日記セレクション(2000年版)
5月2日(火) 若杉・太田とドライブ
5月2日に研修が終わり、ゴールデンウイークの到来を喜んでいた矢先、太田から電話が入る。何だと思ったら、若杉が帰京しているらしい。そこで、若杉が電話に出てきて、今から馬場に来いという。当然固辞するも、エラクしつこい。お前が来ないなら、今からそっちに行くからなと言われ、電話を切られる。1時間後くらいに、「今そっちに向かってますからね。マジで行きますからね。」という電話が、太田から入る。さらに1時間後くらいに、「今びっくり寿司(246沿いのチェーン寿司屋、ウチの近所)の前あたりです」という電話が入る。マジで来てしまったこの研究室時代の悪党ども。もう夜も遅いのに、家を出る。因みに私のこの時の服装は、ジャージ姿。
待ち合わせは、これも246沿いのイエローハット前。以前研究室で静岡の第二東名建設現場見学に行ったときも、レグナム若杉号にここで拾ってもらった。私を拾うときは、ここと決まっている(と言っても、今回が2回目)。行ってみると、いたいた、タバコを吸いながら携帯で電話している奴が。車も待機している。しかし、レグナム若杉号はファミリア若杉号renewalされている。私は助手席に乗り込み、若杉と再会の抱擁を交わす。
ただ、奴らもここまで来てしまったものの、行き先未定である。どこに行くんだよと私が聞くと、若杉の「海に行くか」発言。出た、「海に行くか」。しかし、他に具体的なプランも無く、あっけなく海に向けて発進。246を南西に進路を取り、一路平塚へ。道中、若杉の彼女から電話が入り、何やら若杉が言い訳を連発している。どうもこの意味の無いドライブに彼女が腹を立てているらしい。
平塚に着いて、いきなり偉そうになるのは地元太田。湘南平という、夜景のきれいなスポットに行こうと提案する。太田の言いなりにハンドルを切る若杉。小高い丘をぐんぐん上がり、着きました湘南平。周囲はカップルだらけで、男3人の我々(しかも私はジャージ姿)は浮きまくり。この湘南平には、太田が組み立てたと考えられるような、インチキっぽいタワーがある。しかしこのタワー、実はカップルの訪れる場所として有名。タワーの展望フロアには、転落防止金網が張られているのだが、この金網に南京錠をかけるとそのカップルは末長く続くと言う、何やら縁起めいたものがあるらしい(太田談)。実際、展望フロアに上がってみると、確かに気持ち悪いくらいに南京錠だらけ。南京錠だけでなく、チェーン錠まである。でも、カップルが南京錠をかけている光景は見なかったな。
さて、夜景であるが、こちらはきれいだった。特に若杉が感動している。さっき電話で「車が使えるのが5日だから云々」と言っていたので、ひょっとしたら5日には彼女とここに来るんじゃないかと、太田が推測する。「夜景のきれいなところを知ってるんだよ。高麗山(湘南平の別名)と言うんだけどさ。」とか言って。
湘南平を辞し、再び平塚市街を目指す。ここで太田が帰ろうとするが、引き止めて江ノ島へ発進。海沿いの国道を走り、着きました江ノ島。以前、中学時代の友人の車で、やはり同じように意味無く江ノ島に来たときは、江ノ島に渡る砂州上の道路は封鎖されていた。しかし、この日は全然江ノ島に渡れる。てなわけで、江ノ島に潜入。その後、江ノ島の山を抜けて、裏側の外海岸に出る。波は高くないが、夜中なので海は真っ黒で怖い。また、流れがえらく速く、落ちたら多分死ぬだろうという状態。岩海岸で浜辺は無いのだが、海を見て佇む男3人の姿は渋い(特に舘若杉)。もっと奥に進むと、洞窟前まで行ける。当然夜中なので閉まっているのだが、この洞窟前の雰囲気は最怖。舘若杉が怖がる。しばらく佇むが、雨が降ってきたので退散する。
再び平塚に戻り、太田をおろして、129号線北上。246に合流して、しばらく走って私の家付近到着。若杉と別れを惜しみつつ、家路に就く。家に帰る途中でお巡りさんに職務質問をされる。午前4時くらいに、ジャージ姿で歩いていたからか。確かに変だな。その後、家の近くでゲンチャリ族軍団に四方を囲まれる。死ぬ予感。
いつになったらインターネットが見られるのかと思っていたら、何と5月16日までは駄目だそうだ。おいおい、せっかくマシンを購入したのに、これじゃ単なる箱だよ。そんなに混んでいるのかい。しかたないな、もうちょっと待つか。早く来ないかなケーブル。最大14Mbps。激速。
5月20日(土) ついに開通
5月1日から綴られているこの日記からも分かる通り、作成自体はかなり前からしていました。例えばサークルページなどはそれよりもずっと前、コンピュータ買った直後くらいから書き始めました。しかし、ネットにつなげたのが今週の火曜日ということもあり、さらに平日なんかに、こんな慣れないアップ作業などやっていられず、結局開通が本日の夜11時を過ぎてからということになりました。今のところ訪問者は6名....全て私....。カウンターを何桁にするかで迷ったのですが、多めに4桁にしました。もし、このカウンターが振り切れる(つまり9999人を超える)ような事態になったとき、それは世界の終焉を意味する、それくらいにマイナーなページを目指し、自己満足という基本を忘れずに、頑張ってまいりたいと思います。どうぞよろしく。
5月28日(日) 長め報告 白石引越手伝い翌日(ちょっと二日酔い)
昨日の日記を書いてどうすると言う感じであるが、何せ昨日は家にいなかったので書きようがない。というわけで、今日の分を昨日の記述に充てる。今日は特に何もしないし(胃もややムカつき気味)。
昨日は白石の引越手伝いであった。都内から神奈川県内海老名までの引越である。昨日駆り出されたのは、私以外では玉木と梅香という、神奈川県内在住男性陣だ。引越の手順としては、まず高田馬場集合。で、レンタカーを借りて新井薬師参拝して荷物搬出。それから海老名へ向かい、海老名にて荷物を白石部屋に出す。最後は町田で乗り捨てて、町田で酒盛り。とまあ、こういう手順である。
最初は馬場集合だったが、全員遅刻。このイベントの優先順位の低さが目に見える。5分遅れの私が最初に来た者であった。その内玉木もやってくるが、梅香は完全に遅刻で現地集合指示。デカ目のワゴンに乗り、一路薬師へ。薬師周辺は、なんだか細い道だらけでワゴンが非常に通りづらい。が、何とか進入できて一段落。梅香も到着。引越業者っぽく、駐車場で弁当を食っていると、見かねたお隣さんから茶を振舞われる。いい人だ。で、作業開始。
クセものは冷蔵庫と洗濯機。こんなもんここに置いて行けって感じ。玉木はいちいちメーカー名をチェックして、松下以外のものばかりということに腹を立てている。アホか。ただ、それ以外は軽いものばかりである。案外楽勝で、40分くらいで全てのモノどもはワゴン搬入終了。白石夫妻の別れの場面を見ながら、全員もらい泣き(超ウソ)。で、いざ神奈川県海老名市大谷に出発進行。車は白石スカイラインGTX早実商業号2世と、レンタカーのワゴン。私と玉木が白石スカイラインGTX早実商業号2世に乗り、梅香と白石はワゴンに乗る。
昨日は暑かった。車内冷房を入れていいくらい暑かった。だが、白石スカイラインGTX早実商業号2世は、クーラーが壊れている。無茶苦茶暑い。しかも、環七に入ったらダンプに囲まれて、排ガスとダンプの熱気が容赦なく白石スカイラインGTX早実商業号2世内に入ってくる。暑いといより熱い。しかしながら、窓を閉めるわけにはいかず、我慢。だが、こういうのに我慢弱い玉木は文句たらたらである。後方を見ると、快適そうな梅香の顔が見える。クソ。
渋滞しまくりの環七からようやく脱出する直前に、白石梅香と交代。ワゴンは快適である。246に入って東名高速、一気に海老名を目指す。車内には梅香編集によるテープが残っている。だが、流してみると金八主題歌5連発。いちいち玉木が早送りにするが、どうやらテープの片面はすべて金八らしい。「全部金八なんじゃねーの」と言うが、A面の最後の最後に竹内まりやが入っている。どういうこっちゃ。B面にはまともな曲が入っているが、ダビングに失敗があったらしく、音が大きくなったり小さくなったりで、聞いているだけで酔いそうだ。後で聞いたら、MP3からテープにダビングしたそうだ。そんなことする奴いるか、普通?
白石邸到着。門柱がホワイトハウスのようで、白石のお母さんはヒラリー似(ウソ)。今度はお父さんもいるので、薬師より作業がスムーズ。早く終わった。終わった後は、白石ヒラリー(しつこいっての)が軽食を振舞ってくれる。おいしいのだが、その後に町田で飯を食う我々は残してしまう。梅香だけが平らげる。「だってうまかったからさ」と言う。まあ、梅香以外の我々が失礼千万であるのだが。
で、町田に向けて出発。で、事件発生。道路脇のブロックに、後輪付近をめり込ませてしまう。あちゃ〜、参った。白石ややブルー。しかし取り敢えず町田まで行くかって感じで、出発。町田までの道は渋滞しまくり。1時間半くらいかかった。で、町田のニッポンレンタカーに、傷ついたワゴンを返す。しかし、また海老名にもどる羽目になる。理由は「現場で警察に事故証明してもらわないと、保険がおりない」などと言うのだ。もし保険がおりなければ、修理代10万円。10万円もあれば、白石スカイラインGTX早実商業号2世の駄目クーラーを直せるくらいである。白石超ブルー。まあ10万はきついってことで、面倒臭いけど海老名に戻って事故証明してもらおうと言うことになる。保険がおりれば、2万でいいらしい。
海老名に戻る最初の時間は、車内無言。疲れている上に、このブルーな海老名返しが車内の雰囲気を重くしているのだ。しかたなく、ポテロングを全員で食いつづける。だが、梅香バイオを駆使して検索した、16号を避ける路が空いていて、案外早く着く。白石の両親は、また舞い戻ってきたこの面子を不思議そうに迎える。白石の部屋でコーヒーを飲みながら、座間署の署員が来るのを待つ。部屋では、「就職戦線異常なし」という、バブル時代の遺産映画が放映されている。就職活動の話を皆ですこしする。
署員の立会いが、凄まじいスピードで終わって、いざワゴンを返しにいく。だが、また町田まで戻るのは至極面倒なので、本厚木に返す。で、当初町田で豪奢な料理を食おうと言う予定だったのだが、本厚木の魚民で済ます。周りは、大学生くらいの人たちが目立つ。馬場の魚民のようだ。玉木が「俺たちだって学生に見られてるぜ。ちょっと疲れ気味の学生って感じで」などと言う。だからどうした。ただ、こういう風に小さなグループで飲むのは非常に久しぶりで、終電の11時半を余裕で超える午前1時半くらいまでいてしまう。梅香が何故かオリエンパンフ(といっても、オリエンテーリングパンフではない。今のコミの紹介冊子)を持っており、それを肴に話が弾む。玉木はまだディベートのジャッジなどをやっているので、「このチーフの何とか君は上手いよ」などと誉める。こいつが誉めると言うことは、相当の人材なのだろう。スピスタは.....あまりよく分からない。やはり、OB会とかには出た方がいいのだろうか。だが、これがきっかけとなって、我々の代の話が久しぶりに盛り上がる。白石の家にいるとき、皆に「お前、あのホームページのサークルのところ、よくあんなに覚えていたな」などと言われたが、飲みの席で昔話をしていたときは、私と同じくらい全員往時を覚えている。まあ、皆にとっても美しい思い出なんだな。
タクシーで白石邸まで戻って、そこから白石スカイラインGTX早実商業号2世で送ってもらう。鎌倉まで出て、しかも相模湾まで見て、海老名からグルッと県東一周。梅香邸、玉木邸、そして我が家(築30年)を回って帰宅。ついたのは午前4時過ぎ。
お疲れ様でした。
6月7日(水) 嫁さん募集中
本日の上司の口ぶりからすると、私の嫁さんになる人は漏れなくフィリピンでの生活を満喫できます。
嫁さんがフィリピン人になったりして。
6月10日(土) 最近気になる存在
今日は鈴木先生(バイト時代の先輩)と『もくもく』に行く予定だったが、塾の特訓選抜試験があるらしくて「だりーからまた今度」という感じでお流れになった。というわけで、本日は無駄に時間を過ごした。
頭髪を切りに行った帰り、本屋で「ダ・ヴィンチ」を買った。この雑誌、結構面白くて私は好きなので、前はちょくちょく買っていた。しかし今日久しぶりに買ったのは、表紙が田中麗奈だったからである。どうでもいいことだが、最近田中麗奈が妙に気になる。日経ネットナビも、田中麗奈が表紙だからといって、つい買ってしまったりする。何故今になって田中麗奈か?
初めて田中麗奈を見たのは、大学4年次である(ような気がする)。「なっちゃん」のCMではなく、私が最初に見たのはJR東日本の中刷り広告だった。当時、特に何とも思わず、「だれだこの『れな』ちゃんとは」という感じだった。れなと言えば私の場合、後輩の村松礼奈しかイメージが無い。どうでもいい。
だが、富士通のFMVの広告に健さんと出始めてから「お、可愛いじゃないか」と思い始め、遂に昨年、富士フィルムの年賀状ポスターの、晴れ着姿の田中麗奈を見たとき、この世のものとは思えないほど美しく見えた。ポスターを盗もうとは思わなかったが、チラシくらい欲しいなと思ったほどである。
そして最近、髪を伸ばし始めた。美しさの度合いが増しているとは思うのだが、ここで新しい何かを発見した。
誰かに妙に似ている。
そう、私の知っている誰かに、妙に似ているのである。このダ・ヴィンチでの写真など、その誰かにそっくりである。だが、書店で田中麗奈の写真を、数分間に渡って凝視するのは恥ずかしいので、わざわざ買ってしまった、とまあこんな具合である。
う〜ん、誰だっけなあ。別に思い出したからと言ってどういう訳ではないが、何か思い出そうとしたら思い出すまで気持ち悪いってあるでしょ。特に9ページのこの顔だよ。これ誰だっけなあ。サークルじゃないし、それ以外だと女性の知り合いなんて少ないから、簡単に割り出せそうなものだけどなあ。とりあえず、リンクはっとくか。うわあ、開設して9ヶ月で来場者100万人か。そんなもんなのかねぇ。
尚、今月のダ・ヴィンチはネット恋愛特集。ネット恋愛ねえ、懐疑的だが興味あるな。
6月11日(日) SFを観た
先週suspendされたサムライ・フィクションを観た。私のPC上での、初DVD上映である。感想としては、マシンの性能に不満は無い。
さてSFだが、昨日近所のツタヤ(といってもタマプラ)に行ったら、置いてあった。がちょーん。何で見つけられなかったのだろうか...。だが、観終わって「まあ買ってよかったかな」と思った。やはり、私には面白い映画だった。パソコンを目の前にして、笑っている情景は無気味だろうが、取り敢えず、今後も沈んだときなどに見るかという感じである。
私が邦画に肩入れするようになったのは、いつだっただろうか。と、書き始めると長くなるので、今度随筆に書こう。
SF因みに、大学院時代に友人(T橋健一)に紹介された「SF人妻日記」というHPがある。健一が発見したのだが、彼が偉く勧めるもんだから、見てみた。そしたら、面白くて最後まで読んでしまった。というわけで、リンク張りましたので見てください。この人は人妻で、書店勤務らしく、本が偉く好きと言う人だ。
6月13日(火) 第一でナイト
本日の仕事中、第一生命から電話がかかってきた。またやってしまった。「じゃあ行きます」と言い続けて3回目だが、本日も昼の約束を飛ばしてしまった。実は第一生命から「保険の説明」をするから来いと言われていたのだが、私はいつも忘れて行かなかったのだ。保険の勧誘など断れと言われそうだが、目的の無い貯金を始めるくらいなら保険に入ろうかなとちょっと思っていたので、話だけでもと思ってOKしたのだ(ある意味、いつ死ぬか分からない仕事しているし)。
それがこのザマ。もう3回も飛ばしているので、申し訳なくて絶対
6月14日(水) 続・第一でナイト
12時20分、第一生命伊藤さん登場。
ロビーにて第一生命の伊藤さんと対峙して座る。伊藤さんにとっては、三顧の礼ならず四顧の礼でとなったわけであるので、まず謝る。そして、伊藤さんが封筒の中身を目の前に出す。そん瞬間、梅雨空で雨が降っているのを感じさせないような、輝く田中麗奈のクリアケース。もう第一にしナイト、後悔しそうな気配。
一応、伊藤さんの説明を聞く。保険の話を聞くのは初めてだったが、やはり保険入ろうかなあと思い始める。色々聞いていていて、ふと外のデカイ観覧車を見ると、なんと12時55分。わー、昼休み終わってしまううう。切り上げて、コンビニに飯を買いに行き、喫煙室で昼食(2分間)。タバコは吸わないのに、何故喫煙室?昼休みが終わっていたからさ。こっそり不健康な空間で、不健康な飯の食い方を、保険の話を聞いていて時間が無くなってしたんだよ。まるで「健康のためなら死ねる」とかいう、健康に命を懸けているバカみたいだ。ちゃんと食事は取らナイト(しつこいって)。でも、明日伊藤さん再登場の予定。多分保険入る。田中麗奈グッズを貰えるかは聞いていないが。
全然話は逸れるが、みなさん「SF人妻日記」見ましたか?書店員日記セレクションの方を読んでみて下さい。面白いっすよ。
さて、勉強するか。基礎勉強レポの更新もお楽しみに(って、誰も楽しみにしてねえ〜っ)。
6月15日(木) 続続・第一でナイト
結局、保険に入ることにした。本日昼に、伊藤さんの前で申し込み。因みに、田中麗奈グッズのようなものは貰えなかった。「田中麗奈関連のモノは無いのですか?」とは聞けないし。尚、私は保険に入るのは、入社前から考えていた。第一生命にしたのは田中麗奈だったからだけど。
6月19日(月) 腐食を磨け
明日から宮崎に行く。恐らく、私の生涯で最後の学会となるであろう。ふ〜ぅ、準備しないとな。まだ卒業して数ヶ月なのに、かなり腐食センスが磨耗してしまっている。また腐食センスを磨かなければ。
何か相容れない言葉のつなぎだな。
6月22日(木) 帰浜っス
あー、案外疲れたな。てなわけで、宮崎学会発表報告
20日(火):昼のフライトで宮崎へ。途中で伊豆半島や富士山が見えるのだが、いちいち前にいたスチュワーデス嬢に「あれが三浦半島ですねー」とか「そろそろ富士山が見えます」とか個人的に教えられる。俺に地理情報なんて教えるなぁ!言われんでも日本地図なんて死ぬまで脳裏から離れないほど見とるわぃ。というわけで、素っ気無く対応する。しかし、このような態度を繰り返しているとき、かつて後輩の太田から「それだから女の子が寄り付かないんですよ。」と注意されたのを思い出す。反省。
途中で「あれは地形的に室戸だな」とか、「西岸がリアス式になっているから足摺か、もうそろそろで着くな」などと、地理オタク振りをひそかに発揮し、降りる準備をする。暗い奴だ。宮崎空港には、定刻13:30着。空港ビルを出ると、
「....暑い」
到着時、すでに気温30度を超えている状態で、私はスーツ姿。宮崎空港駅で列車を待つ間も、汗が滲み出る。さすが南国。宮崎駅に着いて、タクシーでホテルへ向かう。ホテルは大淀川沿いのビジネスホテル。全日空のホームページから、券の予約と同時に予約したホテルである。やや薄汚れ。部屋に入って荷物を置いて、取り敢えず市内探索。案外栄えているが、その範囲が狭い。しかも、栄えている所が駅から遠い。昨年の広島のようだが、広島と宮崎を比較してはならない。都会振りは広島の方が数倍上。
夜、先生の泊まっている宮崎厚生年金会館に電話をする。明日、打ち合わせの必要があるのかと思ったのだが、「頑張ってね」だけ言われる。やはり、大物は言うことがデカイ。仕方なく、練習を繰り返すが、どうしても講演時間の9分に入らない。ポイントを絞って絞って、必要なところだけ言って、詳しくは概要集(論文集)やQA時に対応....スピーチ大会直前みたいだ。懐かしいぜ。
21日(水):発表当日。朝、会場のシーガイアに向かう。このシーガイア、43階建てのホテルとか、「コンベンションホール・サミット」などという国際会議場も備えている。来月サミット外相会談がここで行われるから「サミット」などと名をつけたのだろう。兎に角気合十分。しかし、客足には全然気合が入っておらず、経営が相当悪化しているらしい。当たり前で、プールなんて行かずとも近くにきれいな海岸いっぱいあるし、県外者もシーガイアにはわざわざ来ないだろう。だって、テーマが見えないもの。オランダ村とかに比べると。私はこういう地域エゴ丸出しでうんこを作り、結局税金で処理なんてやっている奴が大嫌いだ。このやろう、こっちは毎日残業して税金納めてんのに、こんな小学生の粘土細工未満の価値しかないものの尻拭いしなきゃいけないなんて、真っ平ごめんだっつーの。シーガイアの立派ぶりには、見ただけで虫唾が走る。と、虫唾が走ってはいられない。久しぶりの学会で、結構緊張している。また、普段から腐食をやっていた頃と異なり、現在は腐食から離れているので、質問に答えられるか不安である。昨日、実はまずい点を発見してしまったのだが、そこで質問がきたら汗500ccはかくなと予測。
第一会場は「耐久性T」のセッションが始まっている。私は午後の「耐久性U」のセッションだが、一応午前中から見てみる。で、先生発見。久しぶりだが、あまり久しぶりという感覚が無い。まあ3ヶ月前まで毎日3年間顔を合わせていたんだからな。チさんにも再会、アグスさんにも再会。やはり、あまり久しぶりとは思わない。何故かチさんの髪が整っているのが気になったが....
午前のセッションが終わり、昼飯を食う。しかし、いきなり大勢客がやって来たおかげで、飯コーナーが全然対応できていない。品切れ続出で、参加者全員怒りを通り越して呆れ気味。シーガイア観光客対応能力末期状態驀進中。私もラーメンを30分待ったが出来ず、午後のセッションが始まってしまうので一旦作るのを止めてもらって、後で食いにいく始末。
で、いよいよ発表。緊張してきた。だが、隣のチさんはもっと緊張している。話し掛けようにも、何も聞こえないだろうなと判断し(3年間の付き合いの賜物)、話し掛けない。ところが、いざチさんの発表が終わると、緊張が解けたのか無茶苦茶私に話し掛ける始末。俺だって緊張してんだよ!!!
私の順番になった。発表はどうだったかというと、細かい点をはしょったので、時間内におさまった。というより、9分の合図と同時に発表終了。他の発表者が軒並み時間オーバーするところを、ちょうどぴったり。昨夜遅くまでやった甲斐があったぜ。しかし、QAはたどたどしい。サークル時代はQAの方が得意だったが、研究室に入ってからは逆になった。理由は簡単で、Qをする人のレベルが私を遥かに超えているからだ。サークル時代はジャッジとはいえ地方分権の話をマニアックに返す人は少なかったが、学会はコンクリート専門家しかいないのだ。Qの質が違う。
まあ、一応終わったということで、夜は駅前の居酒屋で飲み。因みに、宮崎の夜は全然涼しくならない。さすが南国。こんな話題から入る。それから酒の席ではコンクリの話も出る。例の「コンクリートが危ない(小林一輔著)」の話も出るが、先生は「コンクリートの本が岩波新書で出ると言うのは、凄いと言うか信じられないことなんだよ」と言う。それは私もそう思います。ただ、私が随筆で述べた「ちょっと専門的過ぎる」と言うのには、先生もやや同調。いや、マニアックだって。アノードとかカソードって皆に分かるんですかね。
22日(木):即帰る予定だった。が、本日まで休んでいいというのが師匠の長田さんから言い渡されていたので、最終便に変更。高千穂峡に行く。宮崎から特急で1時間で延岡、それから高千穂鉄道で1時間強。つきました高千穂。実は、高千穂には前々から行きたいと思っていた。もっというと、高千穂線に乗りたいとも思っていた。現在はJRが経営から撤退しているが、第3セクターとして残っている。何故乗りたかったかというと、景色が素晴らしいらしい。
で、確かに車窓風景は相当良い。山中の、エメラルドグリーンを呈した川から聳え立つ谷。幾重にも橋(しかもアーチ橋)が谷を跨ぐ。季節柄、緑豊か。う〜ん、評判どおり。しかし、高千穂峡はもっと素晴らしい。やはり私は日本人なのか、日本の風景が最も素晴らしいと思っている。今回の高千穂峡は、それを再確認せずにはいられない風景。岩壁から滝が川面に流れ込み、奇岩がそそり立つ。その上は、深い緑だ。横の激流から音を立てて水が流れ込むかと思うと、殆ど流れの無い、グリーンの淀みがあったりする。ジャングルのように極彩色でなく、砂漠のように厳しくも無く、草原のように単調でない。緑と水、でその界面に凄い岩。実は少し風邪気味だったのだが、それを押してでも来る価値あり。帰るのを遅らせて良かった。
宮崎に戻り、空港へ。チェックインを済ませて、飛行機に乗り込んだとき、「しまった、会社にお土産買ってねー!」。羽田で買いました。しかも、博多名物の饅頭。博多、全然行ってないし。
7月6日(木) あー、疲れる
同期の一人が第一生命に入った。第一生命の伊藤さんが言っていたそうだ「お前も入ったと言って俺を誘ってきたぞ」。
もう寝ナイト。
7月10日(月) サウジアラビア
金曜日、同期(電気部所属)が部長から「タバコでも吸うか」と声をかけられた。彼は喫煙はしない。「タバコ吸わないんですけど」と言うと、「まあいいから息抜きしようや」と言って、喫煙コーナー(我が社はオフィス禁煙)に連れて行かれる。
で、サウジアラビア行きを命じられたらしい。8月から半年間。今日は関係書類の作成に追われたらしい。
私は相変わらず、こまごま仕事と戯れる日々。まだまだやのぅ。
追記;サウジ行きが決まった同期は、木曜日に第一生命に入った彼だ。んもー、いきなり保険が使えそうなんて羨ましい限り。
7月12日(水) SOHO
英訳継続。しかし、午後7時には限界が来て、最早英訳は出来ないと言う状況に置かれる。思いついたのは、場所を替えるという技。というわけで、会社から家に原稿を添付して、メール発信。初めての、仕事家持ち帰り。
しかし、何だ何だ、脇にスーパードライスタイニーボトル、後は「海のyeah!!」。
私はSOHOっての、はっきり言って駄目だわ。
7月21日(金) 沖縄サミット開会
CAD研修4日目。最近、私の隣に座っている関係会社の池田さんが、同期(と言っても私を含めて講習会に参加している同期は3名)の中で密かなブームである。何がブームかというと、単に池田さんが綺麗な人だということなのだが、私は席が隣で、かつ所属が同じシビルと言うこともあって、案外話が盛り上がっている。で、その池田さんから聞いた話。
「この前渋谷にいったんですよー(語尾延ばし)。友達と約束していて急いでたんですけど、『ちょっといいですか』とか、近くの事務所にいるとかいう人に声をかけられたんですね。最初芸能関係かなと思ったんですけど、それがその、AVで、『私仕事しているからいいです』ってすぐに断りました。」
おいおい、仕事していなきゃやる勢いなんかい。即座に突っ込む私。
夜、原田が電話をしてきた。「ちょっとコンクリートのことでお聞きしたいんですけど」。
全くどいつもこいつも。
7月25日(火) 給料日
それにしても、「虹の谷の五月」が直木賞を受賞するとは..........もっと小難しい本が受賞するものだと思っていた。虹の谷の五月は、船戸作品の中でも最強とは思わないしなあ。3冊しか読んだこと無いけど。
7月26日(水) 今日も居残り
どうやら芥川賞は、半期に発表された「純文学作品」で最も優秀な作品に、直木賞は、半期に発表された「大衆文学作品」で最も優秀な作品におくられるらしい、ということを知った。
例のごとく、天王町から桜木町の本社に夕方帰社。で、業務を終えて桜木町から帰る途中、ガタイのいい兄ちゃんから「つかぬ事をお伺いいたしますが、『たちんぼ通り』というのをご存知でしょうか」と聞かれる。「コロンビアからきたお姉ちゃんなどが立っている通りらしいのですが」と、本当につかぬことを聞かれる。コロンビアから来たお姉ちゃんが立っているのは、新大久保くらいしか知らない私にとって(別に買ったことがあるわけではない)、この質問には答えようが無い。「野毛の方とかじゃないスかねえ」と適当に答えると、彼は野毛の方に歩いていった。
それにしても、何故私に聞く。確かに、「何で俺に聞くんだよ」と言うくらい、私は道で様々な人に、地元でもないのに道を聞かれるが、今日は少し心外であった。しかも「知りません」と答えればいいものの、何故か知ったかぶりをしてまで教えている自分には、かなり心外だった。クソ。
7月27日(木) VIVA 天王町!
案外使えるぞ、天王町。
尚、AVにスカウトされた池田さんによれば、昨日の「野毛じゃないっすかねえ」というアドバイスは、妥当だったらしい。
8月6日(日) 御神輿わっしょい
集合は午前11時15分に地下鉄弘明寺(ぐみょうじ)駅前。だが、15分ほど遅刻をしてしまう。同期に車で迎えに来てもらい、いざさつき台自治会館へ。自治会館では本日の弊社からの参加者7名が集結して、既にビールを飲んでいる。私も赤飯おむすびとビールをちょっとひっかける。
自治会の人に促され、ハッピに着替えて手ぬぐいを捩ってハチマキとして装着。準備完了。実は神輿担ぎは生れて初めてである。これから町内を4時間に渡って練り歩くらしい。4時間歩くだけでもすっ倒れそうな天候、果たして大丈夫なのだろうか。明日も仕事だが、どう考えても影響するだろう。神輿はあまり大きくなかったが、これとともに4時間は、正直大変だった。
我が同期は、それぞれにストレッチを始める。ストレッチのやり方を見るだけで、高校時代の部活が何だったかが分かる。そして一本締めの後、いざ出発。途中休憩は4箇所あるらしいが、4時間の長い旅が始まった。あまり大きく見えなかった神輿が、肩に食い込む。とても痛い。私自身、身長が高めということもあり、周囲とのバランス上非常に不利で、中腰で担がねばならない。これがまた非常に疲れる。セイヤセイヤ誠也と声を上げ、住宅地を進む。とにかく暑い。途中で車を洗っている人から水をかけてもらったりするのは最高だった。
1回目の休憩は、日石化学の社宅駐車場にて。すでに汗でハッピはびっしょりだったが、ここで水分を取りすぎるのは疲れの原因になる。慎重に休む。休憩後に出発したルートは、かなりの坂道コース。肩への食い込みも凄味を増す。既に肩は真っ赤である。道中、肩で担いでいない若者がいて、思い切り蹴りを入れたくなる。「肩で持て、肩で!」。
2回目の休憩。自治会の人が、差し入れに握り飯オールスターズとも呼べるような、重いものを持ってくる。受け取ってしまったので、そこで握り飯6個を食う。吐くんじゃないだろうか。その他、同期の面々もかなり消耗している。弱い奴等?とんでもない。我々は全く休まず交代せずに担ぎつづけているのだ。他の自治会の偉そうにしている人達は、交代交代で担いでいる。最後の最後までそうだったが、ぶっ続けで担ぎ続けたのは、我が社の同期連中のみである。
2回目の休憩の後は長かった。手抜きをする奴も出てきて、まじで脇腹にパンチを食らわせたい気分だった。「担ぐ気が無いなら外に出てろ!邪魔なんだよ!!」。言わないけどね。
3回目の休憩。最初、同期連中無言。ビール一気飲み干し。休憩所ごとで飲むので、汗は全く止まる気配が無い。スコールを浴びた後のようだ。スイカを食う。全員の肩は真っ赤である。皮膚が剥けても不思議でない。しかも、休憩時間があまり長くない。いざ出発。
神輿の上に、子供が5人も乗る。凄まじく重い。肩の痛さは3倍増くらいだ。子供なんて大して重かない筈だが、5人も乗れば、150kg増くらいだろう。殺す気か!
4回目の休憩。もういい。もう十分だ。昔懐かしの、中央がくびれていてそこで2つに割れる容器中のアイスキャンディーを、ちゅーちゅー吸いながら食う。汗は当然止まらない。氷を背中に入れる。冷たい。
最後。子供は乗っていない。やや楽。でも周囲の自治会の人の声が大きくなる。「声出せ!」「しっかり持て!」「もう少しだ頑張れ!」―――あのさあ、手伝ってくれよ...
自治会館帰還。案外全員疲れていない。ただ、足にきている奴がいる。ビールを飲んで、楽しくお喋り。明日からはまた皆元気に13時間労働よ♪
8月16日(水) 社会人生活初ユンケル
夜、2年先輩のFさんに「お前って、本当に初々しさが無いな」と言われる。他の人にも「新人らしくない」と言われるが、この人は特に私に向かってこう言うのだ。「お前がもしレタスだったら、絶対モスバーガーで使われないぜ」と言われ、「なんですかそりゃ、訳分からねーじゃないですか」と私は返したのだが、周りの人は一斉に「分かりやすすぎる例えだね〜」と言う。
そんなに分かりやすいかクソ!
8月30日(水) ああ、夏休みもあと一日で終わりか
昨日、隣の部のトップが、ウチの部のトップであるSさんのところに、かなり興奮してやって来た。隣の部が無茶な注文をウチにしてきて、ウチの担当者が憤怒して抗議したのが発端らしいが、Sさんの目の前の新入生席に座る私は二人のエキサイトに流石に引きまくった。
その翌日である今日、Sさんが他部のトップに電話で、昨日のことを話していた。私が見ていても思ったのだが、昨日の隣の部のトップは興奮していて理が通っていないという感じだったのだが、Sさんはこれについてかなり深刻に話していた。で、今日の日記の主題はこの是非を問うわけではなく、この電話での会話におけるSさんの次のセリフが主題である。
「....こっちとしてもね、もっと論理的に話をしたかったんだけどさ、向こうが興奮しまくらちよこで話にならねーんだよ。それでね、....」
Sさんは超真面目に、というよりかなり深刻に話をしているのだが、そこに島倉千代子が平然と挟まっているのである。全く狙った風も無く、Sさんは非常に自然に島倉千代子を入れているのである。しかも、周囲の人たちはそれに対して何の反応も示さず、平然と仕事をしており、電話の向こうの他部トップも意に介さないかのごとく平然と深刻な会話を続けているのが分かる。何しろ、Sさんの眉間の皺は険しいままなのだ。取り乱しているのは私だけで、仕方なく笑いを我慢するが、このセリフは今日一日私を苦しめた。何とも恥ずかしい思い出し笑いが込み上げてくるのだ。
かつて小学校5年生の頃、私は放送委員で昼の放送を担当していたのだが、一つ上の上級生がCCBの「ロマンティックが止まらない」という名曲のことを、全校放送で「今日お送りした曲は、『ロングマッチが止まらない』、....」と言ってしまった。その後一日、思い出し笑いに苦しめられたのだが、今日の島倉千代子はそれ以来とも言える苦しみだった。普通に親父ギャグとして言うならまだしも、あんな深刻な場面で言うのだろうか。とにかく、苦しい一日だった。
9月17日(日) 素直に喜ぼうとしない奴がどうして増えるのか
お前は日刊ゲンダイかっちゅーの。それから、偉く斜めから見ようとする奴とか、興味の無さを強調しようとする奴とか、あとは偉そうに消極的なこと言う奴ね。日本が勝つわけねーじゃねーかとか。死ねって感じ。
おべんちゃらはこの程度にして、ってこれからもおべんちゃらですけどね。
会社には行ったが、5時過ぎには家に帰ってきた。仕事が終わったし、何しろサッカーを見なければならない。昨日の田島銀も田村金も野村金も、そして今日の野球ですら、全て自身の使えなさ加減(下記参照)から見逃している。というより、五輪中継は今のところ全く見ていない。
で、サッカーです。おいおい、スロバキア全然弱くねーじゃねーか。前半は日本イマイチという印象があったかに思いますが、あれは日本以外にしても中々攻めきれないスロバキアの布陣なんじゃないんすかね。凄い守勢だぜ、スロバキア。最初「日本の上がりが遅いのかな」と思っていたんだけど、中盤でパスがスイスイ通るのを見て、そうでもないような気がしてきました。そもそも引き気味の布陣を敷いていたスロバキアは、日本が攻めようとすると完全にゴール前に固まっているんですからね。そりゃ中盤でパスがスイスイ行くけど、全線にパスを出すのは網の目くぐるようでした。前半はどう考えても点は取りにくかったのでは?誰が悪いって訳でもないような気がするし。
ハーフタイム。この時間は家で取っている今日の朝日新聞朝刊を見る。一面トップが田村亮子。まあね、何も知らない私がこんなこと言うのはおこがましいんですがね、決勝で勝った瞬間に、会場で応援していた田村亮子のお母さんが隣の席にいた親戚だかの人にうずくまって泣きまくっていたという記事を読んで、やはり感動してしまいました。私になんか到底分からん苦労が本人や親御さんにはあったと思うのですが、こういうのを見ると改めて、「あー、勝って良かったよなあ」と他人事ながら思ってしまいます。野村の金メダルも、何だか女性二人が注目されすぎてしまっている感はありましたが、昨大会で優勝、世界選手権も優勝の後、目標を失って集中できない辛い時期があったとのこと。それを乗り越えてまた金メダルを取って号泣する姿に、「ああ、とても俺には分からんレベルだが、目標達成して満足するって言うのは羨ましいなあ」と思いました。それから田島。田島に関しては日経の論調が良かった。「喜びを爆発させた」だって。あのテンションは、確かに嬉しいからこそ出せるものではないか。田嶋のシーンはニュースで見たのだが、「スゲエ嬉しそうだな」と思いました。記録自体が信じられない好記録で、しかも銀だから良かったのでしょうが、自分のレースが出来なくて、それで銀だったらここまで嬉しさ爆発は無いだろうなとも思う。そう思うのも、レースの結果云々より、自己ベストってのは別に目標として持っているものですから。何しろ個人競技は自分が相手と言う性格が強い。自己ベストが出て、しかも順位も良かったら、かなり嬉しさ倍増だったのでしょう。俺もそうだったし(一応水泳部出身)。
後半開始。流石にスロバキアも攻めてくるけど、布陣を替えれば当然今までに無かった空白が出来て、それがスロバキアのゴール前でしたね。後半の最初の方は日本が守勢に立たされて、中盤から前線にボールをfeedするのに難儀していましたが、一旦中盤を越えるとチャンスになりやすかった。特に左からの抉り(えぐり)。最初の得点は次の試合出場停止の中田英でしたが、高原(稲本だったかな)・中田・中村がゴール前に駆けつけたあの瞬間、果たしてスロバキアの選手は誰をマークしたら良いのでしょうか。ありゃスロバキアにしたら、もうどうにも止まらないゴールのような気がします。三浦が左から強烈に上がって、上記三人がゴール前に集結して、しかも攻勢にswitchしてスロバキアの戻るのも遅れている以上、あれはもう誰にも...頑張れキーパーですが、そうは言ってもあれは...と言う訳で、我が家も歓喜に包まれる。
結構すぐあとに、追加点。今日の稲本も超素晴らしかったが、何しろこのゴールのきっかけを作った高原のシュート見ましたか。いや当然あっしには出来ないけど、キーパーの下狙ってるじゃん。当たり前なのか?スゲエな。相当練習したんだろうな。多分あれでちょっとでもシュートが浮いていたら、キーパーに当たって追加点は無かったぜ。多分だけどさ。
しかし、痛いことがある。最後に入れられた一点?いや、それも痛んだけどさ、何で南アがブラジルに勝つ。しかも3-1ってマジかよ。優勝候補最右翼というチームはいつも予選で調子悪いけど、これでブラジルは水曜に死に物狂いで日本叩いてくるんだろ。しかも得失点差で日本+2、南ア+1、ブラジル0って無茶苦茶微妙じゃないか。これじゃ勝ち点並んだときに簡単に予選落ちする可能性もあるぞ。あー、頑張ってくれ日本!!!
9月20日(水) ブラジル
その筈だったのだが、ちょっと頑張って書いてみようと思う。
前半は始まっていたものの、先輩と一緒に一旦officeを出て、クイーンズスクエアにおいてある大画面テレビ前に行く。7年目のTさん(サウジから帰国したばっかり)が目に入り、並んで観戦する。Tさんはサッカー部出身だが、新しく入ったアルジェリアのプロジェクトがクソ忙しいらしく、前の2戦は見ていないらしい。試合終了までTさんと観る。一応スロバキア戦を見た私は、「DFの中澤に期待ですよ」と言う。はっきり言って、今日にしてもこの前にしても、中澤の守備は本当に頼もしかった。
途中から観た前半。とにかくピンチの連続で、見ていられない。Tさんは「馬鹿野郎、絶対勝つ!!!」と雄叫びを上げながらも、いざ攻め込まれると「うー、胃が痛ぇ」と漏らす。前半の途中からしか見ていなかったのだが、最初日本の守備が薄いような気がした。Tさんも「(ゴール前の守備列を)もう一枚入れよう、もう一枚」と監督張りに身振り手振りでアピール。確かにその通りで、最終ラインの薄さが非常に心もとない。だが、守備が薄いとか言う問題ではなく、ブラジルの攻撃の素早さに、日本側が前半は慣れておらず、それで翻弄されていたような気がする。結構日本の面々がゴール前に詰めているように見えても、布陣が整う前にブラジルが隙間を狙ってくる、というのが前半のハイライトを見て思った感想。逆に、日本が攻撃をかけると、ゴールを狙って前進するときに阻まれる。つまり、攻撃の形が出来る前に、向こうの守備が固まっているという印象だった。さらに、制空権がブラジルにあるため、日本得意のセットプレーが殆ど奏功しない。あの空中戦得意の中澤に合わせようとしても、同じ高さに相手の頭が5個くらいあっては、やはり潰されてしまう。加えて、Tさんが言っていた「ブラジルの守備陣が2人しかいなかったりするのに、何故パスがあっち行ったりこっち行ったりするんだ」というのは、「パス出す段階で、かなりブラジル側のプレスが効いているんじゃないスか。だから精一杯の状態でパス出すから、繋ぐという段階まで達しないんじゃないスかね」と言うので二人とも悔しいながら納得。前半終了。
後半。最初は大変だった。でも10分過ぎからブラジルがこの試合に飽きてきたのか、ちょっと集中力に欠く場面が増える。そこへ来ていい緊張感に包まれた日本が攻撃を開始。なんだけど、やっぱり自陣ゴール前におけるブラジルの集中力は抜群。パスを出すのが精一杯という状況は観ていて心地いいほど改善されていたが、シュートを放つ段階でプレスが効いて、中々ゴールフレームに入らない。大画面前は溜息に包まれる。私とTさんは、頭を抱えるシーンが増えに増える。中村のショートコーナーなど、工夫したセットプレーが光るものの、やはりシュートは枠に入らない。途中交替の平瀬も残念ながらまだ本調子ではないらしく、Tさん「こいつどうも物足りねーんだよなー」と漏らす。ブラジル左からの抉りは、期待通りに中澤が活躍するものの、後半の最後のほうは日本チームは辛そうだった。やはり、王者相手には相当疲れるらしい。最後は楢崎の踏ん張りなどで何とかこらえるものの、得点を挙げるのは非常に難儀なようで、とにかくこれ以上の失点を防ぐという感じだった。スロバキアの勝利が報じられ、大画面前も一瞬湧くが、結局敗退。
エレベーターの中でTさんは「やっぱりあんなに違うもんなんだな」と言う。「でもさ、同じ予選リーグにいたってことは、決勝トーナメントでは当分当たらないんだろ」と言い、私が「決勝まで当たらないんじゃないスか」と答える。するとTさん「そうだよな。じゃあいいや、銀で」と言う。
9月23日(土) 敗れる
今日はTさんが休みだった。という訳で、最初は私一人で見ていたが、途中でどうせ休日出勤しているリファイナリー部所属の同期、F(桐蔭サッカー部出身で、DF森岡の一つ先輩)を携帯で呼び出す。だが、仕事が立て込んでいるらしく、後半から行くと言われる。
試合開始。アメリカ人がサッカーをやっている姿はあまり見慣れたものではないが、それでも予想より強い。それから、今日の日本は予想よりやや弱かった。原因はよく分からないのだが、「中田森岡復活で勝利確実」という下馬評に、私たちが乗せられていただけかもしれない。それを考慮しても、前半を通しての印象は、日本やや優勢。
決勝トーナメントということで、両チームとも攻勢であるが、それゆえ守備が薄くなり、両者ともチャンスを得やすいという印象であった。ただ、その攻撃前線におけるスタイルは、日本の方が洗練されているように見え、戦術の巧さで日本が全体的に上を行っているような感じだった。前半の柳澤の先取点は、まさにそんな感じ。結局サッカーの地力に勝る日本が、普段通りの力で入れられた、素晴らしい先取点だったと思う。前半はその後もちょっとずつ調子に乗る日本であったが、点は無し。
ハーフタイムにFが下りてきた。取り敢えずコンビニで何がしかの物を買い、クイーンズスクエアの地べたに座って観戦。
日本は予選を通じて、後半の15分過ぎから35分くらいまでが調子良く、その後試合終了までが危ない時間となる訳だが、不運にもその通りとなってしまった。前半の真ん中くらい(15分は過ぎているけど...)で、アメリカが同点。アメリカの得点はそれほど美しくはなかったが、これで得点後の数分はアメリカの調子が増す。ディフェンスラインがそれほど深くない日本は、中々大変そうであるが、まだ楢崎に対して危ないシュートが及ぶには至らなかった。ディフェンスで止めることが出来、調子付いたアメリカを後退させる。
日本の得意な時間に入ってきた。だが、どうも上がりが遅い。前線へフィードされたボールをキープするのは良いが、フォローがちょっと遅い。速攻が最後まで速攻にならずに、ごちゃごちゃした状況でゴールラインを割るなんてことも増える。点が取れないんじゃないかという思いはまだ出てこなかったが、どうも何かが違うなんて思ってしまう。何しろ、今思い出してみても、後半のハイライトはあまり覚えていない。それだけ、決定機が前の3戦に比べると少なかったような気がする。そう思っていた矢先、高原のとっても凄い勝ち越しゴールが決まる。それまできわめて冷静に試合を見ていたFも、私の腿を叩いて喜ぶ。私も大きく拍手。「むちゃくちゃ巧いな、さすが高原」、とFも感激している様子。よし、これでもう一点だ!と勢い付きたいところ。
でもその後もどうしたことか、どうも上手くパスがつながらない。ゴール前のワントラップが増え、ダイレクトにシュートを放つ場面などは殆ど見られなくなってしまった。原因は、トラップを貰う体勢が不安定で、シュートが放てない。それから、前にマークがいてもスピーディーにパスを回せないのは、フォローが上がって来ていないからである。味方が上がってくるのを待たざるをえないから、そこでしばらくボールをキープしなければならない。どうも疲れて来たようだ。気がつくと、危ない時間に入っている。この時間、今大会のどの試合でも防戦一方となった時間である。大画面前は「あ〜」というため息が連続する。高原が右から走り込んでシュートを放って外したり、中田がシュートを放って外したりするのに、全員が地団太を踏む。「そうはいっても難しいんだって、あれは」とFは言う。
アメリカの得点が決まってしまう。PKで。だが、アメリカが追いつくにはあのPK以外に方法は無かっただろう。この時間、日本は攻撃に精彩を欠き始めるが、守備陣の集中力がかなり増すと言う時間なのだ。危ない時間とはいえ、日本はこの時間で決定的に負かされたことはない。それは守備陣の高い守備能力からである。従って、今日の後半の後半も、アメリカが得点するとは考えられなかった。ゴール前に持ち込まれ、ひやっとする場面も出ていたとは思うが、それほどの決定力はなかった。つまりここでも、サッカーの地力に勝る日本の方が上だった。まさか負けるなんてのも、全く考慮の範囲外であった。「よっしゃ、いいぞ隆三!」と、森岡の下の名前を呼ぶFの声が増える。昔は下の名前で呼ばれていたのだろう。
同点で試合終了。延長に入る。嫌な予感。
延長はかなり押されぎみであった。40分くらい延長をしたら、多分負けてしまったのではないだろうか。サッカーの地力には勝るが、何となく基礎体力の差が出て来たような気がする。アメリカは巧いプレーはしていない。これは試合を通じてそうで、オープンスペースを使ってサイドから攻めあがるなど、基本通りのプレーのみである。だが、日本も技術を使ったサッカーが鳴りを潜めてしまったように感じた。普段どおりのアメリカと、疲れてきて普段どおりのことが出来なくなってきた日本。結局、同じような基本通りのサッカーをしていることに気付く。だが、同じ事をすればそれ以外の箇所での力の差で、全体が決まってくるのではないか。アメリカの決定機が増え、日本の決定機が減る。これはマズイ。早く終わってくれ。
PK戦。Fが一言、「中田が外したりするんじゃないだろうか....」
Fの予想通りになって、日本敗退。もうこれで、オリンピックは今日で終わってしまった。仕事が終わっていない私とFは、肩を落として会社に戻った。
でも、ワールドカップが楽しみになってきた。早く来いワールドカップ!!!
10月9日(月) ノスタルジー浪人時代(超長)爆音のような雷鳴で目が覚め、外を見ると凄い雨。遠出は止めて、古本屋に行くために、神保町に行った。しかし、目当てのブツは無く、とは言ってもこのまま帰るのは何なんで、今日はこの界隈を歩いたりした。
高校卒業と大学入学の間の一年間を、私はこの神保町で過ごした。私の通っていた予備校が神保町にあったからだ。というわけで、神保町は私にとっては、ちょっと懐かしい場所である。靖国通りと白山通りの交差点の出口に出て、白山通りを水道橋方面に歩いていく。本屋街はこちらにもあるが、メインは靖国通り沿いで、この白山通り沿いは飲食店やエロ本屋がたくさんある。その間を専門学校や大学(日大)などが所狭しと並んでいるのが、神保町から水道橋にかけての風景である。今まで無かった店や小奇麗に改装された店なども多いが、高さの一定していない雑居ビルや、零細な出版社が裏通りに並ぶ風景は、基本的には変わっていない。最も変わったところと言えば、私が通っていた研数学館が消滅してしまったことだろうか。
研数学館は平成12年3月をもって、長年続いた予備校業務から撤退した。撤退の一番の原因は生徒数の激減である。研数学館は関東ローカルの中堅予備校で、メインは浪人生の指導である。我々のようなベビーブーマーの受験戦争の激しかった時代には結構繁盛し、関東圏内で校舎を新設するなどの勢いであった。しかしながら、子供の減少による大学入試競争の緩和に伴い、現役合格率の上昇した結果、浪人生の数は減ってしまった。浪人指導主体だった研数学館は苦境に立たされていたらしい。現役生を対象にした方針も当然とったようであるが、現役生の囲い込みには出遅れて、小規模に展開する他塾のような小回りも効かず(少人数制で気の利いた指導を取れるほどの小回りは無かった)、大規模予備校のような数による優位もある筈は無く(圧倒的なデータ数に裏付けられた客観性の高いフォロー体制など)、明治30年の創設以来続けてきた生徒指導を終えざるを得なくなったようである。戦前は専門学校であったと聞いたことがあるのだが、遠藤周作の著作「女の一生 二部・サチ子の場合」におけるサチ子の相手役の修平が、受験浪人時代に過ごした予備校として登場している。そんな伝統のある予備校であったのだが。
研数学館の校舎は今でも残っている。現在は大正大学の神田校舎として利用されているが、研数学館は完全に消滅したわけではなく、現在も科学者育成の奨学金取り扱いのような形で存続している。この建物の二階に今でも理事室みたいのがあるらしい。そもそも数学私塾として創設されたこの予備校は、科学者育成のための資金援助機関としての道を選んだわけである。尚、研数学館は最盛期(詰り私が学生として所属した時期)に、この界隈に3つの校舎を持っていたが、本郷校舎という名門櫻蔭学園の向かいにあった校舎は昭和第一高校に売却され、この古い本校舎の裏にあったB館(だったかな?)は東京法科学院だかに売却され、今でも教育機関の箱物として機能している。
研数学館廃校というのは、予備校時代に苦楽を供にした友人からのメールで知ったのだが、あの予備校が無ければ今の自分は少なくとも無かったと考えている私は、やはり悲しかった。母校の一つが死んでしまったような感じだった。確かに模試などは他の三大予備校のデータの方が信頼性は高かったが、先生達の指導レベルは高く、特に数学の先生は素晴らしかった。私の所属したクラスは生徒数が50名くらいだったので、結構先生にも名前を覚えられたりして、授業をサボったりすると、「この前いなかったけどどうしたんだ」などと言われて驚いた記憶もある。上記のように少しサボったこともあったが、浪人時代は結構しっかり勉強した。流石にもう大学に入りたいと言う気持ちも強かったが、研数での授業(特に数学)は非常に分かりやすく、勉強自体は辛くとも少し楽しいとすら思ったからというのも、しっかりやる動機付けになったと思う。質問などもしやすい雰囲気で、質問に行って「いい質問だよ」と言われると、力がついてきたなと自覚すら出来た。あの頃やったのは大学に入ってからも色々助けられ、浪人時代にしっかり勉強しておいて良かったとすら思うほどだった。と言うわけで、この予備校が生徒指導から撤退したのは、なんとも悲しいことである。
研数から離れて引き返し、三省堂前のマックに入る。で、ここで何をやったかと言うと、柱脚の勉強。馬鹿みたいだが、私は勉強はファーストフードでやることが多い。家にいても駅前のマックに行って勉強したりするのである。これは予備校時代から続いている癖である。国立理系コース(にいながら私立理系に進んだ時点で、受験に敗北したのが分かるが)に所属していた私は、受講科目数が多く、授業が終わるのが遅かったので、予備校の自習室の席を確保できなかった。従って付近の図書館だとか、ファーストフードでその日の復習なり次の日の予習なりをしていたのである。大体夜の8時くらいまで図書館にいて、その後夜の10時くらいまでファーストフードで勉強をして、で家に帰って寝るという生活だったので、家で勉強は殆どしたことが無い。従って弟からは「兄ちゃんは全然勉強しないで大学に入った」と言われたことがあるが、家の外で結構必死にやっていたのである。明日から柱脚の設計をしなければならないのだが、こんな鋼構造なんて大学ではやってこなかった私は、休みに必死になって勉強しないと仕事にならないのである。だが、何故かファーストフードでは集中できて、家の数倍の効率を上げることが出来る。何故なのかは、予備校生活以来7年を経過している現在でも不明。
マックが混んで来たので外に出て、今度は九段下まで歩く。予備校時代、九段下までよく歩いた。理由は九段下にある千代田図書館によく行ったからである。今日は祝日なので当然図書館は開いていないが、その付近のファーストフードで続きをやるかと思って歩いた。暫く歩くと巨大な靖国神社の鳥居が見えてくる。九段下は破綻した日債銀の本拠地であり、ビジネス街でもあるような気もするのだが、あまり飲食店が多くない。ファーストフードもモスバーガーくらいしかなかった。ただ、いつ出来たのかマックとスターバックスがある。マックはさっき入ったし、スターバックスに行くかと思って入る。初めてスターバックスに行ったのは大学4年次だった。シカゴのスターバックスが私の初スタバという生意気なものだが、クソ寒いシカゴのスタバで飲んだのは、ホットミルクだった。そんな話はどうでもいい。
しばらくやっていたが、疲れたので止めて、帰ろうかなと思う。でもせっかくだから、あそこに行くかと思い、既に暗くなった九段下の交差点を左に曲がって、千代田図書館の方に行った。目的地は千代田図書館ではなく、そのもっと奥の旧江戸城清水門である。
千代田図書館に始めて行ったのは、高校二年の時だった。友人に「九段下にデカイ自習室がある図書館がある」と教えられ、何学期だかの中間か期末試験数日前に行ったのである。高校が外苑前にあったので、家の方向とは逆であるのだが、何となく図書館に勉強ってのがしてみたくて、無意味に行ったのである。午後7時に閉館になる図書館から出て、左に曲がって駅に向かえばいいのだが、何故か「こっちには何があるのかな」と思って右に曲がったのが、今にして言えば運命の分かれ道だったような気がする。千代田区役所のビルが切れて、私の眼前に飛び込んできたのは、江戸城の濠だった。夜の濠の水は黒く、そして城壁は水の上に浮いている軍艦の舳先のような様態で、目の前に鎮座しているのである。この光景を目の前にした高校生の私は恐ろしさすら覚え、鳥肌が立った(寒かったので2学期の期末試験前だったのかもしれない)。暫く圧倒されて見ていたのだが、我に返って「ああ、自分もこういう人が見て鳥肌が立つようなものを作る人になりたいもんだなあ」と思った。このときのことは今で覚えていて、結局これが専攻に土木を選んだ最初の動機だった。子供らしい考え方だが、就職活動時の面接で今の会社の上司に当たる人にこれをやや笑いながら話したところ、非常に神妙に聞いてくれたのも覚えている。
今日、数年ぶりに夜の清水門周辺の濠を見た。前と変わらない迫力を持っている。今、会社に入って四苦八苦している私は、これを見て「もうちょっと頑張ろう」などとお安い感情を今日持ったかと言うと、やはり少し持った。
10月13日(金) きつすぎた朝
私の前の席に座っているLさん(中国人)がexcelのシートを見ながら、「誰だか分からないけど2000年を2万年って書いているよ」と言った。それを聞いて私の中を回り始めたのは、
むーむーむーむむむむっむー、おーくせんまん、おーくせんまん
むーむーむーむむむむっむー、おーくせんまん、おーくせんまん
みつめあーうー、ひーとみのれいざーびーむでー♪
郷!郷!郷!郷!
億千万と二万年は全然違うんだけどさ。億千万と言う桁数も何だかよくわからないが。
10月14日(土) 酸っぱい麦茶
冷蔵庫に入っていた麦茶を味がわからないほどの勢いで飲んだら、後味が麦茶とは思えないほどの酸っぱさだった。飲んだ後に親に、その麦茶が相当古いことを知らされる。
早く捨てろよ。
11月4日(土) 鈴木先生 and 私先生 in かるび先生
数年前のある日、バイト先である塾の教員室で、見慣れない人を見かけた。私の席の斜め前に座っているのだが、この人は一体何者なのだろうという感じであった。当時校長だった山崎校長に、山崎校長が早稲田校時代に同じ釜の飯を食った、鈴木先生という人だと紹介された。鈴木先生との付き合いはそれから始まった。先輩であるが、私にとっては最も仲の良い同僚となった。
その鈴木先生(28歳)と、久しぶりに会うことになった。というより、私が提案したんですけど。昨日の日記で「この三連休どうしよう」と悩んだ私だが、すぐさま目に浮かんだのは、鈴木先生であった。「そう言えば、給料を貰った暁には、鈴木先生に『かるび先生』で奢りますと言っておきながら、忙しさのあまり延期に次ぐ延期だったな」ということを思い出したのである。帰宅して鈴木先生に電話をすると、「あ〜、私君かぁ〜」という声。半年以上会っていない程度だが、懐かしくて喋りまくってしまう。
鈴木先生とは、昨年度に塾の看板クラスで横で組んだ仲でもある。鈴木先生は国語担当。私は数学担当であった。研究室が忙しくて、塾との両立に悩んでいた私は、度々鈴木先生と飲みに行ったりして、精神的に随分助けてもらった。話すのは150%まで馬鹿な話で、「走ってる女見ると、ラリアットしたくならない?」とか「きれいな女見るとムカつくんだよね。だってさ、きれいでも全然自分のものじゃないわけじゃん。つまり、自分にはどうにもならないわけじゃん。そんな女さっさと俺の目の前から失せろ!とか思うんだよね。」というのが口癖の一風変わった変人であるのだが、何故か気が合った。「どっちが先に彼女出来るか競争中」という、変な仲でもある。鈴木先生は今でも塾で働いている。
待ち合わせはかるび先生前で午後8時。その前に私は、渋谷で時計を買った。社会人になったので、奮発してSEIKO(初の所有)を5桁(初の5桁)の値段で買う。そのSEIKOの時計をはめて、かるび先生の前で待つ。いきなり目の前に、鈴木先生登場。いやー、懐かしいですね(って、一昨日1時間半くらい話した)と再会の抱擁を交わす。だがしかし、塾時代に頻繁に訪れたかるび先生は大混雑。仕方なく、早稲田通りを上がった「もくもく早稲田通り店」に移動する。もくもく早稲田通り店は、(元ムーチョス)の渡英壮行会以来である。社会人になって色気づいたサークル時代の友人と最早来なくなってしまった「もくもく」であるが、やはり「もくもく」の煙もくもく振りを横浜に移ったものの忘れられない私は、鈴木先生との再来訪を満足していた。
取り敢えず、ビールで乾杯。そこから近況や昔話を繰り返す。しばらく会っていない旧い友人と会うと、案外話が盛り上がらないことが多いが、相手が鈴木先生だとそんなことはない。喋ってるか食ってるか飲んでるかだった。鈴木先生は実はこのページをよく見ており、何気にほぼ全部を読んでいて、従って私の近況など全てお見通しという感じだった。また、イスラエルのところなども詳しく読んでおり、正に隅々まで読んでいると聞いた。「全く、本当に僕のことが好きなんですね」と言うと、「ああ、好きだよ」と愛の告白をされる始末であった。
色々話した挙句、場所を移動する。そこで終電間際まで飲んで、帰宅。鈴木先生は物足りなかったようだが、社会人になってすっかり飲みバイタリティーの減衰した私は、鈴木先生との再会を約して別れた。
尚、私と鈴木先生が大好きな「もくもくアンケート」だが、皆は見たことあるだろうか。見たこと無い人のために、特別公開しよう。スキャナが無いので、一応文面だけをテキストで書きます。ultra negativeです。
〜〜〜もくもくアンケートだよっ〜〜〜
毎度、御来店 ありがとうございますっ。
もくもくでは、お客様に『満足』して頂く為に、御意見を大切にして
サービスの向上の参考とさせて頂きますので、ぜひ・・・アンケートの御協力下さい。
〜〜〜○で囲んでください〜〜〜
御来店日H . 月 日/PM.AM 時 分/ 男 ・ 女 ( )歳
・本日のお召し上がり商品について
A, あんまり美味しくない B, まずい C,
その他【 】
・提供時間について
A, まあまあ B, 遅いが許せる程度 C,
許せないくらい遅い D, その他【 】
・お店の雰囲気について
A, 元気がなく暗い B, 落ち着いて食事が出来ない C,
あんまり楽しくない D, 気にしない E, その他【 】
・従業員の接客について
A, 言葉遣いが悪い B, 接客が乱暴 C,
全然気がきかない D, その他【 】
・当店の清掃について
A, ゴミが落ちている B, 掃除がいきとどいていない C,
トイレが汚い D, テーブルの周りやいすが汚い E,
その他【 】
・当店を何で【どこで】知りましたか? 【 】
・当店までどのように来られましたか? 徒歩・自転車・車or電車 ( 時間 分)
・又御来店いただけますか?
A, 又来たぁ〜い B, 来るかも C, もう来ない 理由【 】
その他<どんなことでも結構です>
〜〜〜〜〜〜
こんな後ろ向きのアンケートは見たことがないが、取り敢えずいつも答える。また、当店までどのように来られましたか、における、筆頭選択肢が「徒歩」しかも「車or電車」という、並列すべきでない選択肢まである。学生なみなさん、ぜひ来店してアンケートに答えてください。
11月23日(木) 勤労感謝の日
昨夜、「今日は終電までやるか」と仕事をしていたが、11時くらいに携帯がブルブル。もしもし誰ですか。同期のHで来いと言う。一気にやる気喪失で、お先に失礼します。野毛に向かう。
皆さんは野毛をご存知でしょうか?桜木町の駅から海と反対方向に広がる飲食店街です。横浜のサラリーマン達を優しく抱え込む街ですが、値段は高田馬場並みと言う豪華さです。
最初に行ったのは養老の瀧。行ってみると同期が4人座っているが、ビールは七つ置いてある。どうしてお前達は、人数分のビールを頼めないのだ。「おおー、来たな、ほらビールはあるぞ」と、ややヌルいビールを差し出される。その後も「すいませーん、ビール6つ」って、まだ2つ残ってるのに何故6つ頼むんだよ。
後からもう一人が合流したが、12時で養老を出される。最早終電が終わっている私(市営地下鉄の終電は23時57分)は、次を提案。てゆうかビールしか腹に入ってねえ。次に行ったのは野毛によくある中華料理屋。中華料理といえば中華街だが、入社以来一度も行ったことが無い。何しろ、中華街よりもこのような横浜界隈の飲み屋街にある、零細中華料理屋のほうが美味くて安いからだ。もうビールはご馳走様の私たちは、紹興酒をボトルで頼む。で、餃子数人前とチャーハン数人前と回鍋肉数人前が勝手に頼まれる。「回鍋肉ってほら、回る鍋って書く」と、誰かが説明する。誰だったかな。Nかな。さらに、まだ紹興酒飲み終わってないのに杏露酒ボトルって、お前らいい加減にしろ。
結局その後、もう一本杏露酒を頼んで、また何か頼んで、店を出たのが2時半。一人1300円ってマジかよ。
数少ない自宅組のOとタクシーで帰って就寝。結構気持ち悪い。
翌日の本日は勤労感謝の日。昼過ぎに出社すると、ほぼ全員が普通に出社している。遅刻みたいな感じだが、今日は休日。休めよみんな。
以上、まとまりの無い日記。
12月24日(日) 汝等の為に救主生れ給れり
折りしも東方にて見たりし星彼らのの先に立ち、ついに幼子の居る処にて其上に止まれリ。
東方の三博士が、イエス降誕を知った瞬間であるが、私は幼稚園時代に園児劇において、東方の三博士の一人をやった。田園江田幼稚園と言うプロテスタント系の地元の幼稚園に通っていた私が、何故か覚えているワンシーンである。その他の幼稚園の思い出なんて、クラスのデカイ女の子にみぞおちに蹴りを喰らって息絶え絶えとか、そんなもんである。
昨日行っていないので、本日は会社に出向いた。体調が良くなくて帰ってきたが、MM21は凄い人出。人にもメールで送ったが、こんな状況だった。
桜木町に着いたらスゲー人出。前に進めん。殆どカップルです。ウチの会社を見ると、見事なまでに全フロアの電気がついている。と思ったら、隣のランドマークも、日石ビルも、浜銀本店も、そして三菱重工ビルまでも!で、おととい会社の人から聞かされた、「クリスマスイブを挟んだ3日間は、みなとみらいの高層ビルはすべて電気をつけることになっている」というのを思い出しました。初めて見ましたが、何せオフィスビルで全て蛍光灯なだけに、明るすぎ。風情は何かイマイチって感じ。でもやはり純粋に、「彼女とクリスマスに外でブラブラするってのは、やはりいいもんだなー」と羨ましく思いました。そりゃそうか。
皆さんはどんなクリスマスイブを過ごしたんでしょうか。妻子ある人はしっかり家族サービスしたんですかね。
12月31日(日) 年末大安ッス
一昨日の忘年会が効いたのか、昨日は午前12時には床に就き、本日起きたのは午後12時過ぎだった。本日は研究室連中と年越しイベントがあるような感じだったが、まるで連絡がこない。やっぱ無えよなあ。だってゴンパパは嫁と子がいるし、たっちだって遠距離恋愛の彼女がいるし、ゼネ吉にしても俺を汚れと呼ぶ彼女がいるし。ん、カラオケは?ゲンバーマンな彼も当然帰京している筈だが、このプランは彼はしらんだろう。だって、岐阜の山奥だぜ。
と思ったら、ゼネ吉から電話がかかってきた。お、やっぱやるのか、と電話に出たところ、こう言いやがる。
「いま彼女とランドマークの下にいるんですけど、おいしいお店ってどっかありますか?」
死ね死ね死ね!知るかボケッ!!!自分で探せ!と言ってやったら、電話の向こうから「自分で探せってよ。ほらな、言った通りだろ」と彼女と話しているのが聞こえる。くのやろうぅ〜、こういうときの俺をよく分かっている。などと感心する世紀末。アンミラランドマーク店でいいぢゃねえかと言ったが、高いからヤダなんて言いやがる。仕方ないから、かつて原田が勧めていた、クイーンズイースト地下の台湾屋台料理屋を提案して切る。
大晦日の本日は、年賀状を求めて、近隣をさまよった。昨年の院生時代、夜中に理工近くのファミリーマートに行った際に「年賀状扱ってます」みたいな奴を見て一気に30枚とか買い、クリスマスイブに研究室で刷り上げた。だが今年は完全に忘れていた。残暑見舞いまで書いた今年、年賀状を逸するなんてことは許されない。
本日狙ったのはたまプラーザである。はっきり言って、私は江田など全く分からない。昨日、近所のセブンイレブンで無かった時点で「もう江田には無い」と断じてしまったのだ。というより、コンビニがあまり無い。
タマプラに着いて、効率よくコンビニを回るものの、まるで無い。ああ、やっぱり無いのかな、コンビニで売っている印刷が大きすぎて高すぎる使えねえ年賀状買うしかねえのかな、と思いながらも、諦めずに捜索続行する。ここならあるだろう、と踏んだ郵便局前のローソンにも無い。しょうがねえから、明日従兄弟と弟にやる予定のお年玉袋を購入する。ついにお年玉サプライヤーになったか、と言う感慨は特に起こらない。でも、弟が早く子供を作って、甥とか姪にやるのは意義があることだろうな、などとは少し思う。自分の子供には上げないような気がするし。だって俺貰ったこと無いもん。
数件目に訪れた、たまプラーザ団地入口の渋いセブンイレブンで、ようやく年賀状を発見した。しかし、無地のものは売り切れで、右下にピンク色の私の柄とは縁遠いイラストの書いてある奴だった。それにしてもコンビニ売りのものよりは数段いいので、結局これを30枚購入。ばーちゃんが残していた無地の奴が5枚ほど家にあるので、計35枚である。
帰ろうと思ったが、何となくビデオを借りたくなったので、ツタヤに行く。同期のSが「今年の年末年始はビデオを見倒す」などと言って実家に帰らないと言っていたのを思い出したからだ。そう言えば、最近は感想文も全然書いてないしなあ。
借りたのは「アポロ13」である。見たことあるけど。これを見たのは冷房の効きまくって寒すぎる、バンコクの映画館だった。予告編の後で、いきなりプミポン国王(ラマ9世現タイ国王)の絵が出てきて、客が一斉に立ち上がるのはびっくりした、なんて下らない思い出も甦ってきたりして。
帰ってきて年賀状作成着手。今回は3パターンを作った。つまり:
である。前二者は、本日セブンイレブンで買ってきたイラスト入りの奴、最後者はばーちゃんからもらった無地の奴である。最初に会社のを作り、次にサークルバージョンを作り、最後に5枚と限られている研究室の同期向けおよびサークルの一部(二名)向けのものを作った。これが案外時間がかかり、終わってみると紅白が終わっているという代物。なんだか力作ではないのだが、時間が結構かかるもので、やっぱり普段の忙しい時には出来なかっただろうなあ、などと思う。村松とカラオケの現住所が分からない、という極めて重大な問題も発生したが、取り敢えずこの二人は抜いておいた。送ってくれよ、二人ともう〜
何か穏やかな年末だった。
2000年12月 年の瀬と一年を振り返って
12月頭に出張から帰ってきてからは、鉄骨詳細図作成と、忘年会に追われた。私は営業ではないので、忘年会などあまり無かったが、それでも昨年までと比べると多かった。会社ではオフィシャルな奴は3件しかなかったが、それ以外に壮行会だとかお帰り会だとかが細かく入ってしまい、図面作成もあまり進まなかった。こういうのを見越してやるべきなんだなクソぉ、と言う感じで日々が過ぎていくのである。週末はサークル関連の飲み(殆ど個別のだけど)が多かったが、疲れたものの楽しい週末を送ってきてはいた。
職場。部内に衝撃が走ったのは、結核患者が出たことである。これは全社的にも騒ぎになって、人事部長が部に来たりで大変だった。ツベルクリンまでは受けていないが、私も胸部レントゲン写真を撮ってきたし、他の人たちもそうだった。東南アジア帰りが保菌していたりする傾向もあるので、私にしても結構不安だった。一応何のカゲも見えないから正常だったが、いまここで結核で入院なんてことになったら、かなりヤだな、なんて思ったりもした。何しろ、今の設計を終える寸前に倒れることになるからだ。
年の瀬だからと言う理由で忙しくなるかと言うと、私の会社はそういう傾向はそれほど見られない。プロジェクトの都合に振り回されるので、1年のサイクルよりも納期までの行程(本jobは33ヶ月)に振り回されることになる。まあ「年内までに何とかあげよう」という仕事も無い訳ではないが、あまり「師走」を感じさせるものは無かった。前述したが、飲み会が多かったくらいかな。我々にとっての年の瀬は、旧正月後の3月である。
結局、今年いっぱいが締め切りだった鉄骨詳細図は納められなかった。というわけで、個人的な仕事始めは3日になった。
さて、今年一年です。
皆さんにとって、学生と社会人の端境期というのは、一体どんなものだったのでしょうかね。私の1年目に感じたのは、
それに比べて学生は
というものです。学生時代は朝まで実験とかやっていたので、ある意味社会人より疲れる生活だったかも知れませんが、何せ昼登校が多かったのです。自分のペースでやることができました。この「マイペース」ってのが完全に無くなったのが、私にとっては大きな違いでした。それから疲れ。バイトで疲れた等と言っても、所詮バイトでした。生徒の責任を持つ、というのはやりましたが、会社に対してどうこう、なんてのは皆無でした。恐らくこれは、正社員の職員と、バイト講師の大きな相違点であったに違いません。朝からの研修、職員は絶対参加しなければならないが、バイトは実質自由、とか。父母会は職員は絶対参加しなければならないが、バイトは実質自由、とか。バイトの出席率の悪い校長は上から怒られるが、バイトにはその怒られが無い、とか。「ったく、冗談じゃねーぜ、そんな朝っぱらからだるくて意義もよく分からん研修なんてよう」とか言っていましたが、それに対して「嫌ならヤメロ」と言われたとしましょう。バイトだったら「フン、別にやめたって大したこと無いね」だった。でも、職員だったらそれはどうでしょう。最早給料を基礎とした生活をしているのです。しかも、親からの保護が無い以上に、何と親に送金する齢に達しているのです。影響が自分だけでなく、親や他人にまで波及する恐れがあるのです。家族がいれば尚更だわなあ。
学生時代、私は「忙しい忙しい」などと言っていました。でもこれは単に、「超甘やかされている学生」内での「忙しい」であった訳です。稼いでいたとは言え、身の回りのモノとか定期代とかしか稼いでいないのです。自立など全くしていない。寄らば大樹の陰に甘えていただけです。
今にしても、両親はまだ全然元気で、しっかりと働いています。家計に寄与する私の収入などハナクソのようなものだし、相変わらず自宅住まいなので、学生時代とはそれ程変化は無い筈です。しかし、自分の中では明らかに何かが変わっています。一言で言うと、年取りました。と言ってもこれは決して消極的な意味ではなく、最早この体は自分のものだけではない、という考えが付いて来てしまいました。今は健全でも、将来親が立てなくなったとき、支えるのは私しかいないのです。これは学生時代から考えてきたものでしたが、いざ働くようになって、これが妙に現実味を帯びてきました。その時、「金を稼ぐ」というのが、働く動機の最右翼であることが、自分にとって分かってきました。入社以来、勿論つまらない仕事ややりたくない仕事もありました。でも、そればかり言っていては稼げないのです。私は収入と、さらにたまにやってくる大きな達成感を頼りに、つまらんと思う仕事でも積極的にやってきたつもりです。来年以降だってそうです。まだ「遣り甲斐」など感じることの出来るレベルではありませんが、経験を積んだエンジニアが感じている「遣り甲斐」を理解し体験できるレベルになっても、やっぱり「稼ぐ」というのが私の第一目標となると思います。
と言っても、これは私の考え方であって、同期全員がこの考えを持っているとは思いません。それに、何も「稼ぐ」だけが目的でもありません。稼ぐだけなら、何も今の会社に入っていません。やはり学生らしく、「遣り甲斐」を重視して、今の会社に入りました。「遣り甲斐」を重視する姿勢は、今だって変わりません。ただ、今年一年を振り返って、私の中で明らかに生れた新しい概念が、今まで述べてきたようなものでした。退化、と見る人もいるかもしれませんが、私は大きな成長だと思っています。
何か、誰かの意見に反論するような言質だな。誰かにこんな話振られたことあったけなあ。
ああ、外で除夜の鐘が鳴っています。年も明けました。2001年宇宙の旅は実現しそうにありませんが、そんな本年もよろしくお願いいたします。