日記セレクション(2002年版)

2月2日(土) ここ数日間の履歴

1月31日(木) おでんの仕込み

9時くらいに給湯室を覗くと、先輩二人(違うTさんと、もう一人の違うTさん)が何かをしている。

「何してんですか?」

と聞いて振り向いた先輩二人

「おお〜、遅いんだよ来るのが」

と言われる。みると、電気コンロの上に鍋が置いてあり、その中に尋常じゃない量の大根が沈められている。明日のおでんを作っているのである。

実は明日(2月1日)には歓送迎会が開かれることになっている。我々のチームとカザフのプロジェクト(次の私のチーム)がみなとみらいの本社に移動するのを送り出すのが、送迎会の目的。中途で入ってきた人と違う部から異動してきた人を迎えるのが、歓迎会の目的。と言うわけで、上大岡のスタッフ25名が参加する、結構大きい会が今回である。

しかし、予算が1万円しかないという。25人も来るのに、予算が1万円だけだと言う。というわけで、今回は会議室飲み会初の「自炊」という形にならざるを得ないという。世界的な受注競争で余計な経費を削りに削っている貧乏会社の一幕である。もっと円が安ければ…

普段料理など全くやらない私だが、料理のひとつでも出来ないと花嫁募集市場における商品価値が下がるのではないか、という危機感を常に抱いている私は、積極的におでん作りに参加した。

と言っても、おでんの素みたいのをお湯に溶かして、その中で大根とこんにゃくを温めているだけのような気がする。どこかのホームページからプリントアウトしたと思われる「おでんの作り方」を見ながらやっているのだが、電気コンロは弱く、あまり料理が進んでいる気配がない。

電気コンロの火が弱いのを立証しているのが、横においてあるゆで卵である。これを剥けと指令されたのだが、薄皮と白身がくっついてしまって、剥き終わるとニキビ面の高校生の顔のような表面になってしまう。12個作ったのだが、どうも全てがこれらしく、誰一人として全く上手く剥けない。

「じゃあ、初めてこれを上手く剥けた人に、嫁が早く来ると言うことでどうでしょうか」

と私が言うと、もう一人の違うTさんが「お、そんなこと言われたら俺頑張っちゃうよ」などと言う。だが、努力も空しく、全ての卵が駄目である。剥き終った後で、不良品と言えるこれらの卵を食べる私たち。腹がいっぱいになって来てしまった。卵だけで。

相変わらず火が弱く、おでんの調子もあまり芳しくない。最初にもう一人の違うTさんが味見をしたのだが、

「……味が無い」

と言う。おでんの素が足りないんじゃないかと、もう一袋入れる。このTさんは福島出身で、舌は濃い味じゃないと反応しない。

以下、Tさんの感想

「……何か、大根の味しかしない」

「……大根の味だね」

「……」

と言う感じで口数は少なくなっていくのだが、昆布を入れて暫くたったところで言ったのが、

「!、昆布の味が出てきた。いやあ、これは何ていうの、歴史?歴史を感じるね」

とまるで意味がわからない。「いや、俺は最初から味見してたでしょ、だからその最初からの変化がよく分かるんだよ」と言う。それなら履歴とか、英単語でヒストリーとかさ。

その後、「若い二人はこのまま徹夜で仕込んでろ、俺は帰る」などと違うTさんが言うではないか。しかし、例の幽霊騒ぎがあるので、後輩二人は嫌がり、特にもう一人のTさんは「うわ〜、そんなことあるんですかこのビル。私絶対駄目ですそんなの。」と、まるで徹夜の意思が無い。俺も徹夜はヤダ。

結局、一通り火が通ったところで一旦休止し、会議卓の上に鍋を置いて撤収。明日二人のTさんは、電気釜を持ってくることになる。混ぜご飯を作るのである。

2月1日(金) 歓送迎会

現在のプロジェクトはアルジェリアのプロジェクトなのだが、大将のYさんが朝一番で私にこう言ってきた。

「おい、今日の飲み会って何人くらい来るんだ?」

「え、あー、確か25人くらいとか言ってましたよ。」

と返す。すると、Yさんの口からとんでもない新事実が吐かれた。

「プロジェクトの方から金を出すって言うんだけどさ。」

何ィーーーーーーーー。じゃあ、昨日の3時間に及ぶおでん作戦はどうなるんだ?この衝撃の事実をTさん達に伝えないわけにはいかない。何しろ、今日の予算は本当は1万円だったからだ。

もう一人の違うTさんはすでに出社していた。机の脇には、あまりに不自然なくらいに横に広がったバッグが置いてある。炊飯器に違いない。

「Tさん、衝撃の事実があるんですけど」

Tさんは、半ば怯えたような表情で、後輩の私を見つめる。

「何、何があったんですか?」

Tさんは後輩にも敬語を使う傾向が強い。

「実は、ファイナンスが確保できそうです。プロジェクトが金を出すって言っているらしいんですよ」

その場で崩れ落ちるTさん。聞けば、昨夜寮に帰って、深夜の2時までもう一人のTさんと一緒にゆで卵を作っていたと言うでは無いか。後ろから吹き出しながら近づくYさん。完全に馬鹿扱いだ。

もう一人のTさんが出社してきた。もちろん、机の脇には不自然に横に広がったバッグが置いてある。上記の内容を伝えると、「そんな金いらねえと言え」と鼻息が荒い。「しかし、どうしてもと言うならもらってやってもやぶさかではない」と、鼻息が半減もしていたが、ショックは隠し切れない。何しろ、昨夜ゆで卵を作っていたお陰で、無茶苦茶眠いらしい。

結局、新たな資金が投入されることが判明したため、近くのマルエツでビールを買い(いつもは発泡酒)、日本酒も買い、さらに近所のイトーヨーカ堂で注文寿司も購入。乾き物も大量に購入して、いつもより豪勢になったくらいである。

一人のTさんは打ち合わせがあったので、私ともう一人のTさんで米を研ぎ始める。だが、Tさんは「研がねえでいいんだよ、研がねえ方が米本来の味がするんだ」などと言って、米を入れた釜を数回ぐるぐる回すだけで炊飯器にセット。おいおい、俺はしっかり研ぐぞ。給湯室に来たおばさんは「うわー、何やってるの」など言うではないか。「混ぜご飯を作ってるんです」とぶっきらぼうに答える。

最近のインスタント食品の成長はすばらしい。私はこんなのすら作らないから知らなかったのだが、なんと研いだ米にこの「混ぜご飯のもと」みたいのを混ぜるだけで、普通に混ぜご飯が出来ると言うではないか。「本当にこれでいいんですか?」とTさんに聞いたのだが、「いいんだよ」と指示を受ける。

会は5時半からだが、すでに4時半から自分のウイスキーを飲み始めている人がいた。私は横で、おでんの再セッティングをしている。すでに炊飯器も持ってきた。先ほど、イトーヨーカ堂で買ってきた、数々のおでんの具を投入し、火を入れる。そのうち、部長もやって来た。

すでに炊飯器内の混ぜご飯は出来あがっている筈だ。開けると、完璧に混ぜご飯が完成している。私は感動した。全く技術が無くても、ここまで「何ともない」混ぜご飯が出来るのである。やはり日本は偉大な技術大国である。私の技術の無さを、メーカー側はここまでカバーするのである。味見をすると、うむ、まあまあ美味い。研いでない割には。

混ぜご飯を部長に持っていくと、「美味い!」と言っている。「俺は今、無茶苦茶感動している」とも言っている。自炊と言うアイディアは部長にとっては斬新だったらしく(当たり前だ!)、妙に感激していた。おでんの評判も良く、いつのまにか無くなってしまった。

まあ、ここまで喜んでくれるなら、やって良かったとは思う。仕事は思いっきり終わっていないのだが。

2月5日(火) そろそろ始まるロシア語講座

対面に座るTさんに朝、電話がかかってきた。テキストやら何やら言っているのだが、どうもそろそろ始まるロシア語講座の話をしているらしい。

カザフスタンのプロジェクト有志でロシア語の勉強会をしようという話が持ち上がり、私も1年上のSさんと一緒に参加する予定である。Tさんはこんな初心者向けの勉強会などには参加しないが(何せロシア留学経験者)、助言を乞うためにテキストは何にするかをプロジェクトの方から聞いてきたらしい。Tさんは「NHKのロシア語講座のテキストをそのまま使えばいいんじゃないですか?」と言っていた。Tさん曰く、「ラジオよりテレビの方が会話中心だし量も少なめでとっつきやすい」ということなので、テレビ講座のテキストを使うのかな、などと思っていた。

夕方、「おい、テレビ講座のテキストは却下されたぞ」とTさんが私に言ってきた。勉強会の講師を務めるのが、客だか何だかで来浜しているカザフ人の奥さん(オバサン)で、その人が「古臭い表現が多いから気に入らない」と却下したそうなのだ。

うーむ、NHKテレビロシア語会話講座のテキストの表現が古臭い、と言うと、日本語で言うとどんな感じなのだろうか?

「昔はきれいな女の人を見ると、もうウハウハだったんだけどねえ」

と言う感じなのだろうか。

古臭いというより親父臭いだけか。

てゆうか、そんなNHKは嫌だな。

2月7日(木) もう木曜日?

明日有給取る奴とか、午後半休取る奴が多い。スキーに行くらしい。

俺の連休はズバリ、

土曜日 日石三菱根岸精油所内の残滓油発電プラント建設現場見学(先輩に誘われた)
日曜日 終日study
月曜日 終日study

白眉は土曜の現場見学。楽しみだなあ。写真いっぱい撮ってくるのだ。

2月6日(水) で、結局使うのがこれ

聖ワシリー寺院が聳え立つベタベタな表紙。右の方にある瓶には恐らくウォトカが入ってるんだろう。このテキストは現代的なロシア語が溢れているんだろうか。

「あー、もうスッゲエだりい」
「うっせえんだよ」
「はぁ?」

現代的って言うか何と言うか…

2月10日(日) 千代田図書館

里谷多英が銅メダルを獲得した。何か、妙に爽快な気分だ。

表彰式で日の丸が上がっているのを見て、何か感動した。何でだろ。

本日は寒い中、電車に乗って九段下に行った。千代田図書館で勉強しようと思って。連休に勉強なんて、浪人生みたいだ。暗い。まあそれはいいとして、千代田図書館に行くのは極めて久しぶりだ。浪人時代はよく行ったが、確か学生時代の試験前も行った記憶がある。が、学生時代のそれはあんまり覚えていない。

千代田図書館は3階に結構広大な「閲覧室」を持っており、高校生や受験生がたくさんいるところだ。私が浪人だったころも、私くらいの若者がたくさんいた。試験前とか受験前になると、席がいっぱいで座れなく、また当時の九段下はファーストフードの店も少なかったので、その後乃木坂の赤坂図書館(今は無い)に行くなどしていた。家に帰れよ。

しかし、件の九段の千代田図書館、つまらん、閲覧室が半減している。半分を「古書保管庫」にしてしまっているらしく、以前の広大さは無くなってしまった。だが、半減した閲覧室の人の入りは、そのまた半分くらい。何のことなく席を確保することが出来た。受験シーズンなのに、こんなに人がいないなんてどういうことだ?しかも、赤本を机においている若い奴が3人くらいしかいない。図書館で勉強なんてしねえのかな。あんなのは子供がたくさんで、受験「戦争」などと言われていた我々の世代で終わっているのか?もう8年も前のことだもんな。溢れかえる浪人生、なんてことは無いんだろうか。

しかし、浪人時代によく、「ここにいるおっさん達は、いったい何しに来ているんだろうか」と思ったのだが、一部その疑問が氷解した。こうして勉強をしているのである。大学時代の教科書を広げて勉強している姿は、正に「明日試験で焦る学生」と言う感じ。白髪を除けば。あー、大学時代の勉強、ここまで仕事で使うなんて....

今日は休日なので、5時閉館である。で、5時に外に出て、そのまま靖国通り沿いのスターバックスに行く。昔はモスバーガーしかなかったのに、今はマックも出来たしスタバの真似をしたようなコーヒー屋も出来ている。昔と変わらず、この辺りはあんまり人通りは無いんだけど、儲かってるんだろうか。

しかし、店内に入るといつも人がたくさんいる。で、カフェモカのトールサイズを飲む訳だが、途中で「やっぱ小さいのにすれば良かったかなあ」と思い始める。生クリームたっぷりで甘いんだよ。

切りのいいところまで行ったので、切り上げて店を出る。三省堂に行って結局何も買わないで、外の本屋で「課長島耕作」5巻を買って帰る。

2月14日(木) バレンタインデー

全然もてないよな。

帰ってきたら、「今日断水だから、お風呂は入れないわよ。」

部長と飲んだ日はロクな事がない

2月15日(金) 華金

私の1年上の先輩であるTさんは、我が部始まって以来の女性エンジニアである(と思う)。出身は建築で鋼構造が専門であるが、土木系の我が部に配属された。上の人たちからは過剰に「手強い女」と見られているが、私はあんまりそうは思わない。確かに気は強いとは思うが、不機嫌になるような気の強さでは全く無い。美人だから余計にそう映るのかもしれないが。家は資産家らしいし。でも全然嫌味じゃない。多分、品があるのだと思う。

現在、Tさんはフィリピンに赴任中だ。うちの会社の最も大きい子会社がフィリピン子会社なのだが、Tさんはこの会社の担当というほど、よく派遣される。フィリピン子会社内でのスタッフからの評判は極めてよく、特に女性スタッフ(フィリピン子会社は女性エンジニアなどがかなり多い)からの人気は極めて高い。今のフィリピン子会社の現状を最も詳しく知っているのは、恐らくTさんであろう。

そのTさんが、来月結婚することになった。相手は同じ大学の同期生、だと思う。先述の通り、現在Tさんはフィリピンに赴任中だが、ご主人がマニラに来て、マニラで挙式を行うらしい。現在Tさんが参加しているプロジェクトの人たちは、来月からフィリピンで業務を遂行するので、Tさんの式に間に合うように移動するらしい。我々は電報を打つ程度しか出来ないが。

いやー、おめでとうございます、とメールを打ったら、妙に長い返信を寄越してくれた。残業して部長とその後飲みに行く途中、会社の外が妙にカップルだらけで、「ああ、今日はバレンタインか」と思い出したという状況だったのだが、

「さすがにバレンタインに部長と飲みはマズイね」

と言われた。

余裕がある人は言うことが違うね。

土日出勤決定。

2月17日(日) 課長島耕作全17巻(文庫版)読破

モーニングという、バガボンドを連載しているおっさん向けの漫画週刊誌があるのだが、その中で好評連載中だった「部長 島耕作」が終了した。モーニングを立ち読みする癖がついていた私だが、読むのはこの二編だけである。バガボンドは今のところ全巻揃えているのだが、島耕作の方はまるで持っていない。何となく集めたくなったが、文庫版で前のバージョン「課長 島耕作」がリバイバル出版されている。というわけで、先々週くらいから2巻ずつ買い始めて、今日で全17巻を読みきった。

島耕作は初芝電気産業という、明らかに松下をモデルにした企業に勤めている色男で、実力と運を兼ね備えてトップからの信頼を得て、最終的に部長になる男だ。部長就任で「課長 島耕作」は終了する。その後は「部長 島耕作」の連載がスタートするので、3年奇面組⇒ハイスクール奇面組のような感じである。例えがあまりに古いな。湘南純愛組⇒GTO、という感じである。ヤンキー漫画を読んでいたのがばれるが。

「課長 島耕作」は現実にはあり得ないような話になっているような気もするのだが、何分技術職にいる私にとって、「島耕作」の世界は全く異質な物語であった。と言うより、管理職という地位自体が理解不能だとも思うが。

加えて、日本的な会社の雰囲気(上下関係の厳しさや、社会的な面子云々)も、私の目には新鮮で、業務上のトラブルなども、私には考えもつかないものが多い。そもそも、客との接点が我々技術者とは桁違いである。

島耕作を読んでいてよく出てきたのが、「仕事が出来るやつの家がかなり崩壊している」と言うものだった。最も印象に残っているのは、島耕作の親友で同期出世最右翼、ゆくゆくは社長と見られていた樫村と言う男と、島の後輩だが自身の同期では出世最右翼という平井室長である。双方とも家庭が破綻しているために、誤魔化すように仕事に打ち込んで、結局誰よりも抜群に出世してしまったという人であるが、当然幸せではなく、かなりつらい人生を強いられているのである。

島耕作自身、結婚生活に失敗して離婚しているし、トップの面々はかなりの割合で隠し子を持つなど、何だか中世のローマ法王のようである。その隠し子云々が力を持っていたりして、物語が複雑に絡んでいく。

というわけで、自分とは全く別世界という設定が、極めて面白かったようだ。当然、次は「部長 島耕作」を買い始めることになるだろう。俺は何をやっているんだ。

その他、世界を羽ばたく(と言ってもアメリカとフィリピンとタイくらいだが)設定などは、かつて読んだ曽野綾子の「無名碑」を思い起こさせたりした。

このような職業漫画は結構多いと思う。「だから笑介」とか「サラリーマン金太郎」とかもあるし、最も有名で、かつ私の好きな「ブラックジャック」も職業漫画のひとつであると思う。GTOもそうだし、スポーツ漫画もある意味そうかも知れない。

全然話は逸れるが、私の後輩はある国立大学医学部(かなり名門)の入試二次(面接)で、

「なぜ医者になりたいと思ったのですか?」
「はい、ブラックジャックを読んで医者になりたいと思ったのがきっかけです」
「ほう、あれはいい本だよ」

ということで合格してしまったくらいである。それくらいいい本だ。「スーパードクターK」なんてのもあったが。

「課長 島耕作」が仕事上で何か助けになるようなことはまず無いと思うのだが、とりあえず「部長 島耕作」も買い始めることにしようと思っている。

ちなみに、モーニングでは近々続編の「取締役 島耕作」が始まるそうだ。語呂が良くないような気がするが、まあその内慣れるだろう。

3月3日(日) もう何回目の結婚式2次会だ?

本日はサークル時代の同期、寛ちゃんの結婚式2次会に出席した。会場は渋谷の円山町。周囲は問題のエリアであるが、新宿と新大久保の間に比べると安全そうである。幹事は白石。

結婚式は昨年11月末の、会社の同期の結婚式以来である。感想としては、今まで出席した中で、最も落ち着いた会だったような気がする。

ちょっと早めに渋谷に着いた私は、近くのドトールで、昨日買ったswitchという、重量感のある雑誌を見て時間つぶし(今号はバガボンド井上雄彦特集)。16時30分開場ということで、4時半にドトールを出て、会場へ向かう。

横断歩道で信号を待っていて、ふと後ろを見ると、何か見たことある人が視野に入る。ハッとなってもう一度振り向き、野中であることを確認。若干感じが変わりましたね。で、野中と一緒に行くのだが、彼女がいなければ会場に辿り着かなかったかもしれない。ちょっと分かりにくい場所だった。

会場に着くと、既にサークル同期の連中が何人か詰めていて、久しぶりに会話を交わす。というのも、みんなに会うのはかなり久しぶりなのね。で、指定された席に着くのだが、どうも故意にシャッフルされている席に通されて、私の席には星君しか知っている人がいない。これは新郎新婦の馴れ初めに関連した計らいらしく、新郎新婦は友人の結婚式で知り合ったことから、今回も皆さんにそんな場を提供できれば、という考えのもとらしい。まあ人によるかもしれないが、私はこういうの苦手。

同じ席の星君が遅刻で来ない(本日は娘の初節句)のと、対面に座った女性二人が隣の組の連れだったことから、何となくポツンと座っている。居た堪れなくて幹事連(サークル連中)の席に移動。暫くそこにいるが、星君が来たのと、座席対抗ゲームが始まったことから、席に戻る。

対面の女性はまだ隣の連れの人たち(寛ちゃんの郵便局の同期らしい)と話しているので、こちらも星君と話をするのだが、星君が小声で「おい、自己紹介したのかよ」とか「名刺渡した方がいいんじゃないのか、一応」などと、妙に言ってくる。いや、だって向こうは友達と話してるじゃん、と小声で返す。てゆうか、タイミングが計れないのね。

ゲームになったら相談ベースで若干話すのだが、まあそれが切っ掛けになって話すようにはなる。そこで寛ちゃんと同期とか、この連中はいつも仲良く一緒に行動しているんですとか、そういう説明を受ける。こっちも寛ちゃんとはサークルが一緒でどうこうとか話す。「え、じゃあ英語とかペラペラなんですか?」と聞かれる。返答に窮するんだよな、ペラペラでは無いんだよ。星君はその際席をはずしていたが、初対面の人と話すのが得意とは言えない私は、ムネオハウス等の話でつながざるを得ない。弱い。弱すぎる27歳(適齢期に入って来ています)。

星君が席に戻ってきた。「おい、自己紹介したのかよ」とまた小声で言い、「したよ、名刺も既に渡したよ。」と返し、「お前も一応渡しとけよ」と逆に促す。しかし、星君もタイミングを計れないらしく、「うーん、ちょっとタイミングを見よう」などと独り言を呟く。星君が名刺を渡すタイミングに入り、私が「彼はプロのトランスレーターです」と紹介。「え、じゃあ同時通訳とかなさるんですか?」などと聞かれ、イヤそれは流石に無いだろ、なんて感じで目を向けると、「ええ、やりますよ」という言葉。おいおいマジかよと質すと、「あるよ、会議で5時間とかやったりするんだぜ」などと言うではないか。

「私も海外に行ったりするんで、彼にアドバイスを受けたりするんですよ」というセリフから、「海外の出張とか多いんですか?」と聞かれる。よっしゃ〜、話題に窮していた私が、ついに得意のパキスタン話題を出す瞬間がやってきた。これで宴が終わるまでは持つだろうと言わんばかりに、この前行ったときはどうの、とか、また5月から行くんですよ、今度は10ヶ月くらい、とかで繋ぐ。もうよく頑張った俺。

司会の白石が、そろそろ締めというMCをし始める。新郎新婦からの挨拶が入るのだが、それを黙って聞く我々。

まず寛ちゃんが挨拶をしていたのだが、いつもの語り口調の中にも、何だかしっかりしたものを感じていた私は、若干驚いた。おいおい、随分落ち着いているじゃないか、とひどく感心してしまう。次に新郎なのだが、見た目によらず(失礼)、こちらも極めて落ち付いたしっかりした口調である。参加者はたまに「お〜」とか言うのだが、等しく神妙に聞いているではないか。うーむ、極めてきれいに纏まった。素晴らしい!

というわけで散会。対面の女性に「じゃあパキスタン気をつけてくださいね」と言われて、「いや〜、すいませんね、ありがとうございます」と答える。ふー、まあ苦手だけど結構楽しかったな、と思って身支度を私も始める。

星君が、「俺結婚してるって言わなかったよ。」と私に言ってきた。

それがどうかしたのか?

3月5日(火) 前から後ろから

昨日は三次会のあおりだか何だか知らないが、寝起きと同時に気分の悪さが現出すると言う、まあいつもと変わらぬ朝だった。ただ、午前半休しようかな、なんて思ったりもしたのだが、一応出社した。今日は早く帰ろうと思って。ただ、早く帰ろうと思って早く帰った記憶は殆ど皆無。

メールを開けると、アルジェリアから至上命令が発令されている。今日中に云々。

と言うわけで、朝から隣のパキスタン人研修生にその云々を振る。「締め切りは今日中」とだけ告げて。私はカザフの仕事を延々とやる。で、彼の努力に次ぐ努力によってかなりペースは上がってきたが、さすがに10時になった時点で彼に悪くなって(研修生に残業させるのは禁止されている)、留まってやろうとするパキ人を無理矢理帰して、私が引き継いだ。だって、もう俺とパキ人しかいなんだもん、これは許されねえよ。

11時半、漸く終了してメールに云々を添付してアルジェリアへ送信。くたびれ果てて帰路に就く(久しぶりに残業で終電)。

翌日、昨日残したカザフ仕事をやるために、だるいけど遅くまでやろうと家を出る。尚、遅くまで頑張ろうとして遅くまで気力が続いた記憶は殆ど皆無。

朝、メールを開けるとアルジェから2人の上司からメール。間違い発覚。カザフどころか、すぐさまアルジェリアの配管チームに走る。午前中どころか、昼飯時もアルジェリアに忙殺される。アルジェに日が昇る前に何としてでも送る。で、メールの最初と最後に「申し訳ありませんでした」という文言を付けた、半分謝罪、半分言い訳のメールを送信。

メールを送信した後、エンジニアリングマネージャーという御仁から電話が入り、色々ギャンギャン言われる。配管の同期に電話をしたが、既にいない。帰ったのかお前!(午後5時位)

カザフのお仕事。夕方に終えて、上司にチェック依頼をするも、すぐに突っ返されて足りないところを数珠繋ぎで指摘される。すぐに建築部に走り、確認を取ろうとする。しかし、私のほうが要点が分かっていないらしく、どうも向こうにうまく伝わらない。

午後9時、やる気が消えて帰る。

実は最近、ずっとこんな感じ。

3月13日(水) 第170回早稲田大学交響楽団定期演奏会の感想など

サントリーホールにて開催された、第170回早稲田大学交響楽団(以下早稲オケ)定期演奏会に行ってきました。A席3000円のところ、2000円にしてもらった。安いって。

以下、昼休みと夜を利用して作成した(作成に要した総時間40分;早く帰れよ俺)長文にて感想を。

部長と会社を5時半に出て、JRで桜木町⇒新橋⇒溜池山王と乗り継いで、南北線六本木一丁目にて下車。会場のサントリーホールは、駅出口から100mくらい。受付で余った券を返し、部長一家と前のサブウェイで合流。急いでサンドを平らげる。

部長は奥さんとの間に子供が3人。3人のうち、長男が商学部3年生。今回早稲オケのコンサートに来たのは、部長の長男坊がビオラをやっていると言うのを聞いて、頼んだのである。

さて、いよいよ名門サントリーホールに入る。名前負けする傾向の強い私は、入った途端に何かが違うと思うのだが、単に名前負けしているだけであると思う。何が違うのか分からないし。しかし、大ホールに入ると流石に圧巻で、ステージを囲むように二階席が一周し、二階席の斜面角度は相当急である。正面は三階席まで聳え立つ。部長夫妻は1階席の前から二番目である。私の席は二階席で、ステージ側から見て右側である。ハープが見えない席(下図参照)。部長の子供たちはバラバラの席で、たぶん二階席だと思う。


座ったLA席と、LA席からのステージの眺め
(サントリーホールのweb siteから)

開演は午後7時。客の入りは8割程度で、満席と言うわけではないようだ。

ステージの両翼から、早稲オケのメンバーが楽器を抱えて入ってきた。着席し、主席バイオリニストの4年生が起立し、合図とともに音合わせをする。私にとっては全ての挙動が初めてで、この音合わせにも結構新鮮に感動。その後、満を持して本日の指揮者、曽我大介が入場。拍手。

最初はレオノーレ序曲第三番 作品72a/ベートーヴェンを演奏。勿論知らない曲。この演奏には部長の息子は登場していない(らしい)。で、暫く曲を聞いていて思ったことが、

おいおい、こんな中に部長の息子入って大丈夫なのかよ?

というもの。俺なら逃げる。

二曲目はこれもベートーベンで、交響曲第三番「英雄」。超有名な曲。しかし、超有名だろうがなんだろうが、私は名前しか知らない。ここでメンバーが若干変わり、部長の息子も登場したようである。しかし、顔を知らない私は、二階席から見ても分からない。ビオラの席に座る男を取り敢えず探そうと思ったのだが、案外簡単に見つかった。部長夫妻の様子で分かったのだ。部長から聞いていた背格好からして、恐らく彼に間違いないだろう。本当に、この中で演奏できるのかと思う。

曲が始まった。が、部長の息子の演奏がどうなのかは、よく分かる訳も無い。何人もいる訳だし、ビオラだし。

と言うわけで、この二曲が前半の演奏曲だったのだが、以下箇条書きで素人なりに感想を述べたいと思う:

指揮者 曽我大介

結論から言うと、本日最も素晴らしかったのはこの人である。完全プロだし、国際的にもかなり有名で、ルーマニアでは知らない人はいないと、とヤナから聞いていた。略歴を見ると、桐朋音大を出た後、ルーマニア国立音楽大学を主席卒業。いろんなコンテストでいろんな賞を取っている。賞の権威の程は当然知らないのだが、略歴だけ見ると派手であることに相違ない。

私の席が良かったのもあるが、この人の表情は非常に良く見えた。指揮棒の軌道も当然全て見えるわけであるが、指揮棒の動きは極めて滑らかで、ハッキリ言って指揮棒の軌道と指揮者のゼスチャーを見ていれば、曲の展開が全て分かると言う、非常に初心者にはありがたい指揮ぶりだった。要点が分かりやすい。オーケストラが、この人の「指揮下」に入っていると言うのが、極めてよく分かる。あの席で良かったなと思っていたが、コンサート後で部長の奥さんが、「指揮棒の先から曲が流れて来るような感じだった」などと言う絶賛振りだったので、会場のどこからでも賞賛されていたのかもしれない。

そりゃそうなのか?プロだからって。

弦楽器

楽器の中で今回最も安定していたのは弦楽器である。部長の説明によると、「バイオリンはそれこそ、大学入学前からの経験者揃いで別枠みたいなものらしいぜ」と言うから、まあこの安定さ加減も頷けるような気がする。しかし、大学に入って初めて楽器をいじったとか、そんな経験者が少ないビオラやコントラバスにしても、全く非は見られなかった。まあ、低音だけに素人には分かりにくいのかもしれないけど。

管楽器

逆に管楽器は難しいという印象を受けた。特にホルン、フルート、それから後半で登場したトロンボーンは、音を安定させるのが難しい楽器なんだな、と見ていて痛感した。ちょっと音が外れ(たように聞こえ)ると、「あ痛!」と言う感じ。ただ、その他の木管楽器と、トランペットとバスは良かった。特にクラリネットは美しい音色だったなあ。

打楽器

と言っても、ティンパニくらい。素人目からして叩いているだけに見えるティンパニだが、実は本日、最も注目していた楽器の一つがティンパニだ。ズバリ、間を取るのが極めて難しい。打楽器はリズムが命だぜ、と奏者に言われているようだった。膝の上で真似してみるんだが、この、四分の一歩くらい分の間が掴み辛い。

その他気付いたこと

休み時間、ワインを飲みながら、部長に寝ていたことを突っ込む。しかし部長曰く「前過ぎて実はステージが殆ど見えないんだよ」とのこと。というわけで、部長は二階席の私の隣に座ってきた(空いてた)。

さて後半、席はかなり埋まって、恐らく9割を超えるくらいの入りだったと思う。

後半の曲目はワーグナーのニーベルングの指環より、管弦楽曲抜粋。曇りガラスの向こうは風の谷を連想したが私は、ズブズブの素人。しかし、超有名な曲で、当然私も聞いたことがあった。地獄の黙示録でも出てくるよ。

管弦楽抜粋と言うが、長大(らしい)なニーベルングの指輪の内、管弦楽曲のみを演奏しているものだ。というわけで、前半のベートーヴェンに比べて、管楽器のスタッフが増えている。管楽器の強さが出る曲だ。しかし、前述の通りトロンボーンが最初の方で中々安定しない。やっぱあれかな、長さで調節するから難しいのかな。谷啓なら上手くやるのかな、とか思う。だが、トロンボーンの後を引き継ぐトランペットが爽快感抜群。楽しくなってきた。

途中、弦楽器の低い音が入る。これが上述していた「趣がある」というもの。ビオラとチェロが弾かれているが、ビオラの流れるような低音は必聴。素人の癖に鳥肌が立つ。色々途中で全楽器が一斉に演奏するところもあり、迫力抜群であった(感想手抜き)。

以上、何しろ初めてだけに色々目が行って面白かったのだが、実は本日一貫して考えていたことは、演奏云々より学生生活のことだった。単刀直入に言って、好きなことに全てを打ち込んでいる時代なんだな、などと全然関係の無かった早稲オケを見て思っていた。彼らの真剣そのものの気合の入りまくった顔は、自分の学生時代をも思い出させるものだった。まあ、彼らほど打ち込んだのかと言う議論もあるが。

と言うわけで、大満足で帰宅し、これから年に一回くらいは早稲オケもいいもんだ、と思ったりもしていた(素人だから連続すると飽きるような気がする)。来年は欧州の演奏旅行があるみたいなので、サントリーホールは無いかもしれないが、まあ年に数回やっているみたいだから、今後も行ってみよう。

それから、影響されやすい私は、帰宅後にニーベルングの指環(抜粋)のCDをamazon.co.jpで購入。しかもクリーヴランド管弦楽団とウイーンフィルの奴2枚。

3月16日(土) 週末

金曜日、このままやってもどうせ土曜出勤だと言うわけで、8時に会社を出て、先輩(1年上)とお好み焼きを食いに行く。この人は京都出身で、生まれてから大学院卒業までずっと京都。しかし、課長島耕作に出てくる鈴鴨のような風情は無い。男だからな。お好み焼きひっくり返すのとか得意な方だと自覚しているのだが、何か下手になっていた。途中から仕事の話。

土曜日、7時半くらいに切り上げて、高田馬場のかるび先生(もくもく3号店)に行く。昨年の5月下旬以来のかるび先生であるが、来月も行く予定。尚、本日は塾バイト時代に一緒だった、鈴木先生と一緒に行った。昨年5月の会も鈴木先生と行ったのだが。

その後、二件目で飲んで、11時半くらいに解散。渋谷からは久しぶりの「中央林間行き最終」に乗る。疲れていたので目の前の席が空いたらすぐ座ってしまったのだが、当然寝過ごして、気が付くと二つ先の藤が丘駅到着。

渋谷方面の電車は既に終わっており、タクシーで帰宅。学生時代ですらこのパターンは無かった。こうやって無駄に金を使っていくんだな、と思いながら、246をタクシーで北上。あーあ。

3月24日(日) インシャ・アッラー

別に鶴田真由(32歳)のファンと言うわけじゃないのだが、鶴田真由の書いた「インシャラ」という本を買った。CDケースと同じくらいの大きさで、1300円。インシャラって何だよ、と思ってページをめくってみると、「神の御心のままに」という訳語を鶴田真由が書いている。それを言うならインシャ・アッラーだぜ.....でもまあ、発音するとインシャラーに近くなるような気もしないでは無いな、などと思いつつ、載せられている写真を見ているうちに購入してしまった。


青山ブックセンター本店にはサイン本があった
(私のはサイン本ではない)

この本は鶴田真由がアフガニスタンを旅行した日記のようなものであるが、彼女がこの旅行をしたのは6月中旬から8月下旬にかけてである。ということは、9月11日の結構直前、もっと言うと、私が行くかなり直前に、鶴田真由はあの辺を旅行していたことになる。関係ないけど。本自体は、鶴田真由がテレビ番組でアフガンを訪れたときのものを日記化したものだ。このテレビ番組、私は一瞬だけ見たが、最後までは見ていない。鶴田真由のファンじゃないし。

時期が時期、つまり殆ど全土をタリバンが制圧している時期だったため、当然カーブルとかヘラートなどを訪れることは出来ない。鶴田真由が訪れた「アフガニスタン」は北部同盟支配下の、半島のように突き出た北部地方である。戦闘が開始されたとき、外国メディアがキルギスから大挙して入っていった、あの地域である。あの地域はパシュトゥン人が居住していない地区で、タジク人などが主勢力であると思う。と言うわけで、鶴田真由の旅行の仕方は、アフガニスタンに行ってきたと言うよりも、むしろアフガニスタンにかすって来た、と言う方が正確だと思う。分かりにくい例を出せば、タイのメーサイから国境ちょっと越えて、ミャンマーのメーサイに行ってきた、と言う感じである。ああ、やっぱり分かりにくい。

以上書いてきたとおり、鶴田真由は北部半島(と私が勝手に呼んでいる)内に入るために、ウルムチ経由でカシュガル⇒カラコルムハイウェイ⇒パキスタン北部というルートを取り、北部半島に至っている。

最近までは、アフガニスタンへのアプローチはこのくらいが限界であった。かつてヒッピーが大陸を横断する際、ほぼ必ずと言っていいほど通ったカーブルは、まず間違いなく我々が足を踏み入れることの出来ない首都だったのである。沢木耕太郎だって「深夜特急」で、赤色クーデター前の王政時代のアフガンを通過している(と思う)のである。今のエルサレムなんて目じゃない、カーブルは平壌と並ぶ、いや、その頃はそれ以上の「世界最後の秘境」だったのである。

現在でも局地的に戦闘が続いているものの、私が半年前に危惧していたことが起こって、タリバンは全土からほぼ排除された。今では国連軍が駐留する状態で、北部同盟の軍閥がアフガンのトップに返り咲いていると言う、昨夏の私のパキスタン赴任前には信じられない状態になってしまった。日本のカメラも、普通にカーブルに入っている。カーブルの映像が日本の高性能カメラで見られることは「想像できない」と考えていた人は、私ばかりじゃなかっただろう。いつもラホールからレポートを送っていたAhmed Rashidが、カーブルからレポートを送っているのである。Ahmed Rashid/Lahoreだったのが、Ahmed Rashid/Kabulになっているのだ。

タリバンは予想をはるかに超えるスピードで追いやられた。ここまで脆く崩壊するとは思わなかった。1979年から10年間、アフガンはソ連と戦い、ソ連が疲れ果てて撤退するまで戦った。あたかもアメリカが疲れ果ててベトナムから去ったかの如くである。だから、私はタリバンだって、一度は壊滅しても、すぐにゲリラ戦に切り替わって抗戦するだろうと思っていた。そこで、再び泥沼の紛争になるものと思っていた。

だが、タリバンに以前のような「後押し」は無かった。無尽蔵に兵器兵站を補給してくれるアメリカは、事もあろうか今回は敵であり、今まで惜しみなくタリバンをバックアップしてきたブット/シャリフ文民政権時代のパキスタンは、ムシャラフを首班とする雁字搦めの軍事政権に変わっていた。ソ連は無く、国境沿いの「元ソ連」だった国は、敵の北部同盟と兄弟のような関係の国ばかり。残るサウジも雁字搦めで、最早表立ってサポートする外国は、イラクのみという状況だったと思われる。

色を変えた部分、分かりきったことを淡々と書いているが、ベルリンの壁崩壊くらいの「あり得なさ」を持っているような気がする。個人的に。

振り返ってみると、昨年の9月11日に遡ることが出来るだろう。ニューヨーク世界貿易センタービルにアメリカン航空機とユナイテッド航空機が、客を乗せたまま突っ込み、ペンタゴンにまで突っ込み、乗客乗員どころか、ビル内にいる人々までが死んでしまった。さらに、ニューヨークのランドマークだったツインタワーが、今は無くなっているのである。痛んだから取り壊したのではなくて、自ら倒れて壊れてしまったのだ。そこから、アメリカはアルカイダのオサマ・ビン・ラディン率いるアルカイダのメンバーが犯人で、それを指示したと言うラディンを主犯と見なし、タリバンに引渡しを要求した。タリバンは引渡しを拒否し、アメリカは溜まらず開戦。タリバンはこれに対して徹底抗戦の構えを見せ、アメリカ対タリバンの戦闘は始まった。

戦争はいつも、最初の小さな目標から大きなものになってしまうような気がするのだが、今回もその例に漏れず、途中から何故か対タリバン全面戦争になっていた。ラディン捜索は続けられていたが、報道のされ方は「取り敢えずラディン逮捕が最終目標なんだよ」というのを忘れないようにしているだけのモノのような気さえした。

結局、少ないとはとても言えない犠牲を創出し、殆どアフガン内は平穏化し、少ないとはとても言えない金が復興名目でアフガンに流れることになった。

God bless you. Insha Allah.

馬鹿馬鹿しくなって、帰る途中の溝の口で下車し、本屋でVOW王国を購入した。ページをめくると飛び込む「バカデミー賞 フェラスト・ガンプ 一股一毛(いちこいちげ)」。

馬鹿馬鹿しい〜〜〜。

と言う方法で自分の中で誤魔化しが利けばいいのだが。

尚、途中から本日の主人公であるはずだった鶴田真由が消えてしまった。鶴田真由さん申し訳ありません。

3月25日(月) 携帯電話の電池、寿命が尽きました

朝、最近ではめっきり使わなくなった携帯電話を充電器から外したら、「充電が必要です」というメッセージとともに、いきなり携帯が切れた。え?と思って、もう一度電話を充電器に戻すと、充電量は満タンで、LEDも黄緑色(お腹一杯だぜサイン)を示している。もう一度取り上げて、再度電源を入れると、「充電が必要です」と言うメッセージ。これをさらに2往復ほど続けたのだが、全く同じ状況。というわけで、取り敢えず携帯電話の充電池が切れてしまったようである。この携帯電話の使用歴は二年弱だったと思う。とにかく、死んだも同然の携帯電話は、週末までお蔵入りである。机の上に置いてあるだけだが。果たして機種交換をすべきか.....日本にいるのも、あと二ヶ月。

家を出るとき、親から「今日はご飯外で食べてきて」と言われた。「今日は(弟の)卒業式だから」と言って来た。卒業式に出るから、その後は都内で飯を食ってくる、と言うのだろう。弟は当然、友達と夜通し飲むと言う、私もやったことをやるのだろうが。

とういうわけで、本日は2001年度の早稲田大学卒業式である。私が大学を卒業してから2年が経ったわけであるが、正直言ってあんまり早いとは思わない。まあ、遠い昔とは思わないが、卒業してこの2年で色々起きたし、総じて退屈と言う日々でもなかったと思うし。など言うのが、卒業以来本日に至るまでの感想である。

出社して、普通に仕事をする。プリントアウトして、プリンターのところに行く。私のパソコンからつないでいるプリンターは、部長の机の横に置いてある。紙を待つ間、部長に「今日ウチの弟卒業式ですよ」と声をかけると。すると部長は、「おう、ウチの息子も今日は演奏だってんで、昨日から友達の下宿に泊まっているぞ」と言う。3月13日の日記にもあるように、部長の息子は早稲オケのメンバーなので、卒業式では記念会堂の前の方で演奏をするのである。「校歌とか紺碧の空をやるって言ってたぞ」と部長に言われ、果たして紺碧の空なんて歌ったっけな?と思い出そうとする。

昼休み、建築部のMと昼飯を食う。今日Mと飯を食うのは、建築部が何をしているのかを聞き出すためである。今週の水曜、私は早稲田大学大久保キャンパス51号館16階土木工学科会議室で、就職活動中の土木・建築学生向けに、会社の説明会をやる予定なのである。しかし、建築の学生向けにウチの会社の建築の連中が泣いをしているのか知らないと言うのは具合が悪いと言うわけで、Mに何やっているのかを聞こうと思ったのだ。会社の近くのいつも何故か空いているアジア料理屋で、昼飯食いながらインタビュー。

昼後、業務を続け、夜8時になった段階で説明会の資料を作り始める。と言っても、これは昨日から作り続けているもので、あとは建築部の連中が何やっているかを書き込むだけである。私が設計したパイプラックの最新の写真も、マレーシアの現場に赴任している同期から送ってもらったので、それも載っける。

夜10時、資料完成。帰宅。

帰宅すると、親の部屋の前にWASEDAと書いてある臙脂色の紙袋が置いてある。

部屋に戻ると、やっぱり携帯電話の電池は回復していなかった。

3月27日(水) 凄雨

久しぶり、でもない学校訪問。本日は説明会をしに母校へ行った。午前中は会社に行き、昼前にパソコンを閉じて「人狩りに母校へ行ってきます」と張り紙をディスプレイに貼って外出。会社の前の文明堂で研究室向けにカステラを買う。1研究室あたり3000円までOKなので、3000円の「金カステラ」とか言う、桐箱に入ったカステラを購入。桐箱に入っているので、妙に重い。しかも本日は、発表用にパソコンまで持ってきた。ダブル重い。研究室のパソコンで十分だった、というのは学校に着いてから思い知る。

凄い雨。文明堂は雨向けにビニールで周りを囲んでくれた。よく気がつくな。

湘南新宿ラインという、東海道線から横須賀線・貨物線経由で東北線・高崎線に抜けるルートで、新宿乗換えの新大久保へ。凄い勢いで松屋牛丼(並)を平らげ、いざ学校へ。

すでにプロジェクタはセットされている。接続。バイオの電源ON。

XPには対応していないのでしょうか。全然映し出されませんよ。

3月30日(土) 天気:晴⇒雨 文系就職への道からどんどん離れて何か全然関係ない話へ

<阪大調査>生涯所得 文系が理系を5000万円上回る
 文系出身者と理系出身者の生涯所得の差は、最大で一戸建て1軒分に相当する5000万円になりうることが、松繁寿和・大阪大大学院国際公共政策研究科助教授(労働経済学)らの約1万5000人の大学卒業生を対象にした調査で分かった。上場企業の役員の年収については、理系は文系より約40万円低いという調査はあったが、就職から定年までの所得格差を大規模に調べたのは初めてという。

リクルーターとして学校に行って就職担当の先生に聞いたのだが、最近は文系就職が私の頃より格段に増えているらしい。理由は簡単で、目の前の建設業界再編を見たり、将来的に市場が縮小したりで、先行きに夢を見出せない、という分かりやすいものである。リストラリストラで、残った社員は安い給料でこき使われるのが嫌だ(そら嫌だわなあ)とか、そう言うのが理由でもある。人気があると言うか、希望が多いのが銀行や商社などで、そっちだってボロボロじゃねえかと思うのだが、建設業界よりはまだマシかという感じでもあるのかも知れない。その他、文系とは言えないと思うが、IT関連(SEとか?)企業などへの希望もあるらしい。

土木系の就職にしても、ゼネコンは大手4社(鹿島・清水・大成・大林、なお竹中工務店は99%建築なので土木の就職先ではない)には希望者がいるものの、その他の準大手や中堅は殆ど希望者がいないらしい。私の頃でもゼネコンは人気が無かったが、それでも前田・西松・戸田(も建築メインだが)、それから五洋とかには大学院からでも志望者はいたのである。

私の頃は、設計コンサルの人気が高かった。有名どころでは日本工営(違うところで有名になったが)とか、パシフィックコンサルタンツ、オリエンタルコンサルタンツ、建設技術研究所、長大、などである。何をやっている会社かというと、私も良く知らんのだが…。最近は土建沈没の煽りを受けて、というよりそもそも土建業界なので、希望する学生も急速に縮小。恐らく採用担当も頭を抱えていると思われる。まあ、あんまり募集もしていないような気がするが。

では、土木系で人気のある業種は何か?これはいつもと同じで、電力・ガスなどのエネルギー系とか、役所とか。伝統的に役所はあまり多くないのが特徴だったのだが、最近は地方公務員というのが人気がある。夢や希望があるのかは不明なのだが、安定していると言うのが理由の一つだろう。それから鉄道。JRの本州3社は人気が高いが、そのうち東日本と東海は大激戦区である。安定してるからなあ。いきなり「フランス国鉄が東海道新幹線に並行するようにTGVを走らせる事業計画を発表した。新TGVは営業最高速度を350km/hとし、東京-大阪間を最速2時間弱で結ぶ計画である。」とかならないだろうし。

私のいるエンジニアリング業界はどうかと言うと、人気があるとか言う問題以前に、全く知名度が低い。そもそも我々の業界は、従業員の数だけ言えば化学系と機械系がメインであり、土木・建築は第三勢力である。2002年の採用予定は50人ということだが、土木・建築で5名である。私の頃は土建で3人取ると聞いてギャグかと思ったが、採用を回復させても5人しか取らないと言うことは、何とも間口の狭い枠である。それに、国内のエンジニアリング会社はウチを入れて僅かに3社。3社合わせても恐らく今年の採用枠は土建で8名程度だろう。土木系の学生だけで、国内には1学年1万人の学生がいて、建築を合わせたらその倍は余裕で超える中で、8名の枠。私の頃は他の二社が採用を停止したので、全国で3名。これではメジャーになるはずも無い。リクルーターで説明会に行って、まず最初に「何をする業界(会社じゃなく)なのか?」から説明しなければならない。選択肢として名前が浮上することもあまり無い会社だと思う。私にしても、最初の動機は先生に勧められたからだし。

文理間の所得格差の理由として、理系の主な就職先がメーカーなのに対し、文系は金融機関などで、就職した企業の賃金体系の違いが挙げられる。また、企業の中で、理系より文系の方が昇進しやすい点も指摘される。

収入、と言う点では、確かに文系就職の方がいいのかもしれない。理系社員の私としては眩暈を禁じえない事実であるが、確かにメーカーと銀行では全く違うだろうし、技術職が昇進と言うのも、何だかあんまり信用できないような気がする。技術バカが経営なんて出来るか、なんて自分に対して言ってみたりして。無い話じゃ無いが。まあ、収入だけで言ったら外資なんてもっと凄いだろう。クソ製造業・クソ建設業の技術バカと、外資のエリートの差なんて、多分居住区が変わってくるというレベルではないか。正に住む世界が違う。お前が日本国内で飲んで良い街は馬場か野毛である、みたいな。人種隔離政策かい。

 松繁助教授は「科学技術立国をめざす日本にとって、新産業の育成が不可欠だが、そのためには技術者の意欲を高めなければならない。理系出身者の待遇を見直すべきだ」と話している。

もはや科学技術立国なんて時代遅れという感じがしないでも無いが、確かに科学技術以外で日本は何が得意なのだろうか。会社に入るまで「日本の技術力は世界最高である」等と言う本当かどうかよく分からない言葉を聞いていたが、会社に入ると確かにそうだと思い始めてきた。と言うより、技術で言うと世界のレベルは何かイマイチ。もっと出来るだろうに、とか思うこともしばしばである。お前本気でやってないだろ、みたいな。日本の技術レベルが高いのは、気味悪いほど大量に、ハイレベルな技術者を抱えているという事実があるからだと思うが、何故かと言うのはリー・クアンユーの著作(リー・クアンユー回顧録の下巻)での記述と、私の会社での毎日の経験から言えることだ。

 実際、日本人は優れた特質を持っていると私は思う。ユニークな文化の中で、ブロックのように互いがピタリと適合する。一対一ならば、中国人でも日本人と競い合えるかもしれない。しかし、工場の生産チームのような集団となると、日本人を打ち負かすのは難しいだろう。
 67年、私は石川島播磨重工業(IHI)の横浜造船所を訪ねた。IHIはシンガポールのジュロン造船所で共同事業のパートナーだった。工場責任者の真藤恒
(後のIHI社長で、さらに後に電電公社総帥およびNTT初代社長に就任し、さらに後にリクルート事件で逮捕)はどっしりした体にエネルギーが満ち溢れていた。彼は傑出したエンジニアだったが、ゴム長靴を履き、固い帽子をかぶっていた。私も同じいでたちになり、工場見学に出かけた。真藤は工場のことは隅から隅まで知り尽くし、次々と英語で解説していった。造船所の労働者たちはよく働き、動きもきびきびとしていた。
 再び部屋に戻り、食事をとりながら真藤は日本と英国の経営スタイルの違いについて説明した。日本の場合、幹部社員もエンジニアも最初は工場の作業場に配置されて仕事をする。将来上に立って労働者を効率的に導くには、まず現場を理解する必要があるからだ。英国式だと、造船所の幹部連はじゅうたんの敷かれた部屋に座って仕事をするだけで、作業現場へ下りて行くことはない。これはモラールや生産性向上の面でよくない、と真藤は言っていた。
 同じ年に英国のスワン・アンド・ハンター社の造船所を訪ねたが、IHIとは対照的だった。ジョン・ハンターが案内してくれたが、彼のいでたちはきれいなスーツと美しく磨き上げた革靴であった。我々は工場までロールスロイスに乗っていった。油にまみれた仕事場を歩いて、ベトベトしたものが靴に付着した。IHIの横浜工場では床にそんな油があるとは気づかなかった。車の中へ戻るとき私は一瞬どうすべきかためらった。ハンターは違う。彼は靴底を床に擦りつけ、車の中に入ってからさらに残りの油を床のベージュ色のじゅうたんになすりつけてきれいにしたのである。私にも同じことをするように進めた。恐らく私が驚いた顔をしていたのだろう。ハンターは「従業員が洗剤で洗いますよ」と言った。我々が車に乗って戻ったのは彼の職場ではなく、ゴスフォース・ホテルだった。ここで美味しい食事をとったあとゴルフを楽しんだ。英国の経営幹部はどこまでも上流風のやり方なのである。

入社して以来、私は毎日のように上司からアドバイスや直接的な指導を受けている。設計の計算手法から図面の体裁から、プロジェクトの勝負どころまで、様々である。上司は鉛筆や製図用のシャープペンを持って、コピーの裏紙に次々とスケッチを描いていき、こうなると溶接棒が入らないからこの接合法じゃダメなんだとか、こうなるとここに熱応力荷重による力が集中してしまうから、このようにアレンジした方が力が逃げるんだとか、とにかく具体的な指導を私に施す。これが海外では驚くほど無いのである。海外の会社は完全な階級社会で、上の人間が下の人間を指導するなど、それほど無い。欧米や欧米の植民地だった国々は、この階級社会的な思考が根付いており、技術の伝承などはスムーズに行っているとは言い難い。日本は学生時代に理系の学生でも結構遊び呆けて、殆ど何も知らない状態で会社に入ってエンジニアとして仕事をしていくにもかかわらず、数年経つと技術レベルで欧米のエンジニアを凌駕し始める。これは実戦で鍛えに鍛えぬいた先輩エンジニアが、技術の伝承に注力すると言う方法が日本では普通に行われているからである。階級の違いの意識の乏しい日本は、上の人間が油まみれで下の人間にモノを教えるなど、当たり前のことなのである。これが欧米などではあまり無いそうなのだ。現在、フランスの同業テクニップ社に交換研修で滞在している先輩の話を聞いても、こんなことは無いのだという。

弊社子会社にしてもそうだ。日本の親会社の上司が、私に教えるのと同じように、子会社の社員に教え込むのだが、子会社の上の人間が下の人間を教えると言う姿は、私は見たことが無い。私が経験8年の子会社のエンジニアに計算の依頼を出したのだが、彼は経験2年目の私にチェックで引っかかる。あと数年すれば、私は欧米のエンジニアを馬鹿に出来るくらいのレベルに達すると思う。なぜなら、私は経験20年に及ぶ何人ものエンジニアの指導を、毎日ハードに受けているからである。こんな奴が何万人もいるわけだから、日本の技術力は他の国に比べて特異と言うのは分かると思う。

マレーシアに出張したとき、華僑の経営する設計事務所を訪れた。昼飯が終わってダラダラしていたら、事務所の社長を含んだトップの連中(と言っても若い奴ら)が話しかけてきた。そこで、何故日本が戦後あれだけの回復をしたのかを知りたいから、英語で明快に説明している本を紹介してくれ、と言われた。アジアの国の人たちによく聞かれるのだが、英語で解説した本なんて五万とあるが紹介しろと言われても英語のそんな本は読んだこと無いから、本の名前など出てこない。その時、リー・クアンユーのあの本を思い出して、これを紹介した記憶がある。私の毎日の経験を補足として説明しながらである。彼らは明らかに私の話を熱心に聞いていた。適当に聞き流していたとは思わない。日本のやり方が彼らと違うこと、それが効率的だということは、分かってもらえたと思う。

とは言うものの、日本の現状は頭打ちだとも思う。理由は日本人の賃金が、外資に比べてアパルトヘイト並にも関わらず、やっぱり無茶苦茶高いからである。まあ賃金だけじゃなくて、色々余計なコストもかかっていると思うのだが、やはり賃金が原因の一つであると思う。そりゃこれだけのエンジニアを抱えてこれだけのレベルで賃金レベルがフィリピンと一緒だったら、他の国は破産してしまうような気がする。団塊の世代が高給取りになってわんさかいるというのも、過去の栄光と引き換えの現状の難しさだと思う。というわけで、日本の技術陣の陣容は、明らかに質量ともに過剰である。正直言って、ここまでのレベルはこの世の中には全く必要で無い、困った高水準と言えるかも知れない。船造るにも日本人のチームが造るものは凄いレベルだが、値段も凄いレベル。このレベルの要求は、恐らく世の中には存在しないレベルである。つまり、ちょっと行き過ぎてしまっていると言う面があると思う。巷で言われている通りだが。

技術陣はリストラを開始し、海外の安い賃金国に仕事を流している。これは欧米の企業もやっていて、欧米の同業他社も取り組んでいることである。欧米は質は大したこと無い割に、賃金は高いからそうせざるを得ないのだと思う。しかし、日本人は外国人と仕事をするのがあまり得意とは言えず、ハッキリ言ってウチは子会社をあまり上手く使えていないような気がする。つうことはつまり、リー・クアンユーの言う、

日本の文化は素晴らしくとも、実に異質である。しかし、文化の異なる多くの民族によって構成される世界に適合するには、日本人はさらに変わらなければなるまい。

と言うのが、取り組むべき課題なのだろうか。そのためには、指導できるほどの技術力が無ければならない⇒経験豊富なエンジニアはやはり必要⇒指導を受けた若いエンジニアは、海外で活躍する必要がある、となる必要があるのだろうか。

これはミクロな「私の会社」な視点からの考えで、マクロな日本からの視点はどうすればいいのか?技術以外に頼りになる何かは無いのか?

文系就職の議論はどうなった。

尚、本日から天気を併記することにしました。

4月1日(月) 天気:晴 横浜市長に中田宏氏当選

横浜市長に中田宏氏が当選した。朝、通勤途中に日経を買い、帰宅後に朝日を見て、市長選如きでこんなに大きな扱いになるのかと驚く反面、紙面的に内容がかなり似通っているという点が目に付いた。会社で中田宏のホームページ(URLがこともあろうかhttp://www.nakada.net ちなみに、パルマ中田のページはhttp://www.nakata.netで酷似)を見ると、新聞各社の記事にリンクが張ってあった。そこで各サイトの内容を全て読んだのだが、内容的には押しなべて殆ど同じという論調。産経新聞でさえ言葉尻を若干変えるだけであったように思う。

今回の選挙に対する新聞各紙の論調は、取り敢えず以下の点で共通していると思う:

各紙は遅れて出馬した中田氏に対し、上記のような追い風が吹いたから当選できた、みたいな論調を展開している。確かに、これらの追い風はあっただろうし、これらが無ければ中田市長は誕生しなかったかもしれない。何しろ、差は僅かに2万票であるわけだし。しかし、朝日新聞がごくごく一部の市民の声を表にまとめたものがあったのだが、その中には上記3つに触れている市民の声は、あまり無い。また、本文中にしても「多選はダメ」という論調は書いているが、声は書いていない。じゃあ、中田宏に投票した市民の本当の気持ちは、一体何だろうか?

前職高秀秀信は、かつての鈴木東京都知事のような存在だった。大型開発を推進し、みなとみらい地区の開発、港北ニュータウン開発、港湾部の復興、市営地下鉄の延伸、ワールドカップ決勝の誘致など、派手さで言ったら枚挙に暇が無い。例えば私の働いているみなとみらいにしてみると、まだ開発は5分の一くらいしか済んでいないにもかかわらず、年間で3000万人の人を集める「珍しく成功した新都心開発」として、かなり評価が高い(やったのは三菱地所のような気がするが)。私は毎日、横浜市営地下鉄に乗って、みなとみらいにある会社に通っている。2つのでかいプロジェクトに乗って、私は生きている、というのは若干大げさのような気がするが....。その他、ワールドカップにしても、殆ど誘致に全力を注ぐために建設した横浜国際競技場などは、かなりの質を誇る競技場である。また、新横浜駅前の開発なども、個人的にはよくやっているような気がする。

高秀市長は元建設官僚で、市長に転じてからは先進的な地方自治論者として有名だったと思う。横浜を舞台にした永瀬正敏主演の「濱マイクシリーズ」にも、マイクに市長表彰をする写真で出ている。彼は言ってみれば横浜の顔であった。

とは言うものの、高秀市長は敗れ去った。4期目で多選はいかんでダメになったのか、与党支持が仇になったのかは分からないが、私が思うにハッキリしているのは、別に多選自体が悪いわけでもなく、与党に支持されているのが悪い訳でもなく、単に得意分野が現在の市民の欲することとズレていたというのが本当のところじゃないか、というものである。つまり、今後は派手なあなたは必要ない、というものだったのでは無いか。

港北ニュータウンやその周縁部は私の会社の人も住んでいる。横浜に近くて便利な地域だ。人口も順調に増加して、若くて活気のある街づくりは進んでいるようには見える。

私の上司の話。

昨年のある日、私の上司は、「明日息子の幼稚園の手続きに行くから、ちょっと会社遅れるよ」、と言ってその日は帰っていった。翌朝、上司が普段どおりの時間に机に座って仕事をしているので、「奥さんに手続きは任せたんですか?」と聞いてみた。そしたら、「もう一杯で手続き出来なかったんだ」、と返してきたのである。すかさず私は「うわ〜、寝坊したんですか、まずいですよそれは」と言うと、上司がこう言ったのである。

「いや、寝坊どころか朝5時に行って並んだんだけど、凄い行列でさ。で、受付は早く始まったんだけど、結局全然定員に入れなくて、それで今年は無しと言うことになったんだ」

私は凄い名門の幼稚園に入れようと思ったんだろうな、と思ったのだが、上司曰く「いや、お寺の幼稚園だぜ」と言うではないか。

「もう来年は徹夜だよ。じゃねえとウチの息子は幼稚園に入れない。」

と言って、ウンザリした様子で仕事を続けるのだった。

この問題は何も今に始まった話でなく、言ってみれば数年間放置された問題であった。これは一例だが、このような「大型開発の大雑把さ」という課題を残したまま、新しい開発新しい開発に着手がなされているのが、高秀市政だったと思う。参考書が終わっていないのに、何か別の参考書に手を出す、みたいな。おいおい、問題は全部解いていないだろ、と言う感じ。その証拠として、上掲した開発の殆どは、何一つとして完全に終わっていない。新しい開発に予算を計上し、結果として横浜市の住民税は、気が遠くなるほど高くなっている。高い市税を払って、享受するのが徹夜で並ぶ幼稚園の手続きである。

別に中田宏に代わったからって、高秀市政と変わるかどうかは分からない。しかし、明らかに分かっていることは、高秀市政ではこのまま変わらないということである。

人口が増えている横浜北部での中田宏の支持率は高かった。彼にとっては地盤だったと言うのもあるし、選挙区の住民も中田宏の顔はよく知っている(よく街頭演説してるからな)。ただ、地盤だったからと言う理由だけで、北部からの支持を得たとは思わない。何しろ新興住宅街で、「地盤」なんて言う時代遅れっぽい単語は全く似合わない土地だし。

北部の有権者は、高秀市政の恩恵を受けながら、その中途半端な姿勢にいらだっていたと思う。つまり、この人のままじゃダメだ、というのをよく分かっていたと思う。ダメと分かっているなら、違う人にやってもらって可能性にかける、となったような気がしないでもない。

つまり、高秀市長の時代は、もう終わっていると言うのが、今回の市長選の結果だったと思う。悲しいことかもしれないが。

今後、中田宏が取り組むのは、必要なものの整備、中途半端なプロジェクトの整理、であると思う。別に市長の交際費なんて公開しなくていいから、一生懸命やって欲しい。

4月2日(火) 天気:晴 地震があるんだか無いんだかで大揺れ

本日は建築の学生のOB訪問を受けた。12:00に受付前に来て下さいと言ったのだが、12:00に私の携帯が鳴る。というより、ブルブルする。

「すみません、今横浜駅なんです。」

おいおい、いきなり遅刻かよ。まあいいや、今横浜なら15分くらいで会社に着くだろう。

だが、受付で待てど暮らせど一向に来ない。建築だから建築部の同期に話してもらおうと頼んだのに。同期は「迷ってんじゃねえか。全く、迷ってるんだったら迷ってるで電話して来いってんだよ」と偉くご立腹。「結局そんなことも出来ない奴ってことか」とか、怒りはエスカレート。

25分くらい経って、ようやく現れた。開口一番、

「いやあ、申し訳ありません、横浜にあるものと思って間違えて降りてしまったのですが、無くて」

って、そりゃ無えに決まってんだろ。訪問する会社の最寄り駅くらい調べとけってんだよ。みなとみらいにあるってこの前渡した名刺にあるだろうが。

まあまあ、みなとみらい地区の下車駅が桜木町だってことを知らなかったんじゃないですか、そんなに怒りなさるな、と人は言うかもしれない。しかし、そんな庇い文句に耳を傾ける料簡は私には無い。

理由は、彼が都市工学専攻だから。しかも他に回っている会社は、三菱地所とかのデベロッパー。都市工学専攻してて、デベロッパー希望もしてて、開発済みのみなとみらい地区が桜木町駅の近くにあることを知らないなんて、言語道断だバカ野郎!

4月3日(水) 天気:スモッグ 週末虎燕対決や如何に

昨日、同じチームで一年先輩のSさん(生まれてから大学院卒業までずっと京都)は、6時にそそくさと帰っていった。隣の駅にある横浜スタジアムでタイガース対ベイスターズの試合を見るためだった。

翌日の今日、喉を嗄らしたSさんが出社して来た。

「もう、横浜公園(スタジアムのある公園)で試合後何度も六甲おろし歌ったで。」

開幕二連勝で「もう今年は優勝」と何度も言っているSさん。「今日は勝ちますかね」とSさんに聞いたら、「いや、もう優勝でしょう」と、答えになっていない。

週末は苦手のスワローズと対戦する猛虎(もうこと打ったら蒙古しか出て来ねえ)。週末のスワローズ戦で3連勝したら、今年の阪神は優勝するかもしれない。

そうはイカの金玉だがな(ヤクルトファン)。

4月4日(木) 天気:会社から富士山くっきり 会計係

4月12日の夜に会社を出発して、13,14と会社の保養施設に行くことになっております。参加者は18人という大規模なもので、私は「一発芸チーフ」という意味不明な役職を貰って幹事会に参加している。で、結局会計押し付けられてるんですけど。

会社の保養施設は伊豆高原にある奴で、リストラの一環で今年のゴールデンウイークにウチの会社は手放すそうである。バブルのときに作ったもので、バブルの遺産はこれで本社ビルだけとなるのではないか。そうでもねえか。まあ、保養施設の恩恵に殆ど浴していない私たちは、手放す前に行ってみよう、となったのである。

昼休みにミーティングとかをして、2泊する人は10,000円、1泊で帰る人は5,000円と言うことに決定し、昨夜参加者にその旨メールを打って帰宅した。

翌朝の本日、メールを開けるとそれに関するメールがぶわっと入っている。その中の一つが、一泊コースで帰る、年次が上の子会社の女性社員からのものだった。

「私たちは二日目のバーべQにも出ないのに5,000円も払うのですか?金曜の夜は伊豆高原荘ではしゃごうと思っていたのですが、これでは参加自体を皆(同期の3人で参加予定だった)と相談しようと思います」

だったら来ないでよし。第一俺は前からお前らバカ女は大嫌いなんだよ。おいN、何で誘ったんだよ。

と言いたいところではあったのだが、当然言うはずも無い。既に幹事会の連中が「どうするよ」メールを数通送って来ている。取り敢えず、

「その値段ならお前のトゥクトゥクには乗らない、と学生に言われて、慌てて『マスター、待ってくれ、安くするよ!』と言って学生を追いかけるタイのトゥクトゥクドライバーのようで嫌なんだが、値下げしますか」

という相変わらず分かりにくい比喩を用いて、幹事会に打診した。

午前中はこれ関連のメールが凄い勢いで私のところに集まって来た。仕事にならんぞ。

昼前、取り敢えずの決着を得て、1泊コースの人は3,000円に設定することにした。で、昼後に嫌味なほど丁寧なメールを参加者全員向けに打ち、最後に

「以上に関しまして異論・反論のございます方は、何なりと私のほうまで連絡頂くようお願い申し上げます。即刻幹事会に上程し、臨時予算委員会を招集いたします」

と、非常に異論反論をしにくい捨て台詞で締めくくった。その後、二泊する女性陣(同期)に、残ったら女性陣に優先的に返金する旨を連絡し(てゆうか男は返金なんて無しだ)、一応の決着をつけることにした。

そしたら、

「みんなと相談したのですが、せっかくなんでバーベキューまで参加することします。となると、会費はちょっと高くなりますよね?」

結局、会費は5,000円になった。

伊豆から台湾人あたりのブローカー使って、日本人女3人を南の国に売り払うと言う方法を知っている方、早急に私まで連絡下さい。

4月5日(金) 天気:またもや富士山くっきり 負けた!

阪神〜〜〜〜〜〜〜〜!

お前には負けたぜ…。

4月6日(土) 天気:晴 また負けた!

最近はしょっちゅうでもなくなった土曜出勤。本日は3月16日以来。まあ実際は、昨日飲み会があって早々に会社出て全然仕事終わってねえっていうことなのだが。

本日は会社に行く途中、色々「今日はついてねえな」というようなイベントが立て続けに起きて、若干不機嫌になりながら会社到着。そしてメールを開けて、パキスタンからの甘ったれたメールを見るや否や、やや切れ。今回のプロジェクトの向こうの責任者は、こっちで言うところの次長と言うか、部長代行というか、つまり部のマネージメントに所属する人間で、普段は実働プロジェクトを担当しない人間だ。つまりオッサンだ。本来なら「お前はすっこんでろ」という地位にいる大尽だ。

やる気がねえなら若い奴に替えるぞ。

と言うほど理不尽に不機嫌だった。

インターネットを見ていたら、阪神が勝った、いや、阪神に負けたという情報が踊っている。ムーアのポーズが決まっている。クソ。

シェリル・クロウのCDを買ったのだが、シェリル・クロウってもう40歳なの?

4月14日(日) 晴 伊豆高原に行ってきた

会社の保養施設が伊豆高原(伊東のちょっと南)にあるのだが、そこに同期と総勢18人くらいで金曜夜出発で行ってきた。同期以外には同期の奥さんとか彼女、それから今すぐに死んでいい子会社のクソ3人(1年上)。伊豆高原のこの施設は、来るゴールデンウイークにリストラの一環で手放す予定。

天候に恵まれたし、非常に楽しかった。海辺のドライブも快適千万で、車を買いたくなった。

しかし、気に入らないのは一泊で帰ったクソ3人のチェックアウト後の部屋が凄かったこと。チェックアウト後、彼女たちの部屋は我々が引き続き使用したのであるが、部屋に行くと布団は完全に敷きっ放しで、浴衣脱ぎっ放し。と書くと若干エロいが、要はそのままで帰りやがったということである。

ここはホテルじゃねえんだよ。手早く死ね。

帰りは相模原に住む同期Fに南町田(国道16号線とクロスする位置にある田園都市線の駅)まで送ってもらい、長津田で一旦下車してみどりの窓口へ。来週は母親の実家(富山)に行って爺さんの顔を拝んでこようと思っているのだが、そのための新幹線・特急指定席券を確保しに行ったのだ。

往復グリーン車にしてしまいました。

4月16日(火) 曇気味 新作ドイツ映画es と言っても原題はDas Experimentで、邦訳すると「ザ・実験」とでもなるのだろうか

汗だくの出社、といってもミーティングに遅れそうになったわけじゃなくて、単に地下鉄内が妙に暑かっただけであるのだが。いつも9時半くらいに出社する私は、1時間早い8時半に出社。早いとやはり電車は混んでいるんだな、とラッシュを殆ど経験しない毎日の私は今日そんなことを思う。混んでるっても、全然座ってるんですけどね。

8時55分くらいに先輩のSさんが汗だくで出社。遅刻寸前であった。

9時、土耳古の業者が来ない。汗が乾いたSさんが

「そうだよな、土耳古人が時間を守るわけねえよな…」

とパソコンの画面を見ながら涼しく言ったのが妙に印象的だった。

4月19日(金) 天気:晴 飲みに行っちまった

明日田舎に行くのに!

富山に行ったのは大学1年夏休み、つまり1994年の夏が最後である。次の赴任が若干長いので、ひょっとしたら爺さんにもう会えなくなってしまうんじゃないか、という感触を抱いた私は、まだあんまり忙しくない4月中に富山に行くことを決意した。そんな決意が要る行為じゃないが。

4月28日(日) 晴 飲み会

今日は1日中飲み会といって過言で無い日である。と言っても、飲みとカラオケで2時から10時まで、8時間で会は終わった。

今回の飲み会は、私が学生時代にバイトしていた某塾のT校の集まりだが、今春でこの某校で業務をする人はいなくなり、某塾で働く人も2人だけになってしまった。

この校舎の飲み会は非定期に何度かやっているが、今回の集まった目的は校舎で働いていた二人(超主力講師同士)が結婚することになったこと、結婚して今は主婦兼時間講師になっている元課長がオメデタということ、あとは私のパキスタン行きを慰める、などの筈。

出席者は、
Y校長一家 塾内で最大校舎の一つK校現校長で元我がT校校長。今年から副ブロック長という役職拝命で出世 子供は二人
U元課長 塾内で出世頭だった旧姓S課長だが、時間講師のU先生(面識無し)と結婚して現在妊娠中 早大バレーボール部出身
K夫妻 K講師と旧姓Y講師のデュオで、当時から散々噂にされていたのに本人たちは関係を一切否定し続けていたが、めでたく先月入籍。Y師は寿退社。K師は現在浜崎あゆみと定期的に会う仕事(ツーカーの広告マン)
K講師(数学)一家 文句将軍1号 常に本部との抗争に明け暮れていた異端分子 T校数学講師としては実績一番 現在資生堂で研究開発に従事
H講師(国語) 文句将軍2号 常に本部との抗争に明け暮れていた異端分子 私とは3年連続で横で組んだ、最も教務を一緒にやった人 実力者 いつもメールに重い娘の写真を添付してくる
S講師(国語) 文句将軍3号 常に本部との抗争に明け暮れていた異端分子 いつもかるび先生に一緒に行く人で、今更説明する必要もない。毎日このページを見ているそうだ。毎日チェックしている人は最早S先生くらいだろう。多分。今春で塾を去る。
I講師(理科、私じゃない) 理科講師。いつもこの会に極めて美しくて愛想の無い彼女を連れてくるが、今回は彼女の体調が悪くて機嫌も最凶に悪くて欠席
O講師(数学) よく覚えていない
H講師(国語、社会) 若手じゃないのだが、いつまでたっても若手。氷川きよしにそっくり。現在は県下を拠点とするJ予備校にて教務職として奉職。木曜日に横浜校(高島町にある)にて数コマあるらしい。弊社から歩いて15分くらい。飲みに誘う。
N講師夫妻(色々) N先生、何か若くなったんじゃないですか?奥さんは変わりません。
私(数学、理科)

最初は2時から焼き鳥屋でいきなり飲み放題。だが、昼飯を食っていないので、まずはメシを食う。その後、普通の飲み会。

今回のメインはK夫妻(双方昭和49年生まれで同い年)の入籍おめでとうであったので、K夫妻の話などが話題に上がる。笑ったのはK夫人の話だ。

K夫人は出身が富山で、高校が私の爺さんと従姉妹二人と同じと言う人だ。そんなことは関係ないが、講師当時から富山ネタでローカルに盛り上がっていた経緯がある。そのK夫人、塾内では人気が高く、言い寄られることもしょっちゅうであった。しかし、まー何て言うの、おいおいという人たちから言い寄られるケースが多かったようである(全員が全員と言う訳ではない)。理由なのだが、これは鈴木先生、って実名出しているが、の分析が私も言い当てていると思う。

K夫人は見かけが派手でなく(全く化粧をしない)、さらに結構真面目に見える。それでいて本人曰く可愛いので(可哀相に…)、派手な女の子には手が出ないものの、清楚な感じ(プ)のK夫人に勝手な幻想を抱く人が多い、と言うのだ。

言い得て妙である。確かにそんな感じで、言い寄ってくる男性陣は、目も当てられないナイスガイばかり。おい、ストーカーは一定を踏み越えると犯罪だぞ、と教えてあげたくなってしまう程である。歴戦の話は端折るが、いやあ、安全カミソリはもうちょっとマシなモノでやらないと、肌が切れるからなあ、など様々だ(危ない話ではない)。

というK夫人だが、旦那は全日本の武藤に似たナイスガイである。当然、K夫人を「よく」分かっている人だ。旦那Kは生徒に告白とかされて参っているという時期もありながら。

3時間くらい飲んで、じゃあカラオケに行きましょうと言ってカラオケへ。ここで5時間いたというのが凄い。以前、サークルの二年先輩とやった6時間カラオケ以来の長さである。といっても、別に歌い続けたわけではない。私はY校長の息子の相手をずっとしていた。いや、可愛くて。

Y校長の息子は今3歳だ。幼稚園に入園して、今は年少組になるのかな。すみれ組に所属のナイスガイだ。私が塾にいたころに生まれて、それ以来のY校長の親バカ振りといったら目も当てられないほどである。何しろ、息子に「父」と呼ばせているのである。「あの人誰?」と聞いてみると、「父」と答えるのである。

私は途中からずっと膝に彼を載せて、彼とコミュニケートを続ける。ピースサインとか親指立てるものとかを真似させたが、どうしても出来ないのが人差し指と中指と付け、薬指と小指をつけて、両者で広げて見せるバルタン星人の手である。あんまりやるとフラストレーションが溜まって白髪まみれになってしまうようなきがしたので、途中でやめたが。まあしかし、子供が欲しくなった。これはマジで可愛い。

結局10時で散会となった。帰ってきたら白石から入籍の報告が入っていた。3月30日入籍ってのがまたあれですね。報告遅いと言うか。一部には報告なされていたようですが、私にはなされていません。

5月3日(金) 晴 憲法記念日

本日は一日中家にいた。と言うのも、体調が頗る悪くて、外に出る気も起きなかったからである。体調不良(てゆうか風邪)は一昨日の飲み会に起因している。何となく疲れているなあ、と思っている状況で、一次会上大岡事務所飲み⇒二次会飲み屋⇒三次会あざみ野かめのこくらぶブチョーとサシ飲み、という通常フルコースを強行したのが不味かったようである。しかも、実際はあざみ野行きの最終電車は終わっていて、途中の新羽までしか行けなかったのにもかかわらず、新羽の「夢庵」でかめのこの替わりをやってしまったのだ。あそこで四万十川という日本酒(しかも冷や)を飲んだのがケチの付け始めだった。部長、席に座るや否や「ピザ」とか店員に言うし。無えって。

現在、私は会社で部長の机の前に並ぶ席に座っているのだが、辛すぎる二日酔いを押して出社すると、部長の机の後ろにかけてある可愛いホワイトボードに、部長代行の字で

「午前半休」

と殴り書きがなされている。やはり、新羽に着いた時点で帰りましょうと言うべきだったのかもしれない。

そんな私は、昨日意地になって「今日中に終わらす」という仕事をしていたのだが、8時前に頭が痛くなってきて簡単にダウン。すぐ帰った。帰宅後すぐに改源を飲んで寝て、翌朝の今日も改源を飲んで寝た。と言う訳で、本日は家から一歩も外に出ていない。いい天気だったのに…

休みの日にダウンするのは極力やめたい。

5月15日(水) 晴 哀愁

タバコを吸うコーナーに自販機があるのだが、そこでコーヒーを買っているとき、上司のTさんが外を見つめてボーっとしていた。

「どうしたんですか、随分暗いですね」

と問うと。

「いいよなあ、若いから夢があって。俺なんて生きる希望を失っちゃったよ。」

と言う。

「何でですか?」

と聞くと。

「弱くて。」

昨日のノルウェイ戦が相当ショックだったらしい。この人サッカー好きなんだよなあ。

5月17日(金) 雨 ムダサールと遠足

今日は朝10時に会社を出て、終日外出した。外出先は新日本製鐵君津製鐵所である。何しに言ったのかと言うと、工場見学である。ハッキリ言って仕事では全くない。見学である。

行き方は以下の通りだ:

横浜駅東口バスターミナル⇒東京湾横断道路経由⇒木更津駅⇒君津製鐵所

今回は希望者のみが参加したわけであるが、その中にはパキスタン人の研修生も含まれている。その中でどうしても紹介しなければならない男が一人いる。その名もムダサール。

ムダサールは前のプロジェクトでも一緒だったのだが、凄まじく明るい男で、ハッキリ言ってパキスタン人の中でも異色のキャラクターであると思う。デカイ図体に禿げ頭、高くて品の無い馬鹿笑いが特徴的だ。活動的でユニバーサルスタジオジャパンもディズニーランドも八景島もとにかく色々行っている(って遊園地ばっかかい)。何事にも楽しむ姿勢を持つと言う、中々日本人にもいないタイプである。日本語を断片的に知ろうとする性格もあり、私は昨年「zutto kininatte itandesu」という日本語の意味を問われたことがある。何故こんな言葉の意味を知りたがったのかは不明だが。

こんなムダサールは、当然アクアラインなどもどうにかして渡っていると思ったのだが、実は会社から見えるベイブリッジも渡ったことが無いらしい。と言う訳で、今日のルートがベイブリッジもアクアラインも通ると聞くと、コブシでもう一方の掌にパンチをぶつけながら、

「グッド!!!」

と全身で喜びを露にする。恐らく彼は、日本に来ること自体が巨大な遠足のつもりのような気がするが、「スカイウォークにはバスは止まらないのか」とか「海ほたるにはバスは止まらないのか」とか、今回も完全に遠足と間違えているようである。まあ、完全な間違いとは言えないが、路線バスがそんなところに止まるかよ。

バスに乗ってからも、兎に角先輩のSさんに質問を飛ばす。

「Sさん、ベイブリッジよりつばさ橋の方が長いですね。ベイブリッジはスパン800mくらいですが、つばさ橋は1000mを超えています」とか、明らかに下らない予習をしてきたとしか思えない情報を漏らしたりする。

アクアラインに入る前も、Sさんや私に一々目に入ったものを質問する。何故こんなに車が止まっているのかまで聞いて来る。知るかよ。

アクアラインに入り、海ほたるを経由して木更津方面に向かうと、遠浅の海で海苔の養殖をしているのが見える。あれは何だと聞かれても、海苔を英語で何て言うか知らないので答えられない。てゆうかムダサールうるせえよ。

袖ヶ浦に入り、ムダサールが「ここはもう千葉ですか」と聞いてきたので、そうだと答える。その後、私はSさんと「男女7人秋物語」の話をしたりしていて(劇中でさんまが木更津に住んでいて、フェリーで川崎に通勤していたことを思い出して)盛り上がっていたら、ムダサールが、

「Sさん、今道路案内板に『千葉31km』と書いてありました。あなたはさっきここは千葉だと言いましたが、ここは千葉じゃありませんね」と言う。デカイ図体して細かいこと気にするんじゃねえよムダサール!あれは千葉市まで31kmであって、もうここは千葉県なの!大体お前は「千葉初めてです」とか言っていたが、この前ディズニーランドに言ったじゃないか!あそこも千葉なんだぞ!と言ってやりたかったが、余計面倒くさそうになるので止めた。「東京ディズニーランドなのに、どうして千葉にあるんですか」と聞かれるのが関の山だからだ。

木更津駅に到着。ここからはタクシーで君津まで向かうが、ちょうど昼なので昼飯にする。だが、ムダサール一味(パキスタン人)は全然違うところに向かう。おいおい、どこに行くんだよと思ったら、「弁当持って来ましたから、どこかで食べます。」などと言うではないか。何なんだお前は。

我々は喫茶店でメシを食ったが、あまり腹が減ってないと言うSさんはケーキセットを頼んでいる。

S「すいません、レアとチーズケーキってありますけど、レアって何ですか?」
店員「チーズケーキです」
S「え、じゃあこの単なるチーズケーキは何ですか?」
店員「焼きチーズケーキです」

当たり前じゃねえか。

店員「飲み物はどうされますか?」
S「コーヒーお願いします。」
店員「ホットでよろしいですね。」
S「はい…、あ、コーヒー大盛りってありますか」

あるわけ無えだろ。

喫茶店で昨日の野球の話(Sさんは昨日横浜スタジアムに行っている)になり、「どうですかSさん、昨日はしっかり援護したでしょ?」と言うと、「え、お前ヤクルトファンなの?」と聞いて来る。何度も言ってるじぇねえか。

スポーツ新聞を見ながら、「腹立つんだよな〜、ヤクルトだけに負け越してるんだよな」とSさんが言っている。そこで若干言い争いになり、「よーっし、じゃあ神宮行くか。倒してやるよ」と挑発してきた。遠いって。まあ行くけどね。

製鐵所に到着。私とSさんはガイジン向け(パキ人以外にフランス人とフィリピン人がいた)に通訳を仰せつかっていた内の二人だが、当然面倒くさいパキスタン人の相手をすることになる。もう、俺が一生懸命訳しているそばから質問するなよ!

製鉄所は初めて訪れたが、ハッキリ言って物凄かった。だが、その物凄さはここでは書かない。

帰り道、ムダサールは相変わらず窓から見えるものをしきりに質問してくる。ピンク色の立て看板があって、「10,000円でVIPコース」と書いてあるのを発見するや否や、「岩田さん、あの10,000円は何ですか?」と聞いて来る。もう説明するのも面倒くさくて、「知らなくていい」と答えると、「でも私は知りたいんだ」と執拗に食い下がる。アホか!と言う訳で一通り説明すると、「岩田さん、私は六本木では5,000円くらいだと聞きました」と言って来る。お前は不良ガイジンか。

何だかムダサールの相手で疲れ切った我々は、木更津からのバスの中で爆眠。当然直帰しました。

5月19日(日) 晴のち雨 ビアグラス

みんなは家で酒を飲んだりしないのだろうか?

先日、会社の自分の机の上にペン立てが欲しいと思い、会社の前(下?)のクイーンズイーストにペン立てを買いに行った。と言っても、買いに行った先は得意の無印とかではなく、なんつうんだありゃ、ちょっと味のある食器などを売っている店である。

最初に目に留まったのが畳表(イグサだな)で出来た箸立てで、これにしようと思ったら1,300円もしやがる。振り向くと、これも草で編んだ箸立てで、650円。よしこれにしようと思って、それを掴んでレジに向かった。しかし、レジに向かう途中に焼き物コーナーが視界に入り、そこで味なビアグラスを発見してしまった。

む、こういうの欲しいなあ。

と思って、手に取ると手触りもサイズも丁度いい。いくらなのかと底を見ると、3,500円と書いてある。案外高いな、と思ったのも束の間、買ってしまった。

会社に戻って見せびらかすも、一斉に浴びる「これ3,500円もするのかよ。バカじゃねえか。」という罵声。しかし、この罵声以上に気になったのが、「これどこで使うの?」という質問であった。

いや、家に決まってるじゃねえか。

と思って、そう言うと、何だか不思議そうな目でこう言われる。「家で酒飲むの?」…。

飲まねえのかなあ、みんな。「飲みますよ」と言うと、何だか変わっているという目付きをされる。私は酒好きとは見なされていないので、「普段は飲み屋であんまり飲まないのに、何故家で飲むんだ」、と言う訳で合点がいかないのか?それにも増して、どうも皆はあまり家では飲まないらしいな。

そんなにおかしいかな、と思って件のビアグラスでビールを飲む。あーウマイ。

5月22日(水)  飲みを振り切り

本日エレベーターに乗っていたら、同期Yが乗ってきた。結構久しぶりに見るのだが、ハッキリ言って太ったようだ。太ったかと聞くと、顔をなでながら、この辺とか太ったぜ、などと言う。やっぱり太るよな、と思う。

私は今までの人生の中で、太っていることで悩んだことは一度も無い。太らない体質と言うより、食が細いと言うか、バカ食いなどはしないタイプである。大学時代も、身長は180センチだが、体重は60kg台前半だった。ちょっと太っても、65kgを超えることは記憶に無い。

ところが、最近太ってきたと感じている。私が太ったなと最近思うのは、腹回りより首である。Yシャツが襟がきつくなっているのである。体重も最近は65kgを超えて、このまま行くと70kgに到達するかもしれない。とはいっても、これは私にとっては深刻な体重では無い。おそらく適正体重であろう。だがしかし、増える要因が問題である。

例えば今週だが、今日を除いた平日は全て飲み会がある。これが最近はあまり珍しくない。理由はプロジェクトにある。

プロジェクトは若手が主体のチームであるが、「じゃあ一杯行くか」が多すぎる。9時に会社を出て、終電(11時57分桜木町発)に飛び乗るというパターンが多いが、11時前に会社を出たりしても、終電までの1時間弱で急いで飲んだりするのである。チームは全員独身者で、しかも私以外は全員一人暮らしゆえ、夕飯を兼ねているのである。今までのプロジェクトは家庭持ちが必ず半分くらいいたので、こんなことはあまり無かった。

さらに、3年目になると同期が赴任する、などと言うタイミングも増えるので、必然的に壮行会(しかも2回も3回もやるなっての)も増えている。

と言う訳で、実は最近、「体調を健康的にするために、高校以来の水泳を復活させようか」

などと思っている。こんなことは今までには考えつかなかった思想である。

学生時代、春の定期健康診断の問診の際、

「まあこの身長でこの体重は痩せ過ぎですが、年を取れば普通太ってきますので、ちょうど良いと思いますよ」

と言われたのだが、最近はまさにこの通りだと思い始めている。

と言う訳で、本日のSさんの「じゃあ一杯行くか」は却下させてもらった(実はカネが無かった)。

5月24日(金) 晴 ムダサールでござ〜るぅぅ

大体、このページで話すことの半分以上は、どうせパキスタンネタな訳ですよ。

今、印パが危ない状況にある。おいおい、また俺の赴任はお流れになるのかよ、と思っていた。そんなことを思っているとき、ムダサールが私のところにやって来た。

普段、品の無い高笑いばかりしているが、流石に今日は深刻な顔で祖国の現状を語ってくれるのだろう。

「昨日コンビニエンスストアで(この時点で落胆)見たんですけど、6月の初めからのディズニー(もう言うな)ランドの割引券があるようなんですが、どこでもらえますか?」

知るかよ。

6月1日(土) 晴 遂にワールドカップが!

ワールドカップが、ここ日本でも始まった。上司Tさんは、何と来週の火曜日を全休にした。どうやら先日のスウェーデン戦の引き分けを見て(それでもブチブチ言っていたが)、一縷の望みを見出したらしい。って、全休は無いだろと言う感じだが。

初めてワールドカップを(テレビで)見たのは86年(16年前)のメキシコ大会。マラドーナ全盛期のあの大会である。まだ小学生だったが、深夜起きて家族全員で見ていた。決勝のアルゼンチン-西ドイツ戦は、父親と弟をいくら起こしても起きて来ず、後半になって漸く起きて来て、「何で起こさなかったのか」と怒っていたのを覚えている。お前が全然起きなかったんだろうが!ドイツの方が粒が揃っていて強そうだった(カールハインツルンメニゲもいたぞ)が、やはりあの大会はマラドーナだった。

思い起こせば、86年の大会は印象深いモノである。何しろ私は、国立競技場にアジア最終戦である日本-韓国戦を見に行ったのである。木村和司がフリーキックで一矢報いたものの、結局1-2で敗れたあの一戦である。木村がフリーキックしたシーンを私は見ていない。何と、両手を握って目をつぶって祈っていたのである。ずっと目をつぶっていて、大歓声で目を開けると、電光掲示板に「GOAL!!」の字が大きく点滅しているじゃないか。その後、やはり中々得点を挙げられない日本に対し、「与那城」コールが沸き起こったり(読売クラブのジョージ与那城はその時、帰化して与那城ジョージになっていた)、与那城が交代で出たものの木村がそれで引っ込んで「何で木村を下げるんだ!」とか言ったりした。結局敗れて、家族でトボトボ帰った。高校時代学校サボってよくダラダラしていた、早慶戦の時に朝飯を食った、外苑前のファーストキッチン(今もある)でハンバーガーを食っていた時、隣の学生の兄さんから日の丸ハチマキを貰ったのまで覚えている。

以来、イタリア、アメリカ、フランスとワールドカップは行われているが、何だか時を経るに従って、若干サッカー熱が下がってきたような気がした。何しろ、前回のフランス-ブラジルの決勝戦は見ていない。

さて、今回はこともあろうか日韓共催である。試合を見に行く予定は特に無いが、全然日本が出ていないのに興奮してきた。本日のドイツ-サウジ戦は途中からテレビを消そうかと思う程だったが、結局最後まで見た。アジア代表サウジが、なす術も無く敗れていく様を見て、私はワールドカップの凄さを再認識した。日本とサウジが試合をしても、恐らくいい勝負、日本が調子よくても2-0以上の差は付かないと思うのに、ドイツが8-0で勝つと言う恐ろしさ。しかも、ドイツが手綱を全く緩めない貫徹振り。それは攻撃より守備で顕著に現れていたところに、本気度が伺われる。親善試合であれば、恐らく4-0くらいで終わっていた内容では無いだろうか。ドイツをここまでに至らしめたのは、昨日のフランスも然ることながら、これがワールドカップなんだと言う自覚があったからだと思う。サウジの態度が気に入らないからトッチメタという気もするが…

さて明日である。明日は何と言ってもイングランド-スウェーデン戦である。私は今大会、イングランドが勝つと昨年から思っている。そのイングランドが、ここ30年以上全然勝っていない(って実際無茶苦茶強い)スウェーデンと対戦する。これは見ないわけには行かない。何しろこれを落とすと、私の昨年来の予想はここにて大外れになるからである。

日本人として、当然別格で日本代表を応援するが、ワールドカップを見る一視聴者としては、今回はイングランドを応援している。別に誰かと賭けをしているわけでは無いが、とにかく何か応援しているのである。と言う訳で、頑張ってくれイングランド!

6月2日(日) 晴 冷汗

肝を冷やした本日のイングランド-スウェーデン戦。ヤバかった。

試合開始。ベッカムも出ている。私はあまり素晴らしいと思えない白いサッカーシューズが埼玉を疾駆している。

前半はイングランドのゲームだった。イングランド陣内では危なげなシーンは殆ど無い。イングランドが攻勢をかけている。相変わらずスウェーデンの守備は安定しているように見えるが、余裕を持っていると言うより防戦に一生懸命と言う感じで、いつも程の安定感は見られなかったと思う。イングランドは元気にスウェーデンゴールを目指す。

イングランドの前半の調子が良いことを証明したのは、ベッカムからのコーナーに飛び込んだキャンベルの強力ヘディングシュート!ドンピシャリと言うより、ピシャリ(ベッカムのコーナー)ドン(キャンベルのヘディング)というリズムで、イングランドが鮮やかに先制。こんなにきれいなヘディングを、スウェーデン相手に決めるのは容易で無い。やはりイングランドは強い。

前半はそのままイングランドペースだった。スウェーデンのシュートは前半の最後のほうでアルバックが出したくらいしか記憶に無い。

後半。ハッキリ言って、最初はイングランドペースだった。ボールの支配率もイングランドの方が上で、スウェーデンからこれ以上点を奪えるかは分からないけど、危なげは無かったと思う。前半、そうは言ってもスウェーデンが大人し過ぎると不安がっていた私だが、この時間には「これはこの試合貰った」と思っていた。別に私が油断しても何とも無いが、ひょっとしてイングランドのチーム内に、こんな雰囲気が漂っていたようなことは無いだろうか。特に、前半10分を過ぎたあたり。

スウェーデンが前線に出したボールは、そのままディフェンダーで何とか処理する程のボールだった。ここで特にキーパーに戻すことなく、そのままワントラップして、半回転して右に出せば、誰かがクリアするボールだったと思う。しかし…

あれ、何だ今の胸トラップは。おいおい、ヤバイって、すぐ前へ。おいおい、キックが弱いって。ほら取られてる。うわっ、うわああっ!

スウェーデンゴール。

最初、おいおい、何やっているんだGKデ・ニーロと思ったが、ゴール裏のカメラから見ると、デ・ニーロの重心は左にあるのが分かる。右に飛べないんだよそれじゃあ。あと、反応も若干遅い。それほどアレクサンデションのシュート球速は速かった。と言う訳で、こりゃ力学的に右に飛ぶのは無理⇒ボールに触っただけでも偉い、という、完璧なアレクサンデションのミドルシュート。敵ながら天晴としか言えません。第一、蹴る前にイングランドの二人をワントスで抜いてシュートってのが困る。

その後はスウェーデンが元気いっぱい。それと、イングランドの守備が雑になってきた。ああ、だからオープンになっている真ん中にクリアすnなって!と言うのが3回ほどあったと思う。自陣内の処理も、何だか雑になってきた。でも、これは雑にやっているんじゃなくて、疲れてきたからだと思う。そんな中で、スウェーデンはいつも通りの守備。イングランドの攻撃は後半も良かったと思う。しかし、スウェーデンの守備があまりに完璧。イングランドが攻めあがる時、スウェーデンの戻り&布陣アレンジは極めて早い。中盤にクリアした後、イングランドの戻りが遅い中、スウェーデンは必ず二人が前線に走っている。しかも、左右両方。

スウェーデンが後半上手かったのは、中盤でダラダラやらずにすぐに前線にボールを出すことだった。まだまだ得点できると考えていた(ような気がする)イングランドは、全員が比較的スウェーデン陣内に入り込んでいっていた。完全攻めのイングランドを迎え撃ち、堅守で封じ込み、中盤近くまで戻して二人が走っているのを見るや前線にフィード。これが日本にもあれば…。

イングランドの疲労が目に見えてきたのは後半の後半。実況が「もうこのまま終わってくれればという感じですか?」と井原と木村に聞いた瞬間、「こら、何ぬかしてんだ」と思った。しかし、数分後には早く終わってくれと思っていた。

最後のほうはスウェーデンもバテて来て、試合全体が緩慢になって来た。これだけの敵を相手にするのはしんどい、と両者が言っているような感じである。

結局1-1で試合終了。私は最低でもドローで無ければならないと思っていた。しかし、ドローと言う結果は最低の中の最低レベルの必要事項である。

F組の最終結果予想をしてみよう。

アルゼンチン イングランド スウェーデン ナイジェリア 勝ち点 得点 失点 得失点差 順位


1-1

1-0


1-1


1-1

1-1

0-0
3 2 2 0
×
0-1

1-1

ダメだ、これ以上予想できねえ〜。

6月7日(金) 晴 勝利

ィやったぜー!

と言う本日は、桜木町の裏(野毛)に無数にあるバカ安中華料理屋の一つ、福仙楼にて同期の壮行会を行った。しかし、私の視線はテレビにやや釘付け。キックオフのほぼ時を同じくして店に入ったのだが、飲み食いしながら話しながらサッカーを見るのは集中できず、試合内容はあまり分からない。しかし、ベッカムがPKを決めた時は胸をなでおろし、勝利が決まった瞬間は、一人コブシをグーにしてガッツポーズ。テーブルの誰もイングランドの優勝は有り得ないと考えている状況での、優勝候補最右翼アルゼンチンに対する勝利。一次予選突破はかなり楽になって来た。とは言え、最後の相手がナイジェリアと言うのが曲者だが、アルゼンチンは恐ろしいスウェーデンと対戦しなければならない。やっぱF組はキツイ。

さて、先日立てた私の希望的F組勝敗図をもう一度掲げよう。

アルゼンチン イングランド スウェーデン ナイジェリア 勝ち点 得点 失点 得失点差 順位

2-1

1-1

1-0
7 4 2 2 1
×
1-2

1-1

1-0
4 3 3 0 2

1-1

1-1

0-0
3 2 2 0 3
×
0-1
×
0-1

1-1
1 1 2 -1 4

今のところ全く当たっていないが、今回の結果を書き加えると、こうなるだろう(緑色のセルが変更点)。

アルゼンチン イングランド スウェーデン ナイジェリア 勝ち点 得点 失点 得失点差 順位
×
0-1

1-1

1-0
4 2 2 0 3

1-0

1-1

1-0
7 3 1 2 1

1-1

1-1

2-1
5 4 3 1 2
×
0-1
×
0-1
×
1-2
0 1 4 -3 4

2試合を終えて完全に変わってしまったのがよく分かる。アホか。

イングランドは、絶対にナイジェリアに勝たなければならない。アルゼンチンにはやはりちょっと無理だとしても、スウェーデンは全戦を引き分けに終わるような気がしてきた。スウェーデンはアルゼンチンに負けないが、ナイジェリアに勝てない、ような気がする。後半の後半でバテて来たら、かえってナイジェリア戦の方が危ないだろうか。アルジェリアの選手は、日本の湿気は問題ないと思う。伝染病のデパートと言うほどの熱帯雨林気候で育ったと思うから、尋常じゃないだろう。会場が梅雨の日本ということで、あんまりフェアな環境とは言えない様な気がするが、逆に言うとイングランドもナイジェリア戦が危ないってことになるな。

私の希望。

アルゼンチン イングランド スウェーデン ナイジェリア 勝ち点 得点 失点 得失点差 順位

2-1

1-1

1-0
7 4 2 2 1
×
1-2

1-1

1-0
4 3 3 0 2

1-1

1-1

0-0
3 2 2 0 3
×
0-1
×
0-1

1-1
1 1 2 -1 4

って、そうは問屋が卸さねえよなあ。くっそー、つくづく勿体無い組だよ、このF組ってのは。

アルゼンチン イングランド スウェーデン ナイジェリア 勝ち点 得点 失点 得失点差 順位

2-0

1-1

1-0
7 4 1 3 1
×
0-2

1-1
×
0-1
1 1 4 -3 4

1-1

1-1

0-0
3 2 2 0 3
×
0-1

1-0

1-1
4 2 2 0 2

夢に出そうだな。まあ、そこまでイングランダーじゃないが。

6月8日(土) 晴 ジューンブライド長谷川の結婚式に行ってきたぜ

本日はサークル同期である会計長谷川の結婚式に行ってきた。場所は海浜幕張駅から徒歩4分ほどの、ホテルニューオータニ幕張である。幕張は就職活動時などに何度か行った事はあるが、このようなろくな理由で来るのは初めてだ。

舞浜を過ぎるとガラ空きになる京葉線であるが、車窓を楽しみたい私は当然ドア傍に立ちながら東京湾を見る。すると携帯電話が鳴り、出ると星君の声がする。京葉線の古い車両はうるさくて、星君の声もよく聞こえないのだが、取り敢えず「もう着いた」と言うのが聞こえる。

海浜幕張到着。ややギリギリの時間で早足で急ぐも、ニューオータニは案外近く、簡単に到着。シェルルームという別棟でやる予定の式および披露宴会場ではないが、取り敢えず本館の受付付近に行く。行く途中、アイルランド代表チームがニューオータニを宿にしていると聞いて色めき立つ。ホテル内はアイルランドサポーターが歩いているが、何かおっさんとかおばさんばかりだ。

受付ロビーに、見慣れた二人が座っている。今回のWESAからの参加者は星と玉木と私の3名だ。小規模で済ますということで、今回は二次会も取り敢えず無しで、我々以外は親戚と職場の人たちばかりで、いつものWESA関係者結婚式とは雰囲気が異なる。

案内で別棟で行うと言う指示を受けていた我々は、その別棟を目指す。しかし、本日はアイルランドサポーターの集いみたいのをやっていて、広場ではコンサートとかディズニー系の歌を合唱する子供たちの歌声なども聞こえる。目指す別棟の受付棟に着くと、長谷川と新婦(愛さんと言う素で綺麗な人;はじめて見た)。が、アイルランド人の肉の塊のようなおばさんと写真を撮っている。こういうシーンは世界のどこでも目にするが、友人がそれにしているのは若干変な気分だ。

待合室は親戚ばかり。その中で3人で端のほうに座っていたのであるが、星君が何者かに呼び出され、席を離れる。星君はWESA部長という長谷川直属上司だった関係上、本日は立会人(指環を長谷川に渡す)、それから友人代表スピーチをすることになっている。困ったのはスピーチだが、これは後述。

いよいよ式ということで、式を挙げる教会に行く。教会はこんな感じであるが、笑わざるを得ないのは席最前列に、長谷川両親を右に控えた立会人星が座っていることだ。普通、最前列は両親を初めとする親類一同が座るところであり、その最左翼(新郎側では最上座と言えるだろう)に全然関係ない星が座っているのは、何とも笑える。私と玉木は後ろから2列目に着席。

式が始まる。結婚式から出るのは二度目であるが、内容に大差は無い。長谷川新夫妻は揃って登場し、フラッシュを浴びる。私も星君の「IXY」で長谷川夫妻を激写。それから、何故か最前列に座っている星君も激写。

会が進み、星の出番が来た。何だか前の方で長谷川と礼をしている。ただ、指環は渡さず、何だか手袋持ち係のようなものをやっていたらしい。私の席からは見えなかったが、玉木が確認した。

式後、フラワーシャワーをするため外に出され、列を作る。立会人星君も出てきて、我々は鐘の傍に陣取る。ここまで新郎新婦が進み出て、鐘を鳴らすらしい。しかし、どうも星と玉木はフラワーシャワーを知らないらしく、一体ここで我々は何をするのかを聞いて来る。説明をするも、意義の分からないことは納得がいかないようで困った。別に気にするなって感じ。ホテル職員の人が籠に花びらを入れて皆に渡す。しかし、玉木と星は花びらを取りすぎで、特に星君は全力で掴めるだけの量を掴みとっている。お前は水戸泉か!

長谷川が出てきた。周りから花びらを投げられ、照れくさそうにフラワーシャワーを浴びている。しかし、最後の星君の花びらは、量が多い上に花びら横投げで長谷川の顔に直撃。長谷川、顔をしかめて後ろにスウェイ。投げ方が強すぎるんだよ。

長谷川が鐘を鳴らす。周りは和やかに拍手。そして、新郎新婦と写真を撮る。男三人も撮る。ガラが悪い。

式が終わり、次は披露宴である。再度待合室に戻り、受付を済ませ、飲み物を飲む(水割り)。そこで、星君が緊張し始めている。先ほどからしているのだが、どうも目前に控えて緊張しているようである。「やっぱり何か考えてくれば良かった」「原稿くらい云々」と不安は募るばかりだ。横で玉木と私は笑うだけであるが…。

式が始まった。先ほどの格好で新郎新婦は入ってきたが、私は星のIXYでまた写真を撮る。

さて、この新カップルは職場結婚であるため、新郎新婦の会社上司は両方とも支店長(長谷川の大宮支店長と新婦の船橋支店長)が挨拶するし、会社同僚も両方とも同じ職場の仲間である。あとは親戚ばかりで、学生時代の云々と言うのは、私たち3名と新婦側の学生時代のバイト仲間3名だけで、いかに小規模かつ内輪かが分かる。職場も政府系金融機関と言うことで、二人の上司の話も堅く、会全体が何となく堅かった。やはり堅い職場だと思った。しかし、だからと言って長谷川の親戚と新婦の親戚が堅いかと言うとそんなことは無く、特に長谷川の叔父さんの挨拶以降はかなりくだけた雰囲気になった。何しろ、この叔父さんの二つ先に、われらが星君の大スピーチが待っているので、これは大変よろしい叔父さんの登場であった。星君、緊張して全然楽しんでいない様子だったが、刻一刻と迫るスピーチの瞬間を前に、顔がどんどん強張っていくのが分かる。新郎新婦の幼い頃からの写真が出たりしても、あまり盛り上がっていない。尚、学生時代の写真は当然WESAの写真だったが、玉木と私が写っていなかった。

さて、いよいよ星君のスピーチの番である。スピーチの前、「いいか、いくらお前が内輪の話で盛り上げようとしても、この話を共有できるのは長谷川含めて3人だけだからな」と、奈落の底に突き落とすような暖かい玉木のアドバイスを受けていた星君、ついに前に立った。

IXYで激写を繰り返すも、何だかフラッシュがたかれず、暗い写真になってしまう。星君はいつもの口調で話し続ける。馬場でよく飲んだこと、酔いつぶれた星君を介抱しながら、登戸まで連れて行った長谷川君、会計として活躍した長谷川君、等色々な学生時代の話をするも、とうとうネタが尽きた。その瞬間、

「えー、本日は私のほかに、大学時代の友人があと2名ここに来ております。せっかくですから、この二名からも一言ずついただきたいと思いますので、こちらに来てください」

おいおいおい、事前に言えよ(言ったところで却下していただろうが)。最初は固辞するも、こんな雰囲気で固辞しきれる筈は無く、仕方なく玉木と私は起立し、スピーチ席に向かった。最初は私。

いきなりステージに立たされて、ネタも無い状況だが、しどろもどろになるような人間では無い私は、無難に話をまとめて、無いな。

玉木。しどろもどろにはなっていない。しかし、明らかに内容の無いスピーチに、彼の苦しさが伝わってくる。

「このように、大学時代の友人は汚らしい人間ばかりですが、今後も仲良くしてください」

という星のまとめが入り、さらに星の夫婦に対するアドバイス(ワールドカップ日本代表の組織力をネタにした、極めて親父臭い(てゆうか彼は既に親父)内容)を添え、無事に友人代表スピーチを終えた。無事かどうかはよく分からん。

その後は円滑に会は進み、最後の嫁さんから両親に宛てた手紙でクライマックスを迎える。やはり、この手紙を聞くとお父さんは泣いてしまうものだと思う。私は今回も若干感動する。

最後に、長谷川に激似のお父さんから、代表挨拶。「立会人を務めていただきました星さん、並びに…」と、今回は星の活躍が目立った長谷川結婚式も、これで恙無く終了した。

二次会は特に企画がなされておらず、また星君が車で来たことからこの辺で飲むわけにも行かないので、星地元(足立区)に行って、星邸で飲むことにした。星邸に行く途中、酒が入っている私と玉木は爆睡。スマン星。

30分程度で星邸に到着。奥さんは結婚式で見て以来だが、娘は初めてだ。娘は床に張り付いた状態で、私たち闖入者を見ている。既に人見知りする年齢に入っているらしく、お母さんに抱っこされた後は、表情が硬い。握手を求めても、手を払われてしまう。特に玉木に対してが厳しく、我々が抱っこして玉木が抱っこすると、この日星家に入って初めて、娘が泣き出してしまった。邪魔者は去れと言うわけで、我々は星邸を辞し、東武伊勢崎線梅島駅近くの飲み屋で飲んだ。因みに星邸、3LDK70uは広く、家賃10万円は安い。



飲み屋は下町の飲み屋で、ホッピーで乾杯。ホッピーなんていつ以来だろう?その後は冷酒、ひれ酒と来て酔っ払い、玉木と私はその場で別れ、家路に就いた。

久しぶりに長い日記になったが、ネタの無い毎日に、久々にネタのある一日を過ごすことが出来たことを、大変うれしゅう思います。

6月12日(水) 雨 ウォッチャーズ

「何かさあ、スペインがあんまり迫力が無くて、イマイチだと思ったよ」

「ブラジルは成績はまあ派手に見えるけど、相手がそれ程でも無いからなあ」

「大変だよ、フランスがドローだって。もうこりゃダメかもしれないね」

「いやー、あのアイルランドの執念、しびれたね」

「昨日、スウェーデンが1点入れてくれて良かったよ」

「フランス負けたよ。2-0で。」

「アルゼンチンが引き分けちゃったよ。」

だーーーー、イチイチ俺に感想とか報告とかしなくていいんだよ、うるさいうるさいうるさい!

6月14日(金) 曇のち雨 歓喜の会議室

みなとみらいに来ると分かると思うが、私の会社の入っているビルは、両端がふくらんでいる。ここは各階において会議室になっており、23階北側を占める私の部も、会議室を所有している。会議室は会議卓があり、人数的には20人くらいの会議が可能である。広さもちょうど良いので、会議だけでなく飲み会も出来る。大学の研究室のようなノリであるが、実際年末の納会などは、若手が使い走りでビールを買ってきて、ここで行うのが恒例行事だ。部のカラーにもよるが、私たち土建根性の人間は、会社で酒宴を繰り広げることに躊躇は無い。

会議室には机や椅子、それにホワイトボードの他に、最近プラズマディスプレイ(50インチくらい?)が入った。これは主にテレビ会議に使用するためのものであるが、数年前から社内標準になりつつある「3D設計」において必須のツールであるので、購入が増えたという背景がある。ただ、テレビ会議にしても3D設計にしても、ネットワークはLANケーブルを使用するため、テレビアンテナ回線には接続がなされていない。

昨日は午後半休や全休する人も目立った。同期は国立競技場に行ったりしていた。しかし、私はパキスタン行きの可否を決定する会議などがあり(結局議論は終了せず)、休むわけには行かなかった。と言う訳で、最初から全く諦めていたのであるが…。

会議室の隣は喫煙コーナーになっているが、各階ここには自販機もあり、コーヒーを飲みながら休憩する場所でもある。そこで私がチーム大将のTさんと休んでいると、部長が入ってきて、こう言う。

「おい、会議室でテレビ見られないのか?」

実は24階の配管部では、このプラズマディスプレイをテレビと接続することに成功しており、配管がノウハウを持っていることを知っている私は「配管では見れるようですよ」と言う。ちょうど配管部とミーティングの予定があった私であるが、部長は、

「そのミーティングの15分前に配管の奴を呼んで、テレビ接続を何とかしろ。みんなで見ようよ。」

と言う。部長命令と言うことで私とSさんは動き出し、配管の同期に電話してノウハウを聞いたり、新入社員の3人(ちょうどプラズマディスプレイで「鉄筋コンクリート設計概論」のビデオ研修中だった)に回線の捜索を指令するなど、若干慌しくなった。

1年生たちが、「アンテナの線が見つかりません」と言うのだが、もういちど床板を外させて(床下に電話線だとかLAN回線が走っている)、一緒に探してみた。

「この灰色の線は何ですかね」

と1年目Hが言う。電話回線のような感じだが、取り敢えず引っ張ってみると、まるで手ごたえを感じない。どうも何にも接続されていないようだ。さらに手繰り寄せると、

こんな奴がひょっこり出てきた。って、これだあっ!

早速1年目が接続を試み、ビデオから接続し、プラズマディスプレイを見る。すると、あっという間にテレビへの接続大成功。

部長に報告するや、隣の部長代行も「じゃあ今日は3時で仕事終わりだな」と言う。部長は「ウチの会社は3時以降はフレックスだから云々」と言うが、最早だれも3時以降に仕事をする意識を失ってしまっている。それどころか、接続成功をどこから聞いてきたのか分からないが、他の部の奴まで来ている。すでにビールも持ち込まれている。いや〜、半休なんてしなくて良かった!

私とSさんは部長の隣を占め、絶好の画面からゲームを見る。やはり、こういうのはみんなで見るのが面白い。前半は攻めあぐねていたが、少しでもチュニジアが攻めあがると、部長が「やめて、やめて」を連呼する。チャンスを潰すと机に突っ伏す私の上に、部長とSさんが折り重なってくる。暑いって。前半が終わって全員喫煙コーナーで休憩。

後半、試合開始とともに森島が投入される。後半開始早々に日本は攻めあがるが、「いやー、チュニジアはどうせ攻めなければなりませんから、守備の穴が増えますよ」と言う言葉を部長に言う。これは前回のオリンピックにおけるスロバキア戦でも言えることである。当時の日記によると、

後半開始。流石にスロバキアも攻めてくるけど、布陣を替えれば当然今までに無かった空白が出来て、それがスロバキアのゴール前でしたね。後半の最初の方は日本が守勢に立たされて、中盤から前線にボールをfeedするのに難儀していましたが、一旦中盤を越えるとチャンスになりやすかった。

となって、結局日本が勝ったのである。あれは私がまだ社会人1年目の晩夏である。

と思ったら、いきなり森島がこぼれ球をダイレクトでシュート、そしてゴール!!!その瞬間、会議室は総立ちで大喜び。Sさんの「森島にカンパ〜イ!」という掛け声で、一斉にビール乾杯。全員「ウマイ!」を連発。そりゃ美味いだろう。Sさんは「柳沢じゃ絶対決めなかったぜ」と言う。

二点目が欲しい日本であるが、その後も快調に攻める。市川が、「それはシュートだろ」と言う場面でパスを出した時、「おいおい〜、市川あ」と部長が言う。市川と言う人がいるのだが、この人は既に帰宅している。

と思ったら、市川の絶妙クロスに中田ヒデのヘッドでゴール二点目!!!再び総立ちで大喜び。これで勝利を確信した我々は、セルジオの解説を批判したりする余裕も出てきた。そして終了、乾杯、後片付け。

部長が、他の部から来た人たちに「じゃあ、次は18日に」と言って解散となった。

次も会議室から必勝コールを。

6月15日(土) 曇 イングランド

今日のイングランドは抜群だった。攻撃より守備が。この安定感があれば、取り敢えず次のブラジルは…

若干難しいかな。

6月20日(木) 雨 数文字

4649だとか39などと使う場合があるが、本日図面直しを依頼する上で、4649を使って、極めて些末なことを思い出した。

あれは大学に合格した春休みである。中学校の頃、クラスが一緒だった連中と久しぶりに会った。

今でもそうだろうが、やはり友達と言うのはつるむ傾向がある。中学時代にしてもそうで、私も男6人くらいの仲の良い連中がいて、同様に6人くらいの女の子グループとも遊びに行ったりしていた。中学校時代の青臭い思い出である。この連中は卒業式の日も近くのファミレスで飯を食ったり(ビール下さいと言って断られた)、卒業記念に遊園地(しかも後楽園遊園地)に行ったりもした。コーヒーカップで回りすぎて、吐く寸前まで行くなど、中々面白かった。このグループからは1組のカップル(結婚ではない)のみが輩出されたと言う、何だか謎な集団である。イケてない奴らばかりだったんだろうと思われるかもしれないが、このグループは男女それぞれから、卒業アルバム「カッコイイ人ベスト3・カワイイ人ベスト3」から二名ずつを輩出している、3年3組では結構なグループであった。要するに、バスの後部座席を占める、あのような連中である。

その男女12人が久々に一堂に会した。高校の友達と異なり、中学時代の友達はさすがにバラエティに富んでいる。高校時代の友達は殆ど4年制大学に行く中で、中学校の頃のこれら友人は、4大に行く方が少なかった。4年制大学を「よんだい」と言うのが、また馴染みの無い言葉だが。細かく言うと、現役で大学生になった奴、私のように一浪して大学に入った奴(男女4名もいた=やはりベビーブーマー)、短大に通う奴、専門学校に通う奴、高校卒業と同時に家業を継ぐ奴、とにかく様々である。特に短大と専門学校に行っている奴は、その年「就職活動」という、試験が終わったばかりの私にとっては全く意味不明な行動を取っていたりで、世間を感じたものである。とにかくこの12人が、久しぶりに集まって、たまプラーザのつぼ八で乾杯を挙げた訳である。

さて、結構飲んで次はカラオケとなった。高校から都内だった私は、地元の遊び場がさっぱり分からず、地元の公立を出た友達に連れられ、おいおいこんなところに、と言うところにあるカラオケ屋に行った。そこで一頻り歌った後、夜中の1時頃に外に出た。

さて、ここでどうしようもなくなる。今もそうだが、私の住む辺りは普通の住宅街で、夜中に何かをやろうとすると、もうカラオケか飲みしかなくなる。酒も完全に抜けてしまったが、だからと言って飲もうとは思わない。カラオケはもう飽きた。じゃあ、一体何をすればいいのか?

一人がこう言った。

「海行かね?」

いきなり海である。

やることが無くなって、いきなり海である。しかし、この傾向は神奈川県民には結構よく見られるものである。いや、そんな傾向無いよ、と言う方もいらっしゃるかと思いますが、実は今でも「昔は意味も無く海に行ったりしたよな」という話がよく聞かれる、そう、確かにずっと神奈川に住んでいる人から。津久井とか海老名に住んでいる人も、「何故か夜やることがなくなると、江ノ島とか行ったりしませんでしたか?」と言うのは、かなりあるのである。と言う訳で、我々もご多分に漏れずその場は一気に盛り上がり、3台の車に分乗して、一路江ノ島を目指すことになった。

ところが、いきなり第三京浜に入るや1台を見失い、さらに私の乗った車が分岐路の進路を誤って知らん道に入ってしまい、3台が3台とも全く離れ離れになってしまった。まだ車を乗り慣れていないため、道もよく分からなくなってきた。昼なら余裕だが、夜だとこんなに行きにくいもんか、と言う感じである。3台で行っていたのに、いきなり1台になり、テンションも何となくトーンダウンして来た。とにかく他の二台と会うことが重要とばかりに、江ノ島を目指す。

この時使われたのがポケベルだった。当時、携帯電話はかなり珍しいもので、携帯と言うにはかなり大きくて、そして高価なものだった。若い奴で携帯電話を持っている人間は当時はかなり珍しかった、(いたのだろうか?)。大体ポケベルにしても、12人の内所有しているのが一人だけで、私の乗る車では誰も持っていなかった。しかも当時のポケベルは文字など出るはず無く、数字しか出ないものであった。と言う訳で、当然数字で作る言葉、数文字(と言うのか?)が使われるのである。

途中で車を止めては公衆電話から番号を送るのであるが、どうやらポケベルを持っている奴がいる車内における、我々のメッセージ解読率は2割を切っていた位で、しかも解読が出来ても殆ど何も打開しないもの(「行こう」というので「15」とか)だったようだ。その上、これが2台の車から送られてくるもので、どちらが発信しているのかもさっぱり分からない。昼間なら家に電話するように伝えて、母親経由で場所を教えてもらうなんて言う技も出来るだろうが、今は午前2時である。と言う訳で、こちらも色々考えるのだが、我々の努力は悉く水泡に帰す始末で、困っていた。

そうこうしているうちに、車は暗闇の湘南海岸に出た。昼間は素晴らしい相模湾の湾曲した景色であるだろうが、夜の海は掛け値なしに相当恐ろしい。しかも、海岸沿い国道134号線は、今宇宙から到着したばかりのような車が沢山走っている。受験勉強を終えた私が、生まれてはじめて見る夜の湘南。不気味以外に言葉が無かった。

国道沿いで光を点しているのは、自販機とかカラオケ屋、それからコンビニである。湘南爆走族の世界だが、コンビニは鬼塚英次だけでなく、我々にとっても重要な休息スポットである。ただ徒然に走っている我々は、どうしようもねえからあのセブンイレブンで止まろうぜ、と言うことになった。目を皿のようにして、宇宙船のような車も見逃さずに車をチェックしていたのだが、全く我が友の車は見つからないので、全員疲れてしまったのである。セブンイレブンで熱いコーヒーを買い(まだ3月だから寒かった)、外でヤンキー連中とともにボーっと佇んでいた。みんな、はぐれた友の発見は諦めてしまった感じで、このまま朝が来るまでここにいるのかを議論するのも、至極かったるくなっていた。

その頃、他の二台も既に国道134号線に到達し、同様に友の車を探していた。先ほどから何度も送られてくる謎に満ちた難解なポケベル数文字メッセージは、さっきからパッタリ届かなくなった。もう帰ってしまったんじゃないかと思ったりで、こちらもかなりやるせない虚脱感が車内を覆っていたようである。もう一台のポケベル無し車も、134号線を彷徨うが如く、ただ意味も無く走っていたとのことである。

と思ったその瞬間、沿道のセブンイレブンの前に佇む、見たことある4人の影が、そしてその瞬間目に入る、見たことあるスターレットが!あいつらだ!!!

とその2秒後くらい、セブンイレブンの前で佇む我々4人は、こちらに向かってくる車を発見。あ、あれはひょっとして!

車が止まり、飛び出す4人。セブンイレブンの前で、歓喜の再会を果たした我々は、国道134号線沿いセブンイレブンで、まさに大はしゃぎであった。よーし、これであと1台だ!

一方のあと一台は、まだ134号線を無為に走っていた。仕方なく途中のファミリーマートに寄ったりするのだが、友の姿は無い。全くこのまま朝になって、ただダラダラと帰るだけなのだろうか…。車内の会話は殆ど無い。

再会を果たした我々は、あと1台にしても絶対に見つかる筈だと意気軒昂、また数文字作りに精を出し始めた。奴らは今、どこにいるのか分からない。だから、我々の所在を、数に込めて打電しなければならない。と言う訳で決定したメッセージが、

13471151

134号線のセブンイレブン(711)に来い(51)というメッセージである。今考えると「来い(51)」は明らかに蛇足であるが、その瞬間はこれ以上明快な数文字は無いと確信し、正に公衆電話に覆いかぶさるように、一人がメッセージを打電した。よし、再会も時間の問題だ!

一方まだ走っている1台。相変わらずあまり会話が無いが、久しぶりに鳴り響くポケベルが静寂を破り、全員の関心がポケベルに集中した。そこで出てきたメッセージが、

13471151

本日最難解とも思われる、妙なメッセージが届き、車内の全員が首をかしげる。134と言うのはすぐに分かったらしいが、71151がさっぱり分からない様子である。ただ、今考えると蛇足と思われる51が、「来い」であることはそれ程時間を置かずに判明したらしい。第一、51と言うのは当時のポケベル文化において、最もよく使われる文字だったからかも知れない。さて、問題は711である。

「『ないい来い』かな?」という基本から、さらにそうは読まないだろうというものまで、恐らく読み方だけで十数通りが試されたようである。やっぱりダメだ、というところまで来た時、普段は大人しいMが、

「ねえ、これセブンイレブンのことじゃない?」

と気づいたそうである。ザッツライト!それだとようやく答えが判明した車内。あとは134号線沿いに、恐らく何軒かあると思われるセブンイレブンを探すだけである。急げファミリア!

一方、あまりの傑作13471151に酔いしれていた我々であるが、その割に全然来ないファミリアに、不安を抱いて来た。

「やっぱダメか?」

と言い合う8人。何だか先ほどの感動も薄れていった。まー、しょうがねえからこの8人で海岸でも行くか?と話していた、その矢先。

突進してくるファミリア。そして眩しいヘッドライトの向こうには、懐かしい友の笑顔が。我々8人の顔は喜色満面。ファミリアが停まると同時に、私は小学校から大学まで一緒となった、Yに抱きつく。ここにようやく、12人が再会することになったのだ。

あとは春の寒い海に服のままダイブさせられる奴がいたりなど、お決まりの楽しいひと時を終え、明け方に家路に就いた。

という思い出話を、今日図面描きのIさんに話したのだが、だからどうしたという顔をされてしまった。

そりゃそうか。

と言う本日、私のパキスタン行きの中止が正式に決定した。まあ、仕方が無い。

6月21日(金) 晴 再セットアップ

と言う訳で、正式にパキスタン行きが無くなった昨日から一夜明け、既に夏の天気になっているに違いない空の下、いつものように出社した。

席に座るや「あっつ〜」と汗をぬぐう私を見て、新人Yが「やっぱ皆ダルそうに暑いって言いますね」と言ってくる。

「当たり前だろ、ここで『いや〜、暑いねガハハハハ』なんて言う奴いないぞ。お前が暑いって感じだろ。」

という会話から今日一日がスタート。

最近胃腸の調子が悪くて、何故か医者から酒を止められている私は、今週は全く飲んでいない。一昨日に同期の壮行会があったのだが、4時間を一貫してウーロン茶で過ごした。飲み会で酒を飲まないのはやはり詰まらなく、まるで酔ってないのに終電まで桜木町にいたのは、どうも調子が悪いものだった。今週は全く飲んでいないのに、今日は妙に疲れているし。

そんな私は、午前中に何故か腹が痛くなり、トイレ行ったり来たり。大波が襲って来て、あたかもレパント海戦でベネチアの砲艦から砲撃を受けて沈みかけたトルコのガレー船の如く、体を傾げた状態でトイレに向かうも、大コーナーが満員御礼の札止めをしている際は、その場にアリ・パシャの如く崩れ落ちそうになった。

下の階まで降りて事なきを得た後は、黙々とお仕事。午後3時半にイングランド-ブラジル戦が始まるも、インターネットでチェックもせずにお仕事。

夕方、思い出したようにパキスタンにメールを打つ。無念にも今回の赴任は中止になった云々を、盟友Fさんに対して書いていると、何だかさらに沈鬱になって来た。今回の中止は、結局のところ印パのゴタゴタどころの騒ぎじゃないレベルで「もうどうしようもなく」決まったものであるが、それを説明するのもかったるい。

日本が敗れ、パキスタン行きが無くなり、そして今日、イングランドが敗れ去った。そして、この胃腸の不調は一体何なの?全然覚えが無いぞ。

6月22日(土) 晴のち雨 韓国とトルコがベスト4進出

ああ、韓国人で良かった…。

と、韓国人は今思っているだろう。隣国の活躍に狂喜乱舞はしないが、普通に羨ましいと思わないか?

考えてみよう。

@予選最終戦で日本が、絶対勝てないと思われていた優勝候補の一角ポルトガルを破って、予選一位通過で決勝トーナメント進出。

A初めての決勝トーナメントでイタリアにサヨナラ勝ち。ゴールデンゴールは前に詰めていた明神。

Bベスト8でラウルの抜けたスペインと戦うも、やや押しながらPK戦まで粘る。楢崎の4本目ファインセーブ並びにベテランゴン中山の5本目PK成功で、ベスト4進出を決める。

C準決勝は埼玉でドイツと対峙。ドイツといえどハッキリ言って状態は磐石ではない。ひょっとしたら、横浜でブラジルを迎え撃つことが出来るかもしれない。

D決勝の横浜国際は、7万2千のサポーターで青々と波立つ。

こうなると日本人の大多数が、判定のヤバさには目もくれないだろう。世界中は波が引くように一斉に白けるが、自分の国は大盛り上がりで楽しいな、となるだろう。不満爆発のイタリアの姿勢を、朝日新聞は冷ややかに天声人語で笑ったりするだろう。

まあ、韓国人ほどはならないと思うが、日本があの活躍をすれば、臭いものは臭わないような気がする。だって、@〜Dを想像すれば、やっぱそうなるだろうし、来週は仕事にならないだろう。流石にレプリカユニフォーム買うよ。レプリカは当然7番中田。

ただ、現実に戻って日本人から言わせて貰えば、やはり少しだけ白けてきた。今日は会社のデカイディスプレイで見ていたのだが、

「いや、これはなあ…。」

という言葉がたくさん出てきた。韓国が勝った瞬間も、「うわあ、韓国が準決勝行っちゃったよ」という信じられない事実だけに感嘆しただけであった。

残る試合はトルコ-セネガル。この前の日本戦を見ていて思ったのだが、トルコは日本より全く強かった。負けた時はガックリ来たが、正直言って勝てるとは殆ど思えないほど、トルコは強かった。そのトルコが、恐らく今大会最も注目されることになった、セネガルと対戦するのである。トルコ対セネガルという、ワールドカップ史上稀に見る地味な準々決勝であるが、この試合は今大会でもトップレベルに入る好試合だった。

試合自体は途中から見たが、試合を見る前、私はこの試合セネガルだと思っていた。しかし、テレビを見ると圧倒的に攻め込んでいるのはトルコであり、日本戦でも見せた恐るべきボールへの寄りの早さはここでも顕在、セネガルもスピードがあるが、トルコの方が勝っている。そう言えば、今大会一番ブラジルを苦しめたのはトルコだった。日本は予選を1位で通過してもトルコ、2位で通過してもブラジルに当たるという、厳しい組にいた事が分かる。

そのトルコのゴールデンゴールは、今大会目撃する中でも、妙に美しいゴールだった。

韓国戦で確かに若干白けたのだが、まだワールドカップは終わっていないと思った。

7月4日(木) 晴? ボーナス!

棒にナスを刺してボーナス。

イヤ〜ン。

ふぅ。

7月5日(金) 蒸し暑い ボーナ素!!

昨日の日記の下らなさを助長するような夢を見た。

部の人間全員が部長の席の前に列を作って、ナスに棒刺したのを受け取っている夢。

イヤ〜〜ン…

7月6日(土) 晴 ボーナスの使い途

私の今までの旅行遍歴の中で、最も充実していたのが大学院卒業時のイスラエル旅行であった。たった8日間と言う、社会人の休暇にも満たない短期間の旅行であったが、内容は良いもので、今でも満足している。今では足を踏み入れるのも憚れるイスラエル(行けるとは思うが…)であるが、そんな当時の旅行で気になった存在がいて、今でも若干気になっている存在がある。それはアルメニアだ。

エルサレムの旧市街(自爆テロが起こるのはユダヤ人の作った新市街)はオスマントルコ統治時代をそのまま残した中世っぽい街並みであるのだが、その中は4つの地区に分けられている。ユダヤ教徒地区、イスラム教徒地区、キリスト教徒地区がその内の三つだが、あと一つはアルメニア人地区なのである。アルメニア人はキリスト教徒で、ビサンチン系正教から独立したアルメニア正教を信仰しているわけであるが、では何故このアルメニア人地区がキリスト教徒地区と同一視されないのかは、未だに分からない。キリスト教徒地区の中心的寺院はイエスが磔刑に処された「ゴルゴダの丘」に建つ聖墳墓教会であるが、各派共同管理のこの教会も、実質的にはギリシャ正教が幹事的な立場で管理している、つまり同じ正教系の教会が管理しているのである。そもそもオスマントルコはギリシャを版図に入れており、またビサンチンを倒してアナトリアを平定した訳であるから、帝国内におけるキリスト教徒と言えば正教系のキリスト教徒である。と言う訳で、同じ帝国版図内にある聖地において、教会などを積極的に建てたのはギリシャ正教徒たちと言うのは想像できる。そして、同じく版図内にあったアルメニア人がエルサレムにいるのも理解は出来る。だが、何故かキリスト教徒地区とアルメニア人地区が分かれている。何故だかは今でもよく分からない状況であるのだが、兎に角この旅行以来、私は何故かエルサレムを4分の一くらい占めているマイナー民族アルメニア人に若干興味を持ってきた。ミスワールドがアルメニア人だったりするのもそれを助長したと言ってよい。

しかし、アルメニア関連の情報を得ようにも、アルメニア関連の書籍は殆ど無くて、特にアルメニア人のことを1冊で書いた本は書店で見た事がない。amazonで見ると洋書では結構あることが分かっているが、「英語を読むのはだるくて尻込みだなあ」と言うのが正直な印象であって、今まで関連する洋書を一冊も買った事が無い。加えて、更なる興味は自分が仕事している国とかになり、これがパキスタンだのアルジェリアだの中央アジアになると、和書でも案外本がある。さらにイスラムがどうのとなると、中国関連の本ほどじゃないが、かなりある。だから、こちらのマニアック情報を得ることに躍起になっていくうちに、元々それほど偏執的じゃなかったアルメニアに対する興味が、徐々に薄れて行ったのは言うまでも無い。第一、化石燃料資源の乏しいアルメニアにおいて、私の会社、さらには私にとってのビジネスの機会は皆無に等しい。と言う訳で、私にとっては全く関わりの無い国になっていったと思う。

ところが、夏休みが何となく取れそうである。昨日、7月下旬から10日間くらい申請してみたのだが、何も起きなければこの休暇は取れることになりそうだ。そこで、久しぶりに海外旅行を考えることにした。

行き先は最初、ポルトガルを考えた。しかし、休暇にモロッコへ一人旅に出かけた同期を見て、

「ポルトガルなんて誰とでも行けるような国じゃなくて、連れの同意が得られなくて一人旅で行かざるを得ないような国に行った方が良いんじゃないか?」

と思うようになった。別にポルトガルに行っても一人旅じゃなきゃ出来ないような旅の仕方するんだけどさ。隣のホームに入線して来た列車に飛び乗るとか。

そこで、自分の中で殆ど埃まみれになっていたアルメニアが、いきなり埃の中から浮上したのである。それからはアルメニアに関する情報を掻き集めた。相変わらず全く見つからない書籍類だが、仕方なくアルメニアの概要を書いたモノ、オスマントルコ末期のトルコによるホロコーストを書いた洋書を購入した(まだ届いていない)。あとは航空券の手配などであるが、これが2年以上自分でやっていないから要領を良く覚えていない。ユナイテッドのマイレージプラスに入っているので、スタアラ系でエレバン(アルメニアの首都)に飛んでいる飛行機探したりで、何ともぎこち無い。AB・ROADを定期購読級に買っていたり、旅行裏技ハウツー本を揃えていた学生時代とは偉い違いで、老け込んだことを実感したりもする。学生時代なら、成田の平行滑走路の供用開始を誰よりも喜んだと思うが、先日の供用開始は単なるニュースに堕していた。

スタアラでエレバンに飛行機飛ばしているのはオーストリア航空である事が判明し、色々照会した結果、学生時代に数回使って結構良かった中堅格安旅行券売り旅行会社であるW.A.S(ワールドエアシステム)で券を手配することにした。20万円強と学生時代にしてみれば信じられない高額航空券だが、恐らく1年で最も旅行券が高額になるこのシーズンにしか休みが取れないことを勘案すれば、これは仕方ない。しかも、最大月収7万円の学生時代よりは、財政的に余裕がある。

ところが、ここでいきなり足止めを食らうことになった。満席でチケットを手配できないと言う。しかも、聞いてみると成田⇔ウイーンではなく、ウイーン⇔エレバンが往復とも満席と言うでは無いか。すかさずオーストリア航空のホームページで席を照会してみると、確かにビジネスクラスを除いて完全に埋まっているでは無いか。信じられん、何故だ?もう一つの道は無茶苦茶嫌なアエロフロートであるが、アエロフロートまでモスクワ-エレバン間が往復満員である。なんだなんだ、何かあるのか?世界中に離散しているアルメニア人がこの季節に戻ってくるのか?他の旅行会社に当たってみようかと思ったが、取り敢えず往復ともキャンセル待ちで待つことにした。

ダメだったら、ウイーン拠点にチロルにでも避暑で行くかなあ。何か途端に力が抜けてきたぞ。

7月7日(日) 晴 七夕

「晴」なんて書いているが、実際は晴なんだか曇なんだかよく分からない毎日であると思う。蒸し暑いが、雲があるんでクソ暑くは無い。

さて、夏休みをどうするかの議論はまだ続いている。何しろアルメニア行きは暗雲に包まれている。ではどこに行くのか?

第二候補として挙げられるヨーロッパ(成田⇔ウィーンは確保済)をどうするかだ。2都市まで周遊可チケットゆえ、オープンジョーで旅程を組む事も出来る。思い浮かぶだけで挙げるとすると、次のようなコースが考えられる:

1. 中欧小回り

学生時代はビザが一々必要だった旧東欧(最近はドイツなどを含めて中欧等と言いやがる)であるが、今日カチカチインターネットで見ていたら、案外ビザ無しで行けるようになっている。アジアばかり行っていた学生時代から、ヨーロッパの旧東欧地域には魅力を感じていた。特に中世から近代にかけての建築および土木構造物の水準は見るに値するものばかりだ。(一応)エンジニアとして食っている私には、これらのモノは垂涎の的と言って良いだろう。これはウィーンから列車である程度回れるものであろう。

2. 旧ユーゴスラビア小回り

これも学生時代だが、ボスニア内戦に関する映画が一斉に上映された時期があった。この時、複雑なバルカン史に興味を持って色々本を読んだりした記憶がある。それ以外でも、クロアチアのアドリア海沿岸は極めて魅力のある地区である。ルート的には交通機関的に何となく信頼置けないような気がするので、いったんザグレブまで乗り継ぎで飛んで、クロアチア⇒ボスニア⇒ユーゴ(セルビア)と回り、ベオグラードから飛行機に乗りウィーン経由で帰ると言うのが最も賢いか?

3. アンダルシアとポルトガル

一気にイベリアを目指すことも当然出来るが、私の興味はアンダルシアなど南イベリアである。イスラム教に触れるようになったのは会社に入ってからだが、以来南イベリアの魅力は増すばかりである。ウィーンからマドリッドに入り、AVE(高速列車)で一気にコルドバに入り、その後はリスボンまで陸路で何とか行く。帰りにはリスボン⇒ウィーン経由⇒成田。

4. 灯台下暗し=ハプスブルクのオーストリア小回り

オーストリア航空で行くわけだから、当然オーストリアで逗留してもOKである。オーストリアは大学1年の春休みに行ったが、行ったと言うよりむしろ通ったと言う感じで、インスブルックに二泊したが、観光は全くしないでスキーをやってそそくさとベネチアに向っただけである。したがって、ウィーンもザルツブルクも当然訪れていない。ウィーンにて当然ストップオーバー可能ゆえ、流石に都であるウィーンくらいは見るべきだが、いっそのこと小さなオーストリアを回ってみるのも良いだろう。前回の印象だと、オーストリアは問題なく英語が通じ、物価はかなりリーズナブルで、人当たりは親切、しかも国内の交通機関はほぼ完璧に整備されていて移動も楽という、中々の特徴を備えている。隣のハンガリーのブタペストでも、ECもしくはICで3時間強である。

で、明日休暇が却下されたりしてなあ。

7月9日(火) 晴 そんなマイナーな国のガイドブックなんて無いっスよ

昼飯時、再来週からリビアに行く事がいきなり決まったSさんが、「今日本屋にリビアの『地球の歩き方』を買いに行こうと思うんだけどさ」と話しかけてきた。いや、無いと思いますよと言ったのだが、無いと言い切れない。と言う訳でSさんと昼を食った後、有隣堂ランドマークプラザ店に二人で出向いた。

北アフリカは地中海に面しており、ヨーロッパからも近いため、観光開発された国が多い。また、そもそもエキサイティングな歴史を彩る地中海沿岸は、それだけで名所となりうるロケーションである。エジプトは言うまでも無く、カルタゴことチュニジア、カサブランカ・マラケシュ・フェズと聞いて旅情を感じない人は旅行する権利が無いと言い切れるほど魅力的なモロッコなど、枚挙に暇が無い。

しかし、そんな中で出来れば観光しない方が良い国が二つほどある。アルジェリアとリビアだ。アルジェリアは北アフリカでダントツで物騒なテロ供給国家で、国内はもとより、海外にも強力なテロリストたちをどんどん供給している。だが、そのアルジェリアと言え、場末のカスバなんて聞いたら怪しげな魅力を感じる。著名人も多く輩出している、ってカミュとかしか知らん。あとはジダンのルーツ。

ところがリビアである。一体何があるか考えてみても、カダフィ大佐しか思い浮かばない。今の私と同い年でクーデターを起こし、以来リビアの頂点に立ち続ける独裁者カダフィ。未だに大佐のカダフィ。大佐としては赤い流星シャアの次に日本で有名なカダフィ。カダフィカダフィって、カダフィ以外に何か無いのかと問いたいが、カダフィの息子が真木蔵人に似ていることが精一杯の私の知識である。

と言う訳で、エジプト・チュニジア・モロッコの地球の歩き方は二冊づつ書棚に並んで売られているのに、リビアはリの字も見る事が出来ない。よく見るとリベリア(ってこっちの方がマイナーだと思うが)だったりして、Sさんのブルー振りも藍を増すばかり。

「洋書コーナーを見てみましょう」

と言ってロンプラが置いてある洋書コーナーに行くのだが、馬鹿厚い「AFRICA」という本に、約20ページ弱で精一杯にリビアが書かれているだけである。地図を見るとトリポリ(リビアの首都ね)には城壁もあり、海洋文明の華開いた形跡を認めることは出来るが(実際歴史上は重要な街だったんだろ?)、Sさんはこれっぽっちの情報のためにこのバカ厚い本を買うのが正にバカらしく思ったようで、結局買わなかった。

再度和書のガイドブックコーナーに戻ったが、やはり何も見つからない。とその瞬間、私が「海外生活の手引き・北アフリカ編」みたいのを見つけた。これは外務省が監修している海外に「住む」人のためのガイドラインのようなもので、私も西南アジア編を持っている。これは日本文で30ページくらいに渡り説明が書いてある。内容は酒は一切手に入らないだの娯楽は皆無だの書いてあるが、少ない情報源を欲していたSさんはこれを購入。今頃研究しているはずだ。

会社に戻って、インターネットでロンプラのホームページをチェックした。ロンプラが出していなければ恐らくどの会社も出していないだろう。すると、

今年の2月に新規発行されているう!って、いきなり表紙砂漠かよ。

と言う訳で、マイナーな国に行くのも一苦労だね。

そういえば、アルメニア行きの航空券が取れました!

7月12日(金) 晴 青春18きっぷで行こう

青春18きっぷって使ったことあるだろうか。私は学生時代に一度だけある。今日は何故か、この時の旅行の旅行記を思い出しながら書こうと思う。

大学院修士二年生だった私は、夏休みが僅か4日しかなかった。これは塾バイトで夏期講習があったことや、研究室で実験をやり続けたことから起因するわけであるが、それでもあるだけマシだった。4日間でどこに行こうかと考えたのだが、お盆シーズンで行楽地は混んでいるだろうし、海外旅行もこのシーズンは書き入れ時でかなり高い。と言う訳で、宿を取らずにどこかへ行こうと思い立ったのである。それが青春18きっぷを使った国内旅行だった。予定は一応立てていたが、途中で色々変わったので結果的なルートを示すと、以下のようになる:

横浜-(東海道本線)-熱海-(新幹線)-浜松-(東海道本線)-京都-(阪急)-大阪-(ムーンライト八重垣車中泊)-出雲市-(一畑電鉄)-出雲大社-(一畑電鉄)-松江温泉-(バス)-松江-(山陰本線)-豊岡-(北近畿タンゴ鉄道)-天橋立-(北近畿タンゴ鉄道)-福知山-(福知山線)-六甲道 (板垣邸泊) 六甲道-(山陽本線)-舞子-(山陽本線)-姫路-(山陽本線)-京都-(東海道本線)-名古屋 (名古屋のビジネスホテル泊) 名古屋-(東海道本線)-横浜

以下解説。

横浜を朝7時くらいに出て、鈍行を乗り継ぐ計画だった。まず目指すは京都である。ところが、いきなり湯河原で大雨により2時間くらい電車が止まってしまった。これにより若干予定が狂ってしまい、熱海から新幹線を乗ってショートカットすることを決意。雨は凄まじかったようで、比較的山が海にそのまま落ちる地形の県西を流れる川は、正に滝のような様相だった。

熱海駅前のマックで昼飯を食って、新幹線に乗る。いきなり青春18きっぷが使えない線区に入ったが、時刻表で調べて浜松からの新快速に乗る。確か米原で乗換で、その後は一気に京都に入った。

京都では京都駅で降りず、山陰本線で嵯峨嵐山まで行き、嵯峨野散策をした。ここで確か天一のラーメンを食べた記憶がある。嵯峨が雨が降っていたが、これによって桂川にスモッグがかかり、趣深かった。渡月橋を渡って少し上流に向って歩いていったが、やはり京都は違うと思った。

京福嵐山線で四条大宮まで行き、阪急京都線に乗って梅田に向う。梅田で降りて、レイトショーの映画を見て、深夜12時過ぎに夜行快速ムーンライト八重垣に乗車した。これは指定券を購入していた。

翌朝、出雲市に到着。何だか肌寒かったが、寂れた街をちょっと歩いて、電鉄出雲市駅まで行く。ここからは一畑電鉄と言うローカル私鉄で出雲大社に向う。

出雲大社まで行き、参拝。あまり良く覚えていないが、土俵があって、そこで野宿している奴がいたのを覚えている。まだ雨が降っていた。

そこから今度は松江温泉に向う。と言っても、別に温泉に入るわけではなく、松江に行くのが目的だ。宍道湖の北側を沿って一畑電鉄は走る。宍道湖は結構デカイ。

松江温泉に着き、市バスで松江駅へ向う。若干大回りで、松江城も窓から見えた。松江駅前で下車し、再び青春18きっぷを取り出して検札。かに弁当を買って朝飯にし、平らげた数分後に爆睡。やはり昨夜はあまり眠れなかった。

人が降りる気配で目を覚ますと米子に着いていた。すぐに鳥取行きの快速に乗り換えたが、ガイジンに「すみません、これは北に行きますか?」と日本語で訊ねられた。「いや西だ」と日本語で答えると、「え〜、北でしょう」と日本語で返してくる。何度も西と言うが、どうも西という単語がガイジンの頭には無いらしい。業を煮やして「どこ行きたいんだ」と不機嫌に英語にスイッチ。私のあまりの不機嫌さに若干引いていたが、目的地福井(随分遠くまで行くな)まで数回乗り換えて行く計画を聞いて、じゃあこの汽車だとぶっきら棒に答える。サンキューと言われ、はいはいと答え、車内に入り、籍を陣取り、爆睡。

対面のおばちゃんに起こされて、鳥取到着。せっかく初めての山陰本線なのに、今まで完全に寝ていた。その後はずっと起きていた。何しろ山陰本線ハイライトの餘部鉄橋が待っている。

餘部着。汽車は発車したが、ガードも何も無い鉄橋は、なんだか離陸するような感覚だった。てゆうか、山陰線のこの辺、景色激きれい。

車窓から見える畑の上に、デカイ看板があって「山陰本線複線電化早期実現を!」と書いてある。言う前に乗れって感じ。

今夜は神戸に(当時)住んでいる板垣を尋ねる予定だが、板垣は休暇を取ってバリだかに行っていたようである。帰ってくるその日に押しかけることになったが、悪いとは全く思っていない。だが、途中で気が変わって天橋立に行くことに決定した。と言う訳で、城之崎で特急に乗り換えて、一路天橋立を目指す。

日本三景の一つ、天橋立。日本三景、このときはじめて見たが、近くから見ると特に美しくは無いような気がした。しかし、珍しい風景だとは思った。ここで板垣に電話して、神戸到着が遅れる旨伝える。その後、宮津まで歩いて再び天橋立方面を仰ぎ見たのだが、ここからの景色は美しかった。いや、美しいなんてもんじゃ無かった。曇り空であったが、雲の割れ間から光が漏れて天橋立を照らしているのだが、遠景の山と天橋立の砂州と天からの光の光景は恐らく想像しがたい神秘だった。天女が降りてきそうだ。

北近畿タンゴ鉄道に乗って、福知山へ。福知山からは福知山線で尼崎へ。そこからは東海道線で六甲道まで行く。てゆうか、ここまだ東海道線なのね。

六甲道には板垣が迎えに来てくれていた。私の身なりを見るや否や

「相変わらずテキトーな格好で旅行しやがって」

と言われたが、お前に言われたく無いと即座に返した。その後は板垣の会社の社用車で夜の神戸を爆走し、焼肉を死ぬほど食って、しかも奢ってもらって(多謝)、板垣邸で爆睡。

翌朝、出勤する板垣と辻で別れて、再び東海道線に乗り、一路舞子へ。舞子って何と言う感じだが、明石海峡大橋を見に行こうと思って。

って、デケー!!!さすが世界最長、って主塔が高過ぎるだろ!輝くバブル橋!

ひとしきり感激して車中の人へ。次は姫路へ。目的は姫路城である。いや、漢字変換したら姫事情ってあんたねえ。

まあ、城なんて別にどれも大差ねえさ、なんて思っていったのだが、いや姫路城は別格だよ。美しい。暫く遠くから眺める。当然口は半開きだ。あとは中を見学して、姫路を後にした。

次は新快速で京都に向う。今日はそのまま横浜に帰る予定だったが、時刻表を見ると京都で2時間くらいダラダラしても横浜まで辿り着ける事が判明した。と言う訳で、東山でも行こうかと言う感じで再来訪した。中学の頃の修学旅行では行かなかったんで。

と思ったら、何とその晩は送り火であることが駅で判明。逡巡して今日は帰浜しないことを決定。といっても京都のホテルは混みまくりのような気がしたので、時刻表で調べて辿り着ける大都会、名古屋のビジネスホテルを駅から予約。1泊4000円。

暫く哲学の道なんかを散策したりして、銀閣寺に行ってみるも、もう閉まってやがった。おいおい。夜まで時間を潰そうと京大構内をブラブラしたりする。って、他に見るところあるだろうが。

夜、送り火を見るために路上に出る。って、京都の人は路上で送り火を見るんだな。とは言っても大したことねえだろう、なんてここでも思ったが、予想は大外れで、無茶苦茶素晴らしい。何か、こんなに迫力あるなんて知らなかった。

大満足で京都駅から夜の東海道線を疾駆。天下分け目の関が原は暗黒の世界で何も見えない。名古屋到着。地下鉄に乗ってホテルまで行き、投宿、爆睡。

チェックアウト後、名古屋駅に向かい、新快速で東を目指す。ここで思ったのだが、東海道線の静岡県内沿線って、かなり風光明媚のような気がする。3日前は新幹線で爆走してしまったので、あまりよく見ていなかったのだが。大井川渡る辺りとか、結構見ごたえがある。あと、海岸沿いを走る由比の辺りとか中々良い。

と言う訳で、明るいうちに横浜に到着。いい夏休みだった。

まあ今となっちゃダルイ旅行だぜ。

7月16日(火) 台風のち晴 アジアはやっぱダルイ

昨深夜、凄い雨音で目が覚めた。ウチは古い家で雨が降り始めるとすぐ分かるほど外気との遮断性の乏しい家であるが、激しい雨音で起きるくらい、ウチは古いし、雨も激しかった。朝はスポット的に雨が止んでいたが、出社するとまた豪快に降って来て、昼前には上がった。台風一過で、会社からは富士山まで見えた。

パキスタンに仕事メールを送ったのだが、「今日はタイフーンが横浜に近づいていて、こちらは猛烈な雨です」と送り、「ラホールはどうですか?」と書いてやった。

すると、

「いや〜、ラホールは相変わらず暑くて蒸しています。」

と返してきた。すかさず私が愛用しているweather undergroundでラホールの気温を調べると、

と書いてある。明日は47度らしい。

「横浜のマイルドな天気が懐かしいです」とも書いてあった。

7月19日(金) 晴 ミッドナイトアイ ゴクウの世界

旅行の手続き関連だが、全てインターネットとe-mailでやった。旅行関連は最終的にメールで確認となる訳であるが、久し振りに旅行手続きをして、時代も変わったと思った。例えばブタペストからドナウ川を上ってウィーンに入ろうと思ったのだが、時刻表を見ると「夏場は要予約」なんて書いてある。どこで予約すんのよ、と思っても、電話番号しか書いていない。旅行会社のホームページを見ても、何だか要領を得ない。そこで、ドナウ何とかとか言う運行会社のホームページを探し、そこにメールを出したら、

「このメールを返信して申し込んでくだされば結構です」

と来た。いや、別に電話しているのと同じだと思うんだけどさ、全然便利だと思わないか?俺なんて平日は殆ど家にいないし、時差だってあるし、電話料金だってかかるし…。

まあ、今となっちゃ別段驚くことでもなんでもないことかも知れないが、何だか今日、そのドナウ何とか(DDSG Blue Danube Schiffahrt GmbH)からのメールを見て、たまに思い出す「便利になったな」という言葉が頭の中から出てきた。

かつてハマッた漫画家に寺沢武一(代表作はコブラ)がいるのだが、彼の描いたマンガに「ミッドナイトアイ ゴクウ」というマンガがある。主人公の左目が全世界のコンピュータに接続している超高性能小型端末で、これで悪を懲らしめると言う漫画であるのだが、ゴクウはこう言っている。

「その気になりゃ米ソのミサイル基地に入り込んで、世界を破滅させる事も出来るのだ。」

まだここまで全然行っていないが、世界の端末が相互に繋がり、様々な事が出来るようになりつつある現在、こんなフィクションが夢じゃなくなるような気がしないでも無い。

まあ世界が破滅する前にソ連が消滅するというのは予想できなかったようだが。

7月20日(土) 晴 関東梅雨明け

数日前の夜、会社から帰ってくるとき、北のほうで稲妻が走るのをみたのだが、あれが梅雨明けサインだったのだろうか。とにかく梅雨が明けたようだ。

私が中学生の頃など、梅雨明けは極めて分かりやすいサインとともにやって来た。とにかくモノスゴイ雷が午後に鳴り響き、稲妻は空を真っ二つに割るほどの激しさを見せる。耳をふさいでも聞こえる大音量に耐えた翌日、無茶苦茶な日差しが降り注いで、夏が来るのである。何故梅雨明けのタイミングで雷が鳴り響くのかはよく分からないが、とにかく翌日は明らかに夏になっており、ニュースでも梅雨が明けたことを高らかに宣言するのである。

最近はいつ梅雨が明けたのか判然としない傾向にあると思うのだが、とにかく夏がやって来た。って、別に会社勤めで外回りをしている訳じゃないため、季節感を顕著に感じる訳ではないのだが、今日の夕方歩いていて、夏が来たことを実感した。

実感したから言う訳ではないが、夏の夕方は結構情緒があると思う。何か、遊び疲れて帰る途中の夏の夕方、部活の後に疲れて帰る夏の夕方、とかを思い出した。温度が下がるから、若干湿気も高くなるため、何となく匂いもしないか?

夏の夕方を感じるためだけに、嵯峨野に行きたくなってきたぞ。

8月6日(火) 晴 夏休み明け仕事

昨夜は午前二時にパッチリ目が覚めてしまい、結局5時前くらいまで眠れなかった。と言う訳で夏休み明け仕事初日は完全な寝不足での出勤となったが、結論から言うと夏休みボケは全く無く、何だか普通に仕事をしていたと思う。寝不足は寝不足だったと思うが。

仕事が溜まっているだろうと早めに出社すると、いきなり机の上に「今日午後のパキスタンでの云々ミーティングに出てくれ」と上司の書置きがあり、小さい字で補足で「パキスタンビザを申請してくれ」とも書いてある。昨年取ったパキスタンビザは、ちょうど今日で切れる筈だ。次にパソコンを立ち上げてメールを開けると、新着メールは82通だった。私が会社を空けていたのは6勤務日ゆえ、割ると一日14通弱で、何か少ないなと思う。しかも、どうでもいいメールを先に始末したら、残りは40通だった。比較的うず高く溜まった回覧を見ながらメール内容を処理していたら、午前11時には1週間の溜まり仕事を処理してしまった。

午後一でミーティングが始まり、3時半くらいまでやったが、10日間仕事から完全に離れていたにもかかわらず、何だか普通に参加していた。ミーティング後、他の人に頼んでいた仕事について話したりしていると、夕方には殆ど仕事が片付いた。

何とも呆気ないが、今日の仕事の能率は驚異的に良かった。夏休みは完全に私をリフレッシュしたようで、8時前には会社を後にしてしまった。

休みは取れれば取った方がいいと実感しながら帰宅した。とは言え、時差ボケは若干残っていて、まだちょっとだるい。

8月7日(水) 晴 過去の遺物

昨日、とある超重要書類を、本気度7点(5点満点中)で探していた。机の中ほぼ全てを引っ繰り返し、ある筈の無い封筒の中も精査した。結果的に見つかったが、捜索過程で様々な副産物が出てきた。

サークル時代のネームボード、多くの年賀状、海外旅行中の友人からのエアメール、学生時代の難解な論文ファイル、既にどこかに行ってしまったウォークマンの保証書など、案外まだあるんだなという感じだったが、特筆すべきは中学時代に貰ったラブレターと言う奴だろう。大学院1年の時に私は引越しをしたのだが、その際に結構モノを捨てた筈である。しかし、これだけはまだ残っていた。と言っても、過去に貰ったラブレター(単語書くのも恥ずかしいな)の全てが残っているわけではなく、件の超重要書類を徹底的に探し上げた過程において、過去貰ったうち2通(しかも同じ人からのもの)が出てきた。

こんなことをネタにするのは当人に対して大変失礼かと思われるが、もう13年も前の話だし、どうせ当人もご覧になっていないだろうから、ちょっと書こうと思う。鈴木先生も好きそうなネタだし。

二通はほぼ同時期に送られたもので、1通はバレンタインチョコの付属、もう一通は(文面から察するに)卒業前後に貰ったもののようだ。卒業間際のモノの渡され方は覚えていないが、バレンタインは思い出した。

当時は中学3年で、ちょうど受験を終えた直後だった。私の受験時代は都内および神奈川県内私立高校の受験は2月18日スタート(今は2月10日)であったため、2月14日はバレンタインどころではなかった。2月14日は普通に学校に行き、教室でみんなで受験準備をしていた筈である。チョコレートなどという甘ったるいものは貰わなかった(と思う)。と言う訳で、この日には上述の代物も貰わなかった。

第一志望に受かったのは今の会社が初めてと言う私は、高校受験も定石通り第一志望に見事敗退、第二志望校に滑り込んだ。とは言うものの、特に第一志望敗退のショックを引き摺る事も無く、受験後生活を満喫していた。まあ、連日友人宅でファミコンやってただけだが。

県立高校の合格発表が終わった翌日(私は県立受けていない)、中学から帰宅した直後に自宅ベルが鳴った。ドアを開けると、1年生がいる。この世代には当然ある、友人同伴というあの状況だ。と言う訳でチョコを貰った(貰い方は遺憾ながら覚えていない)訳であるが、その時の付属品が上記の手紙である。第二ボタンを手紙内で要求されているが、確か渡していなかったと思う。ただし、この時の返礼はしっかり3月14日にしたと記憶している。

さて、この渡され方に、私は好印象を受けた。なぜならこの後輩は受験が終わってから時差をつけて渡してきたからだ。気を遣った様が想像できる。だから既に卒業していたにもかかわらず、ホワイトデー(恥ずかしい響きだな)に返礼をしたのである。

まあこの関係はその後発展することは無く、そのまま消え去ったわけであるが、何か今思い出すと青臭い良い思い出であると思う。

現在の中高生はどうなっているんだろうか。と言っておっさんがまず想像するのは「メールで云々」と言う奴だが、文章で伝えると言う点では本質的に10年前と変わらないな。夜、部屋でだらだらしてたら携帯が鳴って、そこに青臭い文章のメールが届くのだろうか。

いかんいかん、Boys be...の世界に浸ってきたぞ。危ないからもう止める。

Boys be...ってまだやってるんだろうか(少年マガジン)。

8月8日(木) 晴 過去の遺物II

好評の過去の遺物シリーズ。実は全然反響が無いわけですが、昨日の掘り出し物を発見したことを契機に、もう少し探してみたら、これまた懐かしい手紙が出てきた。これは結構最近のモノだが、まあいいだろう。ラブレターではない。

現在、私が会社に行く時に使っているカバンは、就職活動を開始する直前に購入したものである。玉川高島屋で1万8千円であったが、これはバイトで稼いだ金で買ったというより、ある生徒のお母さんから貰ったお礼で買ったものである。当時、スーツにリュック姿であった私は就職活動をこれでやるわけにも行かず困っていたのだが、思わぬ臨時収入によってこれを買うことが出来た。以来、カバンは替えずに大切に使っている。ちょっとテカって来たんだけど。

このとき、お礼と一緒に付いて来た手紙も、まだ残っていた。内容は紹介しないが、短い手紙を読むだけで、この生徒の指導を思い出した。と言っても、別段難しい生徒ではなかったが、私が教えた中で最も印象に残っている生徒の一人だ。

当時、私は中学校3年生の真ん中のクラスの数学を担当していた。真ん中とは言え目指すは都立トップ校で、生徒たちは学校の成績がそこそこ良い連中である。恐らく3クラスのうち最も楽なクラスで、かつてこの学力水準だった私にしても、教えやすいクラスではあった。男子生徒が過半数を占めていたことから、一番出来るのが数学で、それ故私としても最初は比較的楽だったと思う。ただ、途中から女子生徒が多く入ってきたりしたため、補習などが増えてきて、そして受験学年でもあることから、だんだんキツくはなって来た。そんな中、Aという女子生徒が下のクラスから上がってきた。

彼女は国語単科という具合で受講していた訳であるが、途中から3科目を受講するようになった。そんな中、当然懸案になるのは数学で、遅れを取り戻すために授業前に個人補習をしていた。当時、私は大学院生で、昼間ヒマと言うわけでは無かった。にもかかわらず、研究室を切り上げて、彼女のために早めに塾に出向き、補習をしていた訳である。しかしながら、彼女は補習に遅刻が日常茶飯事で、しかも遅刻の仕方が10分遅れなど、明らかにダラダラ来て遅刻という、最悪の遅刻であった。「おい、今何時だと思っているんだ」と言っても、「6時ですけど」と、遅刻したのを気にするでもない態度であった。と言う訳で、無気力現代っ子振りに私も途端に萎えて来て、一連の補習が終わったあとは気にするでもなく、勝手にしろ状態で授業を進めていった。

ただでさえ数学が苦手で、かつ真ん中クラスにしては数学が出来るクラスにいたため、彼女の数学の成績は見る見るうちに低下。遂にあるとき、クラス平均75点と言う月例テストにおいて、これは座視出来ない点を彼女は取ってしまった。

座視できないというわけで流石に座視しなかった私は、授業後に彼女を面談室に呼び出した。まず、家での数学の勉強の仕方を聞いた。普段の様子から見て、勉強をしていないわけではなかった。宿題をしょっちゅう忘れる訳ではなかったと思う(記憶に無いから宿題忘れは殆ど無かっただろう)。宿題は決して少なく無い量を出していたため、これをやっていたと言うことは家で全く勉強をしていなかったと言うことは無いと思う。だが、彼女の勉強の仕方はかなり不味かった。一応家に帰って授業内容を復習するが、その日にやった問題を見て、出来なかったらノートを見て、それでおしまい、と言う方法である。これでは全く身に付かない。すぐに忘れるだろう。

私は数学の勉強の仕方をそこでかなり丁寧に教えた。理系とは言え、実は私は元々数学がずば抜けて出来た訳ではなかった。だから、中途半端なレベルの生徒が、数学でそこそこ出来る方法論は持っていたと思う。要は、「分からなかったらすぐノートを見てよい。だが、見なくても出来るようになるまでその問題を解き続けることは忘れるな」という方法だが、これは恐らく、結局受験時に数学で苦労しないレベルまで達した人間の殆どがやっている方法だと思う。解き方を覚えてしまうことで、解き方のストックがどんどん蓄積していって、その解き方を組み合わせることで応用力が増して行くという、その論理である。数学の解き方はいったん覚えると中々忘れない。何故なら、丸暗記と異なって数学の解法は論理と明確な道筋があり、体系がしっかりしているから、一度覚えると忘れにくいからである。と思う。

と言うようなことを話して、面談を終えた。終えるとき、「まあ、今回の成績はあんまり気にすんなよ」と彼女には言ったのだが、これは優しさから出たものと言うより、正直言って営業的な腹積もりから出たモノだった。

彼女を帰した後、私はフォローの電話をお母さんに入れた。ウチの塾では生徒に特別な指導(「叱る」とか)をした後、必ず父兄に電話をする事が義務付けられていたからだ。と言うより、これは校舎(校長)のカラーだったと思うが、かなり徹底されていたと思う。実はこの生徒のことで、お母さんとは何度か話している。

中学校3年生と言うのは反抗期真っ盛りで、親の言うことを聞かない奴が大多数である。その中で、Aはその傾向が顕著で、お母さんも弱りまくっていた。一体娘とどうコミュニケーションを取ったらいいのか分からず、面談時などに相談をされた事があった。私にしても反抗期の子供にどう親が接していいのか分からず、うまくアドバイスが出来なくて困った記憶がある。

お母さんには今回の数学の成績がかなり不味かった事を話し、授業後に面談を行ってフォローをした旨伝えた。お母さんは私の話を一生懸命聞いていて、その様子から娘を心配しているのは若い私でも容易に想像が出来た。電話を切って、こりゃ何とかならんもんだろうかと、講師机の上で考えてしまった。

翌週、事務主任のOさんが「Aさんのお母さんから電話がありましたよ」と伝えてくれた。一体なんだと思い、その場でAの自宅に電話を入れると、お母さんがすぐに出てきた。聞いてみると、先生(私ね)から電話を貰った日、娘と話をしたというのである。お母さんとしても、最早反抗期の娘に話しかけるのを躊躇している場合ではないと感じたようで、帰ってきた娘を捕まえて、その日に先生(私ね)と何を話したのか聞かせろと聞いたらしい。そこで、Aは素直に「私の勉強方法が良くないことを聞いた」だの、正直に話したらしい。また、普段の無気力な表情から、大人がコミュニケーションを取るのを敬遠するタイプだったAに対し、おっさんの私がかなり突っ込んで話をしたことは、彼女にとって新鮮な出来事だったようだ。

私は結構驚いた。何故ならば、この親子には会話らしい会話がここ最近無いはずだったからである。それが、今回の悪成績によって、急速な歩み寄りを見せたのである。これはこの親子管だけでなく、Aと私の師弟関係にも変化をもたらしたと思うが、とにかくこれは完全に契機になり、以後のAは今までと全く変わった生徒になった。

授業に対する姿勢は全く変わった。確かに受身ではあったが、目の色が変わると言うのはここまで分かるものかと言うくらい、彼女は授業に真剣に出ている。そして、私のアドバイスを忠実に守り、毎回力を抜かずに復習しているのは、小テストや順調に上昇し続ける月例テストの偏差値でも如実に分かった。

志望校に対する希望もアグレッシブになった。それまでは学区中堅の高校で良いとしていたが、積極的に文化祭を見に行った結果、学区では進学校の部類に入る、彼女にとってはキツいレベルの学校を気に入ったと言うのである。これは本人から聞いたわけではなく、お母さんに聞いたのである。その日は何かの用でAの家に電話をしたのだが、「最近文化祭などを友達とよく行っているようですが、何か希望は出てきましたか?」という問いに対し、お母さんが「実は・・・」と言う具合に言ってきたのだ。お母さんは当然高嶺の花と思っていたし、本人にしてもそうだったと思う。聞いた時点では確かに厳しいと私も思った。だが、どんどん上昇する成績を見て、何だか行けるような気がしてきた。お母さんに電話して「狙ってみますか!」と言い始めたのは、ちょうど志望校を決めようと言うシーズンだったと思う。

Aの志望校は、文化祭を見て最も楽しそうだった都立高校に決定した。幸い、昨年教えた生徒がこの高校に入っており、この高校が「無茶苦茶楽しい」ことは分かっていた。私としては、自信を持って楽しい高校生活を保障していた。Aはますます頑張り、最後の月例テストでは、数学の偏差値が60に達した。これはクラスの平均偏差値であったため、ハッキリ言って目立つ成績ではなかったが、彼女の底の時期から比べると、この上昇は凄まじいものであった。私は、Aの志望校合格をかなり確信していたと思う。

そんな折、Aの努力の腰を折るような事態が発生した。大した事件ではないかも知れないが、Aにとっては重大な事件だった。それは、学校の担任の先生が「お前がこの学校に受かるには、本番の試験で平均8割取らなければ無理だ」と言ったのだ。

彼女にとってはかなりの衝撃だった。何しろ、本番で8割取るのは彼女にとって若干厳しいと思われたからである。しかし、彼女の内申点を見ると、明らかに8割は過剰で、実際計算すると、彼女は7割2分程度でこの高校に受かる筈である。だが、学校の先生に言われたショックは大きく、どうも私がいない時に他の担当の先生の前で泣いてしまったらしい。それを聞いて、私は授業後にAに声を掛け、例の面談室で面談を行った。

電卓を前にして、私は本番で取ればいい点を算出した。やはり7割2分程度である。今までのデータを振り返っても、8割はあまりに過剰であることを力説した。そして、私は彼女に笑顔を戻す言葉を吐いたのだが、正確には覚えていない。かなり美化した感じで書くと、以下のような言葉を掛けた。

「お前、結構前に数学で無茶苦茶悪い点を取って、ここで俺と話したのを覚えているか?あのときの点、お前も覚えいるだろう。それがどうだ。今月数学ここまで来てるじゃないか。俺はお前が受かると確信している。何故なら指導してきて、明らかに力が付いているのが分かるからだ。お前は学校の先生が言う戯言と、俺の言うことと頑張ってきた自分のどっちを信じるんだ?」

都立志向のクラスであったが、比較的難関な私立を目指す生徒が多かったので、都立第一志望と言う生徒は20名中3人しかいなかった。結局地道に努力する生徒たちだったので、この3名以外は私立で勝負を既に決めていた。明日都立の試験日だと言う最後の数学の授業の際、私は都立を受ける3人を教壇に呼び出した。A以外の生徒は数学が無茶苦茶得意で、全く心配していなかった(現にこの二人は当日満点だった)。だから、A以外の二人には、数学で少なくとも9割取る戦術をアドバイスした。そしてAには他のアドバイスをして、

「とにかく普段どおりにやれば7割は固い。取れるぞ」

と言って送り出した。

翌々日、都内の新聞に都立高校の入試問題が出た。といっても神奈川県民の私は、都立の問題は家では分からない。その日塾に行って、塾にある新聞で問題を確認した。問題を見ると、気になったのは明らかに易化した数学の問題だった。都立の数学は中々満点が取れない、公立にしては難しい部類に入る出題をしてきたので、その年の易化は若干心配になった。あの二人は全く問題ない。恐らく満点近いだろうと思った。だが、果たしてAはどうだろうか。この問題は今のAなら解ける、これはどうか、と一つ一つシミュレートしていった。そんな折、Aから電話がかかってきた。すぐさまどうだったか尋ねた。

「数学は85点でした」

と言う。いや、易化しているからって85点はマジかよと言う点だった。だが、Aは「簡単だったからみんなこれ位取れていると思う」と不安げに話す。簡単などと言う時点で、Aは実力が上がっていることが分かる。そして、総点を聞くと5科目500点満点中、425点を叩き出している。これは学校の先生が「8割取らなきゃ云々」を遥かに超えて、8割5分に到達する、凄まじい得点である。

「いや、確かに全体的に易しくなっているのは分かるけど、それでもこれなら受かるよ」

とAに言った。これでAを入れないなら、私はこの高校を放火しなければならない。

結局、当然の如く、Aは志望校に合格した。A自身感激していたと思うが、やはり一番安心していたのはお母さんだと思う。

学校にいる時、横で組んでいる英語の先生(社員)から携帯に電話がかかってきた。

「実はAのお母さんが来て、お礼を置いて行ったんですよ」

と言う。受験後にお母さんがお菓子などを持ってくるのはよくあることなので、私はそうですか、そりゃ良かったと答えたが、この先生は

「それが、結構いっぱい貰っちゃって...実はお金なんですよ」

と言う。ビール券などはあったが、現金をお礼で貰うと言うのは今まで経験が無かったので、ちょっと驚いた。校長は何て言っているのかと聞いたら、「受け取らない方が失礼にあたるから、ここは丁重にもらっておけと言うことです」と言うことだった。そりゃそうだろうが、その時は貰っていいのか判断しかねた。何しろ、私は給料を貰っているわけだし。

塾に出向いた際、お礼のお礼の電話をAの家にした。お母さんは電話口で床に頭がつくほど頭を下げたような話し振りだったが、私はこの親子が今回で成功して、何だか本当に良かったなと実感した。

今日見つけた手紙は、以上のエピソードを凝縮した手紙である。大事に取っておこうと思う。

8月9日(金) 晴 過去の遺物III

さすがにもう無い。

関係無いが、以前友人宅(親と同居)の本棚に、「ロッキー7」までビデオがあったのを覚えている。

8月12日(月) 晴 1900人のご来訪ありがとうございます(内400人くらい自力のような気がするが)

そろそろこの第三世代アヂアチックコンクリーつ、ってサイト名も忘れるくらいのただの日記帳であるこのサイトも、何と2000人の来訪者を数える勢いである。第三世代を開設したのが9月14日。このままだと、1周年で2000人の来訪者を数えることになりそうだ。

ちっとも多くないな。1日平均5.5人。大体、私は一日1度は見ているから、私以外の来訪者は1日4.5人か。これ位の小さいサイトはかなり多数あるだろうけどなあ。

とは言いつつも、恐らく他の小さいサイトと比較した時、このアヂアチックコンクリーつはある特徴を持っていると思う。

来訪者が少ないのに更新頻度が高い。

更新頻度高いよなあ。日記だけだけど。

あと、記述量も少なくないはずだ。月に2万字くらいは書いているぞ。しかも、「だから何?」と言うことを徒然に書いている。私以外が読んで面白いのだろうか、この日記?と言うのも少なくないし、それに加えてそんな日記すら、時が経つと殆ど読み返さないしね。じゃあ何のために書いているの?と言う自問自答が当然沸き起こるわけだが、

「別に何のために書いているわけでもない。」

という結論にすぐに辿り着くんだよな。あまりに理由が無くて。ただし、自己満足だけで済ませたくない何かはあるんだよな。てゆうか、自己満足になっているのかなあ。

例えばアルメニア日記。土日に書いていたりするんだけど、もうこれは誰に向けて書いているのかも分からない。街の由来解説してたりするんだけど、これは明らかに、これを読む人を対象に書いているに違いない。だって、私を対象に書くなら書く理由は無いわけだし。知ってるっつーの。じゃあ、この旅行記は誰かに読んでもらうために書いているのかと言うと、どうもそれが第一義では全く無いようで、人が読んで理解しやすいように工夫する様子も全く無い。

とここまで書いてみて、じゃあ何のため?と言う質問をもう一度自分に投げかけたら、こんな回答が自分の頭から得られたぞ。

書かずにはいられない。どうも書かずにはいられない。単に書かずにはいられないだけだ。

マジかよ自分。

とにかく、見てくれている人、ありがとうございます。たまにはメールくださいね。あと掲示板が変わったのご存知でしょうか?感想は別にいいんですけど、近況報告とかして下さると他に見ている人も楽しいと思います。2000人目を踏んだ人は連絡下さい。多分踏むの自分のような気がするんですが。

8月16日(金) 晴のち曇(雨?) うわぁ、諏訪内晶子って美人だなあ

本日、会社でインターネットを立ち上げると、msnのトップページに諏訪内晶子の写真が載っていた。美しくてリンクを辿ると、こりゃ確かに美しい。

どれどれ、

サカリ・オラモ指揮 バーミンガム市交響楽団/ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲
2002年9月21日(土) 三重県文化会館 シベリウス
2002年9月22日(日) 京 都 京都コンサートホール ウォルトン
2002年9月25日(水) 東 京 サントリーホール ウォルトン
2002年9月27日(金) 札 幌 札幌コンサートホールKitara シベリウス
2002年9月28日(土) 名古屋 愛知県芸術劇場コンサートホール ウォルトン
2002年9月29日(日) 横 浜 横浜みなとみらいホール シベリウス
2002年9月30日(月) 北九州 九州厚生年金会館 シベリウス

おおっ!9月にみなとみらいホール(会社から激近)で公演があるな。いよーーーーーし、パキスタン赴任中止にするか!

な訳ねえよな。

てゆうかよ、誰かサマーキャンプ行こうぜ。

8月17日(土) 曇 どよ〜ん出勤

予想通り忙しくなってきて、久し振りの土曜出勤である。本当は航空運賃の安い9月くらいに夏休みを取るかと画策していたのだが、そうじゃなくて早めに取っておいて正解だった。最早夏休みなんて風情は終わっている。本日は9時くらいまで粘ったが、全然終わらないので諦めて明日も出ることにした程だ。

しかし、サマーキャンプには行く。今度の日曜日。だが、開催場所に対して若干動揺している。慣れた志賀高原ではなく、今年は何と長野県飯田市とのことである。

昨日現役の部員の方(スピチー)から電話を頂いたのだが、飯田市と聞いてまず飯田線(天竜川沿いを走る比較的高レベルなローカル線)を思い出すも、肝心の飯田市がどこにあるか判然としない。すかさず地図帳を開くと、長野県の南部である。標高を表す地図上の色は茶色っぽいので、案外涼しいのだろうか?と思うが、何しろ行き方が上手くない。

新宿からバスと言うのが最も簡便な方法らしいが、そもそも新宿と言うのが私にとって簡便でない。勘弁して欲しいくらいだ(ぶっひゃっひゃっひゃっひゃ)。

気を取り直して他の方法を探ると、横浜駅東口バスターミナルから飯田までのバスが出ている。名前は「ベイブリッジ号」。これだと土曜の午後4時に横浜を出て、飯田には午後9時20分には着くscheduleとなっている。てことは、午後3時半くらいまでは会社で仕事をして、そこから飯田に行けることになる。

早いって。

土曜なんて昼に出るんだからよ、3時半に出るなんて言ってもよ。電車はどうだと思ったが、途中の辰野から飯田までの60kmを110分かけて走る飯田線がモロbottleneckって奴で、全然効率的じゃねえ。

さらに気を取り直して調べるうちに、どうも新宿から行ったほうがやはり簡便である気がしてきた。で、新宿から飯田で検索すると、何と新宿から飯田に行くバスの最終は20時発。これだと桜木町を午後7時に出れば間に合うようだ。

結局、どこ行くにも都内経由した方が早いって話だよな。俺の上司って信州大学だったんだけど、静岡の実家から長野に帰るとき、身延線と小海線を使って帰ったそうだが、一言、

「アホだね」

と言っていた。十数時間かかったらしい。

8月27日(火) 晴 前編 往路

先々週の土日に攻撃的に仕事をこなしたお陰で、土曜日(24日)に何とか会社で仕事に目処を付けることに成功した。夕方、会社を辞して近くの文明堂で土産を買い、桜木町から上野を目指した。星君とはJR上野駅浅草口タクシー乗り場にて夜7時半に待ち合わせをすることになっている。

上野着(早いな)。すぐにタクシー乗り場に向かい、そこで星君に電話して、星フィット号を発見、助手席に乗り込んでいざ7度目のサマーキャンプに出陣である。

星「おい、ホテルの住所分かるか?」
私「ホテルの住所?分かるぞ。あの案内に書いてあるだろ。」
星「それが書いてないんだよ。」
私「あ、本当だ。でもお前地図あるって言ったじゃねえか。」
星「いや、それが俺のにも無かった。」

実は案内の手紙の中に「同封の地図も参照下さい」の地図が同封されていなかったのだ。星のには入っていたので、私はハズレだと思ったのだが、どうやらよくよく確認すると星も外れたようである。

私「それじゃあよ、この渉外の彼に聞いてみようぜ。」

私は案内に書いてある電話番号に電話を入れた。

私「...う〜ん、出ねえな。活動中かな。」
星「まあいいや、あとでまた電話だ。」

と言う訳で、取り敢えずナビゲーターを長野県飯田市内に設定し、車を発進させた。

狭い首都高を走る。既に夜8時くらいだが、道は余り混んでいない。星フィット号は快調に首都高を走る。

私「おい、かみさんは大丈夫だったのか?」
星「おお、小遣いで3万貰ってきたぜ」
私「大変だな、結婚していると」
星「全く大変だよ。サークルの合宿に行くにもクドクド」
私「いやー、俺も最近忙しくてよ」
星「俺だって忙しいぜ!全く、乳飲み子を抱えてクドクド」

狭い首都高では星の心も若干狭くなるようで、愚痴が比較的長い間続く。

迷路のような都心部の首都高を抜けて、新宿から中央道方面に向う。高井戸から中央道に入り、途端に道幅が広くなる。これによって星の心も若干広くなったようで、その後は他愛もない会話が暫く続く。

電話がブルブル言う。お、これは渉外の彼か?

渉「先ほどお電話いただいた云々」
私「あー、どうも済みません。実はですね、ホテルの住所が分からないんですよ。」
渉「あ、ホテルですか。少しお待ちいただけますか?」

ツーツーツー

どうも高速での携帯はイマイチの反応で、すぐに切れてしまう。仕方ないからサービスエリアなりで会話をするしかない。私はメシも食っていないし、談合坂で一服することにした。

それにしても、中央道を行く際は何故いつも談合坂で休憩である。高校生の時の遠足などでも必ず談合坂だ。談合坂サービスエリア「食のサミット」でミートソースを食べる。

私「何かよう、昔WESA関連で談合坂でトイレ休憩した記憶がある。」
星「中央高速使うイベントなんてあったっけ?」
私「俺たちがコミの時のウインターは西湖だった。いや河口湖か?あ、山中湖だ。」
星「どこでも良いよ」
私「しかし、そうじゃなくて違う記憶もあるんだよ。」
星「ほう、どんな?」
私「何か記憶の中に都築(46渉外)がいる。」
星「サマーの下見じゃねえか?」
私「いや、あれはサブサマーの下見だ」

と言うどうでもいい会話を展開してまた車中へ。

私「おい、まだ勝沼かよ」
星「飯田は遠いなー」
私「いやー、しかし勝沼と言えば地図帳の扇状地の写真だね。」
星「おおそうだな。俺地理選択だったからよ、結構詳しいぜ。」
私「地理選択ぅ?そんなんで(教育)受けられんのかよ?」
星「いや、それが受けられるんだよ。法学部以外全部受けられる。」
私「文系は分からんな。地学じゃ理工は受けられん。」
星「まあ地理選択だからよ、大体世界中の国とその国の主要都市とかは分かるぞ。」
私「じゃあアルメニアの首都はどこだ」
星「アルメニア?ティラナじゃねえの。」
私「はぁ?ティラナは旧ユーゴスラビアの方だろ?」
星「いや、違うよユーゴの街じゃねえよ。」
私「えーと、どこだ...あ、そりゃアルバニアの首都じゃねえの?」
星「アルバニア?当たってるじゃねえか。」
私「違う、俺が言ってるのはアルメニア」

車は進む。

私「取り敢えずよ、諏訪湖サービスエリアで休憩しようぜ。何でかって言うとー、何でかって言うとー、便所行きたいから。」
星「そうだな、俺もだ。」
私「それによ、渉外の彼に電話をしなければならん。」
星「おお、住所分からなきゃ永遠に着かんぞ。」

諏訪湖サービスエリア到着。だが、真っ暗で諏訪湖は暗黒の平原のようで全く見えない。

私「おい、これ諏訪湖なのかな。」
星「諏訪湖だろ。何となく水面に見えるじゃねえか。」

サービスエリア内で渉外の彼(木村君)に電話。上手く繋がって、住所を聞き出すことに成功。

星「よーし、じゃあナビの設定しなおすか。住所言ってくれ。」
私「長野県飯田市下久カタで、カタは多分難しい字だ(この時点では縣を想像)」
星「下久堅って、これか?」
私「おお、これだこれだ(あれ、俺のイメージした漢字と違うじゃねえか)」
星「これで終わりか?」
私「いや違う、知久平○○番地」
星「番地まで入らねえよ」
私「じゃあこの辺で良いじゃねえか。あ、おい天竜川沿いだよ。おお、この橋だよ。」
星「あれ、この『よし乃亭』ってとこじゃねえの?」
私「おおおお、ここだよここ」
星「何だよ楽勝じゃねえか。よーし、これで一気によし乃亭行きだ!」

車は岡谷JCTを超え、一路名古屋方面へ向う。

...全然車が走ってない。前にも後ろにも星フィット号しか走っていない。

星「おい、俺たち以外車がいないぞ。」
私「マジかよ。(後ろを振り返る)うおっ、真っ暗だよ!」
星「何か知らないうちに俺140km/h出してるぞ。」
私「しかしさ、こう暗いと怖い話なんてしたくなっちゃうよな。」
星「ほう、例えばどんな?」
私「いやよ、俺の会社で幽霊が出るって話なんだよ。どうも浮気が原因でそのビルから自殺してしまった女性社員の人がいるらしいんだけど、深夜徹夜で仕事とかしている人がいるじゃん。そうするとよ、暗闇の向こうから電話の呼び出し音がするって言う奴でさ。で、その電話口に行くじゃん。そうするとよ、呼び出し音じゃなくてそこからダイヤルし続けている音だったと分かるらしいんだよ。ピポピポピポピポってさ。」
星「うーん、まあどの会社でも幽霊が出るって噂はあるよな(トイレの花子さんみたいなもんか?)」
私「俺は基本的に幽霊とかってあんまり信じないんだけどよ、怖い話は素直に怖いよな。」
星「おお、俺もその口だ」
私「もう一つあってよ、これは昨日部の同期に聞いたんだけどさ、先輩が夜にファミレスに行ったらしいんだよ。協力会社の人と二人でな。でさ、明らかに2人なのに、ファミレスのお姉さんが『3名様ですか?』って聞いてきたらしいんだよ。おいおい、明らかに2人しかいないだろうってのによ。そしたらファミレスのお姉さんがさ、失礼しました2名さまですねと言って通してくれたらしいんだよ。いやでもおかしいだろ?それでその先輩は次に行った時に同じお姉さんを質したらしいんだよ、何で明らかに2人なのに3名様ですかなんて言ったんですかってさ。そしたらさ、最初は聞かない方がいいってお姉さんが言ってたものの、とうとう言ってくれたらしいんだよ。そしたらよ、お姉さんには3人いるように見えたんだって。しかもさ、明らかにこの人は違う風貌だって人がさ。でさ、その風貌の特徴を聞いたらだよ、どうもその先輩が以前可愛がっていて急性白血病で亡くなった人のようなんだって。」
星「おお、それならウチにもあるぞ。」
私「マジかよ!」
星「ああ、昨年俺のじいちゃんが死んだんだけどよ、さらに4年前に俺のばあちゃんが既に死んでてさ。で婆ちゃんが死んだ後3ヶ月くらい、爺ちゃんが夜中に台所に行くと婆ちゃんがニコニコして立ってるらしいんだよ。それでさ、爺ちゃんが『お前こんなところで何してんだ?』と聞くとさ、消えちまうらしいんだよな。」
私「うぉ〜、やっぱ見える人は見えるんだな。しかし、それは近しい人の心理的な現象かもしれないぞ。なんつうの、一種の夢を見ている状態って奴か?」
星「ああ、確かにそうかも知れねえな。」

直後に星が話し始めたネタは割愛。

星「さぁ〜!飯田市に遂に入りました!」
私「おー、遂にか。いよーし、飯田ICまで一気に行こうぜ」

飯田ICに到着。ICを出るといきなり?を引っ繰り返したような道になっている。

星「おいおい、インター出たと思ったらいきなりトリッキーな道だな。真っ直ぐでいいのか?」
私「うん、真っ直ぐで右だ。ナビによるとな。」
星「こっちだな。」

車は進むが、またもや困るほどトリッキーな道に入る。

星「おいおい、これどうするんだよ。」
私「ナビによると突き当たりを左だ。」
星「本当トリッキーだなー」
私「こんな道ナビが無かったら絶対分からないぜ。」
星「おお、絶対無理だよ。」
私「案内にさ、後輩が一生懸命日本語で道順書いてくれてるけどさ、ナビが無ければ朝まで彷徨してる筈だぜ。」
星「何か全然地元の道って感じじゃねえか。本当にこれでいいのか?」
私「ナビでは正しい道のようだ」

角曲がってすぐ交差点に入ったり、妙に急な道を下りたりしている内に、なだらかなワインディングを通り、ナビの声が響く。

ナビ「この道、道なりです」

星「本当にこれでいいのか?」
私「最早真実はナビにしか分からない。」
星「何か全然そんな風情無いぞ。」
私「お、ナビの絵では天竜川が近付いているぞ!あ、橋がある!おい、あれだあれだ!」
星「え、あの対岸の建物?」

上野を出て4時間強。遂に目的地に到達した。

星「おい、どこからこの旅館には入れるんだよ。」
私「うーん、入り口が確かに無いな。」
星「こっちでいいのかな」
私「朝までホテルの周りグルグル回ってたりな。それでその辺に路駐して垣根越えて入ったりして。」
星「ハッハッハ。って、おい、本当に入り口が無いぞ。」
私「この道右じゃねえの?」
星「いや、何か私道みたいな道じゃねえか。本当にこっちなのかよ。」
私「確かに、普通の人の家の前の道みたいだな。あ、でもほら入り口見えるじゃん。あ、やっぱここでいいんだよ。」
星「いよーーーし!漸く着いた!!!」

後編に続く。

8月28日(水) 晴 後編 復路

ファイナル後、私と星は夕飯は食べず、風呂に入って帰る準備を整えた。夕飯を食う広間に顔を出し、一部のコミッティーに挨拶をする。部長とスピスタの面々が玄関まで送ってくれた。

宿を出るやイングリッシュオンリーを解禁。

私「いやー、終わりましたな。」
星「終わりましたな。」

休息を終えた星フィット号に乗り、東京を目指す。

私「それにしてもよ、ファイナルは鮮やかに時間通り終わったな。」
星「おお、本当にピッタリだったな。」
私「まあ、それだけマネージがしっかりしてるんだろうな。」
星「そうだな、その通りだ。よくやってるぜ。」
私「ファイナルなんて俺らの時絶対スケジュールずれてたぜ。」
星「そうだっけ」
私「あとファイナルはレベル高かったなー。」
星「うーむ、WESA黄金時代か?」
私「まあしかし、みんな楽しそうにやってたぜ。」
星「そうだな。サマーは来るまでがかったるいけど、参加すると充実感があって良いもんだと思うよな。」
私「やっぱいいサークルだぜ。」
星「うむ。」

と言うような会話が展開される(詳細には覚えていない)。車はまたもやトリッキーな飯田市内の道に入る。

私「そう言えばよ、松坂先生のジャッケアやってた田中さんっていただろ。彼女今年の早稲田杯委員長だって。」
星「ほー、そう言ってたのか?」
私「うん、何か俺のノートを持っているとか言ってさ、ノート?と思ったら、どうも引き継ぎノートのようだ。」

で、ノート持っていますを言った時の彼女の顔を思い出した。何か笑ってたような気がするな。何か変なこと書いたっけな?

私「ああ!」
星「どうした」
私「引継ぎノート」
星「がどうした?」
私「いやさ、何か俺のノートの話をする時に、その田中さんってのが笑ってたらから、何か変なこと書いたかなと思って今思い出してみたんだけどさ、思い出した。普通は『第○○回早稲田英語弁論大会実行委員長引継ぎノート』とかいかめしく書くんだけどさ、俺は『サルでも分かる早杯委員長引継ぎノート(略称;サルノー)』と書いた記憶がある。ぐわ〜、今回(のサマー)は馬鹿な一面を出さなかったのに、バレてるぅ。」
星「アホだね」
私「こんな6年も前のことが現代に影響するなんて。」
星「何に影響してんだよ。」

飯田のトリッキーな道を抜け、中央道に向う広い道(たぶん国道)に出る。

星「おお、家に電話しなきゃならん。」
私「ナビには予想到着時刻10時と書いてある。」
星「...。あ、もしもし、俺だけど。今長野。うんうん。10時くらいに着く。うん、じゃあね」
私「妙に手短に終わったな。」
星「いやー、俺も意外だった。って、実はこの前腹を割って話し合ったんだよ。お互いな。それで今のように簡単になったようだ。」

インターチェンジに到着。中央高速は相変わらず空いており、時速140km/hでまた爆走する。

星「うーむ、微妙だな〜」
私「何が?」
星「日没前に諏訪湖サービスエリアに着くかな。」
私「うーん、微妙だね。多分無理。」
星「無理かな。」

昨夜、明日は諏訪湖を見られるだろうと言っていたのだが、風呂に入ってしまって1時間ほど時間をロスしている。とにかく急ぐが、日は沈み続ける。もう6時半である。

車内では我々の頃のサマーの思い出話になったが、何を話したのかは覚えていない。まあ恐らく、何度も話したことの繰り返しだろう。やはり私たちは老いた。

星「しかしあれだな、今のサマーも色々脈々と受け継がれているところってのはあるな。」
私「エールとかってまだあるの?」
星「おお、あるらしいぞ。」
私「マジ!21世紀に合わねえよ!」
星「まああんな風な感じじゃないらしいが、今でも総括するイベントみたいのがあるらしいぜ。」
私「へー、やっぱり泣いたりするのかな?」
星「うーん、じゃないの?」
私「まあ、エールで泣くパターンもあるし、サンパークで泣くパターンもあるよな。」
星「俺は無かった。」
私「俺らが3年の時は2年が結構泣いてたね。」
星「そうだっけ?」
私「しかし、俺らの時のエールで覚えてるのが寛ちゃんだよ。小泉がよう、『次にレッスンスタッフに聞きたい!お前らは本当に頑張ったのか!』と聞いたらさ、寛ちゃんが四分の三泣き声で『頑張りました!』と叫んでさ。あれは貰い号泣寸前だった。てゆうか泣いてはいたね。」

諏訪湖サービスエリアに着いた。湖面は辛うじて見える。

星「結構デカイな。」
私「そうだな。しかし、宍道湖の方がでかいような気がする。」
星「宍道湖なんて見たことあるのかよ?」
私「うん。学生時代に青春18きっぷで旅行してさ」

メシを食う。私はラーメンにしたが、星はわかさぎ丼にした。

星「うぉ、美味ぇ。このわかさぎ丼は最近一番のヒットだよ。」
私「そうか?俺はこのラーメンは普通だ。」
星「いやあ、これは美味ぇよ。」

売店で星がお土産を物色し始めた。

星「家に蕎麦でも買ってくか。」
私「俺は今回はお土産はイイや。何だ、土産買っていかないとかみさん機嫌悪くなるのか?」
星「いや、そうじゃねえんだけどよ、ほら色々気を遣うわけよ。」

星が土産を選ぶ間、私は売店の珍しい品々を見て時間を潰す。ジンギスカンが売られているのを見て、「そう言えば、学生時代に武田(長野出身)の家に大量にジンギスカンが送られてきて、ジンギスカンパーティーを毎晩の如くやっていたと言うのを聞いた事があるが、長野はジンギスカンが名産なのか」と認識した。星を見ると、同じ蕎麦コーナーでも妙に行ったり来たりしている。

私「おいおい、随分逡巡してるじゃねえか」
星「いや、どっちがいいかなと思ってよ。」
私「どう違うんだよ。」
星「うーん、まあイイやこれで。」

星がレジ前に並ぶ。

星「おい岩田。」
私「(振り向いて)何だよ。」
星「やっぱ(この蕎麦)ちょっと小さくねえかな。」
私「え?そうでもねえよ。大丈夫だろ。」
星「大丈夫かなあ。」

選択に自信持てよ。

再び車中の人になる。

星「よーし、諏訪ってことはもう半分くらいだな。」
私「半分な訳無えだろ。多分まだ3分の1くらいだよ。」
星「え、そうなの?」
私「ほら、ナビに『目的地までの距離:203km』って書いてあるじゃねえか。」
星「ぶっ、203きろぉ〜?全然まだまだじゃねえかよ。」

車は快調に飛ばす。

星「そういえばよ、ワールドカップ以来俺もすっかりサッカーファンになっちゃってさ、今では新潟アルビレックスのサポーターだよ(星は新潟出身)」
私「即席サポーターだな。」
星「まあ新潟アルビレックスサポーターって言ってもよ、選手の名前一人も知らねえんだけどさ。
私「やっぱり即席サポーターかよ!」
星「しかしよ、街中でベッカムヘアーにしている奴より俺はマシだぜ。」
私「何でだよ」
星「いや、実は俺留学してる時にバース(星の留学先)からロンドンに遊びに行ったんだよ。でさ、どっかの病院の前でバスを待っていたらさ、何かその病院に有名人やらが駆けつけてんだよ。何だろうと思って近くにいたおっさんに聞いたらよ、ベッカムのかみさんのスパイスガールズの何とかってのが子供を生んだって言うんだよ。つまりさ、ちょうどベッカムの第一子が生まれた時に、俺はその近くにいたって訳だ。」
私「ほう。」
星「だからよ、おれもあながちベッカムと関係が無いって訳じゃねえんだよ。」
私「ねーーーよ。」

車はまたも快調に飛ばす。下らない話や昔話で盛り上がったりする。やはり学生時代の友達と遠出するのは良いもんだ。

私「お、小淵沢だって。ってことは山梨?」
星「そうだな。ようやく山梨かー」

相変わらず快調に飛ばす。

星「うぉっ!」
私「何だよ?」
星「大月-小仏トンネル間渋滞30kmだって!」
私「何ィィィィ!」
星「ガセネタに決まってる。」
私「何でガセなんだよ。」
星「だってこの辺全然空いてるじゃねえか。」
私「だからってあれがガセな訳ねえだろ!」

信じがたい事態が刻々と迫っているのが分かる。何しろ、東京から飯田に行く間は、サービスエリアと料金所以外で車が止まった記憶が無い。時速120km以下で走っていた記憶もあまり無い。

私「うわっ!」
星「何だよ。」
私「今見た?」
星「だから何をだよ。」
私「大月まで35分、八王子まで3時間以上、高井戸まで3時間以上、って書いてあった。」
星「マジかよ!」

八王子まで3時間以上で、高井戸まで3時間以上とは変である。何しろ八王子の方が断然こちらからは近い。本来なら高井戸はもっと時間のかかるサインが出されるはずだ。それなのに八王子と高井戸で同じ所要時間が示されている、と言うことは、

私「所要時間振り切れてるよ!
星「やめてくれぇ〜〜〜〜!!!」

後編の後編に続く

8月29日(木) 晴 後編の後編 復路2

大月-小仏トンネル間渋滞30kmの衝撃は暫く車内を沈黙させた。普通に帰れば10時には星邸に着くし、私も新宿で降ろしてもらって10時半には家に着く予定である。しかし、八王子まで3時間以上と言う表示は今日中に家に着かないことを暗示している。

星「おい、これ本当なのかな。」
私「ウソは言わんだろう。」
星「しかし、ここ(甲府付近)がこんなに空いているのに、いきなり大月を越えると渋滞が始まるとは全く想像できない。」
私「確かにそうだけどよ。」

甲府付近は全く混んでおらず、相変わらず時速140kmで快調に飛ばしている。問題の大月まではまだ距離があるが、その間に対応策を考えようとする我々。

星「取り敢えずよ、事実関係を確認しようぜ。」
私「って、もう渋滞は事実じゃねえのかよ。」
星「交通情報で確認しよう。どっかにパーキングエリアは無いのか。」
私「ナビによると、もう少し行くとある」

パーキングエリアに入る星フィット号。だが、交通情報を知るために相当数の車がパーキングエリアを占拠しており、停めるところが全くない。大月はもうすぐそこである。

星「どうするよ」
私「やはり下道に下りる以外はこの高速で耐えるしかないだろう。」
星「甲州街道か」
私「そうだな、あの新宿駅南口の前走ってる道だろ?」

パーキングエリアで確認できなかった我々は、仕方なく本線に戻って東進を続けた。車は相変わらずそれ程多くない。

大月JCTに到達した。途端に、河口湖方面からの分線と合流する。この分線の交通量が相当多い。これだよ。

私「河口湖の方から来てんだよ。だから大月からいきなり混むわけだ。」
星「仕方ねえな、あー、もう下りて良いのだろうか?」
私「そうだ、下りる方がいいと思う。」

私のこの発言は、結果から言うと間違えていた。

星「あー、しかし本当に渋滞してるのかな。」
私「もう少し先に行くと渋滞しているのが分かるんだろうな。」
星「すいません、大月からはやっぱり渋滞しているんですか?」
料金所のオヤジ「はい、渋滞です。」
私「ほら、やっぱそうなんだよ。」
星「はー、じゃあしょうがねえなあー。」

料金所を抜けて、路肩に車を停める。ナビを再設定するためである。何しろここからどうやって行けばいいのかは皆目見当がつかない。大月なんて下りた事が無いだろう。

星「えーと、『高速優先』を解除して、これでよしと」
ナビ「再計算中です」
私「よし、真っ直ぐを左だ」
星「はーい...ぬおっ!混んでるぞ!!」

同じような考えを抱いている人も多いのは当たり前で、片側1車線の甲州街道は、赤々とテールランプが続くノロノロ渋滞。

星「うわー、30km/hしか出てねえよ。」
私「ぶっ、おい、ナビの到着予想時刻が午前1時15分になってるぞ!」
星「何ィ!(確認後)ぐわぁ〜、俺10時に帰るって言っちゃったじゃねえかよ!」
私「どうすんだ?電話するのか?」
星「いや、もう子供が寝ているから電話は出来ねえ。」

ナビは法定速度をモトに計算がなされるそうだ。このまま下道を法定速度で行くと、確実に1時半に足立区の星の家に着くことになる。私はこれでは当然帰れない。

私「うわ〜、明日会社なんだよな〜。」
星「俺だって会社だよ。」
私「休みてえけど明日はどーーーーーしても休めねえんだよ。」
星「俺もだよ!」
私「と言っても、このまま中央道にいても同じか?」
星「ついてねえな」

相変わらずノロノロ走る星フィット号。相模川を渡る。

私「お、猿橋(有名な木橋)だって。猿橋って大月にあるんだな。猿橋って知ってる?」
星「知らねえ」

いつもはちょっと説明を求めるのに、今の星にはそんな精神のゆとりは無い。

ところが、街を抜けると若干車が走り始めた。

私「結構流れてないか?」
星「そうだな、案外順調だな。」
私「今時速何キロよ?」
星「50キロ出てる。」
私「うーん、結構いいんじゃねえの?」

市街地を抜けると信号が無いので、結構順調に車が進む事が分かった。到着予想時刻も1時15分から12時45分くらいに短縮されている。

星「俺たちの選択は、ひょっとしたら正しかったんじゃないか?」
私「かも知れない。おい、中央高速が見えるが、あっちは明らかにノロノロだぞ。」
星「何!じゃあこっちが正解か!!!」

と言う訳で若干快調に車は進む。市街地に入ると信号があるため若干痞えるが、それ以外は比較的順調に進んでいた。が、いきなり車の列がピタリと止まった。

星「おいおいおい〜、こりゃどういうことだよ〜」
私「全く理解できないな。ここからいきなり混むのか?」

止まっては進み、止まっては進む。原因は道路工事だった。

私「日曜に道路工事なんてするんじゃねーよ(怒)!」

じゃあ道路工事はいつすればいいんだろうか。

私「(車内を流れるMDを聞きながら)おい、さっきシェリルクロウの曲だったのに今TOTOが入ってるじゃねえか。しかも『アフリカ』。一体どういうMDなんだよ?」
星「ん、ロックベスト」
私「どんなベストだよ!」

最早車内にこれ以上の会話は無い。また車は止まり、そしてまた道路工事。

私「だからよう、日曜に道路工事なんてするんじゃねーよ(怒)!」

だからよう、道路工事はいつすればいいんだよ。

私「なあ、次の中央道のインターが鬼門じゃねえか?」
星「何で?」
私「中央道の渋滞に業を煮やした俺たちみたいのがわんさと下りてきてよ、それでこの揖保の糸のような甲州街道がさらに混むんだよ。」
星「冗談じゃねぇ〜ぜそんなのよ、どうすりゃいいんだよ!」
私「どうしようもねえ」

と思ったら、また車が止まった。工事かと思ったが、今度はそうではない。延々とノロノロ進む。

星「おいおい、インターで下りてんじゃねえの?」
私「かもしれねえが、さっきインターまで5キロって書いてあったぞ。てことは、インターまで延々とこの状態か?」
星「どうするよ?結局中央道に戻った方が良いのか?」
私「あんまり積極的じゃねえな。戻っても同じだろ?」

とは言うものの、こんな山のクネクネ道を進むよりは、真っ直ぐな中央道に戻った方がまだマシな気もしてきた。そんな状態で進んで行って、遂に入り口標識が見えてきた。

星「どうするよ、中央道戻るか(と言いつつ右折ウインカーを出す)」
私「戻るか。何かこの先もテールランプで真っ赤だぜ。」

右折して中央道への道を進む。中央道は山腹にあるらしく、グングン高度を上げてインターへ近付く。道は全く混んでいない。我々のように、中央道に戻るなどと言う輩はいないことを示している。また自らの選択に対する自信が揺らぎ始めた。

料金所の前に来た。

星「おい、どうするよ?」
私「もうここまできたら戻れないだろ。」
星「いや、まだ戻れる。」

とは言うものの、もうレーンに乗ってしまった。車は料金所を進み、誘導路に入る。そこで中央道本線を跨いだ。とたんに目に入る、大蛇のようなヘッドライトとテールランプの大渋滞。

星と私「うおっ!!!」
星「何だこりゃー!」
私「スッゲエ壮観だな。これに俺たち入るの?」
星「やっぱ失敗だったかなー!」
私「まあどっちでも同じだが、それにしても憂鬱だな」

車は時速30kmしか出ない。もう中央道を出ると言う選択はあり得ないだろう。このまま都内に戻るだけだ。

星「家にかえりて〜よ〜」
私「...」

だが、何だか車が流れ始めてた。最初は気付かなかったが、その内我々も気付き。

星「何だか流れてないか?」
私「そうだな」
星「おい!時速70キロ出てるぞ!」
私「何だと」
星「うわ〜、やっぱ中央高速乗り続けてたほうがマシだったんじゃねえか!?」

さっき30kmだったのはインターチェンジ付近だったからだろう。あの時大月で焦って下りたのは失敗だったようである。しまったあ。

私「追い越し車線のほうが流れてないか?車線変更しようぜ」
星「よし。」
私「...。何か俺たちが追い越し車線にずれた途端に、こっちが止まって走行車線が流れ始めてないか?」
星「俺たちの選択は常に誤るんだよ。」

小仏トンネルまで7km地点まで到達したが、ここから車の流れが悪くなった。また若干憂鬱になる二人。

星「あ〜あ〜、俺達の人生っていつもこうだよな〜」
私「......あのさ、俺『達』って何?俺『達』って。その中に俺入ってるの?」
星「あれ、違うの?」

小仏トンネルが見えてきた。

私「大体よう、何でいつもトンネルは混むんだよ。」
星「トンネルだからって混むっけ?」
私「関越トンネルとかっていつも混んでるじゃねえか。」
星「そういえばそうだな。」
私「別に車線数が変わるって訳じゃねえのにさ。」
星「確かにそうだが、しかし小仏トンネルまで渋滞ってのが分からんな。」
私「トンネル越えたら鮮やかに車が流れているんだろうか。」
星「んなわけねえって、全然想像できねえよ。」

トンネル内も変わらずノロノロである。

私「あー、トンネル越えたら流れてねえかなあ。」
星「んな訳ねえだろ。こんなに車いっぱいなんだからよ。」

さっきの「甲府付近はスカスカなのに、大月越えるといきなり渋滞」の意味が分からなかったように、小仏トンネルまで渋滞の意味が分からない。しかし、トンネルの中間も越えたと思われるところで、

私「おい、何か前の車との差が開いてるぞ。」
星「本当だ。ちょっと詰めるか。」
私「どうも流れているような気がする。」
星「気のせいだろ。って、でも確かに流れてるな。」

小仏トンネルを越えた。確かに若干詰まってはいるものの、さっきとは明らかに風情が違う。速度計を見ると時速80km。法定速度まで回復している。

私「なんだよ、どうしてトンネル越えると別世界なんだよ!」
星「理解できんが、どうも何とかなったようだな。」
私「おい、高井戸-永福渋滞1kmとか書いてあるぞ。」
星「最早1kmなんて渋滞でもなんでもないな。楽勝だ。」

右に共立女子大が見えてきた。ということは、ここはもう八王子か?ということは、ここはもう東京都だ。

私「遂に都内だぜ!」
星「うお〜、長かったぜ〜〜〜〜」
私「ってさあ、もしあのまま下道走ってたら、俺たちどうなってたかな。」
星「ぶっ、寒気がするな。」
私「多分まだ相模湖くらいだぜ。」

その後、車は快調に飛ばす。といっても、勿論時速140kmとは行かないが、快適に府中なり調布なりを通過する。

私「おー、東京スタジアムだ。」
星「もうちょっとで23区内だ。いやー、帰ってきてこれてよかった。」

高井戸の渋滞など殆ど無く、そのまま狭い首都高に戻ってきた。新宿摩天楼が見えてきた。ああ、戻ってきたぜ東京。私は神奈川県民だが。

星「どうするよ、新宿で降ろすか?」
私「出来れば頼む」
星「よし、じゃあ新宿で下りよう。」

首都高の新宿出口を出た。遂にサマーキャンプも終わりが近付いている。

私「うわー、新宿センタービルだぜ、懐かしいな。」
星「今でも合宿モノは新宿センタービル前集合なのかな。」
私「そうなんじゃないの?何か今度の白石サンバレー企画も新宿センタービル前集合らしいよ。」
星「よくやるねえ」

車は新宿西口の地下タクシー乗り場に着いた。かつて合宿の度に歩いた地下道である。ここで今回のサマーもお終いである。

私「いやー、サンクス、ここでいいよ」
星「この辺で大丈夫かな」
私「(荷物を取り出し)じゃ、お疲れ!」
星「おうお疲れ!」

星の車を降りた。長い旅路だったが、サマーが終わっての寂寥感のようなものが漂う。これでサンパーク打ち上げでもあればいいのだが、我々は明日は仕事である。

星の車を見送り、私は切符を買って山手線のホームへ向う。今回のサマーは参加してよかったが、やはり疲れた。まあ、今回のサマーを集約して一言言うとすれば、こう言えるだろう。

星お疲れ。

8月30日(金) 晴 忙しいってなあ

昨日までの「星とサマー」日記には書かなかったが、こんな会話をどこかでしたのを覚えている。

私「ああ、明日から仕事だな。」
星「全く、またキツイ一週間が始まるぜ。」
私「そう言えばさ、結構前に俺の同期が何かの用で俺のところに来て、『いやあ、俺最近無茶苦茶忙しいんだよ』と言ってきたんだよ。」
星「ほう」
私「それでさ、『へえー、お前のいるプロジェクト今無茶苦茶忙しい時期なんだ。』と言ったらさ、その同期が『いや、何か俺だけ忙しいんだよ』と強く主張するんだよ。それでさ、俺は何も考えずに、全く反射的に、口が滑ったとはこのことかと言うセリフを吐いてしまったんだよ。」
星「どんな?」
私「『仕事できないんじゃないの?』って」
星「うわぁ〜、それはキツイ。」
私「だろ。さすがに俺もしまったと思ってさ、弁解でもしようと思ったら即刻同期が、『違うんだよ、俺の担当するエリアの客がどうのこうの!』と激しく言ってきてさ、『分かったから、悪かった分かったから』と平謝りだったよ。それ以来その同期、仕事の話を俺にしなくなったんだよな」

そりゃそうだ、いくらなんでもお前が悪い、と私も思うのだが、最近この意見に賛同する同期が現れてきた。

やっぱみんな自分の至らなさに悩んでいるんだな。このセリフを出してしまったその時期、実は私も私自身に対してそう思っていたんですよ。「何でみんなは早く帰っているのに、俺はいつまでもダラダラ仕事してんのか?」みたいな。

9月4日(水) 晴 プッカ様とか、あのプッカ野郎とか、おいプッカが来たぜとか

学生時代、私は進学塾でアルバイトをしていた。3年弱ほどだが、今エキゾチックコンクリーつを連載されている鈴木先生も一緒にやっていた。

塾のバイトはフロムエーなどで「頭脳系」みたいな感じのコーナーに配されているが、頭脳を使うことはあまりなく(小中学校でやったことだから、結局大人には頭を使うと言うレベルではない)、ある程度の体力と、かなりの気力を要する仕事と言える。特に気力の方は、「耐え難きを耐え」と言う種類の気力もそうだが、どちらかと言うと「気を遣う」の方の気力が重要で、精神的に脆い小中学生やその両親に対し、「先生」として振舞う際に、この「気を遣う」ことはどうしても要求される。

塾には遅くとも授業1時間前には到着し、授業準備にとりかかる。準備は予習やプリント作りだが、私の場合は予習は殆ど家でやっていたので、授業前はもっぱら授業準備と授業内容の確認に主眼が置かれていた。授業は大抵2時間で、これが当然業務の核であり、またこの時間しか時給は加算されない。他塾では事務代が加算されるところもあるかもしれないが、私がいたところはそうではなかった。授業は9時に一応終わるが、大抵再テストを食らう生徒がいたり、部活やってて遅刻する生徒の補習をしたりで、教員室に戻るのは10時前くらいになる場合が多い。教員室に戻ると生徒と話したり、欠席した生徒の家に電話して宿題を言ったり、その日最後にやるテストの採点をしたりして、それだけで11時になる。そこからさらに残務があれば残務をする。と言う訳で、塾を出るのは大抵11時から11時半くらいで、終電で帰る事もしょっちゅうあった。

3年間バイトをしてきて、遂にどの授業も「緊張しないで臨む」と言うことは無かった。生徒の親に電話する時も勿論気も遣う。従って塾から出ると、気疲れからぐったりとしていた。

人は疲れると急速にエネルギーに変わる糖分を欲するが、このときの私もそうであった。自分の降りる駅に着くと、駅に付属しているように存在するコンビニで、いつも甘いものを買って、それを食べながら家に向っていた。その中で、私が偏執的に食べたのがプッカだった。

プッカはプリッツを膨らました中にチョコが入っている菓子であるが、私は何故か、いつもこのプッカを買っていた(何故か判然としない)。たまにイチゴ味のプッカも買っていたが、バリエーションはそれ以上広がることは無く、駅に着いて買う菓子は「プッカ」か「プッカイチゴ味」だった。

ある日、いつものようにそのコンビニでプッカを買おうとした際、私がプッカを掴んだ瞬間レジのバイト二人が笑ったのが分かった。私は瞬時にことの状況を理解した。

「ぬ、ネタにされている」

だが、ネタにされても仕方無かった。もし私が彼らと同じようにこのコンビニでバイトをしていたならば、間違いなくこの「いつも終電近くに帰ってきてプッカしか買わない男」をネタにしたであろう。プッカ様とか、あのプッカ野郎とか、おいプッカが来たぜとか。

ネタになる条件は揃いも揃っていた。以下、私がプッカを買う際の状況を説明しよう。

プッカはレジから通路を挟んだ棚に置かれている。よくガムとかが置かれているあの棚だ。また、このコンビニはかなり狭く、多少の客で結構いっぱいになるほどであった。従って、レジも棚も入り口からかなり近いところにあり、私だと3歩もあれば十分棚に到達するほどの狭さであった。レジは棚から一歩で勿論到達可能だ。そして、レジから入り口は、入り口から棚同様、3歩で行く事が出来る。

そして、私のコンビニ来訪の目的はプッカ一つである。プッカを得んがためにこのコンビニに寄るのである。立ち読み、逡巡はこのコンビニにおいて、私にとって全く必要の無いアクションである。

以上より、私の学生時代における、このコンビニにおける買い物形態は見えてきたと思う。

改札を出て真っ直ぐコンビニに向かい、入店して3歩でプッカ棚へ行きプッカを掴み、そのまま順回りで振り向くようにレジにプッカを差し出し、会計を済ませて3歩で店から出て行く。つまり、私はこのコンビニで8歩以上歩くことはあり得ない訳である。入り口⇒プッカ棚⇒レジ⇒入り口、とこれだけである。終電近くで降りてきた、スーツを着た(バイトはスーツ着用だった)男が、プッカだけを買って帰るのである。しかもほぼ毎夜。これがネタにならない訳が無い。

ネタにされていることに気付いた私は、案外繊細にもプッカを買わなくなった。勿論他店で買うことはあったが、このコンビニでプッカを買うことは無くなった。

年月は過ぎ、このコンビニは潰れてしまった。駅に付属しているから客が少ない筈は無いのだが、経営母体が駅の売店を経営する東急弘済会で、あまり経営に熱心な感じも無かった。マニュアルのようなものも無さそうで、バイトはやる気が殆ど無く、店の中も若干雑然としていた。以上より、絶好の場所にありながら、効率的に利潤を上げていたとはとても言えない不味さがあった。

潰れた後は何が出来るのかと思っていたが、意外にも出来たのはまたコンビニだった。ただし、コンビニはampmに取って代わり、店内は当然明るくなり、小さな店舗面積にもしっかり「とれたて弁当」があり、またバイトの愛想も全然良くなった。今では酒類販売はしていないが(以前はしていた)、それでも以前より客は増えているような気がする。

そんな今日、恐らく3年ぶりくらいに、このコンビニでプッカ(しかもデカプッカ)を買った。店員の女の子は、以前同様にスーツ姿である私が、3年前には毎晩プッカを買っていたことなど露知らぬ風情で、愛想良く会計をしてくれた。

と言う、何とも尻すぼみな日記。

9月14日(土) 晴 届け!恋のテレパシー

デジカメ直った。修理代5450円。さすがにあの程度(手を滑らして石畳の上に落とした)なら新品買うより安いんだな。修理も30分で済んで素晴らしい。詳しくはこちらへ。

ところで昨夜、夜中の3時くらいまでかけて荷造りをした。出発は明々後日であるが、今日中に成田までの荷物配送に載せなければならなかったからだ。と言う訳で、慌てて準備した訳である。服はどうでもいいが、本を何を持っていくのかで迷い、結局「そんなに読まねえよ」と言う程度の本をスーツケースに詰めて就寝した。で今朝、クソ重い荷物を抱えて会社に行こうとしたが、父親に車で会社まで送ってもらった。その後、父親は今度貰う予定の子犬を見に行くと言って早々にいなくなった。

ところで、車の中で流れているFM横浜の番組に市井紗耶香がゲスト出演していた。何気なく聞いていて父親の車を降り、会社のあるクイーンズスクエアに入っていった。

すると、会社の前の特設ステージ上に市井紗耶香がいる。って今車の中で聞いてた奴かぁ!

まあそれだけ。

9月15日(日) 晴 タマちゃん旋風

タマちゃんがブームだ。いや、ブームかどうかは分からないが、とにかく巷を賑わしている。

最初、多摩川に出現するも、台風の来襲とともに姿を消した。もういなくなったと思ったら、事もあろうかもっと汚い鶴見川に出てきた。9月12日時点でそこまでの情報は掴んでいた。

誕生日の日、私は運転免許の書き換えのため、二俣川にいた。二俣川に行くには相模鉄道という横浜ローカルの私鉄に乗る必要があるが、この相鉄線は帷子川と言う都会のドブ川沿いに走る。私はこの帷子川を見ながら、「あのアザラシ氏、この川に来るとかねえのかな。何か鶴見川での発見情報も途絶えたみたいだし。」と思っていた。

会社に行ってインターネットを見ると、「タマちゃん今度は帷子川で」と言う文字が踊っている。上で帷子川と書いたが、この時点であの川が帷子川と言う名前とは知らなかった。で、調べていくと、さっき見た川である事が分かった。おいおい、あのドブ川で悠々と泳いでいたのかよ。と若干驚く。

翌日、会社に行く途中「あんな帷子川にいたくらいだから、次は大岡川に来るなんてことは無いのかな。」と思いながら、大岡川を眺めていた。大岡川の河口はウチの会社の目の前である。

明けて今日、大岡川でタマちゃんが泳いでいると言う情報がまたインターネットで踊る。おいおいおい〜、マジかよタマちゃん。これだけで本日出社しようかと思ったくらいである(別に出社しなくていいだろ)。

明日は出張最終準備(パソコンのデータをマイバイオに移し変える等)で出社するが、いつもに増して河口付近を凝視してみようと思う。しかし、大岡川も十分汚ねえがなあ。だが、確実に南下しているところを見ると、次は南の方の違う川だろうか。