うろうろ
 ヒトはみんないろんな可能性をもって生きている。

 そんなふうに誰かを励ましたり、自分を奮い立たせたり、はたまたそんなテーマの啓発本があったり。

 でも実際、日常の生活の中でいちいちそんなポジティブに思考して動いちゃいない。ハハハ・・・。
 日々、目の前の小さい小さい問題と格闘して、一喜一憂しながら憤慨したり悩んだり、たまに笑顔になったり、そして気がつくと1日が終わっている。んでもって、気がつくと1週間経ち、1ヶ月経ち、いつの間にやら 「あら〜、この前正月だったのに、また年賀状つくらなきゃ〜。」 なんて言っている。

 でもそんなあっという間の時間の経過は、大事な大事な自分の一生の中の、たった一度しかない一瞬だということを、時折ハッと思い出すことがある。

 小さい子どもは、自分に何が出来るかを考えて行動はしていない。
 やってみたら出来たことを繰り返して、出来なかったことは何となくやりすごして、またやってみたら今度は出来ちゃった、なんてことをやっているうちに、大人とそう変わらない能力を身に着けていたりするみたいだ。
 勉強して(イヤイヤでも・・・)知識とかが身についてくると、なんでそういうシンプルな行動ができなくなっちゃうんだろうね?
 社会性とか、見栄なんてもの、プライドであったり、しがらみみたいなものを跳ね除けて、よいしょ!って動いてみたら思わぬいい結果になることもあるけれど、逆に地に落ちてしまうことだってあることを知っているから、なかなか踏ん切りがつかない。動けない。怖い。

 自分の可能性。
 そこには限界は無いと思う。本当に自分だけの世界で言うならば。
 でもやっぱり限界はあるとも思う。年齢も状況も考えるならば。
 ただ、限界がどこにあるかを探るために人生の時間を使っているのではなく、限界を知ったとしても、そこからがまた新たな人生の入口なのだと思いたい。

 私はポジティブなのかな?
 周りのヒトはよくそう言うけれど、言われるほど前向きなエネルギーがあるわけではない。
 それでも、命の限界があることだけを知っていれば、あとの諸問題は小さい小さい、結果オーライでいいかという、真ん中のところ、必ず戻ってくる基本線はずっと保っていると思う。

 ヒトは必ず誰かと接して生きているから、必ず思考は揺れ動く。
 ポジティブであったり、ネガティブであったり、その振り幅は大きくていいんじゃないかなと思う。
 特に2人目を産んでからよくそう思うようになった。正確には3人目になる次女が産まれて来たのは、2人目の流産があったからだ。それが無ければ、今横でヒャイヒャイ言っている次女には会えなかったし、私がもう1人の子どもを持つ人間になれる可能性も見出せなかった。
 当時はかなり堪えたけれどね・・・。
 大人であるの親の私も、しょっちゅう心はウロウロしているのよ。

 で、その二人目の子は現在まだ生後5ヶ月。
 ガラガラをつかんで振るようになり、自分の足を 「これはどうやら私の体らしいぞ?」 と発見してつかめるようになってきたところ。
 彼女達はまだまだ、可能性なんて難しいことを考えないで日々まったりとフワフワと生きている。
 そんな姿を見せてくれているだけで、子どもは親孝行しているように思えるんだなぁ。

 ありがとさん。
 何者よりもポジティブな存在の子供達よ。