるよりいいかなと思ってですね。何かこういう風に、「日記は無料日記サイト」に負っている人は結構いるし。

では、今後ともよろしくお願いいたします。

2003年01月05日

朝から新春第一発目のベルリッツ。行く気しねえが、しょうがねえな。

昨夜の酒はあまり残っていないものの、何か夜眠れなくて寝不足である。ああ、眠いったら眠い。昨日予習をやったところでちょうど終わったが、あんまり身に入らなかったな。

出社。って誰も来てねえー!でもメールはスゲエ来てるし。ああ、面倒くさい。

図面直して今日はさっさと帰った。ああ、もう若くない。

2003年01月07日

昨年末、気が付いたらすでに12月30日とかで、年賀状を書くのを殆ど放棄してしまった。取り敢えずギリギリで上司と大学の先生には送ったものの、恐縮ながら後は「来たら返す」と言う姿勢を貫いてしまっている。正月中は来たら返すを迅速にやったものの、手持ちの年賀状が切れた時点で正月休みが終わった。従って、その後についた年賀状はまだ書いていない(都合七枚)。

かつて買った絵葉書を使用して、返信を書くことにする。

どなた様も新年のスタートは順調ですか?

2003年01月08日

本日は大安である。私の会社は図面を発行する際、比較的六曜(大安・仏滅など)を気にする人が多いが、取り敢えず私も今年から古の習いに従ってみようと、既に昨日(仏滅)図面は完成していたものの、今日(大安)まで発行を遅らせることにした。

出勤すると、チーム責任者のTさんが風邪でダウン。責任者のサインが無いと、図面は発行出来ない。と言うことで、本日の図面発行は無しになった。って、おい。

仕方なく、他の山積みの仕事の中から、パキ子会社から届いた計算をチェックし始めた。ところがこの計算が、配管の重量は考慮して無いわ風計算は杜撰だわ床自重は無いわで、ハッキリ言って今回のプロジェクトの中で「最酷い」モノであった。この計算を担当したのは昨年中途で入ってきたエンジニアであるため、このような状況はある程度仕方ないとは思うものの、一応経験があって中途採用された人間であるため、一挙にブルー化。また、向こうで面倒見るべきスタッフが現在はクソ忙しくて、ハッキリ言って「新入りの面倒見てるヒマ無い」と言う状況で、改善されるのもやや困難と言う状況。「忙しいところ悪いけど、私が行くまで何とか踏ん張ってくれ」とメール急送。

夕方、部長から「懇親会のお知らせ」と言うメールが届いた。特にメールを開かずにそのまま仕事を続けていたが、すぐに斜め前の先輩Sさんから「Fw:懇親会のお知らせ」メールが来る。ん、何だ何だ?と思ってSさんの転送メールを見ると、こう書いてある。

「参ったな。異業種懇親会はどうしよう。」

で、転送以下の先ほど送られてきた部長メールを見る。すると、「最近は忙しくて普段のみんなの状況を聞いていなかったため、業務上の話を(部長・部長代行と)するため、会議室で懇親会を開きます。強制するものではありませんが、出来るだけ仕事と私事を調整して参加してください。また、海外に赴任している人はメールで悩み・要望・近況などをお知らせ下さい。」と書いてある。そして、職制上私とSさんの入るクラスは、何と明日夕方5時からやると言う。

困った。実は明日は、昨年末流れた後輩Hの彼女アレンジ、銀座合コン(12月19日付け日記参照)と言う素敵なイベントが控えているのである。会社を何と午後6時に出て、いざ銀座、と言う手筈になっていたのである。

Sさんの言うとおり、これは参った。ここで、次の2つの選択肢が頭の中に浮かんだ;

1. 部長に懇親会の日をずらしてもらう
2. 先方に異業種懇親会の日をずらしてもらう

尚、ここにおいて「懇親会を欠席する」と言う選択肢は、三人の中には無い。こういう会には三人とも、絶対積極的に出る方だからだ。ウチの部員はそういう人ばかりだが。

まず1.だが、これはずらしてもらう可能性は結構ある。何故なら、我々の部長にはこういう話をしやすいからだ。以前、Sさん彼女Tちゃんアレンジ「新入社員歓迎合コン」があった際、ある後輩が上司に捕まって会社を出られないと言う事態が発生した。そのとき、部長が横を通り過ぎたのだが、「いやあ、今日合コンなんですけどあいつが動けないんですよ。」と言うと、何と部長はその後輩の上司のところに行って「今日合コンらしいからもう今日は切り上げてやれ」と指示したのである。従って、Sさん曰く、

「こちらの方が先約な訳だし、午後6時は業務時間外だ。オマケにお前(私)に彼女がいないと言う寒い状況だ。これだけあれば、いきなり決めた懇親会の日取りを部長がずらしてくれる理由に十分なりうる」

と言う。ロジカルである。全くロジカルである。さらに、相手は恐らくわが社一理解のある部長である。

ただし、問題は懇親会に出る人々である。懇親会に出る人々は、私の職制クラスで日本にいる人は12名。そのうち僅か3名、しかも最若手の連中の都合により、予定が変わるのである。もしこれが5人くらいで、そのうち3人が同じ合コンがあるというなら、これは余裕で部長に相談可である。当然日取り移行は承認されるだろう。しかし、「あいつらが合コンするために俺たちの予定が変わる」と言うのはやはりマズイだろう。

新年見た七人の侍において、一部の村人が離反すると言う状況が生まれた。村は外側に川が流れており、この川を天然の濠として防御に使う戦術を描いていたのだが、実は川向こうに3軒の家があり、七人の侍では「とても川向こうの3軒まで守れないから、3軒は空けて(棄てて)くれ」と村人に指示した(因みに川の手前の守る村には20軒ある)。これにとても従えない川向こうの村人は侍の指揮する部隊での行動を拒み、自分達の3軒を自力で守ろうと部隊を飛び出そうとする。その時、大将格の志村喬は抜刀し、戻らないならば斬ると3軒の村人の離脱を制止する。

「離れ屋は三つ!部落の家は二十だ!三軒のために二十軒を危うくはできん!また、この部落を踏みにじられて、離れ家の生きる道は無い!いいか、戦とはそういうものだ!人を守ってこそ、自分も守れる。

己のことばかり考える奴は、己をも滅ぼす奴だ!!!

と言う訳で、3人の合コンのために、9人の会の予定が変更されることはできん。

つうことで、先方に延期を申し入れることがHの頭の中で決まった。だが、ちょっと考えると、こちらに延期を申し入れるのも、中々難儀なことであった。

そもそもこの合コンは昨年の夏に予定されていた。ところが、急遽Sさんのリビア長期出張が決まり、会は流れた(第一回延期)。そのうち私もパキスタンに長期出張となり、途中でSさんは帰ってくるも、壁にバウンドするボールのように、Sさんは帰国一週間後にはカザフスタンに向っていた。Sさんと私が顔をあわせるのは、Sさんがリビアに発ってから4ヶ月を要した。

Sさん帰国後、またこの案が出た。実施は年末だったが、年末はどこも忙しく、調整が中々上手く行かなかった。結局、Hの野球部の納会があったため、またも延期になった(第二回延期:12月19日付日記参照)。

そして、遂に第三回の延期である。ここまで来ると、最早アレンジしているSの彼女の面目は丸潰れもいいところである。だが、ここまで考慮に入れず、彼女に延期を打診してしまった。Hは部長からのメールを転送する形で丁重に延期お願いメールを打ったらしいが、彼女からの返信は


もう二度とセッティングしません。

以上


とだけ冷たく書かれたものだった。H曰く「今までの彼女との歴史を振り返って、御立腹最高レベルです。」と言っている。これを知ったSさんが「だから部長に日程変更を打診すべきだったんだ(Sさんは最後まで懇親会延期派だった)」と言う。ああ、後の祭りである。

Hの彼女から、本日「その後」のメールは無かった。Hは憂鬱最低レベルに沈んでいる(彼はとても優しい男)。

つうわけで本日の結論であるが、六曜なんて個人には関係ないモノと言うことだ。

2003年01月11日

天下一品と言うラーメン屋があるが、私は天下一品のラーメンが結構好きで、たまに食べたくなって天下一品に出掛ける。ただ、会社から行く場合は川崎を回っていかねばならず、おいそれと行けるものでもない。ただ、年が明けてから行っていないし、ちょうど三連休でもあるので、まあ今日は行こうかなと思い、会社帰りに行くことにした。って、三連休じゃねえじゃねえかよ。

先輩のTさんが出社していた。Tさんは私に「メシ食おうぜ」と言ってきたが、私が川崎の天下一品に行くと言うと、じゃあそこ行こうという。てゆうか、まあ言わせるように誘導したってのもあるんだけど。

川崎でラーメン食って、Tさんと話す。Tさんは結婚している。そのTさんが言うには、

「結婚していない時、いいことは3つある。だけどね、結婚すると、嫌なことが100個になる。」

と言う。結婚して失敗だったってことかと言うと、そうではない。

「でもね、いいことは103つになる。だからさ、結局同じなんだよ。」

と言う。

そんなもんなのか?

2003年01月12日

本日はベルリッツである。そろそろ40回分のレッスンの中盤にあたるところに来ていると思うが、もう随分慣れた。

さて、本日は3レッスンをやる日であるが、その内2レッスンがオーストラリア人講師だった。英会話の先生は大抵がカナダ人だとかオーストラリア人だったりするケースが多いと思うが、これはワーキングホリデーと言う奴で来ているからだろう。ベルリッツにも、そのような「プロとは言えない」講師もいて、このオーストラリア人講師も比較的その通りで、例えば海外の企業文化について尋ねても、あまりピンと来る回答は返ってこない。ってダメだろそれじゃ、と言う感じだが、こっちは英語の矯正してもらっている程度なので、別にあんまり問題視はしていない。毎回こういう講師ではやっぱりイヤだが。

オーストラリア人と言うのは「英語が訛っていてどうの」とよく言われていると思う。「例えば"グッド・デイ"が"グッド・ダイ"になったり」と、私の知っている友人はそれしか例を知らないとばかりにこればかり言う。で、本日の講師も、確かに若干その傾向のある発音をするように感じるが、だが巷で言われているようなオーストレイリアンな英語ではないような気がする。第一、私自身がオーストラリア人の英語って良く知らないし、そもそも行ったこと無いし。ただ、「オーストラリア人の英語は滅茶苦茶だよ」と言っている日本人の95%は「お前は滅茶苦茶以前に満足に英語も話せないだろうが」と言う感じでもあると思う。

まあそんなことは置いといて、本日はこのオーストラリア人講師のベルリッツ最終授業だったようである。以前聞いた話では、彼はこの後タイのチェンマイに行き、病院でボランティアとして働くと言うことだ。尚、チェンマイは若者の間にエイズが流行してしまっている地域である、とかなり前にタイを旅行している時に新聞で読んだ。恐らく今もそうだろう。

話が逸れた。で、彼は日本滞在18ヶ月を通じ、様々なことを学んだらしい。そして、様々なことに遭遇するたびに、それを"love"と"fear"を持って感じていたらしい。そう、彼の精神の基本は「愛」と「恐怖」であるらしい。という訳で、彼は両足のくるぶしに、この日本に敬意を表するため、「愛」と「恐怖」と刺青を入れることにしたそうだ。

ところが、彼はどうも一文字ずつの方が良いらしく、「恐」と「怖」のどちらかを彫りたいらしい。そこで、「この二文字はどう違うのか?」と私に問うてきた。

…こういうのはガイジンが発する質問の中でも返答に難儀する方の質問だ。

私「『恐』も『怖』も"fear"だな...」
豪「何か意味の違いは無いのか?」
私「(腕を組んで考える)うーん、『恐』の方がcommonで、『あいつを恐れる』と言う使い方もするな。一方『怖』は『怖い』と言うもので、『幽霊が怖い』だのと言う意味があるような気がする。」
豪「じゃあ、一文字としたら『恐』を選んだ方が良いのか?」
私「うーん、私はそう思う。」

つうことで彼には「恐」の字をリコメンドした私であるが、気になったので帰宅して角川書店の「新字源」で調べてみた。

「恐」おそれる意を表す
「怖」びくびく胸を打つ意を表す

全然判然としないな。まあ「恐」の方でよかったんだろうか。

とにかく、タイを旅行してくるぶしに「愛」と「恐」を彫っている豪州人を見かけたら、この講師と言うことで要チェック願います。

2003年01月14日

1月23日に決定!

って、航空券取れてません。

一応1月26日は押さえました。

2003年01月16日

行ってきた合コン。相手は銀座OL。楽しかった。名刺を配った。で、12時過ぎに帰宅。就寝。

翌日の今日。

やはり合コンに行っている場合じゃなかった。スッゲエ忙しい。そりゃそうだよなあ。

23日行きの航空券は今朝取れた。だが、今ラホールはスッゲエ霧シーズンで、夜とか飛行機は着陸できないらしい。バンコクで一泊とかなるそうで、だったら無理して23日の飛行機なんて取らなきゃ良かったと思い知る。

つうことで、土日出勤決定。まあ出張前はいつもこうか?

2003年01月18日

知り合いからのメールに、

「そういえば諏訪内さんのコンサート4月なら2つぐらい発見しましたけれど」

と書いてあった。早速調べると、確かに

4月22日(火)
東京 19:00 サントリーホール大ホール/ピエール・ブーレーズ指揮、グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ
ベルク:ヴァイオリン協奏曲
4月25日(金)
東京 19:00 トッパンホール/ ブーレーズに選ばれた6人のソリストによる特別公演
細川俊夫:ウィンター・バード、ハンスペーター・キーブーツ:六重奏曲(新作)、細川俊夫:六重奏曲(新作)
4月26日(土)
愛知 19:00 愛知県芸術劇場/ピエール・ブーレーズ指揮、グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ
ベルク:ヴァイオリン協奏曲

と言うものを発見した。

かなり微妙である。

本来、私のカザフスタン赴任は3月下旬からと言われてきた。しかし、諸般の事情により、どうも赴任スタートは若干遅めになりそうだ。それがいつになるのかは定かではないが、どうやら4月中と言う気がしている。4月22日ってのは、何となく日本にいない時期のような気がするんだが...

取り敢えず券だけは買っておこう。

全席指定
 S¥19,000
 A¥15,000
 B¥12,000
 C¥8,000
D¥5,000  
 プラチナ券¥24,000

これに関して金の出し惜しみなど無い。

2003年01月19日

今日のネタは汚い下ネタです。しかし、書かずにはいられないんです。

前提として、私は便秘体質であることを述べておく。

本日は出張前最後のベルリッツである。10:45のレッスンに間に合うためには、9時に起きなければならない。だが、起きると腹が張っているのが何となく分かる。

便秘体質の人なら分かるかもしれないが、このような人たちはstoolが腹の中に蓄積されると、比較的我慢できない腹痛とともに排出と言うサイクルを繰り返しがちになると思う。私は常にと言う訳じゃ無いが、これに比較的頻繁に苦しめられる傾向が強い。

と言う、「比較的我慢できない腹痛」が襲ってくる予兆が感じられる。この予兆、学校に行く直前だとか会社に行く直前だとか、絶対に外に出なければならない場合に起こりがちである。本日もそうだ。まずいな、レッスン終了(12時55分)まで持つかな、と思うが、今までを振り返れば、地下鉄に乗っている最中に事態が発展するのがパターンである。しかも「もうダメだ」と言うのが片倉町の辺りで来るのだが、片倉町は駅が比較的地下深く、トイレのあるところまで行くのが地獄の辛さである。

本日、私は姿勢を正して車両の椅子に載っていた。背筋を伸ばすと脊髄を通る神経がしっかり機能し、排出を促進してくれるからだ(常にこうしてれば便秘なんかならんのだが)。だが、レッスン開始まで結構ギリギリの時間であるので、途中で降りるとかと言うのは避けたい。

片倉町付近は比較的何事も無くクリアーし、横浜駅到着。歩き始めると、とたんに腹の中における行動が開始される。これは来る寸前だろうか。

出口を出て冷たい風に当たると同時に、一気に腹を締め付ける痛みが。来た来た来た、来たよこれは、と思って無理矢理早歩きに転ずる。早くトイレに到達することと、体を動かすことで腹の痛みを刺激し(腹の中の動きを活発化し)、トイレに駆け込むや否や一気に問題を解決しようと言う腹である。腹だけに。何しろ、レッスン開始まであと12分くらいしかない。長々とトイレに篭る訳には行かないのである。

朝日生命ビル(ベルリッツ横浜西口校の入っているビル)の前に到着、既にもう我慢ならん段階に来ているが、このまま行けばトイレには入るや否や、一気に開通がなされる見通しと言うほどの風雲急を腹が私に告げている。

ベルリッツは4階。ちょうどエレベーターが来た。乗り込む私と他の人。しかしこの人、2階のボタンを押しやがる。くっ、辛い。ドアが閉まる、と思ったらまた開くドア。

「すいませんすいません、いや〜、間に合った」

一本ずらせバカ!と怒鳴りたくなるのを抑える。これで3階のボタンが押されていたら、結果からするとヤバかった。

2階で人を下ろし、壁に寄りかかって耐える私。4階到着、と同時に90度急右折しトイレ直行。とその時、私の「門」が開きそうになるのを感じる。これはマズい。私の行く手を遮る物は何一つないが、stoolを遮る門は今にも破られそうである。これでトイレの「大」コーナーが満員御礼だったらどうしようか、仕方ないから女子トイレに行くか。

トイレに入り、「大」コーナーを見ると二つとも空いている。手前のコーナーに入る。しかし、ドアを閉める余裕も無く、すでに私の門が開き始めてしまった。マズイマズイマズイ、とズボンを下ろしにかかる。今日はベルトをしていないが、していなくて正解だった。何しろ、ズボンを下ろしていないのに、もうstoolが大腸から直腸に押し寄せていたからである。つまり、感触からすると「既に出始めている」と言う感触がするのである。

ズボンを下げて着席したのが先なのか、その前に開門がなされたのか、私には定かではないが、とにかく着席したら殺到したstoolが我先にと出て行くのが分かる。私は恐る恐るunderpantsを見たが、どうやら難は逃れたようである。いやー、危なかった、と思いながら、ようやくドアを閉めた(閉めるゆとりがここまで無かった)。

事を終えてトイレを出て、教室に向かい、先生が来るのを待つ。

「いやー、今日はemergencyでヤバイと思いましたよ。何しろさっき、トイレのdoorをcloseする前に、私のgateがdiscloseしてしまいましたからね。」

と軽口を叩こうと考える。discloseのこの使い方は間違えているが。

しかし、今日に限って金髪の美人女性講師で、このネタを完全に却下せざるを得なかった。

2003年01月20日

クソ忙しくて、夜遅く帰って来てグッタリ疲れてはいるもの、出張準備をしなければならない。という訳で、スーツケースに荷物を詰め始める。現在では私の行くラホールですら最低気温2度とかになるそうなので、取り敢えずセーターとかを入れる。ただ、服を詰めてて気付いたのであるが、実は前回の出張時に向こうに洋服類を結構置いてきており、従って今回は冬物と言うのだけを詰めたりした。スーツケースは当然、半分くらいしか埋まらないので、そこに頼まれた米15kgを入れて、20分で準備完了。

えーと、重いんですけど...

2003年01月21日

その一 バンコク-ラホール便欠航

午前中は会議であったが、昼前に帰ってくると上記のことがメールにて知らされている。これは結局、夜にラホールに到着する便は霧のため着陸できませんと言うことであり、臨時便として翌日昼(昼は霧が晴れるらしい)にラホールに着くのが飛んでいるのでそれに乗れと言うことでもある。という訳で、これを使うと必然的にバンコクで一泊となる。

バンコクはアジア圏内をベースに仕事をしている人にとっては、香港と同じくらい重要なハブ空港で、私自身今までの飛行機人生で利用した空港トップ3は成田・バンコク・羽田、と言う感じである。タイを旅行目的で訪れたのは僅か3度であるが、乗り換えを含めると何回だ?7回くらい?よく分からんが。因みに鉄キチの私は国内旅行に飛行機を使うと言うことは基本的に無いので、羽田の利用回数はバンコクのドンムアン空港を下回る。

話は戻ってバンコク一泊の話だが、欲望渦巻くバンコクと言えば、断然「夜の街」と言う側面が浮かび上がる。しかし、まあ男性陣には「バカじゃねえの」と言われそうだが、バンコクの夜はあまり興味が無い。バンコクの街に降り立つのはそれこそ大学3年の春以来、つまり6年ぶりである。まあ私のバンコクのイメージと言えば、やはり

カオサン通り・ワットアルン・ファランポーン駅・サイアムスクエア・チャオプラヤ川

この5つである。学生かい。

その二 スケジュールミーティング

会議まみれで仕事の進まない一日だったが、午後3時くらいからは工事を含めたスケジュールミーティング。結論だけ言うと、私のカザフ赴任スタートは当初より遅れ、取り敢えず諏訪内晶子を見ることが出来るような状況になった。脱力も甚だしいが、その中で諏訪内晶子コンサートに行けるチャンスが出来たことは唯一の救いである。二日とも行っちゃおうかな。

その三 準備

進んでねえよ...

2003年01月25日

23日出発の数日前から仕事の整理と出張の準備に追われていた私は、プライベートなメールなどをチェックするゆとりが全く無く、23日も朝6時に起きて慌しくパキスタンへの出張に出掛けた。23日はバンコクに一泊し、ラホールに入ったのは24日の昼過ぎで、着いて荷物を受け取ったら直接事務所に出向いた。

一通り挨拶を済ませた後、パソコンを繋いでメールを見ると、大学のサークル時代の同期白石から転送メールが入っており、「恐らく連絡が行っていないと思うので」と言う走り書きのようなメッセージの下に、小林の葬儀についての詳細が書かれていた。

最初は全く事態が飲み込めず、一体何のことだろうと本当に思った。急いで白石に返信を打ったが、同時にサークル同期のメーリングリストの履歴をweb上で見て、事態を理解した。

1月5日に新橋で一緒にふぐを食ってその後カラオケで騒いだ、大学時代の2年下の後輩小林が、喘息の発作で22日に亡くなったと言うことだ。享年25である。

暫くは放心状態で、パソコンの画面の前で凍りつくようにじっとしていたが、部屋にムダサルが入ってきて、すぐに仕事を再開した。その後、仕事を終えて飯を食って、ホテルのチェックインを済ませ、一人になって改めてこのことを考えた。

いくら考えても全く信じられなかった。先ほど書いたとおり、彼とは1月5日に彼のサイトと合同オフ会と称して、新橋で騒いだのである。さらに私のサイトの掲示板に、1月19日付で普通に書き込みをしているのである。亡くなる3日前に全く健康だったと思われ、先輩の私のサイトに書き込みをしていた彼が、突然襲ってきた持病の発作によって、既にこの世にいなくなってしまったということを、一体全体この俺が信じられると言うのだろうか。

翌朝の今日、出社してインターネットで彼のサイトを見ると、いつものような小林らしい調子の日記が残っており(1月20日付け)、「おいおい、20日からまた更新してねえじゃん」と奴に注意のメールを入れそうになる程、まだ全く生き生きとした雰囲気を出している。これを見ても、私は全く彼の死を受け入れるどころか、信じる事も出来なかった。

だが、次に見たサークルの後輩であり、小林の同期でもある島のサイトを見て、私は事務所の一室で嗚咽がこみ上げてくるのを感じた。信じられなかった小林の死を、葬式を手伝って参列した島のページを見てようやく信じることができるような状態に入ったのだと思う。

小林は私が大学で3年間所属した英語サークルに、私が3年の時に1年生として入ってきた男である。あまり外交的と言う感じでもない彼は、目立つ存在でもなく、3年の途中までは私自身ほとんど知らない後輩だった。彼が私の中に入ってきたのは夏の合宿時である。

私はスピーチを専門にしていたのだが、後輩達はこの夏合宿でスピーチコンテストと言うのをやることになる。我々スピーチスタッフは、後輩の書いたスピーチを見て、チェックを入れたりした。

チェックを入れている最中、矢澤と言う同期が、

「ねえちょっと、この小林君っていう子、凄く上手。」

と感嘆しながら私に小林のスピーチの原稿を差し出した。

それまで知らなかった1年生の小林のスピーチを見たのだが、1年生にしては完璧と言わざるをえない構成を持ったスピーチであり、ともすると途中で論理が無茶苦茶になりがちな1年生のスピーチの中で、こんな完成度のスピーチを作ってくるのは全く意外であった。

あまり目立たない小林は、夏合宿のスピーチ大会では決勝までは残らなかった。私は「この男は絶対ファイナル(決勝)に来るだろう」と考えていたので、結果を見てちょっと残念に思った記憶がある。恐らく、1年生でまだそれ程サークルに馴染んでいなかった(?)彼は、上手くスピーチの場でスピーチ自体を発揮できなかったのかも知れない。

その後、大人しくて目立たないように我々には映った彼は、メキメキと頭角を現し、2年生の半ばには小林の同期の代では象徴的な存在の一人としてサークルに定着した。彼は3年になるとき、書記と言うサークル内の幹事会議長的な要職に推され、名実ともにサークルを引っ張る存在として、3年間のサークル生活を終えた。

私と小林の間柄は、そうは言っても大学時代はそれ程深くは無かった。彼との交信が増え始めたのは、小林がサークル向けにホームページを開設してからである。

彼の日記は、当時流行り始めた個人サイトの中でも、全く一線を画した内容で、「自分のキャラクターをここまで文字化できる人間は、小林をおいて他見当たらない」と言う、ある意味天才振りを発揮していたと思う。私はたちまちファンになり、以来、小林のサイトをチェックしない日は殆ど無くなったと言って過言で無い。私自身、就職してからサイトを開設したが、記述の仕方に彼の影響を受けたところは計り知れない。このように、彼は先輩同期後輩関係なく、いつの間にか人に影響を与えるような、凄い人間であった。

彼と卒業後、頻繁に会ったという訳ではない。ただ、メールの交換などはしていて、特に最近は何だか彼との交信は増えたような気がする。そんな中、同じ代で小林の親友である原田から「無理強いとサイトフミヒトのオフ会やりましょうよ」と言うのが提案された(伝聞形で通達してきたのは小林と言うのが、また小林らしい)。私は久し振りで予定も無い正月なので二つ返事でOKし、1月5日のあの会となった。

当日、久し振りに見た小林は以前と全く変わっておらず、相変わらず元気だった。ことある毎にデジカメで我々の姿や目に映るものを写し、それをホームページの更新ネタ向けに使うと言う細やかさも、全く彼のいつもの姿だった。「おい、その写真俺にも送れよな。俺も報告ページ書くからさ。」と小林に言うと、律儀にその日にファイルを寄越したのも、また小林らしかった。ふぐを食った後、「他の奴らも呼ぼうぜ」と手当たり次第に電話をしたが、結局来たのは町田だけ。今言っても仕方が無いが、あの時もっと強引にみんなを誘っていれば、みんなと一緒にあの日に小林と騒げたのである。彼と会って、話して騒いで歌ったのは、これが最後となるとは、私も原田も町田も、そして小林自身も思わなかったに違いない。何しろ解散する時、「じゃあ次はドゥバイでやろうぜ」などと冗談を言い合ったのである。私自身、カザフスタンに赴任になる前に、もう一度奴と会って飲んで騒ごうと思っていた。

彼に喘息があるのは、サイト上などや本人に聞いてもいたので知っていた。そうは言っても、命を失うほど喘息が深刻なものであるとは、全く認識が無かった。だが、彼はこうして、この世を去ってしまった。

ご冥福をお祈りするのは勿論であるが、私の方から小林に一言言わせて貰いたい。どうせあの世でもこの俺のサイト毎日見てんだろ、小林よ。3日に2日は見てるとか、眠れない夜に何回か見たりします、とか前に言ってくれてたしな。

君のように誰からも好かれて、そして誰からもその死を悲しまれる人間ってのは、あんまりいないと思う。それだけ君はみんなに影響を与えてきて、みんなの記憶に残るような、素晴らしい人間だったんだと、死んで今更私も再認識しました。葬式行けなくてゴメン。だけど、帰国したらお前の家に挨拶に伺うから、その時また会いましょう。

日記の更新は暫くお休みします。掲示板へのレスなども控えさせていただきます。申し訳ありません。通信は個人的にメールで頂けるよう、重ねてお願いいたします。

2003年02月01日

ここに来る前に一泊したバンコクのホテルで、私は室内空調の調整に失敗したらしく、喉をやられて風邪を引きかけていた。寒い日本からいきなり気温摂氏30度のバンコクに降り立ったことなども重なり、体調も悪くなりやすかったのかも知れない。加えて、小林が亡くなったという精神的なショックも重なり、ついに火曜の夜には倒れてしまった。

水曜日までに日本に送らなければならないファイルを、朦朧とする意識の中で夜のホテルで仕上げ、翌朝同じく日本から長期出張できているQさんに「すいませんけどこれ日本にメールで送ってください。」と息絶え絶えに朝渡し、再びベッドに倒れて寝込んでしまった。

結構熱があると言うのは感覚で分かってはいたものの、体温計を持って来ていなかったので何度くらいあるのかも分からず、ただ昨日Qさんに貰ったパブロンの錠剤を流し込んで、ひたすら快復を待つという状態だった。

午後、事務所からQさんが電話をかけてきて、様子を聞いてきた。相変わらず動くのも容易でないという状況であったのだが、私は何とか大丈夫と答えていた。だが、Qさんは事務所の人間に言って医者をアレンジするよう指示した。暫くすると事務所で日本人の身辺世話係のようなものをやっているB氏から電話が入り、医者をホテルの部屋に呼ぶ旨伝えられた。私は電話を切り、またベッドで物凄く熱くなった体を横たえて、気絶するように眠ってしまった。

暫くすると部屋のチャイムを鳴らす音がして、ホテルかかりつけと思われる若い医者がやって来た。医者は私の脈を見ながら、私の口に体温計を差込んだ。血圧を計り、体温計を抜いて紙に今計測した全てを書き込んだ。

Pulse: 75/min
B.P: 110/80
Temp: 105°F

パキスタンでは体温を華氏で計るらしく、見慣れぬ桁に一体自分の体温が何度あるのか、ちょっと分かりかねた。

医者は錠剤とシロップ、それからのど飴のようなキャンディーを処方し、Adviceと称して「辛いものは控えるように、暖かい飲み物を飲み、冷たいものを控えるように、夜は塩を溶かしたぬるい湯でうがいをするように」と紙に書いていく。彼は私にサインをするよう求め、いつもの通り漢字でサインを書くと、珍しそうに「これは中国語か?」と聞いてくる。

医師が出て行って、私は自分のパソコンを立ち上げた。華氏105度が摂氏何度に相当するかを調べようと思ったからだ。

仕事でよく使っている単位換算用のソフトで、私は華氏105度と入れてみた。すると、華氏105度は摂氏40.6度に相当することが分かった。私はここで、今までに殆ど経験に無いような高熱を発していることをようやく知り、それでますます目が回ってくるのが分かった。

再びベッドに横になると、Qさんから電話がかかってきた。私は熱が40度もあることを話し、この分だと明日も出社は無理だと思う旨伝えた。私は薬を飲み、休みを取り、この熱が去ってくれるのを待つしかなかった。

私はほぼ1日、40度前後と思われる高熱でうなされていたことになる。最初は出張に来てこんなに寝込むとは何たることかと思っていたが、途中からその様な思いが消え、頭の中をある一つのことが支配するに至った。理由は曖昧だが、私の朦朧とする意識の中を占めたのは、小林のことだった。

私は何も考えなかった。何故小林はとか、どうして小林を失った後はとか、そういうのを考えることは、一分間に75回、血圧110/80でポンプ輸送される40度を超える血液が、体の隅々までグルグル行き渡る状態では、全く不可能に近かった。

小林が死んでから、私は何人かの「小林を良く知る人間」とメールのやり取りをした。どのメールも、小林に対する愛情と哀惜に満ちたものであり、そんなメールを読むたびに、私は小林の死を改めて悼まざるを得なかった。だが、私はまだ遠くにいるせいか、やはり小林の死をどこか「信じられないもの」として捕らえており、気分を逸らそうと仕事に集中したり、または小林を全く知らない相手とメールでコミュニケートしたりで、半ば自分を騙し騙し遣り繰りしてきたということもあった。小林を全く知らない相手に対し、「俺の大切な後輩が死んでしまった」と語ることはしなかった。

だが、こうして高熱によって考えの選別も不可能な状態に陥ったとき、私の頭の中は「後輩の小林が、既にこの世にいない」と言う考えだけが40度の血液とともに頭の中を駆け巡り、それ以外に何も頭から表現されないと言う状態が続いた。倒れる前、別に無理に小林のことを押しのけようとしていた訳じゃないのだが、今になって頭の中が「小林がいなくなった」と言うことに支配されたと言うのは、自分が自分に小林の死に直面せよと言っていたのだろうか。

翌朝、薬が効いたのか体は幾分楽になった。会社は休んだが、朝の10時前には立ち上がって1階のレストランで軽く朝食を取ることまで出来るようになった。昨日は以前買ったビスケットを3枚食べただけで、それも薬を飲む前に無理矢理何かを食べてからと言う気持ちで食べたもので、若干食欲が戻っていることに少し快復を感じた。

昼過ぎ、世話係のB氏が部屋に来て、大丈夫かと尋ねてきた。恐らく明日の午後には出社できると思うと言い、さらに彼に体温計を買ってきてくれと頼んだ。

夕方、電話が鳴って受話器をとると、ムダが出てきた。聞くと私の泊まるホテルのロビーにいると言う。彼だけでなくもう2人のエンジニアが、ホテルまで見舞いに来てくれたのである。私は彼らを部屋に呼び、ちょっと話した。

病気の多い国に住む彼らは、私が飲んでいる薬が何かを知っていた。錠剤はどうやら抗生物質で、シロップは解熱や頭痛を止めるもののようだ。これを飲んでいれば治るだろうと、彼らは口々に言っていた(実際治った)。

彼らに仕事の様子を聞くと(この時点で仕事のことを気にするまで快復していた)、

「みんなが心配していること以外、特に問題はありません」

と言っていた。こんな日本の若造のためにわざわざホテルに見舞いに来てくれるとは、本当に心配をかけていると言うのが分かるのだが、この言葉を聞いて、一刻も早く職場復帰したい感情がこみ上げてきた。

B氏が買った体温計を、Qさんが持って来てくれた。すぐに計るとその時点でまだ38度超あったものの、ルームサービスで夕食を食べ、薬を飲んで横になると、熱は37度前後まで急落した。一晩寝て、起きて計るともう36度台前半で、午前中様子を見ても大丈夫そうだったので、昼には迎えの車を回してもらい、午後から執務を再開した。3日ぶりにスーツを着るとき、ベルトが緩くなっているのを感じた。ベルト穴が一つずれる位、この3日で消耗したと言うことだろうか。

病み上がり特有の虚脱感に襲われてはいたものの、2日間に溜まった仕事を片付けつつ、夕方まで事務所で働いた。夕方、インターネットに接続してサイトをチェックする。小林のサイトもチェックしたが、勿論更新はなされていない。だが、小林の同輩達が、今後小林のサイトを改めて作り、保存に努める方向に動いている。実は小林が亡くなって、私はホームページなんてやめちまおうかと思った。サイト開設以来、私は常に視界に小林のページと島のページがあったのだが、その内の片方が更新を停止してしまったことから、何となくホームページを続けていく気持ちが萎えてしまったのである。だが、彼のページはこれから残された友人達によって整理・整備されて生き続け、島のページは発展し続ける。

つうことで、更新を細々ながら再開。

2003年02月03日

風邪で休んだため、出張期間を若干延期しようと考えている。実は今週の木曜にこちらを発つ予定だったが、さすがにそれでは若干きついということで、こちらのEid holidaysと言う連休が始まる直前の来週火曜まではここに居座ることにした。現在、航空券とホテルの方をアレンジ中であるが、ホテルは連休前ゆえ、激混みの上ホテル代高騰と言うことになり、安いホテルに移ることになりそうだ。尚、現在泊まっているのはパキスタン国内最高級のパールコンチネンタルホテル。法人割引が効かなくなるらしい。

さて、最近暗い私だが、そんな暗い私を若干明るくするような予定が入った。しかも二つ。

その一 第二回the銀OL合コン開催決定(らしい)

会社の後輩からメールが来て、前回合コンしたメンバーで第二回が企画され、日時などが決定したらしい。どうも先方に好評だったよう...なのか?今度はLong way homeとかケチャップソングを炸裂、って俺はケチャップはまだ炸裂できねえ。まあいいや、ネタまみれの俺を見てろよ、小林。

その二 諏訪内晶子コンサートチケット確保成功

実は昨日が発売日であったのだが(先行発売は逸していた)、インターネットからの予約は出来なくて、仕方なく先日クリスマスコンサートに一緒に行ったNさん(彼氏がプロ音楽家)にお願いして確保してもらった。チケットぴあに電話をしたら全然電話が繋がらなくて、慌てて近くのチケットぴあカウンターに行ったら席の指定が出来ないへったくれで、

「結局S席にしてしまったのですが、結構高くて19,000円もしてしまいました。これで良かったですか?」とのこと。

いいですいいです、あたしゃこれに関して金の出し惜しみなど無いと考えていたんですから。それどころか巻き込んだNさんの分を傾斜で払わねばと言う感じですよ。と言っても、S席とは恐縮してしまう。何しろ私は歴戦の音楽ファンではなく、殆どミーハーと言う感じだからだ。早稲オケの2,000円、夏休みウィーンに行った時のコンサートチケット35ユーロ、昨年のクリスマスコンサート5,000円から、いきなり19,000円。ジャンプアップしすぎだろう。

サントリーホールの1階席ステージから11列目だって。これは諏訪内晶子の鼻毛まで見える、訳ねえな。まあ、赴任前最後の贅沢と言うことで。

2003年02月06日

パキスタンでクソ忙しい毎日を送る日々であるが、今日は特に忙しかった。昨日のカシミールソリダリティーデイ、訳して「カシミールは俺たちのものだデイ(ウソ)」で休みだったパキスタンであるが、その前日に一気に40枚くらいの図面と総計600ページくらいに及ぶ計算書を出してきやがって、昨日の休日と本日をほぼフルにチェックに充てたと言う惨状である。ムダが、

「昨日の休日はどうでしたか?」

と聞いてきたので。

「仕事。日本人は仕事。日本人は仕事が趣味なの。」

と笑顔で答えて過労死寸前である(ウソ)。

午後、こちらのチームトップG氏が「明日予定ありますか?」などと聞いてきたので、ある訳無いと答えると、接待夕食に誘いたいと言ってきた。私は偉いさんと喋るのがかったるく、ムダを始めとする中堅若手を巻き込んでデカ目の夕食会にしたいと考えたのだが、G氏が難色を示したため、結局偉いさんとの夕食会になった。ああ、話題が無いんだよ、偉いさんとは。

明日はカジュアルフライデーなので、先日買ったパキスーツで出勤する予定である。

以上。

追記)先方の都合により、第二回the銀合コン無期限延期のお知らせが届いた。ああ。

2003年02月07日

その一 ムダサル

昨夜。

私「お、まだ仕事してんの?」
ム「今終わりました。Now I'm ready to go. I'm ready to fly.」
私「Ready to Fly??? Fly to where???」
ム「(無茶苦茶平然としたフツーーの顔で) to home. Where do you think I go?」

ちょっと違うムダの切り口で面白かったな。いつもなら「to 合コン!!!!!ぶっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ」とかなるんだが(合コンと言う単語を今回の出張で教えた)。

その二 凧揚げ

週末に控える凧揚げ。こちらはタコ紐にガラスの粉をつけて空中で他の凧とバトルを展開し、紐をこすり合わせて紐を切られた方が負けと言う、日本でも昔はやられていたことをやる。私はやったこと無い。凧の制御は難しく、間違えると紐で手を切るらしい。ガラスの粉がついているからな。

このバトルを聞いて思い出したのは遠藤周作「女の一生(上)」。江戸時代の間キリスト教禁制を続けた日本だが、維新後もしばらくキリスト教は日本人には禁止されていた。だが、潜伏キリスト教徒がいると確信しているフランス人司祭は長崎において隠れキリシタンを探すため、信徒に目立つ行動に出ようとした。それは長崎における凧揚げ大会において十字架のあしらった凧を揚げ、信徒にアピールしようというものである。結局、司祭は指に切り傷を負いながらオランダ商人の揚げる凧に負けたのだが、これがきっかけとなって200年ぶりの日本潜伏信徒とヨーロッパ人司祭のキリスト教の再会になった...かどうかは小説を再度読まないと覚えていない。

女の人に「何かオススメの本ありますか?」と聞かれて必ず紹介するのがこの本だが、女性はこれを読むと間違いなく泣くようだな。私は何か怒りがこみ上げてきたけど。小説に感情移入しやすい、国語の小説問題が一番出来ないタイプなんで。

帰ったら久しぶりに読むか。

その三 パキスーツ (Shalwar Kamiz)

今日は先々週買ったパキスタン人男性の標準的な服で来た。だが、周囲の反応は比較的薄く、ネタとして着てきた意義が薄れた感じがする。

大体この服、ウエストが不必要に太いのだが、おかげで縛るための紐を通すのが面倒くさくて、しかも今朝起きてみると紐が隠れやがっている。朝再度紐を通していたら、朝メシとる時間がなくなって、結局コーンフレークしか食べられなかった。

更にこの服、トイレに行くと不便なんですけど。

その四 再度凧揚げ

私の個室に女性エンジニアが入ってきて、small giftだと言って凧のミニチュアを置いていった。君が作ったのかと聞くと、買ってきたと言う。おいおい、パキスタン人男性が日本人女性と仲良くなると言うのはあっても、その逆は不味いんじゃないのか...

と思ってたら、こっちの部長も同じのを持っている。おいおい、全員に配ってるのかよ。何か期待したら実は義理チョコだったと言う感じである。

もうすぐバレンタインデーだな。

2003年02月08日

今朝、ホテルで寝ていたら電話がかかって来た。

男「ミスターリオですか?」
私「は?」
男「ミスターリオですか?」
私「違う。」
男「名前は何ですか?」
私「その前にお前は誰だ。」
男「私は△▼です。」
私「...で、誰なんだ」
男「●×の友人です。」
私「そいつは誰だ。」
男「●×です。」
私「...。」
男「明日の○○時に迎えに行きます。」
私「は?」
男「明日の○○時に迎えに行きます。」
私「何でだよ。」
男「●×からそう言われまして。」
私「だからそいつは誰なんだよ。」
男「...オーケー。(電話を切る音)ツーツーツー」
私「お、おいっ!」

こいつらは一体何者なんだ(実は以前も同じ電話があった)。二度と来るな。一度も来てないけど。

2003年02月11日

今回の出張で、暫くパキスタンへの行き来は無くなると思う。比較的上手く行ったので、今後このprojectにおいて私がこちらに来る必要は無くなったと思うからだ。

既にこちらはイスラム教のEid holidayに入っていて、本日はスタッフは殆ど休んでいるが、昨日挨拶をしていく中で「今度会うときは恐らく日本だろう」と声をかけながら別れの握手をした。それくらい今後こちらに来る必要性は無いような気がするし、今後別のprojectでもこちらに張り付くと言うことは無いと思われる。帰国後、私は部長などに「日本人がproject遂行中に出向くより、パキスタン人をproject初期に呼ぶ方が効率的だ」と言うのを強く主張するつもりである。これは今回のprojectのやり方が大過なく上手く回っていることと、こちらに来て前線のエンジニアたちの話を聞いたり様子を見ていて感じたことから判断したことである。仕事をしていく上で、今回のように軌道修正と言う目的でProject遂行中に短期出張と言うのはあるかも知れないが、長期は無いだろうと思う。

パキスタンに来るチャンスが少なくなって寂しくなるかと言うと、あまりそうは思わない。それより、パキスタンとの付き合いに何となく区切りがついたと言う心地がする感じだ。

そもそもパキスタンとの付き合いは、2001年の8月末から始まった。

〜〜以下当時の日記みたいな奴〜〜

パキスタン行きを告げられたのは昨年6月頭である。それまで出張などはあったものの、海外勤務は初めての経験。2年目で現場に研修赴任のような形で派遣されるケースは普通にあるが、事務所勤務を2年めの若造が言い渡されるのは珍しい。私も最初は半信半疑だったが、すぐに正式に決まって、パキスタン行きの準備を開始した。「地球の歩き方」を購入したり、パキスタン関連の書籍を読んでみたり、仕事上の準備じゃなくて知識上の準備も怠り無く着手した訳である。

ところが、「2年目で海外事務所勤務」という、およそ慣例とはかけ離れた決定により、何だか様々なプレッシャーを受けた。曰く、「2年目なんかにそんなものが勤まるのか!?」という論調である。しかも、海外子会社を「初めてフルに使う」という、今までに無いプロジェクトとなったため、そんな最初のプロジェクトをこの二年目に…?という疑問が論調の激しさを倍加させた。

これを提案したのは、前のアルジェリアのプロジェクトのチーム頭だったYさんであるが、承認したのは部長である。ただ、これに対して方々から、直接的・間接的に「あんなので大丈夫か」というプレッシャーを受けた。例えば飲みに行った時、「いや、決定は分かるんだけどよ、本当に大丈夫なのかよ!」とかなり上の人に言われたり、部のマネージメントクラス会議でも「本当に2年目のあいつを行かせて大丈夫なのか」と議題に上がったり、それを部長に「いや、実は本当にお前で大丈夫なのかという話もあるんだ」と言われたりした。

私は答えようが無かった。なぜなら、経験が無いから「大丈夫です」と言えなかったからである。業務内容はYさんから聞いている。Yさんから細かく指示を受け、これに従えば間違いないと私も思ったし、また私にも出来るとも思える仕事だった。しかし、歴戦の経験者であるもっと上の人たちの話を聞いていると、当然私が知らない難しい局面が出てくるような気がした。つまり、「経験者しか知らない何か」があり、それを2年目が乗り越えるのは、あまりに経験が無さ過ぎる、と言う言われ方をした訳である。不安は募るばかりである。また、これは最近聞いた話だが、1年目から2年目の頭まで所属した際に世話になった上司Hさんも、実は何人かの人から「あいつは大丈夫なのか?」と聞かれたらしい。そのHさんにも、「まず最初は(若いからといって)馬鹿にされると思うが、それは我慢だぞ」と言われたのが、一番心に残っている「まともな」アドバイスだった。

2年目対象の人事面接があった。その際、「今年度、何か現場駐在(当然研修扱い)などの予定はありますか?」と問われ、パキスタンで勤務する旨(しかも全然研修じゃない)を伝えると、人事は私を驚きの表情で眺め、そしてこう言い放った。

「よく行かせるねぇ」

パキスタンの評判自体も、これまた最悪だった。会社の内外で評判を聞いてみたが、パキスタンはいい国だとか、パキスタン人はいい人たちだとか、そんな話は全く聞けなかった。パキスタンは何をするにも賄賂を渡さねば事が運ばないだとか、パキスタン人は人を騙す事しか考えていないだとか、そんな消極的な話ばかりを聞かされて、パキスタンに対する先入観も歪んで形成されるような状況だった。

そして肝心のパキスタン子会社。鳴り物入りで設立された子会社だが、経験不足や意思疎通の難しさなどから、「一筋縄には行かない子会社」として勇名を馳せ始めていた。こんな難しい会社に2年目を云々は、また別に沸き起こる不安増長要因だった。

部に配属になって1年強の、設計もロクにまだ分かっていない若造が、初めて子会社max使用を義務付けられたプロジェクトで、非常に難しいと評判の子会社を率いるために、最悪の国パキスタンへ旅立つ。

準備はしていたが、すればするほど不安は募る。事実、この間に私は数kg痩せて、中々辛かった。そんな状況で遂に出発の日を迎えた。

〜〜以上当時の日記みたいな奴〜〜

ところが、到着してみるとパキスタンもパキスタン子会社も、そしてパキスタン人職員も噂と異なり、やる気にあふれた真面目な職員が多く、そして若い私を積極的にサポートしてくれた。これは当時こちらのprojectチームの責任者だったFさん(今もこちらに来ると家に招待される)の人柄によるところが大きいが、とにかく私は、私の予想を遥かに上回る順調さで赴任を開始したのである。また、横浜のサポートチームの人達も、私を過大評価も過小評価もしないで、適切なアドバイスを適宜くれると言う状況だった。

事件が起こったのは9月11日。ニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャックされた旅客機が突っ込むと言う、それまでの概念では思い浮かばないような「テロ」事件が起こった。途端に疑念はアルカイダに集中し、アルカイダ本体が潜伏する隣国アフガニスタンは米国の軍事目的の標的にロックオンされた。これにより会社から帰国命令がこちらに飛び、殆ど何もしないままに私はパキスタンを後にしなければならなかった。この時の無念さと言ったら無くて、帰りの飛行機で悔し涙が出てきた。

以来、私はこのパキスタンの会社と付き合い続けているが、これは私が強く希望したからであり、それに部長を始め上司が応えてくれたからである。同時多発テロに遭遇したのは全くもって無念であったが、今までの仕事のおける上司の理解は、私にとって恵まれているとしか思えないものだったと思う。

その間、私はパキスタンの愉快な仲間たちにも恵まれ、楽しく、一生懸命仕事をして来た。そして今回の出張で、1年半のわだかまりのようなものがようやく清算できたような気がする。まだやり抜いた訳ではないし、来月やっぱりまた来なければならなくなった、となるかも知れないが、彼らとの付き合いの中で、一応の到達点に達したような気がしている。今後、彼らとの付き合いは勿論続くが、パキスタン子会社にこだわる段階は踏み終わったと思っている。

そろそろ次の世界に入っていくタイミングが来たように感じる、今回の出張だった。世界はまだまだ広いので、深く分け入る隙は人生の全てを賭しても有り余るほどある。別に急いでいる訳じゃないが、やはり出来るだけ色々なものを見てみたい。そんな訳で、パキスタンに来ることは今後減るかも知れないが、それ程寂しさを感じない。言ってみれば、1年半で結構満喫したと言うのに近いものを感じる。

今回の短い出張期間には公私において本当に様々なことがあった。特に、プライベートではまだ清算できていないものが一つある。ただし仕事上は、一つの終結を見たと感じている。