しゃっくり
 ふた月ほど前だったか、父がボソッと言った言葉がある。
 「生まれてきた意味ってのは結局、子供を作って育てることかもなあ・・・・・。」
 実家のリビングにある定位置に並んで座っていたとき、どんな話からそうなったのかは忘れたが、そんなことを父は私につぶやいた。それ以来、ずぅ〜っとそのことを考えている。
 なぜ生まれてきたのか?
 そんなことを考えたことは誰しも一度はあるだろう。しかしそう簡単に答えは出てこない。人それぞれ違うから、いろんな人に聞いてみたところで、それが自分に当てはまるとは限らない。
 地球上に生息する生き物という生き物は、生まれたときから死に向かって歩み始める。とっても簡単な現実だ。
 そのことはよくわかっていて、不老不死なんてものがもし現実にあったら、それは相当厳しくて空しいものに違いない。だから一生懸命生きようとする。生命体の本能でしょう、これは。
 しかし、「なぜ?」なんて考えるのは我々人類だけ。
 “死”という現実を知り、考えていくのは以外に容易にできる。それは、必ず訪れるとわかっているから、考えざるを得ないからだ。私も10歳のころにある夜突然、パツンと弾かれるような感覚で、死んで無くなるという現実が頭の中に閃いた。というより降ってきた。そのころはまだ、自分がというよりも両親が死んでいなくなったら、という恐怖が殆どで、それ以来今に至るまでの20余年、年齢を重ねながら“死”に対しての考えは私なりに深くなってきている。だが、“死”に対して“生”についてはどうだろう?生きている間というのはつまり、死ぬまでの過程。どう生きるか?とか、なんの為に?など、なんとなく考えたことはあるが、あまりその作業ははかどってはいないように思えてきた。特に、なぜ?という疑問に関しては、私なりの答えがひとつも見つかっていない。
 いや、ひとつ見つかったらしい。
 子供をお腹にかかえて7ヶ月過ぎた私だから、父はそんなことを言ったのかもしれない。今まで一度もそんな話はしなかったように思える。だから物凄く印象深い言葉だった。
 妊娠前の私なら、まず命の継承のために、とは答えられなかった。だが今は、確実に命が繋がっていく証拠がお腹の中にいて、動いているのがわかるのだから、私なりの「なぜ生まれてきたか?」の答えがひとつ、現れてくれたのだと思う。
 もちろん、これは私だから当てはまる答え。子供を産まない主義の人もたくさんいるから、それを否定するつもりはない。だがとりあえず、女優業であったり、主婦業であったり、私の殻をつくっている部分はこの際、「なぜ?」の答えにはしないで、連綿と受け継がれてきた命を繋いでいく役割に納得して“生”についてを深めていこうかと思う。

 出産予定日まで2週間をきった。
 この前の検診で初めてわかったことがある。一日に何度か、お腹のなかで一定のリズムを刻む動きをするのがなぜなのか?その答えがようやく判明したのだ。
 しゃっくりだった。
 すごい。まさか羊水に浮かぶ子供がしゃっくりしているなんて思わなかった。順調に成長している証拠だと医者は笑っていたから、どうやら元気でいるらしい。「ちゃんと生きているよ!」という信号のひとつと考えよう。
 ほぼ武者震いに近い現実味が襲ってきているが、想像を絶する痛みを耐えるとき、必ず“生”を実感する。
 そして外に出てきた子供を見たとき、私は今度は、母が昔から言っていた言葉をきっと思い出す。
 「あんたが産まれたら、わたし怖いものなんて何もなくなっちゃったわよ!あはははは。」